No.1648
あらためて、先日はどうもありがとうございました。
あと、おかげさまで手の腫れは落ち着きました。
心配していた破傷風や、炎症がひどくなるといった症状はいまのところなく、落ち着いています。
ギズモさんに、誕生日を境に厄落としだとおっしゃっていただいて、なるほどそうかもしれないとおもえました。
ものごとにはバイオリズムのような波があって、よいことも長く続くものではないし、わるいこともおなじですね。
あるタイミングをきっかけに、続いていたわるいことが底をついて、好転していくことはよくありますし、ぼちぼちそういうタイミングとおもいたいところでもあります(笑)
末吉は「上がり目」ですから、そこからは上がっていく運勢ですしね。
ところで先日、夏越の祓での和菓子、水無月の話題をいただきましたが、こんなブログ記事がありました。
https://note.com/rakusaku/n/n196c96a6682...
なかなかこんなことをしている方はめずらしいとおもうのですが、水無月を食べ比べしておられます。
ギズモさんのおっしゃっていたとらやと俵屋吉富もレビューされていました。
特にそこから広げていくような話でもないのですが、ういろうに小豆という単純な和菓子にこれほどいろんな種類とこだわりがあるのを実際に知ると、あらためて驚きます。
肉体内の細胞にも意志があるのかという件ですが、細胞には役割のプログラムはあるとおもうのですが、人間のような複合的な意志はないとおもいます。
しかし人間自体にも、自由意志はないという説があります。
つまり、遺伝や外界の教育などの刺激によって、じぶんの行動が決定されるだけで、じぶん個人の自由な意志というものは存在しないというのです。
もしそうであれば、人間もまた最初のプログラム(遺伝)と、後から書き換えられたプログラム(教育や環境)で行動しているといえます。
そして細胞がエラーを出すことがあるように、人間もやはり、プログラムに必ずしも従わず、エラーをだすことがあります。
陰謀論にひっかかったり、イデオロギーに傾倒したり、カラダが病気になっても病気ではないと信じ込んだり……。
ぼくは、あるいはこのエラー(プログラムに従わない行動)こそが、人間の自由意志なのではないかとおもっています。
ところでつい最近「チ。」というアニメをみました。
いまはアベマで最終話まで全話みられるんですが、おもしろいものでした。
どういう話かというと、中近世(15世紀)のヨーロッパが舞台です。
日本だとまだ戦国時代になるより前の室町時代。コロンブスがアメリカ大陸を発見する大航海時代よりもすこし前といったところです。
金儲けを肯定するプロテスタントが生まれるよりも前ですね。
地動説を取り締まる異端審問官と、審問官たちに殺されながらも地動説の情報をつないでいく人々の物語です。
主人公は複数登場するのですが、ほんの数話の間でどんどん死んでいきます。
しかしみんな、地動説に魅入られて、この説が後世につながっていくことを信じて、じつにいさぎよく死んでしまうのです。
「知らないことを一生懸命知ろうとしても、生きている間に、いったいどのくらいのことを知ることができるのか・・・・。」
あの作品には、ギズモさんの問いかけに対するひとつの答えがあるような気がしました。
つまり、あの作品で地動説に魅入られた者たちは、結局コペルニクスが世界の認知を変える現場を知らないまま死んでいきます。
地動説という、あくまで真実のとっかかりのようなものに触れただけで、あとはそれをどうにかしてつないでいくのがじぶんの役割だといって、それがどのように発展していったかという歴史の真実は知らないのです。
われわれもおそらく、こんなに情報過多の時代ですが、ほとんど「なにも知らないまま」死んでいくことでしょう。
それで、じぶんの人生で得られた知恵を、次世代が引き継いでくれます。
人間の文明というのは、つねにあたらしい世代が前の世代の屍を越えていくようにしてリレーを繰り返し、発展しています。
でもこの発展はさっき言った、人間のエラーだとおもいます。
人間は本来は、遺伝と教育によって、前の世代とおなじようにして生きているべき生き物です。
生存できるかどうかという視点でみれば、現状が変わらないほうがよくて、変革は起こらないほうがいいんですよね。
だから、エラーのない生き方という意味では、異端審問官のほうがよっぽどまともです。
科学的真実がどうであろうと、じぶんに授かった肉体と、先人に教わった知恵の中に生きていくのは、おかしなことではありません。
でもエラーこそが人間の自由意志という意味では、異端審問官の生き方には自由意志がありません。
