2026年3月の投稿[4件]
2026年3月27日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
こんばんは。
スギ花粉の時期に入った頃、今年の花粉は例年の3倍だと、ジャガー横田の旦那さんで医師の木下氏が言っていたので(ネットの記事)、ドキドキしていました。
ところが、最初の頃は目のかゆみがひどかったのですが、その後落ち着いていて、むしろ例年より軽いかもしれません。
薬を飲んでもけっこう大変な年もありますが、この分でいけば楽勝かな、とすっかり気を緩めています(笑)
とは言え、スギがピークアウトしても、ヒノキもあるので、例年はゴールデンウイークあたりまで四苦八苦します。
先日、60才くらいになったら花粉症が治ったという女性の話を聞いたので、まだ先ですが、その情報に一縷の望みをかけてみます(笑)
伊勢うどんは、どこかのお店のメニューで見たことはあるのですが、食べたことはありません。
たまり醤油のような濃口醤油をかけたものかと思っていましたが、甘さもあるんですね。
お醤油をおいしく召し上がっていただき、なによりです。
司馬遼太郎さんのお話は、私もシンクロニシティ、五次元の介入、そして、何らかの意思が働いていると感じます。
司馬さん本人ということもあるでしょうが、司馬さんの守護霊だった人たちが次の逸材を見つけ、農園主さんが感じたように、「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」、さらには「あんたならできるやろ?」と、働きかけているように思います。
これは荒唐無稽な想像ではなく、見えないなにかがさりげない形で、気づかせてくれて、後押ししてくれているのではないでしょうか。
司馬さんがやり残したことを、伝えたいのかもしれませんね。
偶然と思ってスルーしてしまう人は、そこでおしまいでなんの進展も望めませんが、気づいたことにより意識が変わり、いろいろなことがブラッシュアップする転機となる人もいます。
ぜひ、司馬さん&守護霊さんたちの激励を受け止め、為すべきことを進めてください。
的確な表現でなかったら申し訳ないのですが、農園主さんは、パラダイムシフターだと思っています。
また、農園主さんの今までのお話から、司馬さんは、ずいぶん多くのことに興味を持ち、造詣が深かったことを知りました。
今回、Amazonのfireタブレットを立ち上げようと思った理由と、その中に『木曜島の夜会』があったことは、まったく別のことなのに、不思議なつながりがあったことに、私も驚いています。
書名だけ見ても熊野が出てくるとは思えないし、読まないという可能性も大きかったように思えます。
「タブレット、見てみぃ」という司馬さんのテレパシーかもしれませんね。
「木曜島」という島を知りませんでした。
真珠貝の貝殻で作られたボタンがどういうものか調べてみたのですが、子どもの頃に、ワイシャツや婦人服についているのを見ていました。
ボタンを無くした時に使うための「ボタンの箱」なるものが、どこの家庭にもあったように思います。
皮でできたボタン、木のボタン(ダッフルコートについてるみたいな)など、いろいろなボタンがありましたが、その中に、真珠貝の貝殻から作ったと思える、光沢がきれいなボタンもありました。
時々その箱で遊んでいたので、とても懐かしく思い出しました。
海人族についてのお話をありがとうございます。
日本は海に囲まれている場所が多いので、海辺に住む人々は誰でも泳ぎに長け、海に潜れるという思い込みがありました。
また、真珠は鳥羽の海女さんのイメージが強かったので、「死の危険がつきまとう過酷な仕事」とは??と思い、木曜島の海が危険なのかと調べてみて驚きました。
https://www.au.emb-japan.go.jp/files/100...
真鍮製のヘルメットに潜水服、激しい潮流、サイクロンにサメ・・・・。
危険極まりない仕事だったんですね。
この大変な仕事が、後年、真珠の養殖につながったことは、日本の大偉業のひとつだと思います。
女性は、冠婚葬祭で真珠をつける場面が多いので、誰でも真珠のネックレスは持っているはずですが、本物とも限らないですね。
真珠は極めて真贋がわかりにくいもので、じ~~っと見ただけでは本物か偽物かわかるはずがないそうで、質屋さんが一番苦労するのが真珠の見定めだそうです(笑)
ご存じのことで申し訳ありませんが、モーパッサンの『首飾り』は、ダイヤモンドのネックレスとして書かれていたのに、他の国などで映画や小説になると、「真珠の首飾り」とされることが多くなりました。
サマセット・モームの小説で、モーパッサンの『首飾り』をモチーフにした『物知り博士』がありますが、真珠が本物かどうかを見分けて、賭けをする話です。
その当時も見分けがつきにくい偽物があったということがわかります。
現代では、本当に見分けがつかない、品質のいいプラスチックのものが安価で気軽に買えるので、わざわざ高価な本物を買う必要もないと思います。
男性も、葬儀などで真珠のタイピンをしていたように思いますが、今はどうなのでしょう。
そもそも、冠婚葬祭で真珠をつけるという慣習が始まったのは、1965年あたりだと言いますが、バレンタインのチョコレートのように、真珠業界のプッシュが強かったのかもしれませんね(笑)
やはり真珠は、特に女性にとっては特別のものだと思うので、農園主さんが教えてくださった、熊野のダイバーの方々に感謝したいと思います。
インドシナ系の人々が船で日本に来て、沿岸を支配し自治した。少彦名はインドシナの医学を日本に持ち込んだ。
インドシナの影響がずいぶんと大きかったこと、海人族の活躍が目覚ましかったことが、よくわかりました。
「ヒコ」という名前、古代においては「海や川に関わる者」ということがわかると、「ヒコ」がつく人の人物像が捉えやすくなってきますね。
以前の記事の、『「耳」は地域を束ねる首長をあらわす』のように、「ヒコ」は海や船、漁業などを支配する人々の名前につけたようにも思えます。
また、関連はないのかもしれませんが、「ヒ」と「コ」で、卑弥呼を連想してしまいます。
当時の年貢の納め方の推移について、具体的でわかりやすい説明をありがとうございます。
お米であれ、現金であれ、相当厳しかったのですね。
お金を得るための選択肢は、地域やそれまでの暮らしにより大きく差があるのかもしれませんが、木曜島の話は、命懸けでも現金を得るための仕事があったことを、よかった、と安易に言えないように思います。
熊野権現は、本当に奥が深いですね。
由来がシンプルな自然崇拝の神々のままであれば、神様たちも人間も、双方まるく収まっていたと思うのですが(笑)
本地垂迹も、結局は人間の都合で生まれたものと思うので、そうしないといけなかった時代が終われば、もとに戻してもいいような気がします(笑)
徳川家康が権現さまというのは、前々から納得がいかないことでした(笑)
菅原道真や乃木神社のように、人間が死んで、神様として祀られたということでよかったのでは、とという、単純な話で良かったと思います。
最初から神様だった神と、人間が神様になったのでは、どうしても違いを感じてしまいます(書き足し):が、人間を神として祀ったのは人間だし、権現としたのも人間なので、そこに正しさを求めたらだめですね(笑)
前回の、皇室の先祖がイザナギ・イザナミというお話は、とても納得できることでした。
しかしその後、では皇室以外の日本人の先祖もイザナギ、イザナミと言えるのではないだろうか?と考えてしまいました(笑)←もちろん、農園主さんに反論しているわけではありません。
イザナギ・イザナミ以降、複雑になってくるので、例えば徳川家などが本家と分家に枝分かれしているような感じなのではと思います。
西洋では、最初はアダムとイブだったらしいので、これをイザナギ・イザナミに置きかえてもいいのかな、と、どうでもいいようなことを考えました(笑)
ところで、↓のネットニュースをお読みになりましたか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/f062fa...
男性や女性の奴婢100人あまりが順葬されたという話は読んだことがありますが、これひとつとっても、やはり中国の神仙思想、道教から来ていますね。
そして、このニュースでさらに、卑弥呼は主に道教を主体にしていたのではと思いました。
アマテラスが卑弥呼だとすると、伊勢神宮の鏡も、道教からきたものでは?と考えてみたりしましたが、私の場合、根拠のない想像です(笑)
あっという間に桜がほぼ満開になりました🌸
卒業式の写真を桜の前で撮る学校が多くなり、桜イコール入学式のイメージはなくなりましたね。
♪春は名のみの 風の寒さや(早春賦)♪
朝晩の気温差がずいぶんあるので、気をつけてお過ごしください。
スギ花粉の時期に入った頃、今年の花粉は例年の3倍だと、ジャガー横田の旦那さんで医師の木下氏が言っていたので(ネットの記事)、ドキドキしていました。
ところが、最初の頃は目のかゆみがひどかったのですが、その後落ち着いていて、むしろ例年より軽いかもしれません。
薬を飲んでもけっこう大変な年もありますが、この分でいけば楽勝かな、とすっかり気を緩めています(笑)
とは言え、スギがピークアウトしても、ヒノキもあるので、例年はゴールデンウイークあたりまで四苦八苦します。
先日、60才くらいになったら花粉症が治ったという女性の話を聞いたので、まだ先ですが、その情報に一縷の望みをかけてみます(笑)
伊勢うどんは、どこかのお店のメニューで見たことはあるのですが、食べたことはありません。
たまり醤油のような濃口醤油をかけたものかと思っていましたが、甘さもあるんですね。
お醤油をおいしく召し上がっていただき、なによりです。
司馬遼太郎さんのお話は、私もシンクロニシティ、五次元の介入、そして、何らかの意思が働いていると感じます。
司馬さん本人ということもあるでしょうが、司馬さんの守護霊だった人たちが次の逸材を見つけ、農園主さんが感じたように、「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」、さらには「あんたならできるやろ?」と、働きかけているように思います。
これは荒唐無稽な想像ではなく、見えないなにかがさりげない形で、気づかせてくれて、後押ししてくれているのではないでしょうか。
司馬さんがやり残したことを、伝えたいのかもしれませんね。
偶然と思ってスルーしてしまう人は、そこでおしまいでなんの進展も望めませんが、気づいたことにより意識が変わり、いろいろなことがブラッシュアップする転機となる人もいます。
ぜひ、司馬さん&守護霊さんたちの激励を受け止め、為すべきことを進めてください。
的確な表現でなかったら申し訳ないのですが、農園主さんは、パラダイムシフターだと思っています。
また、農園主さんの今までのお話から、司馬さんは、ずいぶん多くのことに興味を持ち、造詣が深かったことを知りました。
今回、Amazonのfireタブレットを立ち上げようと思った理由と、その中に『木曜島の夜会』があったことは、まったく別のことなのに、不思議なつながりがあったことに、私も驚いています。
書名だけ見ても熊野が出てくるとは思えないし、読まないという可能性も大きかったように思えます。
「タブレット、見てみぃ」という司馬さんのテレパシーかもしれませんね。
「木曜島」という島を知りませんでした。
真珠貝の貝殻で作られたボタンがどういうものか調べてみたのですが、子どもの頃に、ワイシャツや婦人服についているのを見ていました。
ボタンを無くした時に使うための「ボタンの箱」なるものが、どこの家庭にもあったように思います。
皮でできたボタン、木のボタン(ダッフルコートについてるみたいな)など、いろいろなボタンがありましたが、その中に、真珠貝の貝殻から作ったと思える、光沢がきれいなボタンもありました。
時々その箱で遊んでいたので、とても懐かしく思い出しました。
海人族についてのお話をありがとうございます。
日本は海に囲まれている場所が多いので、海辺に住む人々は誰でも泳ぎに長け、海に潜れるという思い込みがありました。
また、真珠は鳥羽の海女さんのイメージが強かったので、「死の危険がつきまとう過酷な仕事」とは??と思い、木曜島の海が危険なのかと調べてみて驚きました。
https://www.au.emb-japan.go.jp/files/100...
真鍮製のヘルメットに潜水服、激しい潮流、サイクロンにサメ・・・・。
危険極まりない仕事だったんですね。
この大変な仕事が、後年、真珠の養殖につながったことは、日本の大偉業のひとつだと思います。
女性は、冠婚葬祭で真珠をつける場面が多いので、誰でも真珠のネックレスは持っているはずですが、本物とも限らないですね。
真珠は極めて真贋がわかりにくいもので、じ~~っと見ただけでは本物か偽物かわかるはずがないそうで、質屋さんが一番苦労するのが真珠の見定めだそうです(笑)
ご存じのことで申し訳ありませんが、モーパッサンの『首飾り』は、ダイヤモンドのネックレスとして書かれていたのに、他の国などで映画や小説になると、「真珠の首飾り」とされることが多くなりました。
サマセット・モームの小説で、モーパッサンの『首飾り』をモチーフにした『物知り博士』がありますが、真珠が本物かどうかを見分けて、賭けをする話です。
その当時も見分けがつきにくい偽物があったということがわかります。
現代では、本当に見分けがつかない、品質のいいプラスチックのものが安価で気軽に買えるので、わざわざ高価な本物を買う必要もないと思います。
男性も、葬儀などで真珠のタイピンをしていたように思いますが、今はどうなのでしょう。
そもそも、冠婚葬祭で真珠をつけるという慣習が始まったのは、1965年あたりだと言いますが、バレンタインのチョコレートのように、真珠業界のプッシュが強かったのかもしれませんね(笑)
やはり真珠は、特に女性にとっては特別のものだと思うので、農園主さんが教えてくださった、熊野のダイバーの方々に感謝したいと思います。
インドシナ系の人々が船で日本に来て、沿岸を支配し自治した。少彦名はインドシナの医学を日本に持ち込んだ。
インドシナの影響がずいぶんと大きかったこと、海人族の活躍が目覚ましかったことが、よくわかりました。
「ヒコ」という名前、古代においては「海や川に関わる者」ということがわかると、「ヒコ」がつく人の人物像が捉えやすくなってきますね。
以前の記事の、『「耳」は地域を束ねる首長をあらわす』のように、「ヒコ」は海や船、漁業などを支配する人々の名前につけたようにも思えます。
また、関連はないのかもしれませんが、「ヒ」と「コ」で、卑弥呼を連想してしまいます。
当時の年貢の納め方の推移について、具体的でわかりやすい説明をありがとうございます。
お米であれ、現金であれ、相当厳しかったのですね。
お金を得るための選択肢は、地域やそれまでの暮らしにより大きく差があるのかもしれませんが、木曜島の話は、命懸けでも現金を得るための仕事があったことを、よかった、と安易に言えないように思います。
熊野権現は、本当に奥が深いですね。
由来がシンプルな自然崇拝の神々のままであれば、神様たちも人間も、双方まるく収まっていたと思うのですが(笑)
本地垂迹も、結局は人間の都合で生まれたものと思うので、そうしないといけなかった時代が終われば、もとに戻してもいいような気がします(笑)
徳川家康が権現さまというのは、前々から納得がいかないことでした(笑)
菅原道真や乃木神社のように、人間が死んで、神様として祀られた
最初から神様だった神と、人間が神様になったのでは、どうしても違いを感じてしまいます(書き足し):が、人間を神として祀ったのは人間だし、権現としたのも人間なので、そこに正しさを求めたらだめですね(笑)
前回の、皇室の先祖がイザナギ・イザナミというお話は、とても納得できることでした。
しかしその後、では皇室以外の日本人の先祖もイザナギ、イザナミと言えるのではないだろうか?と考えてしまいました(笑)←もちろん、農園主さんに反論しているわけではありません。
イザナギ・イザナミ以降、複雑になってくるので、例えば徳川家などが本家と分家に枝分かれしているような感じなのではと思います。
西洋では、最初はアダムとイブだったらしいので、これをイザナギ・イザナミに置きかえてもいいのかな、と、どうでもいいようなことを考えました(笑)
ところで、↓のネットニュースをお読みになりましたか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/f062fa...
