全年1月28日の投稿[3件]
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お気遣いに甘えさせていただき、ゆっくり休ませていただいています。
おかげさまですこしずつ回復してきました。
前回はご心配をおかけするばかりになるとおもい、じぶんのカラダに起こっていることを書く気になれなかったのですが、今回は回復の兆しがみえてきたので、じぶんのカラダに起こっていたことを書いてみます。
以前、ギズモさんにパワーテープを送っていただきました。
おかげさまであれは磁気ネックレス以上によく効きました。
しかし最近は手持ちの磁気ネックレスとパワーテープを併用して痛みを押さえつけても、痛みが勝つようになっていました。
寝ているときに、風邪でもないのに軽い空咳が出るようにもなりました。
年末くらいから右のまぶたが不随意にプルプル震えることがあり、眼精疲労かとおもっていたんです。
年が明けて、左肩から首にかけて寝違えのような強い痛みが発生しました。
それで寝違えに効くストレッチをしたり、いろいろやってみたんですが、これも効いたようにおもえても、結局一進一退でした。
一週間以上痛みが引きません。(いまもまだ多少痛みが残っています)
ほかにもいくつかの不調が年末から年始にかけて起こり、ガマンできないほどではない全身の不快な症状にさいなまれるようになりました。
これだけいろいろな不調が重なると、死の予感がするものです(笑)
死は個人的なものなので、どんどん気持ちがじぶんの内面にこもっていくんですね。
こういうときにも気持ちが外に向かっていく人もいますが、ぼくはそう勇敢にはなれませんでした。
しかしぼちぼち人生終わりかなとおもいつつも、いざ肉体に不快な症状が出ればどうにかしたくなるものです(笑)
ふと気づきました。
これ、また血管が詰まってるんじゃないかと。
というのも、ぼくは以前から左足に深部静脈血栓症があり、血栓が飛んで肺や肩が苦しくなったことがあります。
あのときたまたま納豆が血栓にいいとわかって、実際にぼくの不調が回復しました。
以来、納豆を常食していたんですが、最近はサボり気味でした。
ここ2年ほどは、一週間にひとパック食べるような感じでごまかしてたんですが、これが余計に災いしたようです。
前回はあきらかに胸が苦しくて空咳が出て肩も痛いという、明らかな症状があったのですぐ対応できました。
が、今回は四十肩に擬態して磁気でラクになるし、軽い頭痛はあったもののすぐに治り、目がプルプルするくらいだったり、なんとなく外堀を埋めるように不快が増していったんですよね。
中途半端に納豆で血栓を溶かしては放置、溶かしては放置、を繰り返していたのがよくなかったんだとおもいます。
いつくらいから症状が出ていたかたどると、ひどい肩こりが症状として現れた昨年の5月くらいからなんだとおもいます。
それでいま、納豆におろししょうがをかけて朝晩2パックずつ食べています。
前回症状が出たときは、一週間食べ続けるとかなり回復しました。
今回も不快な症状からかなり回復しつつあります。
単なる肩こりじゃなかったんですね。
寝違えだけでなく、肩こりまで解消してきました。
この一週間でこんな変化がありました。
首のリンパに大豆くらいのしこりがあったのですが、これがほとんど消えていました。
腹部の下部にも血管が浮き出た箇所があり、静脈血栓症のなにかだろうと放置していたのですが、これも目立たなくなっています。
あれがぜんぶ血栓だったのかとおもうと、全身にずいぶん爆弾を抱えていたんですね。
まだ完全回復という感じではありませんが、ひとまず死の予感は遠のいたようにおもえます。
あの全身の症状をあとどれくらい放置していたら致命的なことになっていたのかはわかりませんが、心臓、肺、脳のフルコースで血栓症の前兆があったような気がします。
客観的に考えれば病院に行け、という話なんですが、よほどその場の痛みが強いなどじゃないと、病院には行く気がしません(笑)
ただ、今回は難逃れしましたが、このままの生活をしていたら、そのうち血管が裂けるとか、突然死が起こりそうな気がしています。
生きる喜びを損なわない程度に節制して、体質改善をしたいんですが、ひとりで生きているとなかなか生活態度をあらためるのはむずかしくて、どうしたものかと思案しています。
おかげさまですこしずつ回復してきました。
前回はご心配をおかけするばかりになるとおもい、じぶんのカラダに起こっていることを書く気になれなかったのですが、今回は回復の兆しがみえてきたので、じぶんのカラダに起こっていたことを書いてみます。
