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統一教会を信仰している、統一教会が好き、というのは、憲法で定める信仰の自由ですから、かまわないんです。
かまわないけど、ぼく個人としては、ダメなんです。
あの宗教が根源的なところで持っていた、わが国に対する反社会意識。
保守であり、反共であれば、一定の反社会が許されるという、愛国無罪的な卑怯さ。
統一教会に限らず、こういう卑怯な保守は一定数存在しますが、ぼくはああいう保守層を、許すことができない。
でも、統一教会は悪くないとおもっている人そのものを、ぼくは否定できません。
ぼくは、そういう場合、距離を置くほかないんです。
その人の信仰の自由の権利も守り、ぼく自身の考えも守るためには、もう黙って距離を置くほかない。
でなければ、対立するしかないのだから。
かまわないけど、ぼく個人としては、ダメなんです。
あの宗教が根源的なところで持っていた、わが国に対する反社会意識。
保守であり、反共であれば、一定の反社会が許されるという、愛国無罪的な卑怯さ。
統一教会に限らず、こういう卑怯な保守は一定数存在しますが、ぼくはああいう保守層を、許すことができない。
でも、統一教会は悪くないとおもっている人そのものを、ぼくは否定できません。
ぼくは、そういう場合、距離を置くほかないんです。
その人の信仰の自由の権利も守り、ぼく自身の考えも守るためには、もう黙って距離を置くほかない。
でなければ、対立するしかないのだから。
ライディーンって、高橋幸宏さんの作曲だったんですね。
この曲、すごいキャッチ―で衒い(てらい)がなくて、あまりにもストレートな曲なのが不思議だったんですが、幸宏さんなら納得、というか、そういう直球のよさが魅力だったとおもいます。
#音楽
池袋ウエストゲートパークのアニメ、おもしろかった。
原作に忠実なのだろうとおもうんですが、文句のつけどころがない。
ドラマ版の肉付けを削ぎ落したような仕上がりで、社会派的でもあり、かといってユーモアもある。
終盤の抗争部分はドラマ版とよく似ています。
ちなみに、あくまで個人的な独断と偏見でですが、Amazonプライムをみるようになってから何年間かアニメに親しんできて、1番おもしろかったのは『平家物語』でした。
2番目が『異世界おじさん』。
3番目がこの池袋ウエストゲートパークとなりました。
なんだ3番目かとおもうかもしれませんが、いろいろ見てきての3番目ですから、かなりの高評価です。
最終話に、宮藤官九郎さんのドラマに出てきた窪塚洋介さんが、ひと言だけ声優として参加していてビックリ。
#与太話
原作に忠実なのだろうとおもうんですが、文句のつけどころがない。
ドラマ版の肉付けを削ぎ落したような仕上がりで、社会派的でもあり、かといってユーモアもある。
終盤の抗争部分はドラマ版とよく似ています。
ちなみに、あくまで個人的な独断と偏見でですが、Amazonプライムをみるようになってから何年間かアニメに親しんできて、1番おもしろかったのは『平家物語』でした。
2番目が『異世界おじさん』。
3番目がこの池袋ウエストゲートパークとなりました。
なんだ3番目かとおもうかもしれませんが、いろいろ見てきての3番目ですから、かなりの高評価です。
最終話に、宮藤官九郎さんのドラマに出てきた窪塚洋介さんが、ひと言だけ声優として参加していてビックリ。
#与太話
https://news.yahoo.co.jp/articles/578c19...
こんなニュースをみましてね。
ようするに、いまYouTubeのアドブロックを解除するように警告する流れがあります。
これはそのうち、広告(グーグルアドセンス)をみてくれないと、グーグルアカウントの利用の制限もありうる、といううわさが広まっているという話。
ネットフリックスも、最安のプランには広告がつくのだそうで。
この流れからいけばプライムビデオだって、そのうち広告がつくようになるでしょう。
いよいよ広告がうるさくなってきて、ぼくはぼちぼち、ネットと距離をおくことを真剣に考えなきゃいけない時期にきたのかなとおもっています。
星新一のショートショートに、このような現代を予感させる作品があります。
『妄想銀行』に収録されている『住宅問題』です。
初版発行はなんと1967年。
エヌ氏はある住宅に無料で住んでいるんですが、その家では、ありとあらゆる場所で広告が流れるようになっていて、家賃は広告のスポンサーによってまかなわれています。
うるさい広告に悩まされずにすむ、有料の住宅に住むことがエヌ氏の夢だ、という話。
現代のネット社会を予言する話ですが、ぼくがこの作品を読んだ1990年代には、おもしろくはあってもピンとこない作品でした。
というのも、家賃全体が広告でまかなわれるという極端な事例が、じぶんの身に起こりうる話だとおもえなかったからです。
あるいは、当時だったら、住宅に無料で住めるのなら広告をみるくらいかまわないじゃないか、とさえおもっていたところがあります。
テレビのCMを、お金を払えばカットしてくれる、というような時代でもありませんでしたしね。
星さんの感覚だと、そのような未来が見えているのだろうか、とおもっていましたが、ネット社会になってから、この予言は的中しているのではないかという気がしました。
いまとなっては、この半世紀以上前に書かれた作品は、じぶんの身にまさに起こっていることです。
#与太話
こんなニュースをみましてね。
ようするに、いまYouTubeのアドブロックを解除するように警告する流れがあります。
これはそのうち、広告(グーグルアドセンス)をみてくれないと、グーグルアカウントの利用の制限もありうる、といううわさが広まっているという話。