男性や女性の奴婢100人あまりが順葬されたという話は読んだことがありますが、これひとつとっても、やはり中国の神仙思想、道教から来ていますね。
そして、このニュースでさらに、卑弥呼は
アマテラスが卑弥呼だとすると、伊勢神宮の鏡も、道教からきたものでは?と考えてみたりしましたが、私の場合、根拠のない想像です(笑)
あっという間に桜がほぼ満開になりました🌸
卒業式の写真を桜の前で撮る学校が多くなり、桜イコール入学式のイメージはなくなりましたね。
♪春は名のみの 風の寒さや(早春賦)♪
朝晩の気温差がずいぶんあるので、気をつけてお過ごしください。
2026年3月19日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
こんばんは。
今回はまとまった考察はせずに、雑談をしようとおもっていたんですが、結局いろいろ書いてしまいました(笑)
前々回、ギズモさんが花粉症のお話をされていましたが、当地よりずいぶん早い印象で、わたしは2月にはまだ症状らしい症状がありませんでした。
それで花粉症の地域差について調べてみたのですが、太平洋側と日本海側だと、太平洋側のほうが春は早く訪れるようですね。
また都市部のほうがヒートアイランド現象や、排気ガスと結合するなどで、花粉症は強く出るようです。
もちろん田舎は杉山や檜山が近くにあるので、結局症状が強く出るのはおなじだとおもいますが(笑)
ところで、熊野について番外編の話があります。
以前にも話したことがあるような気がするのですが、きみょうな偶然というか、不思議な体験です。
わたしはギズモさんと歴史のお話しをするようになってから、どうも司馬遼太郎さんがちょくちょく様子をうかがっているような気がしてなりません。
もちろん司馬さんの肉体は消滅しているわけですが、どこかから「いまのあんたはこれを読まんとアカン」といって、作品を差し出してくれているような気がするのです。
『この国のかたち』というエッセイ集をトイレ読書している間、ギズモさんと歴史の話をしていると、作品の中でその話題が出てくることは一度や二度ではなく、ほとんど毎回なにかしら接点が出てくるのでした。
こちらが話題にしたことが、あとから司馬さんの作品の中に出てくるのです。
もちろん、わたしが司馬さんの作品を読むときに、わざわざ接点を探して関連付けている可能性はあります。
しかしそれにしたって、頻度が多い。
わたしは読書家でもなく、一日に数ページ~数十ページほど、トイレや風呂といったついでになんらかの本を読んでいる程度です。
ここ数年は司馬さんの作品が多いのですが、いまは平岩弓枝さんの西遊記全4巻を数か月かけて読んでいます。
平岩さんの作品からはこちらの話題にシンクロするようなことはありません。
で、つい数日前、何年かぶりにAmazonのfireタブレットを充電して立ち上げました。
もはやパスワードも忘れていて難儀したのですが、なんとかおもいだして中に入ると、以前購入して読まずじまいになっていた、司馬さんの『木曜島の夜会』の電子書籍があったのです。
なんとなく、風呂読書をしてみようとおもいました。
わたしは老眼鏡がないと本が読めないのですが、電子書籍であればフォントを大きくできるので、入浴中でも読書ができます。
読み進めていくと、なんとこれが熊野の話でした。
ちょうど紀州や熊野について調べて、前回ギズモさんに返信したあとです。
『木曜島の夜会』というタイトルからまさか熊野が出てくるとはおもいもしませんでした。
司馬さんで熊野が出てくる作品を検索すると、『街道をゆく』が出てくるばかりです。
司馬さんの作品にどれだけ熊野が出てくるかわからないんですが、木曜島の夜会にあたったのは相当な偶然でした。
すこし、わたしなりの解説も加えながら木曜島の話をします。
木曜島はオーストラリア領の小さな島で、明治時代から戦後まで、熊野の人々を中心に貝を収穫していました。
真珠貝(南洋真珠)なんですが、当時は真珠も貝肉もおまけみたいなもので、衣服のボタンをつくるのに貝殻が高級品として重宝されたのです。
海に潜ることをいとわない適性が求められ、死の危険がつきまとう過酷な仕事なんですが、高給が得られることもあり、当時は熊野(串本町)の人々が多く木曜島に渡ってダイバーになりました。
なぜ熊野なのか、そのルーツをたどると、紀州の海人族に行き着くといいます。
司馬さんによると、海人族としての紀州人の性質が、明治に入って、木曜島のダイバーの適性としてあらわれた、というわけです。
しかし海人族は全国に分布していました。
日本の海岸沿いであればどこでもよさそうなものですが、熊野の海人族は神武水軍以来の筋金入りです。
また明治に入ったばかりの熊野では、ともかくお金が必要でした。
明治政府が、これまで認められていた米納を、すべて金納にするように統制したからです。
それまでお金の必要がなかった農民は困り果てて、その地域で現金商売をしていた人に田んぼを管理してもらい、みずから小作人になりました。
小作人は地主の奴隷のようなものですが、それでも望んで小作になったのは、これまでどおり百姓をして地主に年貢を出していれば、地主がその米で金を得て、税を立て替えてくれるからです。
ちなみに紀州と年貢の関係については、「八公二民」というすさまじい税率が有名です。
紀州藩は徳川吉宗の時代に、藩が百姓のつくった米を8割持っていき、百姓に2割残しました。
すなわち八公二民。
これはいくらなんでもムチャな税率です。
江戸幕府の天領では飢饉の折でも四公六民を堅持していました。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」では、一日に玄米四合を食べるという記述があります。
玄米四合でおよそ2000kcalですから、米だけ食べていた時代であれば、それくらい食べてようやく人心地がつくくらいの量でしょう。
四合は600g。
これを一年毎日食べたとしたら、約220kg必要です。
むかしは3反の田んぼで米を作って、おおむね1トンの収穫でした。
人力で3反の田んぼを維持しようとすれば、家族が総出で必死にやらねばなりません。
このうち800kgを藩が持っていってしまえば、残りは200kg。
子供と親を含めて家族が10人いたら、ひとり一年に20㎏しか米を食べることができません。
20㎏なんて、年を越すこともできないような量ですね。
おそらく当時の紀州の農民は、ほんの少量の米に雑穀やイモ、菜っ葉や雑草を混ぜた雑炊を常食して、命をつないでいたのでしょう。
明治維新の際にも、危急存亡であるとのことで八公二民が復活します。
このときはさすがに百姓の不満が爆発して一揆が起こり、藩はこれをなんとか鎮圧したものの、増税の撤回と税率の引き下げの要求を飲まざるを得ませんでした。
そして明治維新以降、税が米納から金納に切り替わります。
税率は「地価の3%」でした。
これがどれくらいの税率かというと、天領の四公六民を参考にしたもので、平均収穫量の半分ほどが税に持っていかれるくらいだったといいます。
半分なら、八公二民よりマシだとおもわれるかもしれません。
しかし地価の3%は固定なので、不作でお米がほとんど穫れない年でも、税は「地価の3%ぶんをきっちり払え」ということになってしまったのです。
熊野のような山深い地域で、現金を得るのはたいへんなこと……というより、ほとんど無理なことでした。
なにせ資本主義をするにも産業がなく、地理的に孤立しています。
水産業にしたって、魚を売るにも交通網が発達していません。
そこへ西洋から、木曜島で貝殻を集める、お金のもうかるきみょうで危険な職業がやってきたそうな。
西洋の人々も、木曜島の貝に目をつけたはいいものの、ダイバーになれる人を探すのに苦労していました。
なにせまだ世界中で資本主義が行き届いていない時代ですから、お金のために命を懸ける人が少なかったのです。
オーストラリアの現地人(アボリジニ)はお金に興味がありませんでした。
中国人はこの仕事を嫌がり、西洋人はこの仕事に向いておらず、といった具合で、お金に飢えていて海に潜るのが得意だった熊野の人々は、この仕事にうってつけだったのです。
最盛期、木曜島のダイバーの8割が、熊野人だったといいます。
しかしこの仕事は極めて危険で死と隣り合わせだったうえ、貝ボタンの需要は戦後プラスチックが流通すると急速にすたれました。
ちなみに現在、和歌山の串本から三重県の鳥羽は真珠の養殖の先進地ですが、これは木曜島のダイバーたちの知見が生かされてできた産業です。
なぜ司馬さんがわたしたちの会話にさりげなく入ってこられるのか、理由はわからないんですが、ほとんどの場合、こちらの知りたいことを掘り下げてくるような刺激を与えてくれます。
今回にしても、海人族というキーワードから思考のとっかかりをいただきました。
これを、たんなる偶然と考えるべきか、あるいは以前お話したような「五次元の介入」と考えるべきか。
なんだか結局バカバカしい話なんですが、わたし自身は司馬さんに「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」とお尻を叩かれているような気もしているのです(笑)
海人族について、お話しします。
海人族は当時の日本各地の川や海を支配した者たちで、それぞれ独立した存在でした。
いまでも日本の各海や川で、独立した漁業権がありますが、いにしえの海人族も各地の海を自治していたんですね。
かれらのルーツをたどると、インドシナ系の人々が船で日本に渡来してきたところからくるといわれます。
船をつくる技術を持った者が日本にきて、その沿岸を支配して自治した、というわけですね。
神武と対立したナガスネヒコも海人族とのつながりが指摘されています。
すねの長い人という、きわめて特徴的な名前ですが、それはかれの体型が当時としては日本人離れした、インドシナ系の系譜だったことをあらわすのかもしれません。
さて、重要な余談なんですが、古代の名前に「ヒコ(彦・毘古など)」がつくケースがあるでしょう。
このルーツをたどっていくと、どうも海人族につながっていくようなのです。
日本の地名に「我孫子(あびこ)」があります。
これは古くは「阿毘古」とも書かれました。
この毘古は、たとえば「少名毘古那」「猿田毘古」とあるように、人名にもつかわれる言葉なんですね。
我孫子の語源のひとつは、網曳(あびき)が転じたものだといいます。
網を曳く者、つまり漁師。
大阪の天王寺の南側にも我孫子がありますが、いまでこそ都市部で周囲一帯アスファルトと建物に覆われているものの、ここは海運をつかさどる住吉大社の近くで……ようするに大昔はここから西は一面の海でした。
また千葉県の我孫子市は、海には面していませんが、南の手賀沼、北の利根川にはさまれる形で、おそらくその地の産業として漁業があったことでしょう。
つまり古代におけるヒコという名前には、海や川に関わる者というニュアンスがあるようなのです。
すべてがパターンに当てはまるわけではないものの、そのように考えるととてもおもしろいことがわかります。
猿田彦、少彦名、クエビコ、ナガスネヒコ……。
神武天皇も諱(いみな)は「神日本磐余彦天皇」で、彦が入りますね。
ちなみに天皇の諱は、14代仲哀天皇まで、ずっとヒコの名が入ります。
饒速日やニニギノミコト、山幸彦やウガヤフキアエズにも諱にヒコが入ります。
しかし欠史八代以降は彦がついても、あまり海人族のニュアンスが感じられません。
現代では名前に彦がついても、べつに水を連想することはないですね。
おそらく古代の間に、徐々にヒコという名前が、男性をあらわすだけの記号に変わっていったのではないかとおもいます。
少彦名が天乃羅摩船でやってきたというのは、インドシナの医学や農学の知識をもった者が船で日本にやってきて、出雲やヤマトで重宝されたのかもしれません。
猿田彦は海人族のネットワークから外れた海賊のような存在で、日本の海のことをよく知っており、ニニギを高千穂に連れてきたのかもしれません。
と、想像がどんどん広がりますが、このあたりにして話を戻しましょう。
神武天皇ははじめて近畿へ向かったにもかかわらず、浪速で敗戦したあと、紀州をぐるっと回り込んで新宮に上陸しました。
神武軍がなぜそんな戦略をおもいついたのか不思議だったのですが、おそらくその地の水運を理解していた海人族が、神武軍を先導していたのでしょう。
神話では、神武には3人の兄がいました。
彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナイノミコト)、三毛入野命(ミケイリノノミコト)です。
彦五瀬命は東遷のさなかにナガスネヒコの矢を受けて薨去しました。
彦五瀬命という名前にも、瀬が含まれるあたりに海との関係を感じますが、穀物と食料の神とも解釈されているそうです。
稲飯命は熊野で嵐にあった際、「じぶんの母は海の神であるのに、なぜこんな目にあうのか」と嘆いたあと、海に入って鋤持神(サイモチノカミ)になったといわれます。
母が海の神というのは、父のウガヤフキアエズの妻が玉依姫で、ワタツミの娘だったからです。
稲飯命も、海との関係が強いですが、名前はやはり稲と飯で、穀物と食料ですね。
入水して神になったのは、やはり死を意味するのかもしれません。
さらに三毛入野命も同様に、熊野へ向かう嵐の中で嘆いたあと、荒波を渡って常世の国へ渡ります。
ちなみに古代、ケという言葉は穀物や食料をあらわしました。
気比神宮(けひじんぐう)のケも穀物と食料をあらわし、外宮の祭神である豊受大神(トヨウケ)のケも、食料と穀物をさしますね。
神武天皇も「若御毛沼命」と呼ばれたりしますから、やはり食物と穀物をつかさどっています。
ようするに神武の兄弟はみな熊野の海と強い関係性があり、熊野の海で亡くなり、かつ穀物と食料に関係のある神でした。
しかしこの三柱の神を実際の神武の兄と考えるべきかは、むずかしいところです。
神武以外、兄弟全員熊野へ行く船で薨去していることを、どう考えるべきでしょうか。
なぜ兄弟の中で神武だけが嵐の中で生き延びることができたのでしょう。
さらに、浪速でナガスネヒコに敗戦したとき、なぜ神武が陣頭指揮をとっていたのでしょう。
「日の御子であるわたしが、太陽ののぼる東にむけて矢を放ったのが敗因だった。天神地祇(天神族と国つ神)をまつり、西へ回り込もう」
と言ったとき、長兄の彦五瀬命は矢を受けて重傷ではありましたが、まだ生きていました。
ほかのふたりの兄も健在です。
なぜ末弟の神武が、もう王になったつもりで話をしているのでしょうか。
この点疑問は残るのですが、いずれにせよ、東遷に海人族が大勢かかわっており、陣頭指揮をとれる人間も神武を含め、複数いたのでしょう。
そのように考えると、神武軍は相当な大船団でした。
そして浪速で敗戦したあと、熊野上陸までの間にかなり数を減らし、陣頭指揮がとれる人間も減ってしまいました。
あるいは紀ノ川沿いにいた名草戸畔(ナグサトベ)、熊野にいた丹敷戸畔(ニシキノトベ)といった女首長を退治したというのは、神武軍の略奪行為だったのかもしれません。
さて、油断するとどんどん長くなりそうなので、今回はこのへんで切り上げましょう(笑)
ギズモさんから熊野権現についてのご質問をいただきましたが、おっしゃるように熊野の縁起は熊野権現でいよいよややこしくなりました。
そしてギズモさんが冒頭で書かれていたように、多くの人はこのややこしい縁起に、ふつうの寺社には感じない妖しい雰囲気を感じ、威容に打たれたのでしょう。
たとえば熊野三社の神はそれぞれ、
家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)
速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)
牟須美大神・夫須美大神(ムスビオオカミ・フスミオオカミ)(千手観音)
です。
これらの神々は、記紀にはありません。
つまり、熊野で独自に信仰されていた大神でした。
その名前はそれぞれ、その後の縁起のややこしさを考えると、あまりにもシンプルなものです。
