山麓王国

全年12月9日の投稿7件]

2024年 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

Icon of nouennushi
後半です。

ここからはぼくの旅行の話も混じります。

自宅から大原へ向かったんですが、あと1時間足らずで大原に到着しそうだというあたりで、たいへんな峠に差し掛かってしまいました。

グーグルマップをカーナビがわりに案内してもらっているだけではわからないものですね。

そこは国道477号線、「百井別れ」といわれる、関西でも屈指の酷道だったんです。

昼間でも薄暗く、離合のむずかしい急坂(ガードレールなし)を30分ほど、延々とゆきました。

ハンドルミスひとつで、ほんとうに滑落しかねない道です。

帰ってからネットで調べたら、477号線を「死なな(477)いで」とかけていたのをみて、笑ってしまいました。

地元の人でもこの道は通らないといいます。

どうりで午前11時ごろだったにもかかわらず、対向車がほとんどありませんでした。

あのあたりはちょうど鞍馬のあたりで、うっそうとした険しい山道を緊張して走る中、これはたしかに天狗がいてもおかしくないとおもったものです。

道中、一瞬だけひらけたところに出たんですが、それがむしろ異界をおもわせる情緒でした。

民家の前で年老いた女性が大根を洗っていました。

車から降りて「この先どう行けばいいですか」と聞こうかとおもったんですが、高野聖みたいになるといけないとおもってやめました(笑)