いま、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談の本が手元にあります。
『日本人と日本文化』というタイトルです。
その中に、禅について対談しているときに、司馬さんがふと明治の志士の死に方について話すんです。
その部分をすこし引用します。
司馬 日本人の場合は、いろんな宗教が入ってきたわけですが、日本人にいちばんうまく適合した宗教は、これもほんとうの禅とどれだけ関係があるかどうかは別として、私は禅だと思います。禅は日本人とウマが合ったという感じです。(中略)直感的なところとか、煩瑣な理屈がないということがひじょうによかったんでしょうね。たとえば、幕末の志士などは、平気で死んでしまって、お念仏のひとつも唱えないのかしらと私はときどき思うのです。彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしらと、いろいろ思うのですけれど、彼らは別にそれを思って死んだのではありませんね。どうもあのころになると、禅というものはずいぶん武士の心の中に入っていたらしい。アッという間に空に帰することができるような人間がずいぶんといたらしい。
禅宗は思想面でいえばシンプルな宗教で、人間に優劣をつけません。
仏さんが上で人間が下、というようなこともしないんですね。
それで、人間の中に仏性が宿っているというんです。
じぶんの内にある仏性を悟ろうと修行して、あとはひたすら生活を突き詰めます。
生活が「完璧に調和する」ところを目指すところから、日本に到来した禅宗は、あのシンプルで無駄がない東山文化のような禅芸術にむすびつきました。
禅寺では食事作法や掃除の仕方などが、異様なほど厳しいものになっています。
そうやって生活を研ぎ澄ましていくと、死さえも洗練された簡素さで受け止めてしまう……と、まあ現実離れした考えですが、そのあたりの恬淡とした死への態度を、司馬さんは明治維新の志士にたとえたのでしょう。
この明治維新の志士たちは、みんなあまりじぶんの命に執着せず、それぞれの立場で日本の将来を憂いていました。
もし名を成さずに死ぬとしても、じぶんの生き方が次の世代になにかしらのバトンを渡す、時代の礎になるだろうという、そういうぼんやりした理念だけを懐に抱えて、その時代を生きて、死ぬにしても満足して死んでいったのだとおもいます。
明治維新の志士たちの行動は、変革を求めるものなので、エラーなわけですが、同時に非常に魅力的な自由意志によって活躍していたのだとおもいます。
そのように考えていくと、ほとんどの人々は、すべてを知りたい、すべてを為したいと願い、自由意志に向かっていくのですが、いまだだれもすべてを為すことも知ることもできませんし、われわれはみな道半ばに死んでいく仲間なのかもしれません。
ごく一部には、自由意志を求めず、現状が変化することを嫌い、原始人のようにして暮らすことを望む人もいます。
沖縄の離島で、裸で採集生活をしながら生活し続ける日本人の老人がいたのをテレビでみたことがあります。
調べてみたら長崎真砂弓という人らしいのですが、ああいう暮らしは現代人がそうそうできるものではないですね。
実際、以下の記事のように、ああいう原始的な生き方を文明人の側が許さない、という側面もあるようです。
https://www.dailyshincho.jp/article/2015...
なんだか尻切れトンボのような終わり方になりますが、この話はいったんここで終わりにしておきます。
ぬか漬け、いまの時期から始めると、夏野菜から冬野菜までゆっくり楽しめますね。
ひとり暮らしだとぬか漬けは持て余してしまうのでつくりませんが、家族で食事のたびに季節の野菜のぬか漬けをおかずの一品にする、ということができれば、続けられそうな気がします。
あと、おかげさまで手の腫れは落ち着きました。
心配していた破傷風や、炎症がひどくなるといった症状はいまのところなく、落ち着いています。
ギズモさんに、誕生日を境に厄落としだとおっしゃっていただいて、なるほどそうかもしれないとおもえました。
ものごとにはバイオリズムのような波があって、よいことも長く続くものではないし、わるいこともおなじですね。
あるタイミングをきっかけに、続いていたわるいことが底をついて、好転していくことはよくありますし、ぼちぼちそういうタイミングとおもいたいところでもあります(笑)
末吉は「上がり目」ですから、そこからは上がっていく運勢ですしね。
ところで先日、夏越の祓での和菓子、水無月の話題をいただきましたが、こんなブログ記事がありました。
https://note.com/rakusaku/n/n196c96a6682...
