No.1543
後半です。
ここからはぼくの旅行の話も混じります。
自宅から大原へ向かったんですが、あと1時間足らずで大原に到着しそうだというあたりで、たいへんな峠に差し掛かってしまいました。
グーグルマップをカーナビがわりに案内してもらっているだけではわからないものですね。
そこは国道477号線、「百井別れ」といわれる、関西でも屈指の酷道だったんです。
昼間でも薄暗く、離合のむずかしい急坂(ガードレールなし)を30分ほど、延々とゆきました。
ハンドルミスひとつで、ほんとうに滑落しかねない道です。
帰ってからネットで調べたら、477号線を「死なな(477)いで」とかけていたのをみて、笑ってしまいました。
地元の人でもこの道は通らないといいます。
どうりで午前11時ごろだったにもかかわらず、対向車がほとんどありませんでした。
あのあたりはちょうど鞍馬のあたりで、うっそうとした険しい山道を緊張して走る中、これはたしかに天狗がいてもおかしくないとおもったものです。
道中、一瞬だけひらけたところに出たんですが、それがむしろ異界をおもわせる情緒でした。
民家の前で年老いた女性が大根を洗っていました。
車から降りて「この先どう行けばいいですか」と聞こうかとおもったんですが、高野聖みたいになるといけないとおもってやめました(笑)
あの酷道を走ることはもうないとおもいますが、ある意味で貴重な経験だったとおもいます。
峠を越えて、なんとか寂光院のふもとに着きました。
寂光院は平野部からすこしはずれて、なだらかな山坂をしばらくのぼったところにあります。
寂光院に向かう坂道の途中で、土地を持っている民家がそこここに駐車場をつくっています。
だいたいどこも時間設定なしで料金は乗用車が300円でした。
寂光院の拝観料はたしか700円ほどで、駐車場も拝観料も観光地にしては良心的だったとおもいます。
寂光院は尼寺なんですが、寺院のたたずまいに権勢を誇るようなところがなく、どこかひっそりとした落ち着きを感じさせて、やっぱり女性的なお寺だとおもいました。
全体的にひかえめで、奥ゆかしい印象です。
参道も商店があるんですが、派手な商売っ気もなく、落ち着いていました。
参道から境内まで端正なたたずまいでしたが、おそらく徳子がいた時代は、現代のように管理はできなかったことでしょう。
土地の保全に機械をつかうわけにもいかないし、山をおりて平野部に行かないと、食料生産もおぼつかなかったとおもいます。
ぼくも田舎に暮らしているだけに、いかにも暮らすのがたいへんな場所であることは察しがつきました。
帰り際、授与所で年配の女性の方(お寺の関係者)に声をかけていただきました。
他愛ない会話だったんですが、最後に「仏様のお導きがあったんだとおもいますよ。またお越しください」とおっしゃられました。
その言葉があったから、というわけでもないのですが、ここはおそらく再訪するだろうな、という気がしています。
訪れた者を拒まない、柔和な空気が漂っているようにおもえたからです。
さて、平家を追い込んで破滅させた後白河法皇は、徳子が寂光院にいると知って、文治2年(1186年)に大原に御幸(外出)しました。
もちろん嫌がらせで御幸したのではありません。
後白河法皇は平清盛を憎んでいましたし、徳子はその娘です。
政治的には、源頼朝から「日本第一の大天狗」といわれるほどの権謀術数を誇る野心家でもありました。
生き馬の目を抜くような伏魔殿の中でやってきた政治家です。
その法皇が大原に行くということだけ聞けば、落ちぶれた徳子の顔をみてやろうとでもおもったのだろうかと勘繰りたくなりますが、じつはそうではないのです。

すこしややこしい家系の話になりますが、後白河法皇の女御(妻)は平滋子といいます。
滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の姉でした。
そして後白河法皇と滋子の間にできたのが高倉天皇です。
平徳子は、清盛と時子の娘です。
後年、高倉天皇と平徳子が結びつくんですね。
つまり、徳子は伯母の子と結婚した……言い換えればいとこと結婚したというわけです。
後白河法皇にとって、徳子は義理の(追記:妹の)娘であり、姪っ子でした。
平家は後顧の憂いを断つためにも滅ぼさねばならぬ敵であると同時に、かけがえのない身内だったわけです。