以前、ギズモさんにパワーテープを送っていただきました。
おかげさまであれは磁気ネックレス以上によく効きました。
しかし最近は手持ちの磁気ネックレスとパワーテープを併用して痛みを押さえつけても、痛みが勝つようになっていました。
寝ているときに、風邪でもないのに軽い空咳が出るようにもなりました。
年末くらいから右のまぶたが不随意にプルプル震えることがあり、眼精疲労かとおもっていたんです。
年が明けて、左肩から首にかけて寝違えのような強い痛みが発生しました。
それで寝違えに効くストレッチをしたり、いろいろやってみたんですが、これも効いたようにおもえても、結局一進一退でした。
一週間以上痛みが引きません。(いまもまだ多少痛みが残っています)
ほかにもいくつかの不調が年末から年始にかけて起こり、ガマンできないほどではない全身の不快な症状にさいなまれるようになりました。
これだけいろいろな不調が重なると、死の予感がするものです(笑)
死は個人的なものなので、どんどん気持ちがじぶんの内面にこもっていくんですね。
こういうときにも気持ちが外に向かっていく人もいますが、ぼくはそう勇敢にはなれませんでした。
しかしぼちぼち人生終わりかなとおもいつつも、いざ肉体に不快な症状が出ればどうにかしたくなるものです(笑)
ふと気づきました。
これ、また血管が詰まってるんじゃないかと。
というのも、ぼくは以前から左足に深部静脈血栓症があり、血栓が飛んで肺や肩が苦しくなったことがあります。
あのときたまたま納豆が血栓にいいとわかって、実際にぼくの不調が回復しました。
以来、納豆を常食していたんですが、最近はサボり気味でした。
ここ2年ほどは、一週間にひとパック食べるような感じでごまかしてたんですが、これが余計に災いしたようです。
前回はあきらかに胸が苦しくて空咳が出て肩も痛いという、明らかな症状があったのですぐ対応できました。
が、今回は四十肩に擬態して磁気でラクになるし、軽い頭痛はあったもののすぐに治り、目がプルプルするくらいだったり、なんとなく外堀を埋めるように不快が増していったんですよね。
中途半端に納豆で血栓を溶かしては放置、溶かしては放置、を繰り返していたのがよくなかったんだとおもいます。
いつくらいから症状が出ていたかたどると、ひどい肩こりが症状として現れた昨年の5月くらいからなんだとおもいます。
それでいま、納豆におろししょうがをかけて朝晩2パックずつ食べています。
前回症状が出たときは、一週間食べ続けるとかなり回復しました。
今回も不快な症状からかなり回復しつつあります。
単なる肩こりじゃなかったんですね。
寝違えだけでなく、肩こりまで解消してきました。
この一週間でこんな変化がありました。
首のリンパに大豆くらいのしこりがあったのですが、これがほとんど消えていました。
腹部の下部にも血管が浮き出た箇所があり、静脈血栓症のなにかだろうと放置していたのですが、これも目立たなくなっています。
あれがぜんぶ血栓だったのかとおもうと、全身にずいぶん爆弾を抱えていたんですね。
まだ完全回復という感じではありませんが、ひとまず死の予感は遠のいたようにおもえます。
あの全身の症状をあとどれくらい放置していたら致命的なことになっていたのかはわかりませんが、心臓、肺、脳のフルコースで血栓症の前兆があったような気がします。
客観的に考えれば病院に行け、という話なんですが、よほどその場の痛みが強いなどじゃないと、病院には行く気がしません(笑)
ただ、今回は難逃れしましたが、このままの生活をしていたら、そのうち血管が裂けるとか、突然死が起こりそうな気がしています。
生きる喜びを損なわない程度に節制して、体質改善をしたいんですが、ひとりで生きているとなかなか生活態度をあらためるのはむずかしくて、どうしたものかと思案しています。
2024年 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
1287
不快になるような部分はありません(笑)
京アニ火災の件について、もうすこし述べます。
以下は読売の社説です。
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2024...
朝日はこうです。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15847...