あの酷道を走ることはもうないとおもいますが、ある意味で貴重な経験だったとおもいます。



峠を越えて、なんとか寂光院のふもとに着きました。

寂光院は平野部からすこしはずれて、なだらかな山坂をしばらくのぼったところにあります。

寂光院に向かう坂道の途中で、土地を持っている民家がそこここに駐車場をつくっています。

だいたいどこも時間設定なしで料金は乗用車が300円でした。

寂光院の拝観料はたしか700円ほどで、駐車場も拝観料も観光地にしては良心的だったとおもいます。

寂光院は尼寺なんですが、寺院のたたずまいに権勢を誇るようなところがなく、どこかひっそりとした落ち着きを感じさせて、やっぱり女性的なお寺だとおもいました。

全体的にひかえめで、奥ゆかしい印象です。

参道も商店があるんですが、派手な商売っ気もなく、落ち着いていました。



参道から境内まで端正なたたずまいでしたが、おそらく徳子がいた時代は、現代のように管理はできなかったことでしょう。

土地の保全に機械をつかうわけにもいかないし、山をおりて平野部に行かないと、食料生産もおぼつかなかったとおもいます。

ぼくも田舎に暮らしているだけに、いかにも暮らすのがたいへんな場所であることは察しがつきました。



帰り際、授与所で年配の女性の方(お寺の関係者)に声をかけていただきました。

他愛ない会話だったんですが、最後に「仏様のお導きがあったんだとおもいますよ。またお越しください」とおっしゃられました。

その言葉があったから、というわけでもないのですが、ここはおそらく再訪するだろうな、という気がしています。

訪れた者を拒まない、柔和な空気が漂っているようにおもえたからです。



さて、平家を追い込んで破滅させた後白河法皇は、徳子が寂光院にいると知って、文治2年(1186年)に大原に御幸(外出)しました。

もちろん嫌がらせで御幸したのではありません。

後白河法皇は平清盛を憎んでいましたし、徳子はその娘です。

政治的には、源頼朝から「日本第一の大天狗」といわれるほどの権謀術数を誇る野心家でもありました。

生き馬の目を抜くような伏魔殿の中でやってきた政治家です。

その法皇が大原に行くということだけ聞けば、落ちぶれた徳子の顔をみてやろうとでもおもったのだろうかと勘繰りたくなりますが、じつはそうではないのです。



20241208094422-nouennushi.png

すこしややこしい家系の話になりますが、後白河法皇の女御(妻)は平滋子といいます。

滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の姉でした。

そして後白河法皇と滋子の間にできたのが高倉天皇です。

平徳子は、清盛と時子の娘です。

後年、高倉天皇と平徳子が結びつくんですね。

つまり、徳子は伯母の子と結婚した……言い換えればいとこと結婚したというわけです。

後白河法皇にとって、徳子は義理の(追記:妹の)娘であり、姪っ子でした。

平家は後顧の憂いを断つためにも滅ぼさねばならぬ敵であると同時に、かけがえのない身内だったわけです。



当時の世の習いとして、戦になった以上、負けた武士は死ぬ必要がありましたが、女や子供は殺す必要がありませんでした。

頼朝は平家討伐にあたって、安徳天皇の無事と、平家が勝手に持ち出してしまった三種の神器を取り返すように命じています。

しかし平家の側で「生きて虜囚の辱めを受けず」のようなかたちで、女房も多くが壇ノ浦の海で自害してしまったんですね。

もちろん生き延びたものもいますが、武士のほとんどは処刑され、女房達もほとんどが放逐されて名もなき者となりました。



とまどう安徳天皇の手を引き「浪の下にも都があるのですよ」といって一緒に入水したのは、さきほど述べた清盛の妻、時子(二位尼)でした。

三種の神器のうち、草薙剣がこのとき海の底へ沈みました。

後白河法皇からすると二位尼は義理の妹であり、安徳天皇に至っては血を分けた孫です。

いくら敵対する関係だからといって、このような結末を心から望んでいたはずがありません。

甘いことをいえば、安徳天皇と三種の神器が朝廷に帰ってきて、平家が没落し、みずからの脅威とならなければそれでよいのですが、みずからの怒りを武士集団である源氏に預けた以上、血が流れずにはすまないことを法皇はわかっていました。

(追記:しかしまさか法皇も、平家が命乞いすることもなく天皇に至るまで自決して、あとになにも残らないほどの惨状になるとはおもっていなかったでしょう)

寂光院へ向かったときの後白河法皇の心境は、もはや恩讐を越えて、忸怩たるおもいや、むなしさに満ちていたのではないでしょうか。

そして、「どのツラ下げて」という話ではありますし、表立ってそんなことをいうはずがありませんが、徳子が生きて救われたと聞いたとき、法皇はきっとうれしいやら心配するやらで、会いに行かずにおられなかったのだとおもいます。



ちなみに後白河法皇が御幸したルートは、ぼくが通った百井別れの道ではなく、京都市内から北東へ向かうすなおな道でした。

大原女もこのすなおな通って都へ向かっています。

ぼくは大原からの帰りに、百井別れをもう一度通る気になれなかったので、京都市内に出て大回りして帰ったのですが、この道なら法皇も訪れやすかっただろう、とおもったものです。




法皇の突然の来訪に徳子は取り乱しました。こんなあわれな姿をみられたくないといって、激しく拒絶したともいいます。

しかししばらくすると気持ちを落ち着けて、互いに敬意をはらいながら、語り合うこととなりました。

平家物語のすごいところは、武家と皇室による血で血を洗うような因縁の物語が、巻末の「灌頂の巻」における法皇と徳子の語り合いによって、浄化されてしまうことです。



徳子は法皇を前に、じぶんが朝廷にいたとき、そして追われる身となったとき、壇ノ浦の悲劇を目の当たりにしたときのことを、地獄の六道にたとえて話しました。

法皇は徳子の長い身の上話をじっと聞き入ったあと、

「玄奘三蔵は悟りを開く前に六道をみたと申します。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力にて六道をみたと承っております。あなたのように生きながら目の当たりに六道をみるようなことは、ほんとうにあり得難いことでございました」

といって涙をぼろぼろ流しました。

徳子もはらはらと涙し、法皇のお付きの者も、徳子の女房たちも、みんな涙に暮れたといいます。

寂光院の鐘が鳴り、夕方が近づくと、法皇は名残を惜しみ、涙をこらえながら御所へ帰りました。

徳子はとめどなく涙をこぼしながら、長いあいだお見送りをし、寂光院に戻ると安徳天皇、平家一門に向けて祈りました。

徳子の死がいつであったかは諸説ありますが、平家物語では建久2年(1191年)、36歳の徳子は病を得て、女房たちが見守る中、五色の糸を手に御念仏を唱えながら亡くなったといいます。