ネットフリックスも、最安のプランには広告がつくのだそうで。
この流れからいけばプライムビデオだって、そのうち広告がつくようになるでしょう。
いよいよ広告がうるさくなってきて、ぼくはぼちぼち、ネットと距離をおくことを真剣に考えなきゃいけない時期にきたのかなとおもっています。
星新一のショートショートに、このような現代を予感させる作品があります。
『妄想銀行』に収録されている『住宅問題』です。
初版発行はなんと1967年。
エヌ氏はある住宅に無料で住んでいるんですが、その家では、ありとあらゆる場所で広告が流れるようになっていて、家賃は広告のスポンサーによってまかなわれています。
うるさい広告に悩まされずにすむ、有料の住宅に住むことがエヌ氏の夢だ、という話。
現代のネット社会を予言する話ですが、ぼくがこの作品を読んだ1990年代には、おもしろくはあってもピンとこない作品でした。
というのも、家賃全体が広告でまかなわれるという極端な事例が、じぶんの身に起こりうる話だとおもえなかったからです。
あるいは、当時だったら、住宅に無料で住めるのなら広告をみるくらいかまわないじゃないか、とさえおもっていたところがあります。
テレビのCMを、お金を払えばカットしてくれる、というような時代でもありませんでしたしね。
星さんの感覚だと、そのような未来が見えているのだろうか、とおもっていましたが、ネット社会になってから、この予言は的中しているのではないかという気がしました。
いまとなっては、この半世紀以上前に書かれた作品は、じぶんの身にまさに起こっていることです。
#与太話
最近ハマってる歌が、オランピアのアリア。
歌い手によってアプローチが変わるのでおもしろい。
個人的にいちばん好きなのはこれ。
世界観がすばらしくて、歌い手のユーモアも含めて、心をつかまれます。
#音楽
歌い手によってアプローチが変わるのでおもしろい。
個人的にいちばん好きなのはこれ。
世界観がすばらしくて、歌い手のユーモアも含めて、心をつかまれます。
#音楽
池袋ウエストゲートパークは、名前だけ知っている程度だったのだけど、ドラマがみられるようだったので、宮藤官九郎脚本のものを見ました。
宮藤官九郎と長瀬智也の相性がよいのか、ドラマをあんまり見ないんですが、「俺の家の話」と、今回の作品はずいぶんおもしろいとおもいました。
で、いまアニメ版の池袋ウエストゲートパークを見始めました。
宮藤官九郎と長瀬智也の相性がよいのか、ドラマをあんまり見ないんですが、「俺の家の話」と、今回の作品はずいぶんおもしろいとおもいました。
で、いまアニメ版の池袋ウエストゲートパークを見始めました。
あったまいったい。
ジェフベックによる、「A Day in the Life」。
かれは、ギターのアームを駆使して、ピックを利用せずに指で弾く。
テレキャスターをつかっていた時期もあったけど、ストラトをつかうようになってから、異様な音の世界をつくるようになり、個人的にこの曲は最高峰のひとつだとおもう。
というか、ビートルズの原曲がよすぎる。
以前にも紹介したけど、この曲はウェス・モンゴメリもカバーしてて、それがこの曲。
元歌を超えるカバーが出るというのは、それだけ原曲がよいということ。
#音楽
さっき、タバコを3か月隠せる箱があればよいといったのだけど、タイムロッキングコンテナというのがあって、これが5000円ほどする。
450円のタバコに、5000円払うのなら、捨ててしまってまた吸いたいときに買い直すほうがよかろうとおもう。
450円のタバコに、5000円払うのなら、捨ててしまってまた吸いたいときに買い直すほうがよかろうとおもう。
ぼくは24時間テレビは見ないし、むしろ嫌いなのだけど、この曲だけは好き。
ほんとうに好き。
#音楽
タバコ吸いたいなとおもって、コンビニに行って、ラッキーストライクがないかとおもったら、なんかもうぼくが吸ってたころのラッキーがなくて、しかも老眼で、レジあたりでしかめつらでタバコを眺めてたら、店員が話しかけてくれたんですよ。
「お探しですか」
「ラッキーストライク探してるんですけども」
「どんなのがいいですか」
「もう老眼でよく見えないんですよね。むかし吸ってたのもないしなあ」
「何mmとかあります?」
「ああ、これ8mmですか」
「ふつうの8mmでいいですか」
「はい。メンソールじゃないほうがいいです」
「じゃあ、これで」
じつに迷惑な客です。
なんだかおもってたより安かった(450円)し、むかしのような感動はなかったけど、ふつうにうまかった。
きのうときょうで2本吸ったんだけど、ここから吸い続けるともう中毒になるのでね。
できることなら、このタバコをどこかに隠して、また3か月後くらいに取り出せればいいのだけど。
3か月、開かない箱みたいなのがあればいちばんいいのだな。
「お探しですか」
「ラッキーストライク探してるんですけども」
「どんなのがいいですか」
「もう老眼でよく見えないんですよね。むかし吸ってたのもないしなあ」
「何mmとかあります?」
「ああ、これ8mmですか」
「ふつうの8mmでいいですか」
「はい。メンソールじゃないほうがいいです」
「じゃあ、これで」
じつに迷惑な客です。
なんだかおもってたより安かった(450円)し、むかしのような感動はなかったけど、ふつうにうまかった。
きのうときょうで2本吸ったんだけど、ここから吸い続けるともう中毒になるのでね。
できることなら、このタバコをどこかに隠して、また3か月後くらいに取り出せればいいのだけど。
3か月、開かない箱みたいなのがあればいちばんいいのだな。
https://gigazine.net/news/20231018-peppe...