朝日は慎重に言葉を選んでます。
刑事責任能力を認めたうえで、結果の重大性を重くみたというんですよね。
つまり、結果の重大性が刑事責任能力の有無の判断に影響を与えたのではない、とわざわざ念押しをしてる。
しかし結果の重大性は事件が起こったとき、すでにわかっていたのだから、順序がおかしい。
「結果の重大性を踏まえたうえで、刑事責任能力を認めた」というホンネを隠しているようにしかおもえません。
それに対して、読売の記事は正直で、死刑で当然だよね、くらいの論調です。
結果の重大性を考えれば、あの程度の錯乱状態で心神喪失とかありえないよね、責任能力は100%あったに決まってるよね、くらいの勢いです。
そして、「結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。」とまで言い切っています。
いちおう主要各社の論調をみましたが、もはや日本社会においてかれが死刑になるのは常識と化しているようです。
つまり、あの事件の犯人は完全なパブリックエネミー(公共の敵)です。
死刑にならないわけはないだろう、とだれもがおもっています。
もちろんぼくもそうおもっています。
ぼくはここでなんだかんだ言ってますが、あの犯人の量刑が下がるようなことがあれば、司法に対して「それでは、社会にしめしがつかないだろう」とボヤくことでしょう。
絶対に犯人には責任能力はあったということにしなければならない。
もはや責任能力がないというようなことは、許されません。
もし仮に、犯人が完全な心神喪失状態で、なにも覚えていなかったとしても、あれだけの事件になると社会は、なにかしら理由をつけて責任能力があった「かのように」ふるまうほかないはずです。
明治時代に天皇が神ではないとは言えなかったように、いまの日本で「あの犯人は統合失調症にしか見えないのだから、たとえ30人以上殺してもやはり死刑はおかしい。結果の重大性が司法判断に影響を与えているのではないか」ということは、もしおもったとしても、ふつうは言い出せないことだとおもいます。
ぼくは、あの犯人の死刑の是非については、そりゃそうだろう、くらいにしかおもっていません。
ぼくが言いたかったのは、あの京アニ火災事件の判決は、100年以上も前に森鴎外のいったところの「かのように」の再現にほかならないということです。
おそらくどれほど時代が進化して、科学や法律がいま以上に合理化され、AIが人間の知性を凌駕したとしても、人間から「かのように」がなくなることはないでしょう。
犯人は統合失調症だったかもしれませんが、責任能力はあった「かのように」、みんなでそう信じようではありませんか、という宗教です。
いまわれわれは、この科学社会の最先端にあってなお、「かのように」のお手本のような判決と、社会の対応を目の当たりにしている、ということを伝えたかっただけなのです。
不快になるような部分はありません(笑)
京アニ火災の件について、もうすこし述べます。
以下は読売の社説です。
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2024...
将来ある多くの若者らの命を一瞬にして奪い去った凶悪な犯行である。被告は事件と正面から向き合い、罪の重さをかみ締めねばならない。
36人が犠牲になり、32人が負傷した2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判で、京都地裁は、殺人罪などに問われた青葉真司被告に死刑を言い渡した。
犯行の引き金になったのは「京アニに小説を盗用された」という被告の妄想だった。その点で検察側と弁護側に争いはなく、焦点は責任能力の有無に絞られた。
弁護側は裁判で、妄想によって行動を制御できなかったとして、心神喪失か心神耗弱の状態だったと主張した。しかし、判決は「妄想の影響は小さかった」とし、完全な責任能力を認めた。
そうである以上、犯行の悪質性や68人が死傷した結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。
朝日はこうです。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15847...