ケツミミコというのは、ケが入るので、食べ物の神ですね。
ちなみにケは、毛です。
ようするに「生えてくるもの」で、植物や木々という意味でした。
野菜や果樹が生えているということと、それらが食べ物になるということが、「ケ」のひと言に集約されているんですね。
熊野の大地に生える豊かで美しい食べ物を司る御子として、ケツミミコです。
速玉というのは、イザナギの吐いた唾から生まれた速玉男命からきています。
唾液というので、直感的に汚いとおもうかもしれません。
が、この場合は真逆で、勢いよく放たれた神聖な水がけがれを祓うということで、水神、海神としての性質をもちます。
速玉大神は熊野の海や川の水神でした。
牟須美大神は、「むすび」とありますが、これはものごとの始まりを意味します。
夫須美大神も言葉は違いますが、おなじ「むすぶ」という意味です。
牟須美大神は、あらゆる魂を生み出す熊野の大地をつかさどる神ということになるのでしょう。
これら非常にシンプルな由来をもつ自然崇拝の神々が、後世に熊野権現として、阿弥陀如来や薬師如来、千手観音と合一しました。
ちなみに本地垂迹とは、仏教の仏(本地)が、日本神話の神の姿を借りてあらわれる(垂迹)ことです。
そして、この仏が姿をあらわして、権現になります。
徳川家康も権現扱いされましたが、あれは家康が人の姿を借りて垂迹していたけれど、その本地は東照大権現であった、という物語ですね。
明治新政府が目の敵にしたのが、権現と牛頭天王でした。
なぜかというと、朝廷をないがしろにして、圧政を敷いてきた徳川が権現を名乗っていたのも気に入らないし、神道を原理主義的にとらえたら、神仏習合はもってのほかだったからです。
このため牛頭天王はスサノオに姿を変え、祇園社は八坂神社になりましたし、各地の権現は日本の神々の神号があらためて与えられたのです。
しかし皮肉なことに、東照大権現に関しては、東照社が東照宮に改められはしたものの、祭神が徳川家康という実際上の人物であるために、あらためて神の名を与えるわけにもいかず、東照大権現もそのままになってしまいました。
いわばこの家康を排除するのが目的だったはずなのですが、明治政府はこの本丸を生き延びさせてしまうんですね(笑)
それはともかく、熊野三社についても、
家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)→スサノオノミコト
速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)→イザナギノミコト
牟須美大神(ムスビオオカミ)(千手観音)→イザナミノミコト
となりました。
千手観音がイザナミというのは百歩譲ってわからなくもありませんが、なぜ阿弥陀如来がスサノオ、薬師如来がイザナギになるのでしょうね(笑)
わたしは、明治以降ややこしい縁起がシンプルになればよかったけれど、よけいややこしくなってしまった、といいました。
その原因は、ケツミミコやハヤタマへの信仰に戻せばよかったのに、わざわざスサノオやイザナミを付け加えてしまったところにあるとおもっています。
ギズモさんのおっしゃった船禅頂は、日光を補陀洛山に見立てて、勝道上人をおまつりしてるんですね。
日光という名前は栃木の二荒山(男体山)を音読みして「にこう」から「にっこう(日光)」に転じたといいます。
さらに二荒山を訓読みして、ふたあら → ふたら → 補陀洛 に転じました。
言葉遊びのように信仰が発展していく場合、「神嘗月」から「神無月」に変化したときもそうでしたが、何でもありの信仰の匂いがしますね(笑)
しかし日光での補陀洛信仰は、勝道上人より後に、熊野那智の修験者が全国に遊行する中で根付いたのではないかという気もします。
ギズモさんのおっしゃった高野聖もそうですが、熊野信仰が全国区の知名度になったのは、かれら遊行者が全国で紀伊の霊験を布教したからでした。
日光の山々は修験にはもってこいですし、修験者が好んで集まり、徐々に熊野信仰と結びついていったのかもしれません。
その中で同時並行的に、言葉遊びで二荒山と日光、補陀洛が結びついたのではないでしょうか。
中禅寺湖からはるか補陀洛を礼拝するのは、たしかにきみょうではあるのですが、湖に花を手向けるあたり、趣があっていいですね。
モロヘイヤうどんの活用レシピについて、ありがとうございました。
わたしはそのまま茹でて釜揚げみたいにして食べるばかりだったのですが、パスタにしていただくのはよいですね。
うちはいま植物油の類がないのですが、唯一もらい物のアマニ油の小さなボトルだけが冷蔵庫にありました。
これでペペロンチーノをつくろうとおもいます。
わたしも話しそびれていたのですが、2月にようやくかつおの刺身を買い、満を持してギズモさんからいただいたてこねずしの素を利用しました。
情けない話なのですが、このところの値上げラッシュで、わたしの節約志向が強まってしまい、刺身を買う機会がほとんどなくなったのです(笑)
それがたまたま月初めのセールで特売になっていたので、喜んで買ってきました。
結論からいうと、わたしが学生時代に伊勢市内のスーパーで買っていたてこねずしとは比べ物にならない美味しさでした。
合わせ酢の風味も、市販の寿司酢ではなく寿司屋の酢飯みたいです。
漬け醤油も深いコクがあって、かつおにテリが出てもっちりとした風味になりました。
伊勢の料理というのは、伊勢うどんもてこねずしもそうですが、ファーストフード的なんです。
伊勢うどんはお伊勢参りにきたたくさんの客に対応できるように、わざと伸びきったうどんにして、甘辛いしょうゆだれをかけてすぐ出せるようにしていました。
てこねずしも、漁師が船上ですぐにご飯を食べるためにつくられた料理で、凝ったところがありません。
そのぶん、素材のしょうゆにはこだわりがあるのでしょうね。
三重県は色の濃くて深みのあるたまり醤油が有名なのですが、これは醤油発祥と言われる和歌山の湯浅からきている文化なのでしょう。
ふとおもいついて、手こねずしのかつおに漬けこむ醤油(醤油にみりんと砂糖が原材料でした)の余りに、少量のだしの素を加えて、チルドうどんとネギでなんちゃって伊勢うどんをつくったのですが、あまりにも三重県で食べた伊勢うどんの味でおどろきました。
醤油がおいしいと、てこねずしも伊勢うどんもおいしいという発見をさせていただいて、感謝しております。
今回はまとまった考察はせずに、雑談をしようとおもっていたんですが、結局いろいろ書いてしまいました(笑)
前々回、ギズモさんが花粉症のお話をされていましたが、当地よりずいぶん早い印象で、わたしは2月にはまだ症状らしい症状がありませんでした。
それで花粉症の地域差について調べてみたのですが、太平洋側と日本海側だと、太平洋側のほうが春は早く訪れるようですね。
また都市部のほうがヒートアイランド現象や、排気ガスと結合するなどで、花粉症は強く出るようです。
もちろん田舎は杉山や檜山が近くにあるので、結局症状が強く出るのはおなじだとおもいますが(笑)
ところで、熊野について番外編の話があります。
以前にも話したことがあるような気がするのですが、きみょうな偶然というか、不思議な体験です。
わたしはギズモさんと歴史のお話しをするようになってから、どうも司馬遼太郎さんがちょくちょく様子をうかがっているような気がしてなりません。
もちろん司馬さんの肉体は消滅しているわけですが、どこかから「いまのあんたはこれを読まんとアカン」といって、作品を差し出してくれているような気がするのです。
『この国のかたち』というエッセイ集をトイレ読書している間、ギズモさんと歴史の話をしていると、作品の中でその話題が出てくることは一度や二度ではなく、ほとんど毎回なにかしら接点が出てくるのでした。
こちらが話題にしたことが、あとから司馬さんの作品の中に出てくるのです。
もちろん、わたしが司馬さんの作品を読むときに、わざわざ接点を探して関連付けている可能性はあります。
しかしそれにしたって、頻度が多い。
わたしは読書家でもなく、一日に数ページ~数十ページほど、トイレや風呂といったついでになんらかの本を読んでいる程度です。
ここ数年は司馬さんの作品が多いのですが、いまは平岩弓枝さんの西遊記全4巻を数か月かけて読んでいます。
平岩さんの作品からはこちらの話題にシンクロするようなことはありません。
で、つい数日前、何年かぶりにAmazonのfireタブレットを充電して立ち上げました。
もはやパスワードも忘れていて難儀したのですが、なんとかおもいだして中に入ると、以前購入して読まずじまいになっていた、司馬さんの『木曜島の夜会』の電子書籍があったのです。
なんとなく、風呂読書をしてみようとおもいました。
わたしは老眼鏡がないと本が読めないのですが、電子書籍であればフォントを大きくできるので、入浴中でも読書ができます。
読み進めていくと、なんとこれが熊野の話でした。
ちょうど紀州や熊野について調べて、前回ギズモさんに返信したあとです。
『木曜島の夜会』というタイトルからまさか熊野が出てくるとはおもいもしませんでした。
司馬さんで熊野が出てくる作品を検索すると、『街道をゆく』が出てくるばかりです。
司馬さんの作品にどれだけ熊野が出てくるかわからないんですが、木曜島の夜会にあたったのは相当な偶然でした。
すこし、わたしなりの解説も加えながら木曜島の話をします。
木曜島はオーストラリア領の小さな島で、明治時代から戦後まで、熊野の人々を中心に貝を収穫していました。
真珠貝(南洋真珠)なんですが、当時は真珠も貝肉もおまけみたいなもので、衣服のボタンをつくるのに貝殻が高級品として重宝されたのです。
海に潜ることをいとわない適性が求められ、死の危険がつきまとう過酷な仕事なんですが、高給が得られることもあり、当時は熊野(串本町)の人々が多く木曜島に渡ってダイバーになりました。
なぜ熊野なのか、そのルーツをたどると、紀州の海人族に行き着くといいます。
司馬さんによると、海人族としての紀州人の性質が、明治に入って、木曜島のダイバーの適性としてあらわれた、というわけです。
しかし海人族は全国に分布していました。
日本の海岸沿いであればどこでもよさそうなものですが、熊野の海人族は神武水軍以来の筋金入りです。
また明治に入ったばかりの熊野では、ともかくお金が必要でした。
明治政府が、これまで認められていた米納を、すべて金納にするように統制したからです。
それまでお金の必要がなかった農民は困り果てて、その地域で現金商売をしていた人に田んぼを管理してもらい、みずから小作人になりました。
小作人は地主の奴隷のようなものですが、それでも望んで小作になったのは、これまでどおり百姓をして地主に年貢を出していれば、地主がその米で金を得て、税を立て替えてくれるからです。
ちなみに紀州と年貢の関係については、「八公二民」というすさまじい税率が有名です。
紀州藩は徳川吉宗の時代に、藩が百姓のつくった米を8割持っていき、百姓に2割残しました。
すなわち八公二民。
これはいくらなんでもムチャな税率です。
江戸幕府の天領では飢饉の折でも四公六民を堅持していました。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」では、一日に玄米四合を食べるという記述があります。
玄米四合でおよそ2000kcalですから、米だけ食べていた時代であれば、それくらい食べてようやく人心地がつくくらいの量でしょう。
四合は600g。
これを一年毎日食べたとしたら、約220kg必要です。
むかしは3反の田んぼで米を作って、おおむね1トンの収穫でした。
人力で3反の田んぼを維持しようとすれば、家族が総出で必死にやらねばなりません。
このうち800kgを藩が持っていってしまえば、残りは200kg。
子供と親を含めて家族が10人いたら、ひとり一年に20㎏しか米を食べることができません。
20㎏なんて、年を越すこともできないような量ですね。
おそらく当時の紀州の農民は、ほんの少量の米に雑穀やイモ、菜っ葉や雑草を混ぜた雑炊を常食して、命をつないでいたのでしょう。
明治維新の際にも、危急存亡であるとのことで八公二民が復活します。
このときはさすがに百姓の不満が爆発して一揆が起こり、藩はこれをなんとか鎮圧したものの、増税の撤回と税率の引き下げの要求を飲まざるを得ませんでした。
そして明治維新以降、税が米納から金納に切り替わります。
税率は「地価の3%」でした。
これがどれくらいの税率かというと、天領の四公六民を参考にしたもので、平均収穫量の半分ほどが税に持っていかれるくらいだったといいます。
半分なら、八公二民よりマシだとおもわれるかもしれません。
しかし地価の3%は固定なので、不作でお米がほとんど穫れない年でも、税は「地価の3%ぶんをきっちり払え」ということになってしまったのです。
熊野のような山深い地域で、現金を得るのはたいへんなこと……というより、ほとんど無理なことでした。
なにせ資本主義をするにも産業がなく、地理的に孤立しています。
水産業にしたって、魚を売るにも交通網が発達していません。
そこへ西洋から、木曜島で貝殻を集める、お金のもうかるきみょうで危険な職業がやってきたそうな。
西洋の人々も、木曜島の貝に目をつけたはいいものの、ダイバーになれる人を探すのに苦労していました。
なにせまだ世界中で資本主義が行き届いていない時代ですから、お金のために命を懸ける人が少なかったのです。
オーストラリアの現地人(アボリジニ)はお金に興味がありませんでした。
中国人はこの仕事を嫌がり、西洋人はこの仕事に向いておらず、といった具合で、お金に飢えていて海に潜るのが得意だった熊野の人々は、この仕事にうってつけだったのです。
最盛期、木曜島のダイバーの8割が、熊野人だったといいます。
しかしこの仕事は極めて危険で死と隣り合わせだったうえ、貝ボタンの需要は戦後プラスチックが流通すると急速にすたれました。
ちなみに現在、和歌山の串本から三重県の鳥羽は真珠の養殖の先進地ですが、これは木曜島のダイバーたちの知見が生かされてできた産業です。
なぜ司馬さんがわたしたちの会話にさりげなく入ってこられるのか、理由はわからないんですが、ほとんどの場合、こちらの知りたいことを掘り下げてくるような刺激を与えてくれます。
今回にしても、海人族というキーワードから思考のとっかかりをいただきました。
これを、たんなる偶然と考えるべきか、あるいは以前お話したような「五次元の介入」と考えるべきか。
なんだか結局バカバカしい話なんですが、わたし自身は司馬さんに「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」とお尻を叩かれているような気もしているのです(笑)
海人族について、お話しします。
海人族は当時の日本各地の川や海を支配した者たちで、それぞれ独立した存在でした。
いまでも日本の各海や川で、独立した漁業権がありますが、いにしえの海人族も各地の海を自治していたんですね。
かれらのルーツをたどると、インドシナ系の人々が船で日本に渡来してきたところからくるといわれます。
船をつくる技術を持った者が日本にきて、その沿岸を支配して自治した、というわけですね。
神武と対立したナガスネヒコも海人族とのつながりが指摘されています。
すねの長い人という、きわめて特徴的な名前ですが、それはかれの体型が当時としては日本人離れした、インドシナ系の系譜だったことをあらわすのかもしれません。
さて、重要な余談なんですが、古代の名前に「ヒコ(彦・毘古など)」がつくケースがあるでしょう。
このルーツをたどっていくと、どうも海人族につながっていくようなのです。
日本の地名に「我孫子(あびこ)」があります。
これは古くは「阿毘古」とも書かれました。
この毘古は、たとえば「少名毘古那」「猿田毘古」とあるように、人名にもつかわれる言葉なんですね。
我孫子の語源のひとつは、網曳(あびき)が転じたものだといいます。
網を曳く者、つまり漁師。