からい唐辛子を追及して、ひとりもだえ苦しんでる農家という、たぶん、農家の中でいちばんおもろいオッサンだとおもいます。
からい唐辛子を追及して、ひとりもだえ苦しんでる農家という、たぶん、農家の中でいちばんおもろいオッサンだとおもいます。
SNSをしてたとき、ぼくはほとんどの発信に、いいねがついたりはしても、返信はなかったんですよね。
いいねは、うるさいだけで、あんまりいいものじゃなかったです。
いいねを押す側は回覧板に印鑑押すような感覚なんですが、受け取る側はそうじゃないですよね。
ああいうことでじぶんの承認欲求を満たすというのは……たぶん満たせないんですよ。
むしろ心に競争が生まれて、苦しみのもとになる。
たとえば1万のいいねが毎回つくような人は、それが5000になると苦しむわけで。
でもふだん100ほどのいいねをもらってる人の中には、5000もいいねがつくなんて! といってうらやましがる人もいるかもしれない。
そこにあるのは結局数字であって、だれもそこに、いいねとおもってくれたひとりひとりをおもいうかべることはしません。
(というか、できない)
戦争で「〇万人の死者が出ました」というとき、亡くなったひとりひとりの尊い人生を追いかける人はほとんどいません。
〇万人という数字が、相対的に多いか少ないか。その数字で悲劇の総量を決めてしまう。
そういう状況下では、10の死者が出たときに「10人ですんだのか」とすらおもってしまうようになる。
かといって、われわれは死者の、ひとりひとりの人生をすべて受け止めることはできないし、結局は数であらわすほかないんですけどね。
だから、あんまりこういうサイトでも、アクセス解析なんてのはないほうがいいんだとおもってます。
だれが「何人来たのか」なんてことをやったところで、べつに商業的な効果を狙うサイトでもなし、分析する意味がありません。
それどころか、やっぱり満たされぬ承認欲求に苦しめられるだけですから、ひとりで書きたいことを書いてるのがいいとおもう。
この考え方は、たぶん少数派だとおもいます。
いや、「おもいます」じゃないな。
少数派である、と自信をもって言えます。
なぜなら、ネットでなにかを発信してるほとんどの人は、ぼくのようにひとりで書きものを楽しむなんてことはせず、SNSをやってるのだから(笑)
#与太話
いいねは、うるさいだけで、あんまりいいものじゃなかったです。
いいねを押す側は回覧板に印鑑押すような感覚なんですが、受け取る側はそうじゃないですよね。
ああいうことでじぶんの承認欲求を満たすというのは……たぶん満たせないんですよ。
むしろ心に競争が生まれて、苦しみのもとになる。
たとえば1万のいいねが毎回つくような人は、それが5000になると苦しむわけで。
でもふだん100ほどのいいねをもらってる人の中には、5000もいいねがつくなんて! といってうらやましがる人もいるかもしれない。
そこにあるのは結局数字であって、だれもそこに、いいねとおもってくれたひとりひとりをおもいうかべることはしません。
(というか、できない)
戦争で「〇万人の死者が出ました」というとき、亡くなったひとりひとりの尊い人生を追いかける人はほとんどいません。
〇万人という数字が、相対的に多いか少ないか。その数字で悲劇の総量を決めてしまう。
そういう状況下では、10の死者が出たときに「10人ですんだのか」とすらおもってしまうようになる。
かといって、われわれは死者の、ひとりひとりの人生をすべて受け止めることはできないし、結局は数であらわすほかないんですけどね。
だから、あんまりこういうサイトでも、アクセス解析なんてのはないほうがいいんだとおもってます。
だれが「何人来たのか」なんてことをやったところで、べつに商業的な効果を狙うサイトでもなし、分析する意味がありません。
それどころか、やっぱり満たされぬ承認欲求に苦しめられるだけですから、ひとりで書きたいことを書いてるのがいいとおもう。
この考え方は、たぶん少数派だとおもいます。
いや、「おもいます」じゃないな。
少数派である、と自信をもって言えます。
なぜなら、ネットでなにかを発信してるほとんどの人は、ぼくのようにひとりで書きものを楽しむなんてことはせず、SNSをやってるのだから(笑)
#与太話
きょうも蚊に3か所ほど刺されました。
携帯式の蚊取り線香をしてるんだけど、線香が切れたとたん刺されたり、線香の行き届かない足元を刺されたり、まあなかなか防ぎきれません。
しかし、ハチには何度も刺されるとアナフィラキシーショックが起こるなどといわれますが、蚊の場合は刺され慣れてくる感じがあります。
もちろんかゆいし不快なんですけどね(笑)
携帯式の蚊取り線香をしてるんだけど、線香が切れたとたん刺されたり、線香の行き届かない足元を刺されたり、まあなかなか防ぎきれません。
しかし、ハチには何度も刺されるとアナフィラキシーショックが起こるなどといわれますが、蚊の場合は刺され慣れてくる感じがあります。
もちろんかゆいし不快なんですけどね(笑)
ぼくはうつ病を患っていた期間があって、ちょうど30になるあたりでしたが、もうともかく毎日、死ぬことばかり考えていました。
仕事上で裏切りにあったり、じぶんという人間の頼りなさへの絶望であったり、いろんな要素が混じり合ってのことです。
一日中寝ていたり、まともに歩けなくなるほどで、心療内科の薬も気休めのようなものでした。
死にたかったというよりは、もう死なざるを得ない、という感覚なんですが、これが「死ねばラクになる」という考えと混じり合って、結果、死にたいという考えになる。
生きているとずっと苦しい、つらい、いたたまれないような気分になって、逃げ場がないんですね。
そこでぼくは、生まれてはじめて、仏教について調べ出した。
あのときのぼくの心境は、わらにもすがるおもいだったはずですが、信じるものは「救われる」というのなら、それがどういうものか調べてみよう、くらいの意識です。
調べてみて、まず最初に、なんだこれはとおもいました。
仏教の開祖である仏陀は、この世に生きることは四苦八苦であると説いたんですね。
生まれる苦しみ
老いる苦しみ
病気になる苦しみ
死ぬ苦しみ
この4つの苦しみが、基本です。
この四苦に、さらに派生的に4つの苦しみが加わって、四苦八苦といいます。
愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)
怨憎会苦(憎むものと出会う苦しみ)
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(肉体と精神が存在することで生まれる苦痛)
なんと仏陀は、この四苦八苦をもって、この世は苦しみがすべてだ、と説いたんです。
たのしいとおもうことも、それは苦しみに薄くてすぐはがれるメッキを塗っているだけで、結局は苦しみになる、という。
幸せだとおもうことも、この幸せがいつまでも続くわけではないという苦しみになる。
この世にある唯一の真実は苦しみである、というんですから、それを知ったぼくはもう、ガッカリですよ。
この苦しみをどうにかしてほしい、とおもって仏教をひもといたら、いやこの世はぜんぶ苦しみですよ、というのだから、バカにするにもほどがあります(笑)
でも、その後じっくりと仏教について広範囲に調べていくと、どうやら仏教の経典というのは、この手の最初に落としてあとで持ち上げるタイプのロジックが非常に多いことがわかりました。
たとえば、般若心経では、じつはわれわれは無である、というんです。
みえているものも、感じていることも、聞こえていることも、じつは「ない」。
え?