京都アニメーションの放火殺人事件で、京都地裁はきのう、青葉真司被告(45)に死刑を言い渡した。判決は、京アニへの強い恨みに妄想が影響したとしつつ、ためらいを見せた事件直前の行動などから刑事責任能力を認めた。そのうえで犯行の計画性や結果の重大性を重くみた。
朝日は慎重に言葉を選んでます。
刑事責任能力を認めたうえで、結果の重大性を重くみたというんですよね。
つまり、結果の重大性が刑事責任能力の有無の判断に影響を与えたのではない、とわざわざ念押しをしてる。
しかし結果の重大性は事件が起こったとき、すでにわかっていたのだから、順序がおかしい。
「結果の重大性を踏まえたうえで、刑事責任能力を認めた」というホンネを隠しているようにしかおもえません。
それに対して、読売の記事は正直で、死刑で当然だよね、くらいの論調です。
結果の重大性を考えれば、あの程度の錯乱状態で心神喪失とかありえないよね、責任能力は100%あったに決まってるよね、くらいの勢いです。
そして、「結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。」とまで言い切っています。
いちおう主要各社の論調をみましたが、もはや日本社会においてかれが死刑になるのは常識と化しているようです。
つまり、あの事件の犯人は完全なパブリックエネミー(公共の敵)です。
死刑にならないわけはないだろう、とだれもがおもっています。
もちろんぼくもそうおもっています。
ぼくはここでなんだかんだ言ってますが、あの犯人の量刑が下がるようなことがあれば、司法に対して「それでは、社会にしめしがつかないだろう」とボヤくことでしょう。
絶対に犯人には責任能力はあったということにしなければならない。
もはや責任能力がないというようなことは、許されません。
もし仮に、犯人が完全な心神喪失状態で、なにも覚えていなかったとしても、あれだけの事件になると社会は、なにかしら理由をつけて責任能力があった「かのように」ふるまうほかないはずです。
明治時代に天皇が神ではないとは言えなかったように、いまの日本で「あの犯人は統合失調症にしか見えないのだから、たとえ30人以上殺してもやはり死刑はおかしい。結果の重大性が司法判断に影響を与えているのではないか」ということは、もしおもったとしても、ふつうは言い出せないことだとおもいます。
ぼくは、あの犯人の死刑の是非については、そりゃそうだろう、くらいにしかおもっていません。
ぼくが言いたかったのは、あの京アニ火災事件の判決は、100年以上も前に森鴎外のいったところの「かのように」の再現にほかならないということです。
おそらくどれほど時代が進化して、科学や法律がいま以上に合理化され、AIが人間の知性を凌駕したとしても、人間から「かのように」がなくなることはないでしょう。
犯人は統合失調症だったかもしれませんが、責任能力はあった「かのように」、みんなでそう信じようではありませんか、という宗教です。
いまわれわれは、この科学社会の最先端にあってなお、「かのように」のお手本のような判決と、社会の対応を目の当たりにしている、ということを伝えたかっただけなのです。
権現社のリンクを読んでいただき、ありがとうございます。
あのサイトを読んだだけではあまりよくわからなかった『かのやうに』の意味が、とてもよく理解できました。
判決の時間、ちょうどテレビを観ていました。
かなり論理の飛躍(支離滅裂なところ)もあり、うまくまとめることはできないのですが、思うところを書いてみます。長いですm(_ _"m)
昔は、なんの罪もない人を、キツネ憑きとか「キチガイ」と決めつけ、座敷牢に入れたり病院に閉じ込めたり、殺したりしたことが往々にしてありました。
西洋の魔女裁判もそうですね。
そういったことが、まるで正しい「かのように」、当たり前のように行われてきていたんですよね。
奉行所のお裁きにしても、正しいものばかりではなかったはずです。
今と違って科学的な捜査もなかったので、手心を加えたり重罪にすることは、日常茶飯だったと思います。
危険人物を排除して、よりよい世の中にするために罰を与え罪を償わせるわけですが、決してそれは公正に行われてきたわけではなく、無実の罪に苦しんだ人も大勢いたわけです。
現代は、科学的で精密な捜査が当然となり、さらには精神的な面も判断材料として重要なものとされています。
かなり細かい検査も行われるようですが、果たしてその結果は本当に「正しい」と言えるものなのでしょうか。
身体の病気のことで言えば、誤診はいくらでもあり得ます。
裁判の判決というものは、どうにでも操作出来得るものだと、私は思います。もちろん、全部がそうとも言えませんが。
この体質は、キツネ憑きの時代から変わらない、歪んだ「正義」を押し通すものかもしれません。
それはそれで社会的には必要なことなのかもしれませんが、もし犯人が身内だったら、「精神的に問題があったために責任能力がない」と見做されることは、何よりも大切なことかと思えます。