平家物語のエピローグである灌頂の巻の「灌頂(かんじょう)」には、お墓に水を上げるという意味があります。

寂光院を訪れながら、ああ、徳子も後白河法皇も、この大原のなだらかな坂を上ったのだろうとか、平野部の景色は現代のものだけど、山々の景色はあのころとほとんど変わっていないのだろうな、とおもったものです。



というわけで、旅の話はおしまいです。

今回は勝手なことでしたが、前後半にわけて、大原の旅の記憶についてあれこれお話させていただきました。

2023年 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

Icon of gizumo
深読みさせてしまいましたね、ごめんなさい。
「大、、」は「1155」の「宇宙語=大阪弁」からきていることで、宇宙を指す「大阪」のことでした。
だいたいにおいて、私は何かそういう学術的だったり、暗喩だったりすることは書けません(笑)

あ、あそこが戎橋だったのですね。
写真、たくさん撮ってきました。
あの橋のあたりは、とにかくすごい人でびっくりしました。

日本橋は同じ字でも、こちらでは「にほんばし」ですが、大阪では「にっぽんばし」でしたね。

同じエビスでも字が違うと、受けるイメージが違うものです。

秋葉原みたいなオタロード、ネーミングがいいですね。
わかりやすいです(≧▽≦)
Icon of nouennushi
1162

ぼくが解釈を間違えているのかもしれないのですが、1159の投稿の中で、「大、、でなくて宇宙は、2018年10月に行きました。」とあり、歌舞伎と宇宙がどうつながるのだろうとおもったんです。


松竹座はグリコの看板のすぐ向こうですよね。

タイムリーなことにあのグリコの看板がある橋は「戎橋(えびすばし)」といいます。

むかしはナンパする若いのが多かったことから「ひっかけ橋」とも言われていました。

大丸のあたりから南に2kmほど行くと、恵美須町という町があるんですが、こちらは戎でも恵比寿でもなく、恵比須なんですよね。

松竹座から1kmほど歩くと、日本橋という……むかしは「でんでんタウン」といったんですが、いまでは秋葉原に次ぐオタク街になっていて、本通りからすこし裏道に入ったところは「オタロード」と呼ばれているようです。

むかしはよくここでパソコン関係のものを物色したもので、電気関係ならいかがわしいものもよく売っていました。
Icon of gizumo
もとは外来の神様だから蔑称で戎と言っていたのに、今は日本の福の神の代表になっているのはおもしろいですね。

うわ~~、懐かしい!!
それです!!!
改めて配役を凝視してしまいました(笑)

すっかり忘れていた、海老蔵の團十郎花火も思い出しました←花火はプロジェクションマッピングの投影で、ぜんぜんおもしろくありませんでした。
 
歌舞伎は、筋書きをしっかり頭に入れてから観ないと、何が何だかわからず失敗することも多いです。
役者の見分けもつきにくく、今舞台にいるのは誰だっけ?ということもよくあります←あくまで私の場合です。

歌舞伎は、農園主さんが書いていらっしゃるように、何度か同じものを観てわかってくると、深みがでておもしろくなってくるものかもしれません。

宇宙とのつながりですか?
能や歌舞伎など、古典芸能の解説、歌舞伎の見方を書いたりしている、渡辺保さんの「歌舞伎という宇宙」の本の事でしょうか?
これでしたら読んでいませんが、歌舞伎を知るにはわかりやすい参考書のようなものと聞いています。
このことでなければ、正直なところ、わかりません。
何か気がついたことがありましたか?
Icon of nouennushi
1159
外来の神様としてのエビスさんは、もともとは外国人の蔑称としてつかわれている言葉ですよね。