当時の世の習いとして、戦になった以上、負けた武士は死ぬ必要がありましたが、女や子供は殺す必要がありませんでした。
頼朝は平家討伐にあたって、安徳天皇の無事と、平家が勝手に持ち出してしまった三種の神器を取り返すように命じています。
しかし平家の側で「生きて虜囚の辱めを受けず」のようなかたちで、女房も多くが壇ノ浦の海で自害してしまったんですね。
もちろん生き延びたものもいますが、武士のほとんどは処刑され、女房達もほとんどが放逐されて名もなき者となりました。
とまどう安徳天皇の手を引き「浪の下にも都があるのですよ」といって一緒に入水したのは、さきほど述べた清盛の妻、時子(二位尼)でした。
三種の神器のうち、草薙剣がこのとき海の底へ沈みました。
後白河法皇からすると二位尼は義理の妹であり、安徳天皇に至っては血を分けた孫です。
いくら敵対する関係だからといって、このような結末を心から望んでいたはずがありません。
甘いことをいえば、安徳天皇と三種の神器が朝廷に帰ってきて、平家が没落し、みずからの脅威とならなければそれでよいのですが、みずからの怒りを武士集団である源氏に預けた以上、血が流れずにはすまないことを法皇はわかっていました。
(追記:しかしまさか法皇も、平家が命乞いすることもなく天皇に至るまで自決して、あとになにも残らないほどの惨状になるとはおもっていなかったでしょう)
寂光院へ向かったときの後白河法皇の心境は、もはや恩讐を越えて、忸怩たるおもいや、むなしさに満ちていたのではないでしょうか。
そして、「どのツラ下げて」という話ではありますし、表立ってそんなことをいうはずがありませんが、徳子が生きて救われたと聞いたとき、法皇はきっとうれしいやら心配するやらで、会いに行かずにおられなかったのだとおもいます。
ちなみに後白河法皇が御幸したルートは、ぼくが通った百井別れの道ではなく、京都市内から北東へ向かうすなおな道でした。
大原女もこのすなおな通って都へ向かっています。
ぼくは大原からの帰りに、百井別れをもう一度通る気になれなかったので、京都市内に出て大回りして帰ったのですが、この道なら法皇も訪れやすかっただろう、とおもったものです。
法皇の突然の来訪に徳子は取り乱しました。こんなあわれな姿をみられたくないといって、激しく拒絶したともいいます。
しかししばらくすると気持ちを落ち着けて、互いに敬意をはらいながら、語り合うこととなりました。
平家物語のすごいところは、武家と皇室による血で血を洗うような因縁の物語が、巻末の「灌頂の巻」における法皇と徳子の語り合いによって、浄化されてしまうことです。
徳子は法皇を前に、じぶんが朝廷にいたとき、そして追われる身となったとき、壇ノ浦の悲劇を目の当たりにしたときのことを、地獄の六道にたとえて話しました。
法皇は徳子の長い身の上話をじっと聞き入ったあと、
「玄奘三蔵は悟りを開く前に六道をみたと申します。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力にて六道をみたと承っております。あなたのように生きながら目の当たりに六道をみるようなことは、ほんとうにあり得難いことでございました」
といって涙をぼろぼろ流しました。
徳子もはらはらと涙し、法皇のお付きの者も、徳子の女房たちも、みんな涙に暮れたといいます。
寂光院の鐘が鳴り、夕方が近づくと、法皇は名残を惜しみ、涙をこらえながら御所へ帰りました。
徳子はとめどなく涙をこぼしながら、長いあいだお見送りをし、寂光院に戻ると安徳天皇、平家一門に向けて祈りました。
徳子の死がいつであったかは諸説ありますが、平家物語では建久2年(1191年)、36歳の徳子は病を得て、女房たちが見守る中、五色の糸を手に御念仏を唱えながら亡くなったといいます。
平家物語のエピローグである灌頂の巻の「灌頂(かんじょう)」には、お墓に水を上げるという意味があります。
寂光院を訪れながら、ああ、徳子も後白河法皇も、この大原のなだらかな坂を上ったのだろうとか、平野部の景色は現代のものだけど、山々の景色はあのころとほとんど変わっていないのだろうな、とおもったものです。
というわけで、旅の話はおしまいです。
今回は勝手なことでしたが、前後半にわけて、大原の旅の記憶についてあれこれお話させていただきました。