本人の意思はどうでも、親兄弟としたら、どんなに罪を犯しても、死刑にだけはさせたくないと願うはずです←中には死んでくれた方が、と思う親もいるとも思えますが。
事件を起こす以前から精神面になんらかの問題があれば、無実・減刑を期待することは当然です。
何の問題もないのに「責任能力がなかった」と判断される場合があれば、それは法の悪用であるわけですが。
今回の場合は、親が離婚したり父親から虐待を受けていたりと、複雑な環境の問題もあったようですが、そういったことも関係しての長年の統合失調症である可能性もあるので、精神的な問題がないはずがないと私には思えます。
ただ、精神面に問題があるイコール責任能力無し、とは言えないケースもあるのではないかと。
また、現在なんらかの精神的な病状があるとしても、事件の当日どのような精神的状態であったかを、正確に判断できるのかどうかという疑問もあります。
責任能力を判断する方法について、そこには機械的な検査の他、心情的なものも左右するとは思いますが、まずは差別のない正確な診断が必要です。
その診断が100%信じられるものでない限り、精神的な問題による責任能力の有無を判断しようとすることは、法的な(事務的な)判断とは少しばかり違い、バイアスがかかるものだと思うんです。
結論として、今回の判決が正しかったのか、何らかの思惑が介在しての結果だったか、ということは、当然ながら判断はできません。
でも、多くの材料から判断する他にも、「事情」があったので、多少なりとも減刑の措置がなく死刑になったのではないか、という推察はできます。
ご存知かもしれませんが、一応列挙します。
責任能力について最も問題になりやすいのは、統合失調症のケースであり、心神喪失で無罪になった被告人の多くが、統合失調症で幻覚や妄想に支配された状態で犯行に及ぶことは多いんだことと思います。
しかし、単に統合失調症にかかっているというだけで、責任能力が否定されるわけでなく、責任能力の有無や程度は、犯行前の生活状況や犯行時の病状、幻覚や妄想の内容、犯行の動機、手口などの事情を総合して判断されるようです。
なので、責任能力ありでも不起訴・執行猶予の余地がある場合もあります。
完全責任能力(刑事責任を完全に問える能力)が認められても、次の4つの事情があれば、不起訴や執行猶予を獲得できる可能性が増えます。
①本人が精神的な問題を自覚している
②本人が治療を受けることに意欲的である
③実際にクリニックなどに通院して治療を受けている
④家族が本人の更生をサポートしている
今回の場合、この4点の事情が該当しないこと、本人の反省がみられないことから、総合的に見ての判決になったのではないでしょうか。
でも、この4点についても手心を加えることも不可能ではないでしょうし、「公正だった」かどうかはわかりません。
他に、関連する記事の抜粋をペーストしますが、これも見方のひとつとして挙げるだけで、これに賛同しているとかいないとかではありません。
参考までにもうひとつリンクを貼っておきますが、これは、「こういうケースがあるので今回の事は仕方がない」と言いたいわけでは決してなく、人が人を裁くということの難しさや危うさを、改めて感じた次第です。
https://www.kuins.ac.jp/news/2023/07/18_...
長くなってしまいましたが、農園主さんのお気持ちを不快にする内容でしたら申し訳ありません。
ただ、決して反論ではない、ということは、どうぞご理解ください(o_ _)o))
あのサイトを読んだだけではあまりよくわからなかった『かのやうに』の意味が、とてもよく理解できました。
判決の時間、ちょうどテレビを観ていました。
かなり論理の飛躍(支離滅裂なところ)もあり、うまくまとめることはできないのですが、思うところを書いてみます。長いですm(_ _"m)
昔は、なんの罪もない人を、キツネ憑きとか「キチガイ」と決めつけ、座敷牢に入れたり病院に閉じ込めたり、殺したりしたことが往々にしてありました。
西洋の魔女裁判もそうですね。
そういったことが、まるで正しい「かのように」、当たり前のように行われてきていたんですよね。
奉行所のお裁きにしても、正しいものばかりではなかったはずです。
今と違って科学的な捜査もなかったので、手心を加えたり重罪にすることは、日常茶飯だったと思います。
危険人物を排除して、よりよい世の中にするために罰を与え罪を償わせるわけですが、決してそれは公正に行われてきたわけではなく、無実の罪に苦しんだ人も大勢いたわけです。
現代は、科学的で精密な捜査が当然となり、さらには精神的な面も判断材料として重要なものとされています。
かなり細かい検査も行われるようですが、果たしてその結果は本当に「正しい」と言えるものなのでしょうか。