あれは、むかしの日本人の性格を考えるとわかりやすいとおもうんですが、よそものはみんな蔑称で呼んでいたんですよね。

みんなじぶんの領地・領土を守る意識が強かったので、よそものは敵です。

戦国時代に貿易のために訪れた外国人は、肌の色にかかわらず「南蛮人」という蔑称で呼んでいました。

明治あたりでも「毛唐人」でした。

江戸時代の書物では「西洋人」という蔑称でない言葉もつかわれていたんですが、これは現金なもので、じぶんたちに文明であるとか、なにか利益を与えてくれるとわかって、はじめて言葉遣いが変わるわけです(笑)

「エビスさん(えべっさん)」というのも、蔑称がそのまま尊称になったという例だろうとおもいます。




ところで、ぼくは歌舞伎のことはほとんどわからないんですが、歌舞伎と宇宙にはつながりがあるのでしょうか。

おそらく2018年10月の大阪の歌舞伎というと、この公演ですよね。

https://www.kabuki-bito.jp/uploads/image...

以前にも言ったとおもうんですが、歌舞伎観劇が趣味というのはうらやましいです。

古典芸能はたぶん、わかるとどんどん深みが出てきておもしろいのだろうなとおもいます。



キャンディーズの歓声ですが、ビートルズのときも、歓声でだれでも音楽を聴いていないことに、当のビートルズもイヤになってしまったといいますよね。

いわゆる「失神コンサート」というのは、むかしほどは聞かなくなりましたが、あれは一種の集団ヒステリーなんだとおもいます。

ライブが、集団で狂乱状態になるための道具になっているんですね。

アメリカの1960年代のウッドストックという、ロックフェスティバルのときの映像をみていると、あきらかにドラッグでトランス状態になった人たちが、恍惚としながら爆音のライブを眺めてる様子がみられます。

主人公は演奏者である、というのがふつうのわきまえなんですが、狂乱状態になると、主人公がオーディエンスになるという逆転現象が起こるのでしょう。
Icon of gizumo
大阪では「戎」の字を使うんでしたね。
今、戎と恵比寿の違い、由来をちょっとだけ調べてきましたが、エビスと言ったら、やっぱりビールのイメージです(笑)

大、、でなくて宇宙は、2018年10月に行きました。
10年に一度くらいしか上演されない歌舞伎の演目が松竹座であったんです。
目的の夜の部を観たのですが、昼の部も観たくなり、翌日の切符を取ろうとしましたが、いい席が無く断念。
一度帰り、数日後にまた松竹座に行った、という次第です。

それぞれ1泊ずつして、水掛不動さん、グリコのあたり、大丸デパートとか、ちょっとだけうろうろしてきました。

演目は、先日亡くなった市川猿翁演出の『雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』。
ご両親の自殺ほう助で逮捕された市川猿之助が引継ぎ、この時も出演していました。
敵討ちの話ですが、舞台で水を豪勢に使ったり、天狗になった主人公の宙乗りと、見どころ満載のものです。

歌舞伎というとお年寄りが観るものというイメージがありますが、4歳くらいの頃から観に行って(行かされて)いたので、私の歌舞伎好きはその影響です。

蘇民祭、そういうことなんですね。
古くからの伝統行事の残し方は、難しいですね。
簡略化するといずれ0になってしまうのではないかという気持ちもわかりますが、100として残していけないなら、農園主さんのお考えのように、30でも10でも残していった方がいいはずですよね。


スーザンボイルは、あの有名なイギリスのオーディション番組『ブリテンズ・ゴット・タレント』でグランプリをとったのがきっかけで、ブレイクしました。
ただ、あの番組は、審査員があまりにも大げさで、やらせの部分が多いように感じます。
最初に番組に出た時、「そのへんにいるボサボサ頭のふつうのおばさん」のイメージを観客に植え付けておいて、歌唱力とのギャップを際立たせようとした狙いがあったんだと思います。
本当に、優しそうで素朴で、好感の持てる人だと思います。
そういう人を、おかしな売り出し方でブレイクさせると、性格も変えてしまい健康を損ねたりと、結局は長続きしない使い捨てタレントになってしまう可能性が高いです。

