山麓王国

No.1568

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お福分けの写真、ありがとうございます。

この写真を受けて、今回はもうすこし磯前神社について……そしてちょっとヘンな話をしようとおもいます。



岬の突端に鳥居をつくるというのは、やはり神社の名前が「磯前」だからでしょうね。

大洗磯前神社も、酒列磯前神社も、おそらく江戸時代に社殿が建つまでは、お社はほとんどおまけのようなものだったことでしょう。

因幡の白兎の物語の舞台が、岬の岩礁であることを考えても、このふたつの神社はもともと、荒々しい波濤をもたらす岩礁(岬)そのものがご神体だったのではないかとおもわれます。



大洗磯前神社ではオオナムチ(オオクニヌシ)を直接的に大黒天とみなしていたそうです。

しかし七福神信仰は室町以降におこったといいますから、平安時代にはなかった考えですね。

大黒天は「海の向こうからやってきた福の神」のひとりです。

大黒天は打ち出の小槌を持っていますから、一寸法師をスクナヒコナに見立てるつながりが出てくるんですね。

もちろん、たいへんめでたいシンボルです。



日本海側や瀬戸内海に面して鳥居をつくる場合、大陸からのよそものの侵略に対しての縄張りを主張するという、ものものしい側面が出てきます。

しかしこちらは太平洋側でしょう。

たとえば伊勢の、二見浦の夫婦岩の場合は、あれは猿田彦に由来していますが、太陽(アマテラス)をお迎えするためのご神体なんですよね。

非常に明るいものをお迎えするのであって、そこには侵略を警戒するようなものものしさはありません。



同様に茨城のふたつの磯前神社も、あの岩礁を包括するご神体を仲立ちにして、なにかとてもめでたく縁起の良い、現世利益にむすびつく存在を海の向こうからお迎えする、というイメージがあったはずです。

薬師菩薩にしても、海の向こうからあの鳥居に向かって、晴れ晴れしいなにかを伴いながら御来迎いただくというようなイメージだったことでしょう。

平和な太平洋側の海岸で、さらに日が昇ってくるという「陽」の感覚が、こういった印象をもたらしたのだとおもいます。



さて、ここから盛大に話がそれるんですが、人類は有史以来、資本主義が台頭するまでは、基本的に日が昇る東の方向へ向かっていったようです。

なんだかとんでもないことを言ってるようにおもわれるかもしれませんが、歴史を振り返ってみるとあらゆる面でそうとしか考えられないんです。

奈良朝廷が「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」と隋に国書を出したときも、日が昇る東をよいものとみなし、日の沈む西をよくないものとみなしてますよね。