大阪の天王寺の南側にも我孫子がありますが、いまでこそ都市部で周囲一帯アスファルトと建物に覆われているものの、ここは海運をつかさどる住吉大社の近くで……ようするに大昔はここから西は一面の海でした。
また千葉県の我孫子市は、海には面していませんが、南の手賀沼、北の利根川にはさまれる形で、おそらくその地の産業として漁業があったことでしょう。
つまり古代におけるヒコという名前には、海や川に関わる者というニュアンスがあるようなのです。
すべてがパターンに当てはまるわけではないものの、そのように考えるととてもおもしろいことがわかります。
猿田彦、少彦名、クエビコ、ナガスネヒコ……。
神武天皇も諱(いみな)は「神日本磐余彦天皇」で、彦が入りますね。
ちなみに天皇の諱は、14代仲哀天皇まで、ずっとヒコの名が入ります。
饒速日やニニギノミコト、山幸彦やウガヤフキアエズにも諱にヒコが入ります。
しかし欠史八代以降は彦がついても、あまり海人族のニュアンスが感じられません。
現代では名前に彦がついても、べつに水を連想することはないですね。
おそらく古代の間に、徐々にヒコという名前が、男性をあらわすだけの記号に変わっていったのではないかとおもいます。
少彦名が天乃羅摩船でやってきたというのは、インドシナの医学や農学の知識をもった者が船で日本にやってきて、出雲やヤマトで重宝されたのかもしれません。
猿田彦は海人族のネットワークから外れた海賊のような存在で、日本の海のことをよく知っており、ニニギを高千穂に連れてきたのかもしれません。
と、想像がどんどん広がりますが、このあたりにして話を戻しましょう。
神武天皇ははじめて近畿へ向かったにもかかわらず、浪速で敗戦したあと、紀州をぐるっと回り込んで新宮に上陸しました。
神武軍がなぜそんな戦略をおもいついたのか不思議だったのですが、おそらくその地の水運を理解していた海人族が、神武軍を先導していたのでしょう。
神話では、神武には3人の兄がいました。
彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナイノミコト)、三毛入野命(ミケイリノノミコト)です。
彦五瀬命は東遷のさなかにナガスネヒコの矢を受けて薨去しました。
彦五瀬命という名前にも、瀬が含まれるあたりに海との関係を感じますが、穀物と食料の神とも解釈されているそうです。
稲飯命は熊野で嵐にあった際、「じぶんの母は海の神であるのに、なぜこんな目にあうのか」と嘆いたあと、海に入って鋤持神(サイモチノカミ)になったといわれます。
母が海の神というのは、父のウガヤフキアエズの妻が玉依姫で、ワタツミの娘だったからです。
稲飯命も、海との関係が強いですが、名前はやはり稲と飯で、穀物と食料ですね。
入水して神になったのは、やはり死を意味するのかもしれません。
さらに三毛入野命も同様に、熊野へ向かう嵐の中で嘆いたあと、荒波を渡って常世の国へ渡ります。
ちなみに古代、ケという言葉は穀物や食料をあらわしました。
気比神宮(けひじんぐう)のケも穀物と食料をあらわし、外宮の祭神である豊受大神(トヨウケ)のケも、食料と穀物をさしますね。
神武天皇も「若御毛沼命」と呼ばれたりしますから、やはり食物と穀物をつかさどっています。
ようするに神武の兄弟はみな熊野の海と強い関係性があり、熊野の海で亡くなり、かつ穀物と食料に関係のある神でした。
しかしこの三柱の神を実際の神武の兄と考えるべきかは、むずかしいところです。
神武以外、兄弟全員熊野へ行く船で薨去していることを、どう考えるべきでしょうか。
なぜ兄弟の中で神武だけが嵐の中で生き延びることができたのでしょう。
さらに、浪速でナガスネヒコに敗戦したとき、なぜ神武が陣頭指揮をとっていたのでしょう。
「日の御子であるわたしが、太陽ののぼる東にむけて矢を放ったのが敗因だった。天神地祇(天神族と国つ神)をまつり、西へ回り込もう」
と言ったとき、長兄の彦五瀬命は矢を受けて重傷ではありましたが、まだ生きていました。
ほかのふたりの兄も健在です。
なぜ末弟の神武が、もう王になったつもりで話をしているのでしょうか。
この点疑問は残るのですが、いずれにせよ、東遷に海人族が大勢かかわっており、陣頭指揮をとれる人間も神武を含め、複数いたのでしょう。
そのように考えると、神武軍は相当な大船団でした。
そして浪速で敗戦したあと、熊野上陸までの間にかなり数を減らし、陣頭指揮がとれる人間も減ってしまいました。
あるいは紀ノ川沿いにいた名草戸畔(ナグサトベ)、熊野にいた丹敷戸畔(ニシキノトベ)といった女首長を退治したというのは、神武軍の略奪行為だったのかもしれません。
さて、油断するとどんどん長くなりそうなので、今回はこのへんで切り上げましょう(笑)
ギズモさんから熊野権現についてのご質問をいただきましたが、おっしゃるように熊野の縁起は熊野権現でいよいよややこしくなりました。
そしてギズモさんが冒頭で書かれていたように、多くの人はこのややこしい縁起に、ふつうの寺社には感じない妖しい雰囲気を感じ、威容に打たれたのでしょう。
たとえば熊野三社の神はそれぞれ、
家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)
速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)
牟須美大神・夫須美大神(ムスビオオカミ・フスミオオカミ)(千手観音)
です。
これらの神々は、記紀にはありません。
つまり、熊野で独自に信仰されていた大神でした。
その名前はそれぞれ、その後の縁起のややこしさを考えると、あまりにもシンプルなものです。
ケツミミコというのは、ケが入るので、食べ物の神ですね。
ちなみにケは、毛です。
ようするに「生えてくるもの」で、植物や木々という意味でした。
野菜や果樹が生えているということと、それらが食べ物になるということが、「ケ」のひと言に集約されているんですね。
熊野の大地に生える豊かで美しい食べ物を司る御子として、ケツミミコです。
速玉というのは、イザナギの吐いた唾から生まれた速玉男命からきています。
唾液というので、直感的に汚いとおもうかもしれません。
が、この場合は真逆で、勢いよく放たれた神聖な水がけがれを祓うということで、水神、海神としての性質をもちます。
速玉大神は熊野の海や川の水神でした。
牟須美大神は、「むすび」とありますが、これはものごとの始まりを意味します。
夫須美大神も言葉は違いますが、おなじ「むすぶ」という意味です。
牟須美大神は、あらゆる魂を生み出す熊野の大地をつかさどる神ということになるのでしょう。
これら非常にシンプルな由来をもつ自然崇拝の神々が、後世に熊野権現として、阿弥陀如来や薬師如来、千手観音と合一しました。
ちなみに本地垂迹とは、仏教の仏(本地)が、日本神話の神の姿を借りてあらわれる(垂迹)ことです。
そして、この仏が姿をあらわして、権現になります。
徳川家康も権現扱いされましたが、あれは家康が人の姿を借りて垂迹していたけれど、その本地は東照大権現であった、という物語ですね。
明治新政府が目の敵にしたのが、権現と牛頭天王でした。
なぜかというと、朝廷をないがしろにして、圧政を敷いてきた徳川が権現を名乗っていたのも気に入らないし、神道を原理主義的にとらえたら、神仏習合はもってのほかだったからです。
このため牛頭天王はスサノオに姿を変え、祇園社は八坂神社になりましたし、各地の権現は日本の神々の神号があらためて与えられたのです。
しかし皮肉なことに、東照大権現に関しては、東照社が東照宮に改められはしたものの、祭神が徳川家康という実際上の人物であるために、あらためて神の名を与えるわけにもいかず、東照大権現もそのままになってしまいました。
いわばこの家康を排除するのが目的だったはずなのですが、明治政府はこの本丸を生き延びさせてしまうんですね(笑)
それはともかく、熊野三社についても、
家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)→スサノオノミコト
速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)→イザナギノミコト
牟須美大神(ムスビオオカミ)(千手観音)→イザナミノミコト
となりました。
千手観音がイザナミというのは百歩譲ってわからなくもありませんが、なぜ阿弥陀如来がスサノオ、薬師如来がイザナギになるのでしょうね(笑)
わたしは、明治以降ややこしい縁起がシンプルになればよかったけれど、よけいややこしくなってしまった、といいました。
その原因は、ケツミミコやハヤタマへの信仰に戻せばよかったのに、わざわざスサノオやイザナミを付け加えてしまったところにあるとおもっています。
ギズモさんのおっしゃった船禅頂は、日光を補陀洛山に見立てて、勝道上人をおまつりしてるんですね。
日光という名前は栃木の二荒山(男体山)を音読みして「にこう」から「にっこう(日光)」に転じたといいます。
さらに二荒山を訓読みして、ふたあら → ふたら → 補陀洛 に転じました。
言葉遊びのように信仰が発展していく場合、「神嘗月」から「神無月」に変化したときもそうでしたが、何でもありの信仰の匂いがしますね(笑)
しかし日光での補陀洛信仰は、勝道上人より後に、熊野那智の修験者が全国に遊行する中で根付いたのではないかという気もします。
ギズモさんのおっしゃった高野聖もそうですが、熊野信仰が全国区の知名度になったのは、かれら遊行者が全国で紀伊の霊験を布教したからでした。
日光の山々は修験にはもってこいですし、修験者が好んで集まり、徐々に熊野信仰と結びついていったのかもしれません。
その中で同時並行的に、言葉遊びで二荒山と日光、補陀洛が結びついたのではないでしょうか。
中禅寺湖からはるか補陀洛を礼拝するのは、たしかにきみょうではあるのですが、湖に花を手向けるあたり、趣があっていいですね。
モロヘイヤうどんの活用レシピについて、ありがとうございました。
わたしはそのまま茹でて釜揚げみたいにして食べるばかりだったのですが、パスタにしていただくのはよいですね。
うちはいま植物油の類がないのですが、唯一もらい物のアマニ油の小さなボトルだけが冷蔵庫にありました。
これでペペロンチーノをつくろうとおもいます。
わたしも話しそびれていたのですが、2月にようやくかつおの刺身を買い、満を持してギズモさんからいただいたてこねずしの素を利用しました。
情けない話なのですが、このところの値上げラッシュで、わたしの節約志向が強まってしまい、刺身を買う機会がほとんどなくなったのです(笑)
それがたまたま月初めのセールで特売になっていたので、喜んで買ってきました。
結論からいうと、わたしが学生時代に伊勢市内のスーパーで買っていたてこねずしとは比べ物にならない美味しさでした。
合わせ酢の風味も、市販の寿司酢ではなく寿司屋の酢飯みたいです。
漬け醤油も深いコクがあって、かつおにテリが出てもっちりとした風味になりました。
伊勢の料理というのは、伊勢うどんもてこねずしもそうですが、ファーストフード的なんです。
伊勢うどんはお伊勢参りにきたたくさんの客に対応できるように、わざと伸びきったうどんにして、甘辛いしょうゆだれをかけてすぐ出せるようにしていました。
てこねずしも、漁師が船上ですぐにご飯を食べるためにつくられた料理で、凝ったところがありません。
そのぶん、素材のしょうゆにはこだわりがあるのでしょうね。
三重県は色の濃くて深みのあるたまり醤油が有名なのですが、これは醤油発祥と言われる和歌山の湯浅からきている文化なのでしょう。
ふとおもいついて、手こねずしのかつおに漬けこむ醤油(醤油にみりんと砂糖が原材料でした)の余りに、少量のだしの素を加えて、チルドうどんとネギでなんちゃって伊勢うどんをつくったのですが、あまりにも三重県で食べた伊勢うどんの味でおどろきました。
醤油がおいしいと、てこねずしも伊勢うどんもおいしいという発見をさせていただいて、感謝しております。
2026年3月11日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
熊野について、みごとに興味の取っ掛かりをつくっていただき、ありがとうございました。
今まで知り得たものとは、まるっきりアプローチが違うことにまず驚いたのですが、切り口というか、視点によって、これほど印象や興味が違ってくることにも驚きでした。
異世界であり、異質である、ややこしい熊野はどこに行ったんだ?という感じで、まるっきり違う印象になるとは思いませんでした。
今までの熊野は、私にとっては「高野聖」のイメージで、漂う雰囲気が妖しく、普通の寺社には感じないものでした。
また、どの仏がなんの神という、あの複雑な本地垂迹の図式を覚えないと、熊野は理解できないという思い込みが強くあったので、これも厄介のもとでした。
熊野は、どこからどんな情報を得るかによって、知識のほとんどが先入観で築かれてしまうという、いい例だったと思います。
まず、出雲由来の文明が、紀伊国に流入してきていたことは、もう本当にへ~~~っという驚きでした。
出雲と熊野は接点がないものという、おかしな思い込みをしていたからなのですが、それは、地域的な問題ではなく、出雲大社と熊野神社の系列ことから、まったく別だと思っていたわけです。
出雲が様々な地域に与えた影響は、想像より大きかったわけですね。
「熊野の那智が天竺の補陀落の入り口にあるという伝説」を知らなかったので、補陀落は日本独自の思想だと思っていました。
前に補陀落渡海のお話を伺った時、自分でも調べたはずなのですが、今回改めて調べたら、新発見がありました。
この行事は知らなかったので、機会があれば船禅頂に参加したいと思います。
(書き足し: 那智山、室戸岬、足摺岬はわかりますが、いきなり日光という離れたところも補陀落に擬されたのは、勝道上人が登ったという、日光補陀落山の逸話のせいなのかもしれませんがからだとしても、ちょっと腑に落ちない気がします。那智の近くでまとめてほしいです(笑))
インドから来た裸形上人が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したのが、おそらく熊野と仏教がつながったはじまり、ということなのですね。
善財王の話は、室町時代の『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話ということなのですが、裸形上人が日本に持ち込んだという可能性もありそうですね。
いずれにしろ、熊野のインド感はかなり濃いという印象は強いです。
熊野の話に空海が登場することも、びっくりしました。
例によって(笑)、おかしな思い込みで、無関係だという認識があったからでしょう。
京都の東寺でも、金剛峯寺ほど正式なものではないようですが、御影堂で、早朝6時から行われる生身供があります。
1200年続く法要で、空海に朝食(一の膳、二の膳、お茶)をお供えします。
僧が主体ではなく、信者の方々が中心に和讃を唱えたりし、その後、お坊さんが参列者全員に、仏舎利の授与をしてくださいます。
授与といってもいただけるわけではなく、仏舎利の入っている布の袋を、額と手に当ててくださいます。
本当に仏舎利が入っているのかわかりません(笑)
わかりませんが、とてもご利益をいただいた気分になりました。
私が行った時に、NHKのようでしたが、取材班が来て録画撮影の準備をしており、「そこどいてください」と言われました(笑)
詳しい地図もありがとうございます。
近いと言えば近い距離ですね。
熊野詣での人気が平安時代~室町時代あたり、その後、流行がお伊勢参りに移行していく、という流れだったのでしょうか。
平安時代~室町時代にかけて、「神道・密教・山岳信仰・民間信仰」がごちゃまぜだったというのは、とてもユニークですね。
よく冗談で祈る時「神様仏様キリスト様(イエス様?)」と言いますが、ミックス信仰は、宗教をこえた素朴な信仰心を感じます。
ごちゃごちゃしていたために、熊野権現なるものをつくり、シンプル化しようとしたのでしょうか。