身体の病気のことで言えば、誤診はいくらでもあり得ます。
裁判の判決というものは、どうにでも操作出来得るものだと、私は思います。もちろん、全部がそうとも言えませんが。
この体質は、キツネ憑きの時代から変わらない、歪んだ「正義」を押し通すものかもしれません。
それはそれで社会的には必要なことなのかもしれませんが、もし犯人が身内だったら、「精神的に問題があったために責任能力がない」と見做されることは、何よりも大切なことかと思えます。
本人の意思はどうでも、親兄弟としたら、どんなに罪を犯しても、死刑にだけはさせたくないと願うはずです←中には死んでくれた方が、と思う親もいるとも思えますが。
事件を起こす以前から精神面になんらかの問題があれば、無実・減刑を期待することは当然です。
何の問題もないのに「責任能力がなかった」と判断される場合があれば、それは法の悪用であるわけですが。
今回の場合は、親が離婚したり父親から虐待を受けていたりと、複雑な環境の問題もあったようですが、そういったことも関係しての長年の統合失調症である可能性もあるので、精神的な問題がないはずがないと私には思えます。
ただ、精神面に問題があるイコール責任能力無し、とは言えないケースもあるのではないかと。
また、現在なんらかの精神的な病状があるとしても、事件の当日どのような精神的状態であったかを、正確に判断できるのかどうかという疑問もあります。
責任能力を判断する方法について、そこには機械的な検査の他、心情的なものも左右するとは思いますが、まずは差別のない正確な診断が必要です。
その診断が100%信じられるものでない限り、精神的な問題による責任能力の有無を判断しようとすることは、法的な(事務的な)判断とは少しばかり違い、バイアスがかかるものだと思うんです。
結論として、今回の判決が正しかったのか、何らかの思惑が介在しての結果だったか、ということは、当然ながら判断はできません。
でも、多くの材料から判断する他にも、「事情」があったので、多少なりとも減刑の措置がなく死刑になったのではないか、という推察はできます。
ご存知かもしれませんが、一応列挙します。
責任能力について最も問題になりやすいのは、統合失調症のケースであり、心神喪失で無罪になった被告人の多くが、統合失調症で幻覚や妄想に支配された状態で犯行に及
しかし、単に統合失調症にかかっているというだけで、責任能力が否定されるわけでなく、責任能力の有無や程度は、犯行前の生活状況や犯行時の病状、幻覚や妄想の内容、犯行の動機、手口などの事情を総合して判断されるようです。
なので、責任能力ありでも不起訴・執行猶予の余地がある場合もあります。
完全責任能力(刑事責任を完全に問える能力)が認められても、次の4つの事情があれば、不起訴や執行猶予を獲得できる可能性が増えます。
①本人が精神的な問題を自覚している
②本人が治療を受けることに意欲的である
③実際にクリニックなどに通院して治療を受けている
④家族が本人の更生をサポートしている
今回の場合、この4点の事情が該当しないこと、本人の反省がみられないことから、総合的に見ての判決になったのではないでしょうか。
でも、この4点についても手心を加えることも不可能ではないでしょうし、「公正だった」かどうかはわかりません。
他に、関連する記事の抜粋をペーストしますが、これも見方のひとつとして挙げるだけで、これに賛同しているとかいないとかではありません。
臨床心理士の矢幡洋氏が解説する。
「確かに、妄想傾向の影響はあるでしょう。ただし、統合失調症だからといって、合理的な行動や判断ができないというわけではないんです。統合失調症だけれども、犯行当時、きちんとした合理性・計画性を持っている時点で、責任能力があるだろうと判断されると思っています。
犯行を行った時点で完全に幻覚・妄想に支配されて、全く自分の行動のコントロールが効かなかったなどということでなければ、責任能力ありとみなされるのが、今の精神疾患を患っている犯罪者に対する基本的な判決の傾向です。
その点で言えば、犯行に必要なものを買い揃えるとか、犯行が行われるまでに怪しまれないように行動するとか、青葉被告は犯行時にかなり計画的なことをしています。ある程度、合理性を持った判断を行って、直前まで周囲に怪しまれないで現場に足を運んでいる。その点で、責任能力ありとみなされるケースだと私は見ています」
参考までにもうひとつリンクを貼っておきますが、これは、「こういうケースがあるので今回の事は仕方がない」と言いたいわけでは決してなく、人が人を裁くということの難しさや危うさを、改めて感じた次第です。
https://www.kuins.ac.jp/news/2023/07/18_...
長くなってしまいましたが、農園主さんのお気持ちを不快にする内容でしたら申し訳ありません。
ただ、決して反論ではない、ということは、どうぞご理解ください(o_ _)o))