いま、現にわれわれはここに存在してるじゃないかとおもいますが、般若心経は、ひたすら無を説きます。
この世が無であるということがわかって、はじめて仏の道が開かれるんだ、とまでいう。
最初は、まあ死ねばみんな無になるのだから、そういうことなのかな、くらいの理解でした。
でも、これはどうやら、無と、無限を越えた有がつながっている、ということがわかると、意味が通るようになってるようです。
般若心経がいう「無」は、0(ゼロ)ではありません。
数字の概念であらわすことができない、なにもないという世界です。
同時に、無量大数という概念があって、これは無限大ということでもあります。
これも数という概念ではあらわせない領域ではあるんですが、さらにその向こう側。
数の概念を越えたすべてという、イメージとしては、宇宙の果てをさらに超えた場所、というような感じです。
こうなると、人間の理解を超えている世界という点では、無と変わらないんですよね。
だから、なにもない、というのは、なにもかもである、ということとつながっている。
死んだらわれわれは、無になると同時に、なにもかもになる。
われわれが生きているのも、なにもない無の世界であると同時に、無限大を超えた有の世界です。
一本のヒモの、左右の端っこがそれぞれ、無と無限大であるとして、それを輪っかにつないだら、無と無限大がくっつくでしょう。
般若心経はちょうどこの、一本のヒモの、無と無限大がくっついたところにフォーカスをあてているわけです。
さらにもうひとつ、日本の仏教では、浄土真宗の開祖である親鸞がこんなことをいったそうな。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
訳すと、こうなります。
「善人でも極楽往生できるのだ。悪人が往生できないわけがない」
え?
ふつうは逆でしょう。
悪人でも救われるのだから、善人が救われないわけがない、であれば意味が通ります。
しかし親鸞が言いたかったのは、阿弥陀仏は悪人を救いたがる仏さんだということでした。
じぶんが悪人であるということを自覚していない自称善人でさえ、阿弥陀さんは救っていかれる。
じぶんが悪人であると自覚して苦しむ者を、阿弥陀さんが救わないわけがない。
こういう理屈です。
仏教の世界では(あるいは宗教の世界全般そうかもしれませんが)、こういうロジックをつかうことが多いんですよね。
仏陀のいう四苦八苦の理屈の場合も、おなじようなものです。
この世を生きることのすべては苦しみである。
この苦しみをよく理解し、受け入れて、逃れ得ぬ苦しみと共存して生きていく。
それだけがこの世を生きる救いなのだ、と。
まず最初に、われわれの本質は苦しみである、という負の側面を伝えておいて、この苦しみと一緒に生きると覚悟を決めたところに救いがあるんだ、という論理です。
ぼく自身は仏教徒といえるほどの信者じゃないし、これといった宗教に帰依もしていませんが、それでも、こういう教義を理解することで、なんとなく腑に落ちるものがあるのは事実です。
で、結局なにが言いたかったのかというと、ぼくはいま、すごく苦しいのだけど、この苦しみと一緒に生きていくしかなくて、また苦しいのはぼくだけではないことでしょう。
それで、まあ、だからなんなのだといわれればそれまでなんですけど、ぼくだけが苦しいわけではないのなら、いちおう書いてみようかな、くらいのことだったのです(笑)
ずいぶん長い記事になっちゃったな。
きょうは集落の親睦会で、ぼくが幹事のような役割です。
とりあえず急いで収穫だけすませようっと。
#与太話
仕事上で裏切りにあったり、じぶんという人間の頼りなさへの絶望であったり、いろんな要素が混じり合ってのことです。
一日中寝ていたり、まともに歩けなくなるほどで、心療内科の薬も気休めのようなものでした。
死にたかったというよりは、もう死なざるを得ない、という感覚なんですが、これが「死ねばラクになる」という考えと混じり合って、結果、死にたいという考えになる。
生きているとずっと苦しい、つらい、いたたまれないような気分になって、逃げ場がないんですね。
そこでぼくは、生まれてはじめて、仏教について調べ出した。
あのときのぼくの心境は、わらにもすがるおもいだったはずですが、信じるものは「救われる」というのなら、それがどういうものか調べてみよう、くらいの意識です。
調べてみて、まず最初に、なんだこれはとおもいました。
仏教の開祖である仏陀は、この世に生きることは四苦八苦であると説いたんですね。
生まれる苦しみ
老いる苦しみ
病気になる苦しみ
死ぬ苦しみ
この4つの苦しみが、基本です。
この四苦に、さらに派生的に4つの苦しみが加わって、四苦八苦といいます。
愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)
怨憎会苦(憎むものと出会う苦しみ)
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(肉体と精神が存在することで生まれる苦痛)
なんと仏陀は、この四苦八苦をもって、この世は苦しみがすべてだ、と説いたんです。
たのしいとおもうことも、それは苦しみに薄くてすぐはがれるメッキを塗っているだけで、結局は苦しみになる、という。
幸せだとおもうことも、この幸せがいつまでも続くわけではないという苦しみになる。
この世にある唯一の真実は苦しみである、というんですから、それを知ったぼくはもう、ガッカリですよ。
この苦しみをどうにかしてほしい、とおもって仏教をひもといたら、いやこの世はぜんぶ苦しみですよ、というのだから、バカにするにもほどがあります(笑)
でも、その後じっくりと仏教について広範囲に調べていくと、どうやら仏教の経典というのは、この手の最初に落としてあとで持ち上げるタイプのロジックが非常に多いことがわかりました。
たとえば、般若心経では、じつはわれわれは無である、というんです。
みえているものも、感じていることも、聞こえていることも、じつは「ない」。
え?