※書き足し: 「室町時代以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなり~~~~~~~もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさ~」とあるので、熊野権現にまとめようとしたのではなく、「増えた」ということですよね。失礼しました。
ところがそうはならなかった(笑)
現在もややこしいまま「放置」と書いていらっしゃいますが、放置なのですね(笑)
もっとも、これをわかりやすい熊野にするのは並大抵な事ではないと思いますし、変にまとめたり切り捨てたりすれば、熊野におわす神仏もお困りになると思います(笑)
紀伊国へ移住した出雲族がいて、出雲の神々を信仰した。
それによって熊野は「死と再生の場所」となり、死の世界の入り口となる、という流れは、とても自然なことだったんですね。
さらに神武天皇の東遷で、「復活」が加わる。
助けたヤタガラスとは、紀伊国の出雲族で、神武軍を助ける集団だったのですね。
それにしても高倉下の活躍は目覚ましいものがありますね。
高倉下がいなければ、神武東遷は失敗に終わっていたのかもしれません。
これはわかりやすく、熊野に対する考え方、捉え方の集大成だと感じました。
信仰は、シンプル イズ ベストだと認識させられる、貴重なお話でもありました。
日本神話が、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」だという、ものすごくインパクトある、わかりやすい説明をありがとうございます。
また、神武の崩御と卑弥呼が没したタイミングが重なるというお話。そうだったんですね。
卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したというのも、その場が見えるようでとても納得できました。
イザナギが高千穂に国を築く際、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたという説、これには特に感嘆しました。
阿多、アヒラツヒメに謎が多いのは、卑弥呼の出自をあえてぼかし、巫女としての神性、神秘性をあげるためのように感じました。
卑弥呼と神武天皇の結びつき、関係性には、不思議な縁が働いているように思いますし、やはり神武天皇の活躍は、初代天皇として、末代まで称えられる目覚ましいものがあったことを知りました。
ポツダム宣言の受諾ですが、日本にとって天皇制の維持が最重要事項であったというのは、いまさらながら、驚きを通り越した驚きです。
天皇制を維持できても、アメリカに占領され支配されてしまっていたら、今の日本はありませんよね。
今でもアメリカの顔を見ながらご機嫌取りをしている体質は続いているようですが(笑)
実質的な皇室の先祖がイザナギ、イザナミというのは、決して拍子抜けではなく、アクロバティック解釈でもなく、お話を読むと、とても納得できることです。
そして、さらなるびっくりは、出雲族の武士団が鎌倉で幕府を形成したということでした←本当に何も知らず、恥ずかしいです(笑)
最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所というのは、本当に皮肉というか、不思議な因縁ですね。
そして、農園主さんの他に、そのことに気づく人がいるのかどうかが気になります(笑)
また、「北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和した」という解釈も、神話の時代から続く日本の歴史において、過去に生きた人々がそこで終わったのではなく、脈々と続き、どこかで様々な形でつながっていることを意識させられました。
破邪の御太刀のお話をありがとうございます。
攘夷派の氏子の奉納なんですね。
武器として使えない大太刀を作ることで、人々の祈り、魂が込められているような気がします。
それにしても、ゲームの武器に出てきそうなネーミングですね(笑)
国宝級のものは報道されても、こういうものは貴重でもほとんど周知されていないのは、残念なことです。
お誕生日にいただいたモロヘイヤのおうどんですが、ご報告を忘れていました。
普通に茹でて麺つゆでと思っていたのですが、色がきれいなので、イタリアンにしてみました。
最初は、オリーブオイルで炒め、具材はツナと野菜、塩胡椒+コンソメ味で。
次は、なんちゃってペペロンチーノを作りました(笑)
にんにくがアレルギーなので、香りづけ程度にし、オリーブオイルで炒め、缶詰のアンチョビ、イタリアンパセリ、豆板醤少々(アンチョビが塩辛いので少しにしました)で味付けしましたが、どちらもおいしかったです。
モロヘイヤ感はあまりなく、ゆずの香りがして、大変おいしくいただきました。
珍しいものをありがとうございました。
昨日は思いがけず雪が降りましたが、積もりませんでした。
布団を一枚しまった後に寒さが戻り、かといってまた出すのも(笑)
新年度に向け、自治会のお仕事も慌ただしくなるころと思います。
気温差もあるので、くれぐれもお身体にはお気をつけくださいね。
今まで知り得たものとは、まるっきりアプローチが違うことにまず驚いたのですが、切り口というか、視点によって、これほど印象や興味が違ってくることにも驚きでした。
異世界であり、異質である、ややこしい熊野はどこに行ったんだ?という感じで、まるっきり違う印象になるとは思いませんでした。
今までの熊野は、私にとっては「高野聖」のイメージで、漂う雰囲気が妖しく、普通の寺社には感じないものでした。
また、どの仏がなんの神という、あの複雑な本地垂迹の図式を覚えないと、熊野は理解できないという思い込みが強くあったので、これも厄介のもとでした。
熊野は、どこからどんな情報を得るかによって、知識のほとんどが先入観で築かれてしまうという、いい例だったと思います。
まず、出雲由来の文明が、紀伊国に流入してきていたことは、もう本当にへ~~~っという驚きでした。
出雲と熊野は接点がないものという、おかしな思い込みをしていたからなのですが、それは、地域的な問題ではなく、出雲大社と熊野神社の系列
出雲が様々な地域に与えた影響は、想像より大きかったわけですね。
「熊野の那智が天竺の補陀落の入り口にあるという伝説」を知らなかったので、補陀落は日本独自の思想だと思っていました。
前に補陀落渡海のお話を伺った時、自分でも調べたはずなのですが、今回改めて調べたら、新発見がありました。
日本では那智山、日光山(二荒山)、室戸岬、足摺岬などが補陀落に擬され、観音信仰の霊場となった[8]。日光には、毎年8月(旧暦6月)に行われる「船禅頂」(補陀落禅頂)という、中禅寺湖畔の勝道上人の遺跡を巡って花を手向ける行事がある[9]。(Wikipedia)
この行事は知らなかったので、機会があれば船禅頂に参加したいと思います。
(書き足し: 那智山、室戸岬、足摺岬はわかりますが、いきなり日光という離れたところも補陀落に擬されたのは、勝道上人が登ったという、日光補陀落山の逸話
インドから来た裸形上人が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したのが、おそらく熊野と仏教がつながったはじまり、ということなのですね。
善財王の話は、室町時代の『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話ということ
いずれにしろ、熊野のインド感はかなり濃いという印象は強いです。
熊野の話に空海が登場することも、びっくりしました。
例によって(笑)、おかしな思い込みで、無関係だという認識があったからでしょう。
京都の東寺でも、金剛峯寺ほど正式なものではないようですが、御影堂で、早朝6時から行われる生身供があります。
1200年続く法要で、空海に朝食(一の膳、二の膳、お茶)をお供えします。
僧が主体ではなく、信者の方々が中心に和讃を唱えたりし、その後、お坊さんが参列者全員に、仏舎利の授与をしてくださいます。
授与といってもいただけるわけではなく、仏舎利の入っている布の袋を、額と手に当ててくださいます。
本当に仏舎利が入っているのかわかりません(笑)
わかりませんが、とてもご利益をいただいた気分になりました。
私が行った時に、NHKのようでしたが、取材班が来て
詳しい地図もありがとうございます。
近いと言えば近い距離ですね。
熊野詣での人気が平安時代~室町時代あたり、その後、流行がお伊勢参りに移行していく、という流れだったのでしょうか。
平安時代~室町時代にかけて、「神道・密教・山岳信仰・民間信仰」がごちゃまぜだったというのは、とてもユニークですね。
よく冗談で祈る時「神様仏様キリスト様(イエス様?)」と言いますが、ミックス信仰は、宗教をこえた素朴な信仰心を感じます。
ごちゃごちゃしていたために、熊野権現なるものをつくり、シンプル化しようとしたのでしょうか。
※書き足し: 「室町時代以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなり~~~~~~~もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさ~」とあるので、熊野権現にまとめようとしたのではなく、「増えた」ということですよね。失礼しました。
現在もややこしいまま「放置」と書いていらっしゃいますが、放置なのですね(笑)
もっとも、これをわかりやすい熊野にするのは並大抵な事ではないと思いますし、変にまとめたり切り捨てたりすれば、熊野におわす神仏もお困りになると思います(笑)
紀伊国へ移住した出雲族がいて、出雲の神々を信仰した。
それによって熊野は「死と再生の場所」となり、死の世界の入り口となる、という流れは、とても自然なことだったんですね。
さらに神武天皇の東遷で、「復活」が加わる。
助けたヤタガラスとは、紀伊国の出雲族で、神武軍を助ける集団だったのですね。
それにしても高倉下の活躍は目覚ましいものがありますね。
高倉下がいなければ、神武東遷は失敗に終わっていたのかもしれません。
熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことわたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたと言う事実だけをみていればいいでしょう
これはわかりやすく、熊野に対する考え方、捉え方の集大成だと感じました。
信仰は、シンプル イズ ベストだと認識させられる、貴重なお話でもありました。
日本神話が、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」だという、ものすごくインパクトある、わかりやすい説明をありがとうございます。
また、神武の崩御と卑弥呼が没したタイミングが重なるというお話。そうだったんですね。
卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したというのも、その場が見えるようでとても納得できました。
イザナギが高千穂に国を築く際、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたという説、これには特に感嘆しました。
阿多、アヒラツヒメに謎が多いのは、卑弥呼の出自をあえてぼかし、巫女としての神性、神秘性をあげるためのように感じました。
卑弥呼と神武天皇の結びつき、関係性には、不思議な縁が働いているように思いますし、やはり神武天皇の活躍は、初代天皇として、末代まで称えられる目覚ましいものがあったことを知りました。
ポツダム宣言の受諾ですが、日本にとって天皇制の維持が最重要事項であったというのは、いまさらながら、驚きを通り越した驚きです。
天皇制を維持できても、アメリカに占領され支配されてしまっていたら、今の日本はありませんよね。
今でもアメリカの顔を見ながらご機嫌取りをしている体質は続いているようですが(笑)
実質的な皇室の先祖がイザナギ、イザナミというのは、決して拍子抜けではなく、アクロバティック解釈でもなく、お話を読むと、とても納得できることです。
そして、さらなるびっくりは、出雲族の武士団が鎌倉で幕府を形成したということでした←本当に何も知らず、恥ずかしいです(笑)
最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所というのは、本当に皮肉というか、不思議な因縁ですね。
そして、農園主さんの他に、そのことに気づく人がいるのかどうかが気になります(笑)
また、「北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和した」という解釈も、神話の時代から続く日本の歴史において、過去に生きた人々がそこで終わったのではなく、脈々と続き、どこかで様々な形でつながっていることを意識させられました。
破邪の御太刀のお話をありがとうございます。
攘夷派の氏子の奉納なんですね。
武器として使えない大太刀を作ることで、人々の祈り、魂が込められているような気がします。
それにしても、ゲームの武器に出てきそうなネーミングですね(笑)
国宝級のものは報道されても、こういうものは貴重でもほとんど周知されていないのは、残念なことです。
お誕生日にいただいたモロヘイヤのおうどんですが、ご報告を忘れていました。
普通に茹でて麺つゆでと思っていたのですが、色がきれいなので、イタリアンにしてみました。
最初は、オリーブオイルで炒め、具材はツナと野菜、塩胡椒+コンソメ味で。
次は、なんちゃってペペロンチーノを作りました(笑)
にんにくがアレルギーなので、香りづけ程度にし、オリーブオイルで炒め、缶詰のアンチョビ、イタリアンパセリ、豆板醤少々(アンチョビが塩辛いので少しにしました)で味付けしましたが、どちらもおいしかったです。
モロヘイヤ感はあまりなく、ゆずの香りがして、大変おいしくいただきました。
珍しいものをありがとうございました。
昨日は思いがけず雪が降りましたが、積もりませんでした。
布団を一枚しまった後に寒さが戻り、かといってまた出すのも(笑)
新年度に向け、自治会のお仕事も慌ただしくなるころと思います。
気温差もあるので、くれぐれもお身体にはお気をつけくださいね。
2026年3月3日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回はまず、呼ばれていないように感じるとおっしゃったギズモさんに、熊野への興味の取っ掛かりをつくってみようとおもいます(笑)
そのあとで、前回のギズモさんからのご返信に対して、いくつかじぶんなりに考えたことを書いてみますね。
古代の熊野はほとんど人間を拒むような大原生林でしたが、縄文土器が発掘されますから、古くから人は住んでいました。
おそらくそぼくな自然信仰と、最軽量の文明で生活をしていたこととおもわれます。
しかし神話を読んでいると、2世紀末くらいだとおもうんですが、饒速日についてきた出雲の人々が、紀伊国の豊富な山林資源を利用して製鉄や産業をおこしたようなのです。
わたしはこの時期に、ただの「木の国」だった紀伊国に、出雲由来の重量のある文明が流入したと考えました。
奈良時代にうつりましょう。
西国巡礼(三十三箇所巡礼)の最初の札所は熊野那智の青岸渡寺です。
ちなみにあの補陀落渡海をおこなった補陀洛山寺は、青岸渡寺の別院でした。
この寺青岸渡寺の由緒をみると、仁徳天皇の時代に裸形上人というインド人が熊野に漂泊したとあります。
この僧侶が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したというのですが、これは熊野の那智が天竺(インド)の補陀落の入り口にあるという伝説から創作されたものでしょう。
実際に寺院が建立されたのは7世紀はじめごろらしいので、おそらくそのあたりで熊野と仏教がつながっていったとおもわれます。
平安時代の816年(9世紀初頭)に、空海が高野山で真言密教の総本山、金剛峯寺をひらきました。