ここからはぼくの旅行の話も混じります。
自宅から大原へ向かったんですが、あと1時間足らずで大原に到着しそうだというあたりで、たいへんな峠に差し掛かってしまいました。
グーグルマップをカーナビがわりに案内してもらっているだけではわからないものですね。
そこは国道477号線、「百井別れ」といわれる、関西でも屈指の酷道だったんです。
昼間でも薄暗く、離合のむずかしい急坂(ガードレールなし)を30分ほど、延々とゆきました。
ハンドルミスひとつで、ほんとうに滑落しかねない道です。
帰ってからネットで調べたら、477号線を「死なな(477)いで」とかけていたのをみて、笑ってしまいました。
地元の人でもこの道は通らないといいます。
どうりで午前11時ごろだったにもかかわらず、対向車がほとんどありませんでした。
あのあたりはちょうど鞍馬のあたりで、うっそうとした険しい山道を緊張して走る中、これはたしかに天狗がいてもおかしくないとおもったものです。
道中、一瞬だけひらけたところに出たんですが、それがむしろ異界をおもわせる情緒でした。
民家の前で年老いた女性が大根を洗っていました。
車から降りて「この先どう行けばいいですか」と聞こうかとおもったんですが、高野聖みたいになるといけないとおもってやめました(笑)
あの酷道を走ることはもうないとおもいますが、ある意味で貴重な経験だったとおもいます。
峠を越えて、なんとか寂光院のふもとに着きました。
寂光院は平野部からすこしはずれて、なだらかな山坂をしばらくのぼったところにあります。
寂光院に向かう坂道の途中で、土地を持っている民家がそこここに駐車場をつくっています。
だいたいどこも時間設定なしで料金は乗用車が300円でした。
寂光院の拝観料はたしか700円ほどで、駐車場も拝観料も観光地にしては良心的だったとおもいます。
寂光院は尼寺なんですが、寺院のたたずまいに権勢を誇るようなところがなく、どこかひっそりとした落ち着きを感じさせて、やっぱり女性的なお寺だとおもいました。
全体的にひかえめで、奥ゆかしい印象です。
参道も商店があるんですが、派手な商売っ気もなく、落ち着いていました。
参道から境内まで端正なたたずまいでしたが、おそらく徳子がいた時代は、現代のように管理はできなかったことでしょう。
土地の保全に機械をつかうわけにもいかないし、山をおりて平野部に行かないと、食料生産もおぼつかなかったとおもいます。
ぼくも田舎に暮らしているだけに、いかにも暮らすのがたいへんな場所であることは察しがつきました。
帰り際、授与所で年配の女性の方(お寺の関係者)に声をかけていただきました。
他愛ない会話だったんですが、最後に「仏様のお導きがあったんだとおもいますよ。またお越しください」とおっしゃられました。
その言葉があったから、というわけでもないのですが、ここはおそらく再訪するだろうな、という気がしています。
訪れた者を拒まない、柔和な空気が漂っているようにおもえたからです。
さて、平家を追い込んで破滅させた後白河法皇は、徳子が寂光院にいると知って、文治2年(1186年)に大原に御幸(外出)しました。
もちろん嫌がらせで御幸したのではありません。
後白河法皇は平清盛を憎んでいましたし、徳子はその娘です。
政治的には、源頼朝から「日本第一の大天狗」といわれるほどの権謀術数を誇る野心家でもありました。
生き馬の目を抜くような伏魔殿の中でやってきた政治家です。
その法皇が大原に行くということだけ聞けば、落ちぶれた徳子の顔をみてやろうとでもおもったのだろうかと勘繰りたくなりますが、じつはそうではないのです。

すこしややこしい家系の話になりますが、後白河法皇の女御(妻)は平滋子といいます。
滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の姉でした。
そして後白河法皇と滋子の間にできたのが高倉天皇です。
平徳子は、清盛と時子の娘です。
後年、高倉天皇と平徳子が結びつくんですね。
つまり、徳子は伯母の子と結婚した……言い換えればいとこと結婚したというわけです。
後白河法皇にとって、徳子は義理の(追記:妹の)娘であり、姪っ子でした。
平家は後顧の憂いを断つためにも滅ぼさねばならぬ敵であると同時に、かけがえのない身内だったわけです。