いま、現にわれわれはここに存在してるじゃないかとおもいますが、般若心経は、ひたすら無を説きます。
この世が無であるということがわかって、はじめて仏の道が開かれるんだ、とまでいう。
最初は、まあ死ねばみんな無になるのだから、そういうことなのかな、くらいの理解でした。
でも、これはどうやら、無と、無限を越えた有がつながっている、ということがわかると、意味が通るようになってるようです。
般若心経がいう「無」は、0(ゼロ)ではありません。
数字の概念であらわすことができない、なにもないという世界です。
同時に、無量大数という概念があって、これは無限大ということでもあります。
これも数という概念ではあらわせない領域ではあるんですが、さらにその向こう側。
数の概念を越えたすべてという、イメージとしては、宇宙の果てをさらに超えた場所、というような感じです。
こうなると、人間の理解を超えている世界という点では、無と変わらないんですよね。
だから、なにもない、というのは、なにもかもである、ということとつながっている。
死んだらわれわれは、無になると同時に、なにもかもになる。
われわれが生きているのも、なにもない無の世界であると同時に、無限大を超えた有の世界です。
一本のヒモの、左右の端っこがそれぞれ、無と無限大であるとして、それを輪っかにつないだら、無と無限大がくっつくでしょう。
般若心経はちょうどこの、一本のヒモの、無と無限大がくっついたところにフォーカスをあてているわけです。
さらにもうひとつ、日本の仏教では、浄土真宗の開祖である親鸞がこんなことをいったそうな。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
訳すと、こうなります。
「善人でも極楽往生できるのだ。悪人が往生できないわけがない」
え?
ふつうは逆でしょう。
悪人でも救われるのだから、善人が救われないわけがない、であれば意味が通ります。
しかし親鸞が言いたかったのは、阿弥陀仏は悪人を救いたがる仏さんだということでした。
じぶんが悪人であるということを自覚していない自称善人でさえ、阿弥陀さんは救っていかれる。
じぶんが悪人であると自覚して苦しむ者を、阿弥陀さんが救わないわけがない。
こういう理屈です。
仏教の世界では(あるいは宗教の世界全般そうかもしれませんが)、こういうロジックをつかうことが多いんですよね。
仏陀のいう四苦八苦の理屈の場合も、おなじようなものです。
この世を生きることのすべては苦しみである。
この苦しみをよく理解し、受け入れて、逃れ得ぬ苦しみと共存して生きていく。
それだけがこの世を生きる救いなのだ、と。
まず最初に、われわれの本質は苦しみである、という負の側面を伝えておいて、この苦しみと一緒に生きると覚悟を決めたところに救いがあるんだ、という論理です。
ぼく自身は仏教徒といえるほどの信者じゃないし、これといった宗教に帰依もしていませんが、それでも、こういう教義を理解することで、なんとなく腑に落ちるものがあるのは事実です。
で、結局なにが言いたかったのかというと、ぼくはいま、すごく苦しいのだけど、この苦しみと一緒に生きていくしかなくて、また苦しいのはぼくだけではないことでしょう。
それで、まあ、だからなんなのだといわれればそれまでなんですけど、ぼくだけが苦しいわけではないのなら、いちおう書いてみようかな、くらいのことだったのです(笑)
ずいぶん長い記事になっちゃったな。
きょうは集落の親睦会で、ぼくが幹事のような役割です。
とりあえず急いで収穫だけすませようっと。
#与太話
イスラエルとハマスの件、報道がイデオロギー面で、「どっちにつくか」みたいなことを主題にするから、ものすごく不誠実でわかりにくいことになってる。
正義みたいなものはどっちも抱えているのだし、世界中でつめたーい視線を送りながら「どうせまた東西陣営の代理戦争なんですよね」「戦争したい人だけが儲かる時代ですよね」といって、バンバン冷や水をぶっかけていくくらいがちょうどいいのだろうとおもう。
どっちが正しいかを深掘りするの、意味ないなあ。
正義みたいなものはどっちも抱えているのだし、世界中でつめたーい視線を送りながら「どうせまた東西陣営の代理戦争なんですよね」「戦争したい人だけが儲かる時代ですよね」といって、バンバン冷や水をぶっかけていくくらいがちょうどいいのだろうとおもう。
どっちが正しいかを深掘りするの、意味ないなあ。
ボーカルの子は、いまはチリヌルヲワカとしてやってます。
ぼくはYouTubeで聴くばかりですが、長く見ています。
ぼくはYouTubeで聴くばかりですが、長く見ています。
GOGO7188という3ピースバンドが、妖怪人間ベムをカバーしています。
20年以上前に流行ったバンドですから、たぶん多くの人はこの曲を知らない。
ジェットにんぢん、好きだったな。
きょう軽トラでひさしぶりにラジオを聞いてたら、「1000ccの曲を……」といって、ずいぶん昔気質なダンスっぽい曲がかかってて、こういうベースラインのしっかりした曲は好みだったので、家に帰っていろいろ調べてたんですが、1000ccなんてバンドはなくて、これはいったいどうしたことか、と。
で、ようやく見つけたんですが、バンドの名前が「Say She She」でした。
セイシーシーで、ぼくは1000ccと聞き間違えた、と。
「葬送のフリーレン」と変換しようとすると、「曹操のフリー練」と変換されたのだけど、これではパリピ孔明の隣町で曹操が部活に励む転生モノではないか、とそんなことを言いたいのではありません。