ちなみに高野山はおなじ和歌山でも、熊野ではありません。
熊野は和歌山の南東、三重県の南部にありますが、高野山は和歌山の北部に位置します。

もちろん高野山も人里離れた深山でしたし、生活するにも厳しい場所だったのは間違いありません。
しかし熊野の山はそれどころではない秘境でした。
そういえば、高野山から紀ノ川に降りたあたりに九度山があります。
ここは真田昌幸と幸村の親子が、西軍に味方したために徳川家康にうとまれ、幽閉させられた場所でした。
真田親子は最初、高野山にいたのですが、あまりの寒さに音を上げて、九度山におりてきたそうな。
そんなへんぴな場所に、伝説的高僧である空海が大霊場を開きました。
この時期から紀伊国がにわかに注目され、人が集まるようになります。
人が集まるようになったことで、熊野も信仰の場として人気を集めるようになりました。
平安時代中期になると、天皇や皇族も熊野に御幸するようになります。
庶民も熊野を訪れるようになり、室町時代にかけてあまりの参詣客の多さに「蟻の熊野詣で」といわれるほどになりました。
平安時代から室町時代にかけて熊野は、神道・密教・山岳信仰・民間信仰などが闇鍋のようにミックスされた、ひどくややこしい霊場になるのです。
室町以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなりました。
もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさになっています。
これが明治の神仏分離令で、シンプルに……なったらよかったんですが、さんざんややこしい縁起を重ねてきた熊野が、いまさら単純化できるはずもありません。
結局熊野は現在に至っても、ややこしいまま放置されているんですね(笑)
さて、ざっと熊野のあらましを説明しました。
ここでいったん神話の時代の熊野に戻りましょう。
日本書紀ではイザナミの墓所は熊野の有馬村だったといいます。
なぜイザナミと熊野が結びつくのでしょう。
さらにもうひとつ、古事記ではオオナムチが八十神にいじめられたあと、大屋毘古(オオヤビコ)の助けを得るために紀ノ国へ向かいます。
大屋毘古は五十猛と同一とされたりもするのですが、どちらもスサノオの子神でした。
さらにオオナムチは、スサノオの住む根の堅州国へ向かいます。
なぜこうも紀伊国と出雲が結びつくのでしょうか。
これは、饒速日のころに紀伊国へ定住した出雲族がいたと考えれば、理解できます。
かれらは紀伊国で、じぶんたちの知っている時代の出雲の神々を信仰したことで、紀伊国に根付いたのです。
熊野と出雲神話が結びつく理由は、ここにあります。
熊野が「死と再生の場所」なのも、この時期の出雲信仰からきています。
イザナミは黄泉津大神で、スサノオも根の国の主、大国主も幽世大神ですね。
出雲は黄泉の国の入り口ですが、熊野もまた異界(死の世界)の入り口となりました。
そこに神武天皇の東遷がかかわってくることで、「復活」のニュアンスが生まれます。
神武天皇は難波に船をつけてナガスネヒコに対戦し、負けました。
その後神武軍は船で和歌山を海岸沿いに南下して熊野に回り込みます。
そして熊野三山を抜けて、吉野山から奈良へ向かいます。
熊野を抜ける際に、神武天皇の一行は遭難してしまいました。
熊野での遭難は、ほとんど死を意味します。
しかしヤタガラスに助けてもらって、熊野を抜けることができたのです。
また、神武天皇が熊野の山の毒気にあてられて寝込んでしまったというエピソードがあります。
このとき、高倉下命(タカクラジ)が、こんな夢をみたのです。
アマテラスが神武天皇の苦境をみかねてタケミカヅチを派遣しようとしたものの、タケミカヅチが言いました。
「わたしが行かずとも、わたしが国を平定した剣を、高倉下の倉に入れておきました。高倉下が神武天皇にこの剣を献上すれば、ヤマトも平定されましょう」
高倉下が目覚めて倉をみてみると、たしかに剣がありました。
剣を献上すると、神武天皇は蘇生したといいます。
この剣が、いま石上神宮のご神体となっている布都御魂でした。
氷川神社の六社にまつられている石上神社も、このときの神武天皇のエピソードを縁起にされていますね。
熊野が死と「再生」の場所とされるのは、これらの神武復活のエピソードがもとになっています。
ところで、高倉下は奇妙な系譜の持ち主です。
天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一ともいわれるのですが、天香山命の父親は天火明命でした。
「天火明命」は、山陰を旅していたときの饒速日の呼び名ですね。
なぜ天火明命の子が、紀伊国にいるのでしょうか。
そしてどうやって神武軍を助けたのか。
この点を結びつけるために、わたしはこう考えました。
さきほども言いましたが、饒速日はヤマトへ向かう道中で、山陰(出雲族)の製鉄集団も引き連れています。
かれらは紀伊国の豊富な山林資源を利用して武器生産をおこないました。
高倉下が饒速日の実際の子だったかどうかはさておき、天孫族に対する理解の深い、紀伊の製鉄氏族だったのでしょう。
さて、ここからは、神話をできるだけ現実に近い形で考えます。
難波で敗戦した神武の軍団は、船で和歌山を回り込み、熊野方面に向かいました。
難波はその名の通り波の激しい場所で、下船すれば平野部ですから、船での戦いは不利なのです。
神武天皇は「東に向かう戦いでは勝てない。西へ回り込まねばなるまい」といいました。
紀ノ川沿いにはナガスネヒコの息のかかった連中がいますから、和歌山西部から奈良に向かうことはできません。
熊野を越え、吉野山を抜けて高台から奈良の平野部を狙うゲリラ戦に、一縷の望みをかけたのです。
しかしこの熊野越えがたいへんな難所でした。
神武軍は熊野の荒坂の津に上陸したのですが、そのあたりは丹敷戸畔(ニシキノトベ)という原住民の巫女が支配していました。
神武軍は丹敷戸畔を誅したのですが、これでいよいよ神武軍は疲弊し、熊野の行軍はいっそう厳しいものになります。
一方、神武の敗戦を伝え聞いた高千穂の卑弥呼(アマテラス)は、ヤマトへ援軍を送るかどうかを会議していました。
しかしいま軍勢を送るよりは、急いで使いを出して紀伊国から饒速日の縁者を頼り、神武軍を助けてもらうほうが早いだろう、ということになります。
結果、天孫族への理解が深い高倉下が、神武天皇をお救いすることになりました。
そして紀伊国の出雲族で神武軍を助ける集団(ヤタガラス)が結成され、神武軍を救出します。
このころの紀伊国は、もともとその地に住んでいた原住民と、ナガスネヒコに与する者と、天孫族に理解を示す者がいました。
一命をとりとめた神武軍は、高倉下からじゅうぶんな武器が与えられたのみならず、大勢の仲間を得ました。
神話では布都御魂を神武天皇に与えたとありますが、当然戦争は剣一本でどうにかなるものではありません。
高倉下は神武軍の者にじゅうぶんな装備を与えましたが、それだけの財力をもった権力者で、天孫族に対する肩入れがあったのでしょう。
神武の軍隊はここで、死の窮地から救われ、復活したというわけです。
布都御魂とは一本の剣ではなく、神武軍を勝利に導いた武器の霊威でした。
ちなみにギズモさんが書かれていた、氷川神社にまつられている石上神社は、神武天皇の縁起が書かれてありますから、おそらく石上神宮のことをさすのでしょう。
じつは石上神宮をさらに山奥に向かうと、石上神社(いしがみじんじゃ)があるのですが、ここは石上神宮とは関係がないそうな。
また石上布都魂神社が岡山にありますが、ここは御祭神がスサノオで、神武天皇の縁起はありません。
氷川神社の六社では住吉大社も住吉神社となっていますので、おそらく「神社」という呼称で統一しているのだとおもわれます。
さて、また神話解釈の部分が長引いてしまいましたが、ここからは空海の話になります。
平安京では空海と最澄のもたらした密教が隆盛を極めていました。
修行僧たちは秘密主義的な密教の修行をおこない、庶民は道教も仏教も神道も一緒にしたような、なんでもありの信仰をするようになっていました。
神仏習合自体は奈良時代から始まっていたのですが、底が抜けたような何でもありになっていったのは、平安時代からです。
ちなみに空海自身がどうおもっていたかはわかりませんが、民衆の神輿の上にかつがれた空海は、エンタメ性の強いアイドル(偶像)と化しました。
民衆は各地で、ありもしない空海の奇跡をまことしやかに広め、仏教は誇大妄想化していきました。
いまでも金剛峯寺では、空海は修行を続けているということになっているため、食事が御廟に運ばれています。
空海が金剛峯寺を開いた結果、紀伊国そのものが誇大妄想的な異界となりました。
特に熊野は、大原生林がもつ元来の神秘性と、神話にもとづく「死と復活」のイメージ、そして山岳信仰(権現信仰)、さらに密教、道教的な民間信仰……これらが虚実織り交ぜながら融合していったのです。
ギズモさんが「ややこしすぎる」と感じた「異世界的、異質なもの」の原因は、ここにあります。
たとえば、ギズモさんのお話で引き出していただいた善財王ですが、これは室町時代に書かれた『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話でしたね。
インド(天竺)の摩訶陀国の善財王と、その妻と王子が、艱難辛苦の物語の果てに、紀伊国へと垂迹し、熊野権現となったという物語です。
この物語は当時、熊野の神秘性を高めることに大きく貢献しました。
しかしこの話はスケールは大きいけれど、原理的にはめちゃくちゃで、宗教に理解がある人ほど、頭を抱えたくなることでしょう(笑)
熊野の寺院の縁起にたびたびインドが登場するのは、熊野の那智が天竺(インド)の補陀落山とつながっているとされるからです。
ギズモさんがご紹介くださった那古寺は、おなじ補陀洛山の山号でも、房総半島の海辺から、はるか補陀洛山をあがめる、ごくそぼくな観音信仰の真言宗だったことでしょう。
しかし熊野の補陀落信仰はひどく過激で、さきほども申しましたが、棺桶舟に上人を閉じ込めて渡海させる習慣がありました。
これは実質的な自殺の強要でしたが、渡海によって往生した上人は、補陀落山で観音に救われ再生すると信じられていたのです。
どんな宗教でも、自殺して救いを得るような教えはありません。
しかし熊野では仏教の原理のうえに、じぶんたちに都合のいい物語を建て増しした結果、逆に原理の部分が失われて、補陀落渡海という狂信的な悪習慣が生まれてしまいました。
わたしは熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことだとおもいます。
わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたという事実だけをみていればよいでしょう。
ほかの神仏習合や山岳信仰、民間信仰がまじりあったややこしい部分は、ほとんど無視しても問題ないとおもいます。
さて、以上が熊野の話でした。
ここからはギズモさんのご返信に対するわたしなりの考察です。
記紀神話は、皇統の物語ですね。
しかしこれは物語ですから、実際に血縁がつながっているわけではないのです。
日本神話はつまり、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」でした。
わたしは神武天皇から「国家をつなぐ責任が生じた」と解釈しています。
天皇という呼称は、実際には推古天皇あるいは天武天皇の時代につかわれるようになりました。
それがなぜ神武を「天皇」としたかというと、この時点から「すめらぎ=皇統」によって国家を維持する思想が始まったからです。
血筋という意味では序盤からつまづいているわけですが、それでもなにがなんでも、万世一系ということにしなければならないんだという強烈な思想が、天皇(すめらみこと)という言葉にあらわれています。
ところで高千穂の場合、権力者の子孫を残すことで国をつなぐという思想はなかったようです。
女王の卑弥呼(アマテラス)には子がありませんでした。
それでも実際の血縁関係ではない周辺の有力な王族と手を組んで、女王統治のもとに「天孫」があるということにしたのでしょう。
高千穂では卑弥呼こそが天(カリスマ)であり、唯一無二の存在でした。
だからこそ高千穂のヤマト王権は、卑弥呼が亡くなると瓦解したのです。
卑弥呼の没後、九州では熊襲をはじめとした「まつろわぬ者(ヤマト王権に従わぬ者)」がはびこりました。
すめらぎの点でいえば、ヤマト王権にとって大国主は脅威だったことでしょう。
大国主は山陰各地の王族と連合し、実質的なリーダーとして、各地の王族の女性と関係を持ちました。
ヌナカワヒメもそうですね。
子を残すことで国家を存続させていくという思想は、むしろ出雲で完成しつつあったのかもしれません。
さて、神武天皇が実在したかどうかということについては、わたしも引っかかっていました。
高千穂から奈良へ軍勢が送られたのは間違いないとおもいます。
しかし軍の中に神武がいたかどうかは、はっきりしません。
特にわたしが引っかかっていたのは、神武の崩御と、卑弥呼が没したタイミングが重なることでした。
あるいは、神武はおらず、高千穂軍が奈良のヤマトを実効支配していたのかもしれません。
そして高千穂で卑弥呼が没すると、ヤマトで壮絶な権力闘争が起こった。
そのように考えることもできそうです。
しかし高千穂でも女王の下に王をつくっていたのに、当時の国家がその地に王をつくらずにやっていけるでしょうか。
また大物主と神武天皇の関係もありますをなかったこととすると、大物主がヤマト王権に取り入るきっかけがなくなってしまいます。
東遷後の各氏族への論功行賞は、絶対的な権力者がいないとなかなかまとまらないでしょう。
そのように考えると、やはり神武天皇は存在して、たまたま崩御の時期が卑弥呼の没年と重なったと考えるほうがしっくりくるようにおもえました。
神武天皇がいたと考えた場合、東遷にじぶんの意志が働いていたかという件ですが、神武は自然に運命を受け入れていたと考えています。
運命を受け入れるという点で、卑弥呼と神武天皇はほんとうによく似ています。
わたしは以前、イザナミに足りなかったのはツクヨミ(道教)だったといいました。
これはいわば巫女としての規範ですね。
もっと突っ込んでいうと、巫女の帝王学です。
イザナギはまるで幼児に英才教育をほどこすように、幼い卑弥呼(アマテラス)に徹底的に巫女の帝王学を教え込んだのではないでしょうか。
そして卑弥呼は従順にじぶんの運命を受け入れて、すぐれた巫女(帝王)になりました。
神武天皇もまた天孫族の運命に対してひどく従順で、しかも完璧な帝王でしょう。
たとえ天才でも、教育されないまま才能を発揮することはできません。
ではいったいだれからこの英才教育をほどこされたのか。
そこでわたしは、アヒラツヒメが卑弥呼だったのではないかという飛躍した考えに至るのです。
わたしは卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したのではないかという線を捨てきることができません。
余談ですが、アヒラツヒメも不思議な存在でした。
アヒラツヒメは、阿多の小椅の君(あたのおばしのきみ)の妹といわれます。
阿多とは、海幸彦を祖神とする隼人の一族です。
また古事記ではコノハナサクヤヒメは神阿多都比売(カムアタツヒメ)と呼ばれていました。
やはり名前に阿多が入ります。
なぜ九州の有力者である阿多の名が、出雲の大山祇命の娘であるコノハナサクヤヒメと結びつくのでしょう。
海幸彦を起源とする阿多氏と、出雲の大山祇がなんらかの関係性をもっており、コノハナサクヤとニニギが結びついたのでしょうか。
しかしこの場合、コノハナサクヤから山幸彦と海幸彦が生まれたという時系列に決定的な狂いが生じます。
阿多にはなにかががあるような気がしてなりません。
しかしそういった疑問があるということはさておき、今回気になるのは、アヒラツヒメの名には「阿多」が含まれていない点です。