ところ変わって、アメリカ大陸にいた原住民は、DNAをみるとモンゴロイドの系統だったといいます。

つまり、ユーラシア大陸にいた人々が太陽の上る方向へ、とほうもない旅路を経てアメリカ大陸に定着した。

ヨーロッパ側からも多少の流入はあったようですが、西へ向かって海を渡ってアメリカ大陸へ、という旅路はあまり流行らなかったようです。

人類は積極的には西に向けての冒険をしませんでした。

漠然と太陽の昇る東方に明るい「生」をイメージし、太陽の沈む西方に暗い「死」をイメージしたからでしょう。



ヨーロッパが本格的にアメリカ大陸を開拓し始めたのは、産業革命ごろでした。

その産業革命が起こる250年以上前の1492年。

コロンブスがスペインから船出して、偶然アメリカ大陸を発見します。

大航海時代ですね。

この時期、ヨーロッパは世界中の海を渡って、富や資源を持ち帰りました。

それによってヨーロッパで価格革命が起こります。

これが産業革命と近代資本主義の起爆剤となりました。



この時代のヨーロッパの人々の、お金や富に対する熱狂はたいへんなものです。

資本主義というあたらしい燃料がもたらした火力は、人類がそれまで抱いていた迷信をも焼き切ってしまいました。

人々は、死を連想する西方にも臆することなく立ち向かうようになります。



コロンブスがアメリカを発見してしばらく経った1517年、カトリックからプロテスタントが分離しました。

これは理由があるんです。

カトリックは金儲けや蓄財を罪としていましたが、プロテスタントはルターから始まり、カルヴァンに引き継がれる中で、段階的に金儲けも蓄財も肯定していくんですね。

おりしも大航海時代による価格革命の機運に乗じて、ヨーロッパで必然的に経済格差が生まれていました。

つまり、成金がわんさか生まれていたんです。

しかしカトリックは旧態依然の、「じぶんたちだけが免罪符などで儲けて、庶民には金儲けは罪として、質素倹約を押し付ける」という姿勢です。

そこで旧来のカトリックでは「時代に乗り遅れる」ので、プロテスタントが発生した……プロテスタントには、キリスト教を資本主義の新時代に合わせてブラッシュアップした側面がありました。

プロテスタントは禁欲的な戒律をもちましたが、それも近代資本主義の合理性を求める精神によくなじんだのです。

そんなかれらにとって西方のアメリカ大陸はまさに桃源郷でした。

なにせカトリックと対立する必要もなく、じぶんが努力して開拓した土地はそのままじぶんの土地となるのですから。

いまのアメリカがなぜあんなにも極端な資本主義国家なのか、という問題の、原理の部分はここにあります。

アメリカはまさに、一貫して金儲けのための国でした。

そんな特殊な事情がなければ、人間は本来、縁起のわるい日の沈む方角を積極的に開拓しようとはなかなかおもわなかったことでしょう。



日本が本格的に西方を侵略したのも、明治維新以降、脱亜入欧で本格的な資本主義社会になってからですよね。

それまでに一度、豊臣秀吉が東アジアの征服を企て、朝鮮半島へ攻め込んだことがありました。

まだ鎖国をしていない1580年ごろですから、日本の武将たちは西洋の思想を相応に理解しています。

秀吉は、世界中を開拓し迷信をおそれぬ西洋の思想を理解したうえで、「ならばわしも西方を支配しよう」と決意したのかもしれません。




仏教でいえば、西方浄土は死後の世界ですよね。

それに対して東方浄土(瑠璃光浄土)には、現世利益がある。

この東と西の方角による生と死のイメージの違いは明確でしょう。



飛躍しますが、『西遊記』も、西の方角へのわるいイメージを利用しています。

なにせ三蔵法師が天竺(西方)へ近づくほど、まがまがしい妖怪変化がわんさか出てくるわけです。

そのおそろしい西方の世界を越えると、ありがたい経典が得られます。

しかしその境地へは、生身では行くことができません。



西遊記の終盤の話です。

聖域にたどりついた三蔵一行は、激流の川に差し掛かりました。

孫悟空でさえわたることができなさそうな川の向こうから、底の抜けた舟に乗った宝幢光王仏があらわれます。

ありがたい宝幢光王仏のお迎えなのだからと三蔵法師が意を決して底なし舟に乗ると、そのまま肉体は川に飲み込まれました。

しかし不思議なことに、三蔵はなにごともなかったように舟に乗っています。

いったいこれはどうしたことかと一向(誤字:一行)いぶかしがるのですが、舟がしばらく進むと、三蔵の肉体が川から流れてくるではありませんか。

それをみて一行は、「川を流れていたのはお師匠様の現身で、いまそこにおられるお師匠様は凡胎を脱してまことの悟りに至ったのだ」と理解します。

つまり、この川で三蔵法師は死に、肉体から解脱したことで天竺にたどり着くことができたんですね。

そして天竺で経典を受け取ると、東土(長安)へ戻って経典を太宗皇帝に届け、そのまま一行は今度はあっという間に天竺へ戻り、それぞれが釈迦如来に認められてしかるべき仏様になる。

西遊記の最後は、こんな感じです。

やはり西の方角と「死」が結びついていました。



さて、ずいぶんおかしな方向に話がそれました。

ギズモさんから写真をみせていただいて、むかしの人々は太陽ののぼる東の海にとてもよいイメージを抱いていたのだろうな、ということを述べるために、ずいぶん遠回りをしました。

すみません(笑)

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