この漫画のことは名前だけ知っていて、アニメを1話だけみたんですが、日本ではもうエルフやドワーフといった概念はほとんど説明不要の存在になっているようです。
これは北欧神話、ヨーロッパ中部から北部にかけての、民俗信仰における神話です。
日本で言えばアマテラスオオミカミが、とか、因幡の白兎とか、竜宮城のワタツミの神が、といったああいう伝説の類で、この北欧神話が日本ではゲームに利用されて、それでなじんだという格好です。
ゲームで神話がなじむようになったという点では、クトゥルフ神話もそうでしょうが、とりわけこの北欧神話が日本でこうもなじんだのはなぜなのか。
ただ、おそらくこの場合のなじむというのは、信仰としてなじむというよりは、広告戦略でアイドルが売れるように、なんらかの広告的効果があったからだとはおもいます。
でもそれを差し引いても、たとえばエルフが長命であるとか、ドワーフは力自慢で鍛冶に向いてるとか、どうしてこういう、北欧神話のごく部分的な理解が、われわれの世代で当たり前のように共有できてるのか、よくわからずにいます。
この漫画のことは名前だけ知っていて、アニメを1話だけみたんですが、日本ではもうエルフやドワーフといった概念はほとんど説明不要の存在になっているようです。
これは北欧神話、ヨーロッパ中部から北部にかけての、民俗信仰における神話です。
日本で言えばアマテラスオオミカミが、とか、因幡の白兎とか、竜宮城のワタツミの神が、といったああいう伝説の類で、この北欧神話が日本ではゲームに利用されて、それでなじんだという格好です。
ゲームで神話がなじむようになったという点では、クトゥルフ神話もそうでしょうが、とりわけこの北欧神話が日本でこうもなじんだのはなぜなのか。
ただ、おそらくこの場合のなじむというのは、信仰としてなじむというよりは、広告戦略でアイドルが売れるように、なんらかの広告的効果があったからだとはおもいます。
でもそれを差し引いても、たとえばエルフが長命であるとか、ドワーフは力自慢で鍛冶に向いてるとか、どうしてこういう、北欧神話のごく部分的な理解が、われわれの世代で当たり前のように共有できてるのか、よくわからずにいます。
蚊に足5か所も刺されて、もうどこがかゆいのかもわからない(笑)
作家のなだいなださん(1929-2013)は、社会問題を「わかり急ぐな」といいました。
いま起こった出来事を、いまわかろうとしたがる。けれど、そんなことはできないんだ、と。
社会問題が起こって、結果がぼんやりわかるのが10年後、さらに10年したらもうすこしわかるかもしれない。
社会問題の全体像が見えてくるのはそれくらいのスパンであって、いま起こったものごとの顛末を、いま知ることは不可能なんだというのです。
けれど、いま起こっている社会問題にいろんな理由をこじつけて、未来に起こることさえ、あたかもわかったかのようにふるまうような人もいます。
こういうしぐさは、いまだったら陰謀論というんですが、なださんが「わかり急ぐな」といった1985年の当時には陰謀論という言葉がなかったのでしょう。
なださんは「黙示録的な解釈」といいました。
黙示録というのは新約聖書の一部です。
きたるべき世界の終末の際、キリスト教が勝利することを預言(神託)という形で表現しています。
だれも世界の終末なんてわかりやしないのに、わかったようなことをもっともらしく書いているわけですから、キリスト教にはわるいけど、「黙示録 ≒ 陰謀論」とつなぐことはできるでしょう。
黙示録は、キリスト教が迫害されている地域の人たちを応援する目的で書かれたようですが、現代のわれわれも、ショック状態の中でものごとをわかり急ぐと、黙示録的な解釈にすがりついてしまう。
つまり、じぶんたちに都合の良い解釈に頼って、安心を得ようとしてしまうのです。
ウクライナとロシアの戦争が起こってから、いまイスラエルとハマスが戦争状態にある。
こういうことを結び付けて、「ほれみろ、戦争は連鎖するんだ。もう世界大戦が起こるんだ」という人がいる。
「自陣営の勝利を疑わない」という人もいる。
日本だってもう戦前なんだという人もいる。
みんなものごとをわかり急いで、黙示録的に自陣の勝利によって事態が解決することを期待し、その勝利が一刻も早く確約されることを望んでいる。
ただじぶんたちが安心したいがために、みんな心の中で武器を取り始め、いつの間にかほんとうの武器になっている。
しかし多くの人々にとって、この異様な心理状況の、その異様さに気づくのは、戦争が終わった後なのではないか。
あるいは戦後、世界の均衡が曲がりなりにもとれていたのは、この異様さからの戦争を経験して、異様だったことに気づいた人たちが多く生きていたからではないかという気がします。
いま起こった出来事を、いまわかろうとしたがる。けれど、そんなことはできないんだ、と。
社会問題が起こって、結果がぼんやりわかるのが10年後、さらに10年したらもうすこしわかるかもしれない。
社会問題の全体像が見えてくるのはそれくらいのスパンであって、いま起こったものごとの顛末を、いま知ることは不可能なんだというのです。
けれど、いま起こっている社会問題にいろんな理由をこじつけて、未来に起こることさえ、あたかもわかったかのようにふるまうような人もいます。
こういうしぐさは、いまだったら陰謀論というんですが、なださんが「わかり急ぐな」といった1985年の当時には陰謀論という言葉がなかったのでしょう。
なださんは「黙示録的な解釈」といいました。
黙示録というのは新約聖書の一部です。
きたるべき世界の終末の際、キリスト教が勝利することを預言(神託)という形で表現しています。