阿多の小椅の君の妹ですから、阿多の一族であろうと推測されているわけですが、その場合はふつう名前に阿多が入るはず。
しかし、アヒラツヒメは両親も不明で、阿多の名もありません。
阿多の小椅の君が何者であるかも、阿多であるということ以外は不明。
アヒラツヒメは神武東遷の際に同行することもなく、東遷を為したあとに奈良へ向かうこともありませんでした。
わたしはこのあまりにも謎の多いアヒラツヒメを、卑弥呼だと疑う余地があると考えています。
あるいはもっと突拍子もない想像をふくらませるとしたら、そもそも卑弥呼の出自が阿多の一族からきており、イザナギが高千穂に国を築く際に、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたのかもしれません。
話を戻しましょう。
神武は天孫族の領土奪還のために東遷(戦争)することを運命として受け入れました。
そして苦難の末にヤマトの王(天皇)となると、この生まれたての国家をみごとにおさめてしまいます。
神武自身に乱れた逸話もなく、下剋上をねらう諸侯も完全に掌握しました。
王としてあまりにもできすぎていて、前回書いた通り「ある種の清潔さを感じる稀有な神」です。
言い方を変えると、ほんとうに実在していたのか疑わしいくらい清潔ですね(笑)
さらに余談ですが、イザナギが仕込んだ帝王学は、それだけ完成されたものだったとおもうのです。
ただこれは、「生まれたての国家においては」という但し書きがつきます。
ある程度国家が成長すると、巫女の神懸かりによる独裁よりも、もっと現実的で論理的な政治が求められるようになります。
しかしさいころを振ってばくちをするがごとき巫女政治には、依然として人々を惹きつける求心力がありました。
だからこそ崇神天皇は巫女政治を嫌い、巫女の象徴であるアマテラスを伊勢に封印したのではないでしょうか。
さて、実質的な皇室の先祖はだれかという話ですが、実際の血筋となると、これまで何度も途切れているようです。
初期の天皇の実在性はもちろん、26代継体天皇も天皇の血筋として認められるのかどうか議論されているようですね。
しかしさきほども申しましたが、大事なのは天皇のDNA以上に、すめらぎの思想です。
日本がポツダム宣言を受諾するとき、政府は唯一、国体の護持を条件にしました。
つまり天皇制という思想の維持だけが、敗戦を認める条件だったのです。つまり天皇制さえ維持してくれれば、日本がアメリカに占領され、支配されることも、その他あらゆる理不尽も甘んじて受けるというのです。
戦後、天皇を取り巻く環境は激変しましたが、それでもすめらぎは続いています。
ところで、すめらぎの思想というところで考えると、わたしは結局、実質的な皇室の先祖は、イザナギ、イザナミにたどりつくのではないかとおもえます。
ギズモさんはきっとこのわたしの答えを聞いて、はぐらかされたようで拍子抜けされたことでしょう(笑)
しかし無根拠にそう考えているわけではありません。
イザナギ・イザナミという名前の意味をたどると、「いざなう者」となります。
道教の陰陽でいえば、男は陽で、女は陰ということになるようですね。
もちろん、イザナミが陰だからわるいという話ではありません。
あの勾玉がふたつ合わさったような太陰大極図は、陰と陽があわさって、ひとつの循環になっていることをあらわしています。
人が死んで減ってしまえば、国は滅亡するというイザナミの陰。
人が多く集まって社会を形成すれば国になるというイザナギの陽。
イザナミが一日1000人黄泉の国へ連れていくことがあらわしているのは、人は死ぬという厳然たる事実です。
それに対してイザナギは1500人生まれる国をつくるといいました。
イザナギは、国家のためには死ぬ人数よりも多い人数をうまねばならないという、非常にシンプルな社会思想を持っていたんですね。
このイザナギから生じたアマテラスとスサノオは、対照的な運命をたどります。
一方はイザナギの教育によって高千穂の絶対女王となり、一方はイザナギと決別してみずから運命を切り開き、イザナミのいた出雲の支配者となりました。
ヤマトと出雲の、すめらぎをめぐる数奇な運命が、神話よりずっと後世にも続いたという話は、以前にもしました。
ヤマト王権は一時は出雲連合を平らげ、すめらぎを得ました。
出雲は滅亡したかにみえましたが、奈良時代になると関東で武士団が発生します。
かれらの出自をたどれば、はるかむかしに関東を開拓(国づくり)した出雲族が大勢いたことでしょう。
そしてこの武士団が鎌倉で幕府を形成します。
京都の朝廷を守るという名目で生まれた幕府でしたが、足利尊氏の時代になると北朝を擁して、京の朝廷を牛耳りました。
そしてもともとの朝廷は奈良吉野へ追われ、南朝として北朝と争います。
しかし結果的にすめらぎは南朝から北朝へ禅譲されました。
神武天皇が熊野を抜けて復活し、最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所だったというのは皮肉なことです。
日本書紀や古事記、先代旧事本紀を編纂した人々も、まさか将来、出雲族とすめらぎがこのように関係してくるとは、想像だにしていなかったことでしょう。
しかしわたしには北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和したようにおもえるのです。
……いろいろややこしい話をしましたが、皇統はイザナギ・イザナミから始まり、紆余曲折を経ながらいまもいざなわれ続けている、というのがわたしのアクロバティック解釈です(笑)
さて、アマテラスが伊勢神宮、大国主が出雲大社に「封じられている」と感じるという件ですが、わたしもそうおもいます。
伊勢神宮にアマテラスが鎮座したよりも前に、神話で「まつられた神々」は、ヤマト王権によってむりやり鎮魂されたと考えたほうがよいのかもしれません。
出雲大社も、三輪山も、箸墓古墳も、伊勢神宮も、「丁重にまつることで、ヤマト王権の礎になっていただく」というような意味合いが感じられます。
言い方を変えれば、たたりを防いでいるわけですが、これは実際丁重にまつらねば、出雲族が反乱を起こしたり、巫女勢力の恨みがつのったりといった実害があったことでしょう。
タケミナカタとタケミカヅチの力比べですが、わたしもこれは戦争だったとおもいます。
九州勢力(タケミカヅチ)が越の国の勢力(タケミナカタ)を諏訪で封じた、ということでしょう。
ギズモさんのおっしゃるように、タケミナカタの軍勢は越の国まで逃げて援軍を頼むつもりでしたが、諏訪で進退窮まり、降伏したのかもしれませんね。
さて、今回もやはり長くなりました(笑)
三寒四温といいますが、ギズモさんの予測された通り、雪が降るほどではないものの、寒さがぶり返しています。
わたしもぼちぼち花粉症が始まってきました。
不快な時期ですが、先日ふきのとうが芽吹いているのを発見し、いつの間にか梅の花も咲いています。
春はたしかに近づいているようですね。
最後になりますが、安政6年に、吉田松陰の思想に共鳴した攘夷派の氏子が、山口県下松市(くだまつし)の花岡八幡宮に破邪の御太刀(はじゃのおんたち)といわれる、巨大な刀を奉納しました。
全長4m65cm、重量75kg。
人間があつかう刀ではありませんが、動乱の日本を守るという、破邪の願いが込められているそうな。
https://www.google.com/search?q=%E7%A0%B...
おそらく百済からヤマト王権に贈られた七支刀も、そのような破邪の意味合いを込めてつくられたものなのでしょうね。
そのあとで、前回のギズモさんからのご返信に対して、いくつかじぶんなりに考えたことを書いてみますね。
古代の熊野はほとんど人間を拒むような大原生林でしたが、縄文土器が発掘されますから、古くから人は住んでいました。
おそらくそぼくな自然信仰と、最軽量の文明で生活をしていたこととおもわれます。
しかし神話を読んでいると、2世紀末くらいだとおもうんですが、饒速日についてきた出雲の人々が、紀伊国の豊富な山林資源を利用して製鉄や産業をおこしたようなのです。
わたしはこの時期に、ただの「木の国」だった紀伊国に、出雲由来の重量のある文明が流入したと考えました。
奈良時代にうつりましょう。
西国巡礼(三十三箇所巡礼)の最初の札所は熊野那智の青岸渡寺です。
ちなみにあの補陀落渡海をおこなった補陀洛山寺は、青岸渡寺の別院でした。
この僧侶が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したというのですが、これは熊野の那智が天竺(インド)の補陀落の入り口にあるという伝説から創作されたものでしょう。
実際に寺院が建立されたのは7世紀はじめごろらしいので、おそらくそのあたりで熊野と仏教がつながっていったとおもわれます。
平安時代の816年(9世紀初頭)に、空海が高野山で真言密教の総本山、金剛峯寺をひらきました。
ちなみに高野山はおなじ和歌山でも、熊野ではありません。
熊野は和歌山の南東、三重県の南部にありますが、高野山は和歌山の北部に位置します。

もちろん高野山も人里離れた深山でしたし、生活するにも厳しい場所だったのは間違いありません。
しかし熊野の山はそれどころではない秘境でした。
そういえば、高野山から紀ノ川に降りたあたりに九度山があります。
ここは真田昌幸と幸村の親子が、西軍に味方したために徳川家康にうとまれ、幽閉させられた場所でした。
真田親子は最初、高野山にいたのですが、あまりの寒さに音を上げて、九度山におりてきたそうな。
そんなへんぴな場所に、伝説的高僧である空海が大霊場を開きました。
この時期から紀伊国がにわかに注目され、人が集まるようになります。
人が集まるようになったことで、熊野も信仰の場として人気を集めるようになりました。
平安時代中期になると、天皇や皇族も熊野に御幸するようになります。
庶民も熊野を訪れるようになり、室町時代にかけてあまりの参詣客の多さに「蟻の熊野詣で」といわれるほどになりました。
平安時代から室町時代にかけて熊野は、神道・密教・山岳信仰・民間信仰などが闇鍋のようにミックスされた、ひどくややこしい霊場になるのです。
室町以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなりました。
もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさになっています。
これが明治の神仏分離令で、シンプルに……なったらよかったんですが、さんざんややこしい縁起を重ねてきた熊野が、いまさら単純化できるはずもありません。
結局熊野は現在に至っても、ややこしいまま放置されているんですね(笑)
さて、ざっと熊野のあらましを説明しました。
ここでいったん神話の時代の熊野に戻りましょう。
日本書紀ではイザナミの墓所は熊野の有馬村だったといいます。
なぜイザナミと熊野が結びつくのでしょう。
さらにもうひとつ、古事記ではオオナムチが八十神にいじめられたあと、大屋毘古(オオヤビコ)の助けを得るために紀ノ国へ向かいます。
大屋毘古は五十猛と同一とされたりもするのですが、どちらもスサノオの子神でした。
さらにオオナムチは、スサノオの住む根の堅州国へ向かいます。
なぜこうも紀伊国と出雲が結びつくのでしょうか。
これは、饒速日のころに紀伊国へ定住した出雲族がいたと考えれば、理解できます。
かれらは紀伊国で、じぶんたちの知っている時代の出雲の神々を信仰したことで、紀伊国に根付いたのです。
熊野と出雲神話が結びつく理由は、ここにあります。
熊野が「死と再生の場所」なのも、この時期の出雲信仰からきています。
イザナミは黄泉津大神で、スサノオも根の国の主、大国主も幽世大神ですね。
出雲は黄泉の国の入り口ですが、熊野もまた異界(死の世界)の入り口となりました。
そこに神武天皇の東遷がかかわってくることで、「復活」のニュアンスが生まれます。
神武天皇は難波に船をつけてナガスネヒコに対戦し、負けました。
その後神武軍は船で和歌山を海岸沿いに南下して熊野に回り込みます。
そして熊野三山を抜けて、吉野山から奈良へ向かいます。
熊野を抜ける際に、神武天皇の一行は遭難してしまいました。
熊野での遭難は、ほとんど死を意味します。
しかしヤタガラスに助けてもらって、熊野を抜けることができたのです。
また、神武天皇が熊野の山の毒気にあてられて寝込んでしまったというエピソードがあります。
このとき、高倉下命(タカクラジ)が、こんな夢をみたのです。
アマテラスが神武天皇の苦境をみかねてタケミカヅチを派遣しようとしたものの、タケミカヅチが言いました。
「わたしが行かずとも、わたしが国を平定した剣を、高倉下の倉に入れておきました。高倉下が神武天皇にこの剣を献上すれば、ヤマトも平定されましょう」
高倉下が目覚めて倉をみてみると、たしかに剣がありました。
剣を献上すると、神武天皇は蘇生したといいます。
この剣が、いま石上神宮のご神体となっている布都御魂でした。
氷川神社の六社にまつられている石上神社も、このときの神武天皇のエピソードを縁起にされていますね。
熊野が死と「再生」の場所とされるのは、これらの神武復活のエピソードがもとになっています。
ところで、高倉下は奇妙な系譜の持ち主です。
天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一ともいわれるのですが、天香山命の父親は天火明命でした。
「天火明命」は、山陰を旅していたときの饒速日の呼び名ですね。
なぜ天火明命の子が、紀伊国にいるのでしょうか。
そしてどうやって神武軍を助けたのか。
この点を結びつけるために、わたしはこう考えました。
さきほども言いましたが、饒速日はヤマトへ向かう道中で、山陰(出雲族)の製鉄集団も引き連れています。
かれらは紀伊国の豊富な山林資源を利用して武器生産をおこないました。
高倉下が饒速日の実際の子だったかどうかはさておき、天孫族に対する理解の深い、紀伊の製鉄氏族だったのでしょう。
さて、ここからは、神話をできるだけ現実に近い形で考えます。
難波で敗戦した神武の軍団は、船で和歌山を回り込み、熊野方面に向かいました。
難波はその名の通り波の激しい場所で、下船すれば平野部ですから、船での戦いは不利なのです。
神武天皇は「東に向かう戦いでは勝てない。西へ回り込まねばなるまい」といいました。
紀ノ川沿いにはナガスネヒコの息のかかった連中がいますから、和歌山西部から奈良に向かうことはできません。
熊野を越え、吉野山を抜けて高台から奈良の平野部を狙うゲリラ戦に、一縷の望みをかけたのです。
しかしこの熊野越えがたいへんな難所でした。
神武軍は熊野の荒坂の津に上陸したのですが、そのあたりは丹敷戸畔(ニシキノトベ)という原住民の巫女が支配していました。
神武軍は丹敷戸畔を誅したのですが、これでいよいよ神武軍は疲弊し、熊野の行軍はいっそう厳しいものになります。
一方、神武の敗戦を伝え聞いた高千穂の卑弥呼(アマテラス)は、ヤマトへ援軍を送るかどうかを会議していました。
しかしいま軍勢を送るよりは、急いで使いを出して紀伊国から饒速日の縁者を頼り、神武軍を助けてもらうほうが早いだろう、ということになります。
結果、天孫族への理解が深い高倉下が、神武天皇をお救いすることになりました。
そして紀伊国の出雲族で神武軍を助ける集団(ヤタガラス)が結成され、神武軍を救出します。
このころの紀伊国は、もともとその地に住んでいた原住民と、ナガスネヒコに与する者と、天孫族に理解を示す者がいました。
一命をとりとめた神武軍は、高倉下からじゅうぶんな武器が与えられたのみならず、大勢の仲間を得ました。
神話では布都御魂を神武天皇に与えたとありますが、当然戦争は剣一本でどうにかなるものではありません。
高倉下は神武軍の者にじゅうぶんな装備を与えましたが、それだけの財力をもった権力者で、天孫族に対する肩入れがあったのでしょう。
神武の軍隊はここで、死の窮地から救われ、復活したというわけです。