話がとびますが、先日、YouTubeでいろいろな人の「朝日のあたる家」を観ていたら、キャンディーズの CANDIES FINAL CARNIVALで、伊藤蘭が歌っているのを見つけました。
1976年、蘭ちゃん、かわいくて若いです(笑)
それを途中まで観て、なんだかかわいそうになり、やめました。
一生懸命歌っているのに、ファンの歓声がすごいんですよね。
ヤジではなく応援の叫びだとは思うのですが、前奏・間奏の部分はしかたないとしても(生で演奏しているミュージシャンがいるので、本当はここでも静かに聴くべきですが)、
歌っている時はちゃんと聴いてあげてよ、と思ったわけです。

ファンあってのアイドルなので、こういう現象はあたりまえなのかもしれませんが、ファンならなぜちゃんと聴かない!!と思うわけです。

自分が小さいながらもステージに立つものであるので、よけい悲しくなったのだと思います。
まぁ、アイドルではないので(笑)、演奏や歌唱の時は、みなさん、シーンとして聴いてくださるのはありがたいです。
中村仲蔵なら、終わった後の拍手ひとつない静寂に包まれ落ち込むのでしょうが、適度な拍手もいただけるので、アイドルにならないでよかった、と(笑)
Icon of nouennushi
1155
ギズモさんの宇宙に行った2度の経験談をぜひうかがいたいです(笑)



蘇民祭ですが、あれはやっぱり備後風土記に出てくる蘇民将来とスサノオ(牛頭天王)の伝説に基づいてるんでしょう。

ただ、あのお祭り自体はまったく現代にそぐわないというか……あの裸祭りは現代人はやりたくないとおもいます。

1月~3月の真冬の岩手での裸祭りが、神事だから強要されてよいとはちょっと言えません。



最近つくづくおもうんですが、ほんとうに古くからやってきた神事(あるいは田舎の行事)をつないでいきたいのであれば、その形式の部分をどんどん現代に合わせていく必要があるとおもっています。

なのにどうもうちの田舎をみていても、100か0かという話になってしまいがちなんです。

ぼくは昔ながらの100では続けられないなら、現代風に30にでも10にでも簡略化して、ともかく息を細くしてでも続けて行けばいい、とおもっています。

でも多くの人は、簡略化をすると宗教行事として意味がないとか、簡略化をするとそのままいずれ断絶して0になってしまうとおもってしまうようです。

「続けていくために簡略化をするんだ」という目的意識を明確にすれば、また将来、田舎で人口が増えるような機会があれば、むかしながらの神事を復活させることもできるかもしれません。

なのに、みんなもう、いまのことしか考えないクセがついてしまったのか、100年後に細々とでもつないでいくことに意義があるという意見はなかなか聞かれません。

古代の神道が仏教と習合していったようなことも、その時代に合わせて神道を弱体化させてでも生き残ろうということだったはずです。

蘇民祭にしても、裸祭をやめて、まったくちがう形になってでも、現代社会によりそう様式にして、次の時代につないでいく、という考えはなかったのか、とおもいます。



スーザンボイル、画像検索をするとどれも笑顔の写真で好感がもてました。

ただ実際にお会いしたわけでも、性格もフィーリングもわかりませんから、それ以上はなにもわかりません(笑)

六所神社の縁起物の写真、じつに福々しくていいですね。ありがとうございます。

この戎さんもニコニコしておられて、好感がもてましたし、鯛がかわいいです。

編集

■全文検索:

複合検索窓に切り替える

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■新着画像リスト:

新着画像リストは出力しない設定になっています。

全230個 (総容量 183.18MB)

■日付検索:

■カレンダー:

2024年12月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031

■カテゴリ:

■最近の投稿:

最終更新日時:
2026年4月5日(日) 11時48分53秒〔4時間前〕