だれも世界の終末なんてわかりやしないのに、わかったようなことをもっともらしく書いているわけですから、キリスト教にはわるいけど、「黙示録 ≒ 陰謀論」とつなぐことはできるでしょう。
黙示録は、キリスト教が迫害されている地域の人たちを応援する目的で書かれたようですが、現代のわれわれも、ショック状態の中でものごとをわかり急ぐと、黙示録的な解釈にすがりついてしまう。
つまり、じぶんたちに都合の良い解釈に頼って、安心を得ようとしてしまうのです。
ウクライナとロシアの戦争が起こってから、いまイスラエルとハマスが戦争状態にある。
こういうことを結び付けて、「ほれみろ、戦争は連鎖するんだ。もう世界大戦が起こるんだ」という人がいる。
「自陣営の勝利を疑わない」という人もいる。
日本だってもう戦前なんだという人もいる。
みんなものごとをわかり急いで、黙示録的に自陣の勝利によって事態が解決することを期待し、その勝利が一刻も早く確約されることを望んでいる。
ただじぶんたちが安心したいがために、みんな心の中で武器を取り始め、いつの間にかほんとうの武器になっている。
しかし多くの人々にとって、この異様な心理状況の、その異様さに気づくのは、戦争が終わった後なのではないか。
あるいは戦後、世界の均衡が曲がりなりにもとれていたのは、この異様さからの戦争を経験して、異様だったことに気づいた人たちが多く生きていたからではないかという気がします。
3時間かな、4時間かな、それくらいは眠れたんだけど、そこから布団に入っててもなかなか眠れず、もうあきらめて、起きることにしました。
ふだん布団に入ってたら、ともかく途切れ途切れでも眠れるので、きょうみたいなのは、年に1回あるかないか。めずらしいです。
交感神経なのか副交感神経なのかわからないけど、バカになることがあって、ふだん3時間睡眠なんて耐えられない不快なのだけど、いまのところそうでもありません。
たぶん、あとでどんよりと効いてくるんだろうとおもいます。
こんな時間に、雨が降ってきました。
ふだん布団に入ってたら、ともかく途切れ途切れでも眠れるので、きょうみたいなのは、年に1回あるかないか。めずらしいです。
交感神経なのか副交感神経なのかわからないけど、バカになることがあって、ふだん3時間睡眠なんて耐えられない不快なのだけど、いまのところそうでもありません。
たぶん、あとでどんよりと効いてくるんだろうとおもいます。
こんな時間に、雨が降ってきました。
地中海の舞踏、のアル・ディ・メオラですよ。
世界一速いギタリストで有名なんですが、本質的にはそういうくくりではおさまらない根っこのあるギタリストです。
スペイン音楽を探究する音楽家という一面がわかると、こういうビートルズカバーの、中近東とヨーロッパの混じり合う感じと、アメリカ的な近代的手法とが……とまあそんなことはよいのですよ。
せっかくだから、地中海の舞踏も聞いてくださいよ。
このすさまじい速弾きの音楽のパートナーは、パコ・デ・ルシアというギタリストでした。
このパコの最晩年の競演が、これです。
パコの顔色が悪いのもわかるし、微妙なところでついていけなくなってしまう。そこを技術的な部分でアル・ディ・メオラがうまく支えているんです。
でも、パコ・デ・ルシアの運指はやっぱりすさまじいんですよ。突如火を噴くように、ありえない速さになる。
でも、やっぱり崩れる。崩れるたびにアル・ディ・メオラが支える。
お互いがお互いを目で確かめ合う。
お互いに本気の本気でぶつかりあう。
ぼくは、この動画をみると、泣いちゃうんだな。
#音楽
ジュディ・アンド・マリーのそばかすという曲を聞いたときに、なんてヤンチャなギターなんだろうとおもったんですよ。
ちゃんとペンタトニックのルールにしたがって、ちゃんと決めるべきポイントは決めて、なのに、もう曲中はほとんどアドリブで崩してしまうソロパートなんですよね。
#音楽
そういえば、むかしのRPGは、だいたいレベル30くらいになると、ほとんど終盤だったんです。
レベルが50まであったドラクエ2から、ファイナルファンタジーもレベル制のものはそうでしたが、レベル100になっても、だいたいレベル30になると終盤。
とりあえずレベル40もあればRPGはまずクリアできる、というのが常識でした。
ところがここ15年くらいで、そういう風潮が打破されたようにおもえます。
いま二ノ国やってますが、レベル40になってもまだ作品の終わりが見えてきません。
ぼくなんか、もうマンネリでもなんでもいいから、パターンの中で生きていたいんです。
平和というのは、ルーティンとパターンで人生が固まることですよ。
人間というのは、ルーティンとパターンで、人生が安心できることが、平和なんです。
でもいまの経済のシステムはパターンとルーティンを打破することで新価値を創造するものだから、若いうちはそれでよかったのだけど、オッサンになるともうついていけない。
で、年を取るにつれて、この新価値が恐怖になりつつある。
いまのじいさんばあさんが、スマホ操作やキャッシュレスに恐怖を感じるように、ぼくがジジイ(もう半分以上ジジイなのだけど)になるころには、まったく別のシステム的な恐怖が待ち構えているはずです。
そのとき、せめて同世代で「ついていけねえや」と言い合える仲間がいればいいのだけど、なんだかいまの時代だと、そういう仲間すらできないかもしれないな、と、それが目下の最大の恐怖です。
#与太話
レベルが50まであったドラクエ2から、ファイナルファンタジーもレベル制のものはそうでしたが、レベル100になっても、だいたいレベル30になると終盤。
とりあえずレベル40もあればRPGはまずクリアできる、というのが常識でした。
ところがここ15年くらいで、そういう風潮が打破されたようにおもえます。