当時の世の習いとして、戦になった以上、負けた武士は死ぬ必要がありましたが、女や子供は殺す必要がありませんでした。
頼朝は平家討伐にあたって、安徳天皇の無事と、平家が勝手に持ち出してしまった三種の神器を取り返すように命じています。
しかし平家の側で「生きて虜囚の辱めを受けず」のようなかたちで、女房も多くが壇ノ浦の海で自害してしまったんですね。
もちろん生き延びたものもいますが、武士のほとんどは処刑され、女房達もほとんどが放逐されて名もなき者となりました。
とまどう安徳天皇の手を引き「浪の下にも都があるのですよ」といって一緒に入水したのは、さきほど述べた清盛の妻、時子(二位尼)でした。
三種の神器のうち、草薙剣がこのとき海の底へ沈みました。
後白河法皇からすると二位尼は義理の妹であり、安徳天皇に至っては血を分けた孫です。
いくら敵対する関係だからといって、このような結末を心から望んでいたはずがありません。
甘いことをいえば、安徳天皇と三種の神器が朝廷に帰ってきて、平家が没落し、みずからの脅威とならなければそれでよいのですが、みずからの怒りを武士集団である源氏に預けた以上、血が流れずにはすまないことを法皇はわかっていました。
(追記:しかしまさか法皇も、平家が命乞いすることもなく天皇に至るまで自決して、あとになにも残らないほどの惨状になるとはおもっていなかったでしょう)
寂光院へ向かったときの後白河法皇の心境は、もはや恩讐を越えて、忸怩たるおもいや、むなしさに満ちていたのではないでしょうか。
そして、「どのツラ下げて」という話ではありますし、表立ってそんなことをいうはずがありませんが、徳子が生きて救われたと聞いたとき、法皇はきっとうれしいやら心配するやらで、会いに行かずにおられなかったのだとおもいます。
ちなみに後白河法皇が御幸したルートは、ぼくが通った百井別れの道ではなく、京都市内から北東へ向かうすなおな道でした。
大原女もこのすなおな通って都へ向かっています。
ぼくは大原からの帰りに、百井別れをもう一度通る気になれなかったので、京都市内に出て大回りして帰ったのですが、この道なら法皇も訪れやすかっただろう、とおもったものです。
法皇の突然の来訪に徳子は取り乱しました。こんなあわれな姿をみられたくないといって、激しく拒絶したともいいます。
しかししばらくすると気持ちを落ち着けて、互いに敬意をはらいながら、語り合うこととなりました。
平家物語のすごいところは、武家と皇室による血で血を洗うような因縁の物語が、巻末の「灌頂の巻」における法皇と徳子の語り合いによって、浄化されてしまうことです。
徳子は法皇を前に、じぶんが朝廷にいたとき、そして追われる身となったとき、壇ノ浦の悲劇を目の当たりにしたときのことを、地獄の六道にたとえて話しました。
法皇は徳子の長い身の上話をじっと聞き入ったあと、
「玄奘三蔵は悟りを開く前に六道をみたと申します。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力にて六道をみたと承っております。あなたのように生きながら目の当たりに六道をみるようなことは、ほんとうにあり得難いことでございました」
といって涙をぼろぼろ流しました。
徳子もはらはらと涙し、法皇のお付きの者も、徳子の女房たちも、みんな涙に暮れたといいます。
寂光院の鐘が鳴り、夕方が近づくと、法皇は名残を惜しみ、涙をこらえながら御所へ帰りました。
徳子はとめどなく涙をこぼしながら、長いあいだお見送りをし、寂光院に戻ると安徳天皇、平家一門に向けて祈りました。
徳子の死がいつであったかは諸説ありますが、平家物語では建久2年(1191年)、36歳の徳子は病を得て、女房たちが見守る中、五色の糸を手に御念仏を唱えながら亡くなったといいます。
平家物語のエピローグである灌頂の巻の「灌頂(かんじょう)」には、お墓に水を上げるという意味があります。
寂光院を訪れながら、ああ、徳子も後白河法皇も、この大原のなだらかな坂を上ったのだろうとか、平野部の景色は現代のものだけど、山々の景色はあのころとほとんど変わっていないのだろうな、とおもったものです。
というわけで、旅の話はおしまいです。
今回は勝手なことでしたが、前後半にわけて、大原の旅の記憶についてあれこれお話させていただきました。