布都御魂とは一本の剣ではなく、神武軍を勝利に導いた武器の霊威でした。
ちなみにギズモさんが書かれていた、氷川神社にまつられている石上神社は、神武天皇の縁起が書かれてありますから、おそらく石上神宮のことをさすのでしょう。
じつは石上神宮をさらに山奥に向かうと、石上神社(いしがみじんじゃ)があるのですが、ここは石上神宮とは関係がないそうな。
また石上布都魂神社が岡山にありますが、ここは御祭神がスサノオで、神武天皇の縁起はありません。
氷川神社の六社では住吉大社も住吉神社となっていますので、おそらく「神社」という呼称で統一しているのだとおもわれます。
さて、また神話解釈の部分が長引いてしまいましたが、ここからは空海の話になります。
平安京では空海と最澄のもたらした密教が隆盛を極めていました。
修行僧たちは秘密主義的な密教の修行をおこない、庶民は道教も仏教も神道も一緒にしたような、なんでもありの信仰をするようになっていました。
神仏習合自体は奈良時代から始まっていたのですが、底が抜けたような何でもありになっていったのは、平安時代からです。
ちなみに空海自身がどうおもっていたかはわかりませんが、民衆の神輿の上にかつがれた空海は、エンタメ性の強いアイドル(偶像)と化しました。
民衆は各地で、ありもしない空海の奇跡をまことしやかに広め、仏教は誇大妄想化していきました。
いまでも金剛峯寺では、空海は修行を続けているということになっているため、食事が御廟に運ばれています。
空海が金剛峯寺を開いた結果、紀伊国そのものが誇大妄想的な異界となりました。
特に熊野は、大原生林がもつ元来の神秘性と、神話にもとづく「死と復活」のイメージ、そして山岳信仰(権現信仰)、さらに密教、道教的な民間信仰……これらが虚実織り交ぜながら融合していったのです。
ギズモさんが「ややこしすぎる」と感じた「異世界的、異質なもの」の原因は、ここにあります。
たとえば、ギズモさんのお話で引き出していただいた善財王ですが、これは室町時代に書かれた『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話でしたね。
インド(天竺)の摩訶陀国の善財王と、その妻と王子が、艱難辛苦の
この物語は当時、熊野の神秘性を高めることに大きく貢献しました。
しかしこの話はスケールは大きいけれど、原理的にはめちゃくちゃで、宗教に理解がある人ほど、頭を抱えたくなることでしょう(笑)
熊野の寺院の縁起にたびたびインドが登場するのは、熊野の那智が天竺(インド)の補陀落山とつながっているとされるからです。
ギズモさんがご紹介くださった那古寺は、おなじ補陀洛山の山号でも、房総半島の海辺から、はるか補陀洛山をあがめる、ごくそぼくな観音信仰の真言宗だったことでしょう。
しかし熊野の補陀落信仰はひどく過激で、さきほども申しましたが、棺桶舟に上人を閉じ込めて渡海させる習慣がありました。
これは実質的な自殺の強要でしたが、渡海によって往生した上人は、補陀落山で観音に救われ再生すると信じられていたのです。
どんな宗教でも、自殺して救いを得るような教えはありません。
しかし熊野では仏教の原理のうえに、じぶんたちに都合のいい物語を建て増しした結果、逆に原理の部分が失われて、補陀落渡海という狂信的な悪習慣が生まれてしまいました。
わたしは熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことだとおもいます。
わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたという事実だけをみていればよいでしょう。
ほかの神仏習合や山岳信仰、民間信仰がまじりあったややこしい部分は、ほとんど無視しても問題ないとおもいます。
さて、以上が熊野の話でした。
ここからはギズモさんのご返信に対するわたしなりの考察です。
記紀神話は、皇統の物語ですね。
しかしこれは物語ですから、実際に血縁がつながっているわけではないのです。
日本神話はつまり、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」でした。
わたしは神武天皇から「国家をつなぐ責任が生じた」と解釈しています。
天皇という呼称は、実際には推古天皇あるいは天武天皇の時代につかわれるようになりました。
それがなぜ神武を「天皇」としたかというと、この時点から「すめらぎ=皇統」によって国家を維持する思想が始まったからです。
血筋という意味では序盤からつまづいているわけですが、それでもなにがなんでも、万世一系ということにしなければならないんだという強烈な思想が、天皇(すめらみこと)という言葉にあらわれています。
ところで高千穂の場合、権力者の子孫を残すことで国をつなぐという思想はなかったようです。
女王の卑弥呼(アマテラス)には子がありませんでした。
それでも実際の血縁関係ではない周辺の有力な王族と手を組んで、女王統治のもとに「天孫」があるということにしたのでしょう。
高千穂では卑弥呼こそが天(カリスマ)であり、唯一無二の存在でした。
だからこそ高千穂のヤマト王権は、卑弥呼が亡くなると瓦解したのです。
卑弥呼の没後、九州では熊襲をはじめとした「まつろわぬ者(ヤマト王権に従わぬ者)」がはびこりました。
すめらぎの点でいえば、ヤマト王権にとって大国主は脅威だったことでしょう。
大国主は山陰各地の王族と連合し、実質的なリーダーとして、各地の王族の女性と関係を持ちました。
ヌナカワヒメもそうですね。
子を残すことで国家を存続させていくという思想は、むしろ出雲で完成しつつあったのかもしれません。
さて、神武天皇が実在したかどうかということについては、わたしも引っかかっていました。
高千穂から奈良へ軍勢が送られたのは間違いないとおもいます。
しかし軍の中に神武がいたかどうかは、はっきりしません。
特にわたしが引っかかっていたのは、神武の崩御と、卑弥呼が没したタイミングが重なることでした。
あるいは、神武はおらず、高千穂軍が奈良のヤマトを実効支配していたのかもしれません。
そして高千穂で卑弥呼が没すると、ヤマトで壮絶な権力闘争が起こった。
そのように考えることもできそうです。
しかし高千穂でも女王の下に王をつくっていたのに、当時の国家がその地に王をつくらずにやっていけるでしょうか。
また大物主と神武天皇の関係
東遷後の各氏族への論功行賞は、絶対的な権力者がいないとなかなかまとまらないでしょう。
そのように考えると、やはり神武天皇は存在して、たまたま崩御の時期が卑弥呼の没年と重なったと考えるほうがしっくりくるようにおもえました。
神武天皇がいたと考えた場合、東遷にじぶんの意志が働いていたかという件ですが、神武は自然に運命を受け入れていたと考えています。
運命を受け入れるという点で、卑弥呼と神武天皇はほんとうによく似ています。
わたしは以前、イザナミに足りなかったのはツクヨミ(道教)だったといいました。
これはいわば巫女としての規範ですね。
もっと突っ込んでいうと、巫女の帝王学です。
イザナギはまるで幼児に英才教育をほどこすように、幼い卑弥呼(アマテラス)に徹底的に巫女の帝王学を教え込んだのではないでしょうか。
そして卑弥呼は従順にじぶんの運命を受け入れて、すぐれた巫女(帝王)になりました。
神武天皇もまた天孫族の運命に対してひどく従順で、しかも完璧な帝王でしょう。
たとえ天才でも、教育されないまま才能を発揮することはできません。
ではいったいだれからこの英才教育をほどこされたのか。
そこでわたしは、アヒラツヒメが卑弥呼だったのではないかという飛躍した考えに至るのです。
わたしは卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したのではないかという線を捨てきることができません。
余談ですが、アヒラツヒメも不思議な存在でした。
アヒラツヒメは、阿多の小椅の君(あたのおばしのきみ)の妹といわれます。
阿多とは、海幸彦を祖神とする隼人の一族です。
また古事記ではコノハナサクヤヒメは神阿多都比売(カムアタツヒメ)と呼ばれていました。
やはり名前に阿多が入ります。
なぜ九州の有力者である阿多の名が、出雲の大山祇命の娘であるコノハナサクヤヒメと結びつくのでしょう。
海幸彦を起源とする阿多氏と、出雲の大山祇がなんらかの関係性をもっており、コノハナサクヤとニニギが結びついたのでしょうか。
しかしこの場合、コノハナサクヤから山幸彦と海幸彦が生まれたという時系列に決定的な狂いが生じます。
阿多にはなにかががあるような気がしてなりません。
しかしそういった疑問があるということはさておき、今回気になるのは、アヒラツヒメの名には「阿多」が含まれていない点です。
阿多の小椅の君の妹ですから、阿多の一族であろうと推測されているわけですが、その場合はふつう名前に阿多が入るはず。
しかし、アヒラツヒメは両親も不明で、阿多の名もありません。
阿多の小椅の君が何者であるかも、阿多であるということ以外は不明。
アヒラツヒメは神武東遷の際に同行することもなく、東遷を為したあとに奈良へ向かうこともありませんでした。
わたしはこのあまりにも謎の多いアヒラツヒメを、卑弥呼だと疑う余地があると考えています。
あるいはもっと突拍子もない想像をふくらませるとしたら、そもそも卑弥呼の出自が阿多の一族からきており、イザナギが高千穂に国を築く際に、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたのかもしれません。
話を戻しましょう。
神武は天孫族の領土奪還のために東遷(戦争)することを運命として受け入れました。
そして苦難の末にヤマトの王(天皇)となると、この生まれたての国家をみごとにおさめてしまいます。
神武自身に乱れた逸話もなく、下剋上をねらう諸侯も完全に掌握しました。
王としてあまりにもできすぎていて、前回書いた通り「ある種の清潔さを感じる稀有な神」です。
言い方を変えると、ほんとうに実在していたのか疑わしいくらい清潔ですね(笑)
さらに余談ですが、イザナギが仕込んだ帝王学は、それだけ完成されたものだったとおもうのです。
ただこれは、「生まれたての国家においては」という但し書きがつきます。
ある程度国家が成長すると、巫女の神懸かりによる独裁よりも、もっと現実的で論理的な政治が求められるようになります。
しかしさいころを振ってばくちをするがごとき巫女政治には、依然として人々を惹きつける求心力がありました。
だからこそ崇神天皇は巫女政治を嫌い、巫女の象徴であるアマテラスを伊勢に封印したのではないでしょうか。
さて、実質的な皇室の先祖はだれかという話ですが、実際の血筋となると、これまで何度も途切れているようです。
初期の天皇の実在性はもちろん、26代継体天皇も天皇の血筋として認められるのかどうか議論されているようですね。
しかしさきほども申しましたが、大事なのは天皇のDNA以上に、すめらぎの思想です。
日本がポツダム宣言を受諾するとき、政府は唯一、国体の護持を条件にしました。
戦後、天皇を取り巻く環境は激変しましたが、それでもすめらぎは続いています。
ところで、すめらぎの思想というところで考えると、わたしは結局、実質的な皇室の先祖は、イザナギ、イザナミにたどりつくのではないかとおもえます。
ギズモさんはきっとこのわたしの答えを聞いて、はぐらかされたようで拍子抜けされたことでしょう(笑)
しかし無根拠にそう考えているわけではありません。
イザナギ・イザナミという名前の意味をたどると、「いざなう者」となります。
道教の陰陽でいえば、男は陽で、女は陰ということになるようですね。
もちろん、イザナミが陰だからわるいという話ではありません。
あの勾玉がふたつ合わさったような太陰大極図は、陰と陽があわさって、ひとつの循環になっていることをあらわしています。
人が死んで減ってしまえば、国は滅亡するというイザナミの陰。
人が多く集まって社会を形成すれば国になるというイザナギの陽。
イザナミが一日1000人黄泉の国へ連れていくことがあらわしているのは、人は死ぬという厳然たる事実です。
それに対してイザナギは1500人生まれる国をつくるといいました。
イザナギは、国家のためには死ぬ人数よりも多い人数をうまねばならないという、非常にシンプルな社会思想を持っていたんですね。
このイザナギから生じたアマテラスとスサノオは、対照的な運命をたどります。
一方はイザナギの教育によって高千穂の絶対女王となり、一方はイザナギと決別してみずから運命を切り開き、イザナミのいた出雲の支配者となりました。
ヤマトと出雲の、すめらぎをめぐる数奇な運命が、神話よりずっと後世にも続いたという話は、以前にもしました。
ヤマト王権は一時は出雲連合を平らげ、すめらぎを得ました。
出雲は滅亡したかにみえましたが、奈良時代になると関東で武士団が発生します。
かれらの出自をたどれば、はるかむかしに関東を開拓(国づくり)した出雲族が大勢いたことでしょう。
そしてこの武士団が鎌倉で幕府を形成します。
京都の朝廷を守るという名目で生まれた幕府でしたが、足利尊氏の時代になると北朝を擁して、京の朝廷を牛耳りました。
そしてもともとの朝廷は奈良吉野へ追われ、南朝として北朝と争います。
しかし結果的にすめらぎは南朝から北朝へ禅譲されました。
神武天皇が熊野を抜けて復活し、最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所だったというのは皮肉なことです。
日本書紀や古事記、先代旧事本紀を編纂した人々も、まさか将来、出雲族とすめらぎがこのように関係してくるとは、想像だにしていなかったことでしょう。
しかしわたしには北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和したようにおもえるのです。
……いろいろややこしい話をしましたが、皇統はイザナギ・イザナミから始まり、紆余曲折を経ながらいまもいざなわれ続けている、というのがわたしのアクロバティック解釈です(笑)
さて、アマテラスが伊勢神宮、大国主が出雲大社に「封じられている」と感じるという件ですが、わたしもそうおもいます。
伊勢神宮にアマテラスが鎮座したよりも前に、神話で「まつられた神々」は、ヤマト王権によってむりやり鎮魂されたと考えたほうがよいのかもしれません。
出雲大社も、三輪山も、箸墓古墳も、伊勢神宮も、「丁重にまつることで、ヤマト王権の礎になっていただく」というような意味合いが感じられます。
言い方を変えれば、たたりを防いでいるわけですが、これは実際丁重にまつらねば、出雲族が反乱を起こしたり、巫女勢力の恨みがつのったりといった実害があったことでしょう。
タケミナカタとタケミカヅチの力比べですが、わたしもこれは戦争だったとおもいます。
九州勢力(タケミカヅチ)が越の国の勢力(タケミナカタ)を諏訪で封じた、ということでしょう。
ギズモさんのおっしゃるように、タケミナカタの軍勢は越の国まで逃げて援軍を頼むつもりでしたが、諏訪で進退窮まり、降伏したのかもしれませんね。
さて、今回もやはり長くなりました(笑)
三寒四温といいますが、ギズモさんの予測された通り、雪が降るほどではないものの、寒さがぶり返しています。
わたしもぼちぼち花粉症が始まってきました。
不快な時期ですが、先日ふきのとうが芽吹いているのを発見し、いつの間にか梅の花も咲いています。
春はたしかに近づいているようですね。
最後になりますが、安政6年に、吉田松陰の思想に共鳴した攘夷派の氏子が、山口県下松市(くだまつし)の花岡八幡宮に破邪の御太刀(はじゃのおんたち)といわれる、巨大な刀を奉納しました。
全長4m65cm、重量75kg。
人間があつかう刀ではありませんが、動乱の日本を守るという、破邪の願いが込められているそうな。
https://www.google.com/search?q=%E7%A0%B...
おそらく百済からヤマト王権に贈られた七支刀も、そのような破邪の意味合いを込めてつくられたものなのでしょうね。