いま二ノ国やってますが、レベル40になってもまだ作品の終わりが見えてきません。
ぼくなんか、もうマンネリでもなんでもいいから、パターンの中で生きていたいんです。
平和というのは、ルーティンとパターンで人生が固まることですよ。
人間というのは、ルーティンとパターンで、人生が安心できることが、平和なんです。
でもいまの経済のシステムはパターンとルーティンを打破することで新価値を創造するものだから、若いうちはそれでよかったのだけど、オッサンになるともうついていけない。
で、年を取るにつれて、この新価値が恐怖になりつつある。
いまのじいさんばあさんが、スマホ操作やキャッシュレスに恐怖を感じるように、ぼくがジジイ(もう半分以上ジジイなのだけど)になるころには、まったく別のシステム的な恐怖が待ち構えているはずです。
そのとき、せめて同世代で「ついていけねえや」と言い合える仲間がいればいいのだけど、なんだかいまの時代だと、そういう仲間すらできないかもしれないな、と、それが目下の最大の恐怖です。
#与太話
いわゆるタイムリープという考え方の元祖は、ニーチェの「永劫回帰」ということになるとおもいます。
ニーチェは、死んだらあたらしくなにかに生まれ変わるのではなくて、おなじ人生を何度も何度も、永遠に繰り返すのだといいました。
そこまでは、タイムリープっぽい感じがありますが、ニーチェは実際にわれわれが永劫回帰していると主張していたのではありません。
生まれ変わりなんてだれも見たことがないのだから、永劫回帰だって可能性としてないわけではない。
とすれば、次に生きるじぶんのために、いまをもう少しよりよく生きようではないか、という思想です。
いまの人生を投げてしまったら、次の人生でもおなじように投げてしまうことになる。
そうならないように、いまを少しでもよいように生きていようではないか、とハッパをかけているにすぎません。
これが、現代では時間を都合よく巻き戻して、何度も何度もトゥルーエンディングにたどりつくまで、やり直すということをする。
ゲームだと、『ゼルダの伝説ムジュラの仮面』あたりは有名です。
小説だと、筒井康隆の『時をかける少女』がそうです。
漫画だと『東京リベンジャーズ』は典型的ですし、海外でも『ハッピー・デス・デイ』という映画はタイムリープを繰り返します。
ニーチェの場合は、一回こっきりの人生を合わせ鏡のようにして、だからこそこの一回を大事に生きよというのですが、タイムリープものの場合は、記憶を持ち越して何度もやり直してしまう。
なにが言いたいのかというと、いまどきのフィクションは、どれもチートなんだなあ、と。
特に現代では、作品の進行にしたがってチートキャラをすこしずつ小出しにするんじゃなくて、最初からどんどん出しちゃって、そういった作品を日常的にみているわれわれの脳みそは、ほとんど麻薬漬けのようになっている。
そうすると、『ワンパンマン』みたいな、最初から最強みたいなのも許されるし、『呪術廻戦』の五条悟のような最強キャラが最初から出てきてしまうわけです。
まあ、この手の最初から最強というようなシナリオは、古くはブルース・リーもそうなんですけどね。
ぼくとしては、そういうフィクションの麻薬から抜け出して、永劫回帰のような、地に足の着いた思想を目指す、というのが……まあ、ただしいとは言わないけど、でも、実際の人間生活は、そうなんだとおもうんですよね。
#与太話
ニーチェは、死んだらあたらしくなにかに生まれ変わるのではなくて、おなじ人生を何度も何度も、永遠に繰り返すのだといいました。
そこまでは、タイムリープっぽい感じがありますが、ニーチェは実際にわれわれが永劫回帰していると主張していたのではありません。
生まれ変わりなんてだれも見たことがないのだから、永劫回帰だって可能性としてないわけではない。
とすれば、次に生きるじぶんのために、いまをもう少しよりよく生きようではないか、という思想です。
いまの人生を投げてしまったら、次の人生でもおなじように投げてしまうことになる。
そうならないように、いまを少しでもよいように生きていようではないか、とハッパをかけているにすぎません。
これが、現代では時間を都合よく巻き戻して、何度も何度もトゥルーエンディングにたどりつくまで、やり直すということをする。
ゲームだと、『ゼルダの伝説ムジュラの仮面』あたりは有名です。
小説だと、筒井康隆の『時をかける少女』がそうです。
漫画だと『東京リベンジャーズ』は典型的ですし、海外でも『ハッピー・デス・デイ』という映画はタイムリープを繰り返します。
ニーチェの場合は、一回こっきりの人生を合わせ鏡のようにして、だからこそこの一回を大事に生きよというのですが、タイムリープものの場合は、記憶を持ち越して何度もやり直してしまう。
なにが言いたいのかというと、いまどきのフィクションは、どれもチートなんだなあ、と。
特に現代では、作品の進行にしたがってチートキャラをすこしずつ小出しにするんじゃなくて、最初からどんどん出しちゃって、そういった作品を日常的にみているわれわれの脳みそは、ほとんど麻薬漬けのようになっている。
そうすると、『ワンパンマン』みたいな、最初から最強みたいなのも許されるし、『呪術廻戦』の五条悟のような最強キャラが最初から出てきてしまうわけです。
まあ、この手の最初から最強というようなシナリオは、古くはブルース・リーもそうなんですけどね。
ぼくとしては、そういうフィクションの麻薬から抜け出して、永劫回帰のような、地に足の着いた思想を目指す、というのが……まあ、ただしいとは言わないけど、でも、実際の人間生活は、そうなんだとおもうんですよね。
#与太話