なかなかこんなことをしている方はめずらしいとおもうのですが、水無月を食べ比べしておられます。
ギズモさんのおっしゃっていたとらやと俵屋吉富もレビューされていました。
特にそこから広げていくような話でもないのですが、ういろうに小豆という単純な和菓子にこれほどいろんな種類とこだわりがあるのを実際に知ると、あらためて驚きます。
肉体内の細胞にも意志があるのかという件ですが、細胞には役割のプログラムはあるとおもうのですが、人間のような複合的な意志はないとおもいます。
しかし人間自体にも、自由意志はないという説があります。
つまり、遺伝や外界の教育などの刺激によって、じぶんの行動が決定されるだけで、じぶん個人の自由な意志というものは存在しないというのです。
もしそうであれば、人間もまた最初のプログラム(遺伝)と、後から書き換えられたプログラム(教育や環境)で行動しているといえます。
そして細胞がエラーを出すことがあるように、人間もやはり、プログラムに必ずしも従わず、エラーをだすことがあります。
陰謀論にひっかかったり、イデオロギーに傾倒したり、カラダが病気になっても病気ではないと信じ込んだり……。
ぼくは、あるいはこのエラー(プログラムに従わない行動)こそが、人間の自由意志なのではないかとおもっています。
ところでつい最近「チ。」というアニメをみました。
いまはアベマで最終話まで全話みられるんですが、おもしろいものでした。
どういう話かというと、中近世(15世紀)のヨーロッパが舞台です。
日本だとまだ戦国時代になるより前の室町時代。コロンブスがアメリカ大陸を発見する大航海時代よりもすこし前といったところです。
金儲けを肯定するプロテスタントが生まれるよりも前ですね。
地動説を取り締まる異端審問官と、審問官たちに殺されながらも地動説の情報をつないでいく人々の物語です。
主人公は複数登場するのですが、ほんの数話の間でどんどん死んでいきます。
しかしみんな、地動説に魅入られて、この説が後世につながっていくことを信じて、じつにいさぎよく死んでしまうのです。
「知らないことを一生懸命知ろうとしても、生きている間に、いったいどのくらいのことを知ることができるのか・・・・。」
あの作品には、ギズモさんの問いかけに対するひとつの答えがあるような気がしました。
つまり、あの作品で地動説に魅入られた者たちは、結局コペルニクスが世界の認知を変える現場を知らないまま死んでいきます。
地動説という、あくまで真実のとっかかりのようなものに触れただけで、あとはそれをどうにかしてつないでいくのがじぶんの役割だといって、それがどのように発展していったかという歴史の真実は知らないのです。
われわれもおそらく、こんなに情報過多の時代ですが、ほとんど「なにも知らないまま」死んでいくことでしょう。
それで、じぶんの人生で得られた知恵を、次世代が引き継いでくれます。
人間の文明というのは、つねにあたらしい世代が前の世代の屍を越えていくようにしてリレーを繰り返し、発展しています。
でもこの発展はさっき言った、人間のエラーだとおもいます。
人間は本来は、遺伝と教育によって、前の世代とおなじようにして生きているべき生き物です。
生存できるかどうかという視点でみれば、現状が変わらないほうがよくて、変革は起こらないほうがいいんですよね。
だから、エラーのない生き方という意味では、異端審問官のほうがよっぽどまともです。
科学的真実がどうであろうと、じぶんに授かった肉体と、先人に教わった知恵の中に生きていくのは、おかしなことではありません。
でもエラーこそが人間の自由意志という意味では、異端審問官の生き方には自由意志がありません。
いま、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談の本が手元にあります。
『日本人と日本文化』というタイトルです。
その中に、禅について対談しているときに、司馬さんがふと明治の志士の死に方について話すんです。
その部分をすこし引用します。
司馬 日本人の場合は、いろんな宗教が入ってきたわけですが、日本人にいちばんうまく適合した宗教は、これもほんとうの禅とどれだけ関係があるかどうかは別として、私は禅だと思います。禅は日本人とウマが合ったという感じです。(中略)直感的なところとか、煩瑣な理屈がないということがひじょうによかったんでしょうね。たとえば、幕末の志士などは、平気で死んでしまって、お念仏のひとつも唱えないのかしらと私はときどき思うのです。彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしらと、いろいろ思うのですけれど、彼らは別にそれを思って死んだのではありませんね。どうもあのころになると、禅というものはずいぶん武士の心の中に入っていたらしい。アッという間に空に帰することができるような人間がずいぶんといたらしい。
禅宗は思想面でいえばシンプルな宗教で、人間に優劣をつけません。
仏さんが上で人間が下、というようなこともしないんですね。
それで、人間の中に仏性が宿っているというんです。
じぶんの内にある仏性を悟ろうと修行して、あとはひたすら生活を突き詰めます。
生活が「完璧に調和する」ところを目指すところから、日本に到来した禅宗は、あのシンプルで無駄がない東山文化のような禅芸術にむすびつきました。
禅寺では食事作法や掃除の仕方などが、異様なほど厳しいものになっています。
そうやって生活を研ぎ澄ましていくと、死さえも洗練された簡素さで受け止めてしまう……と、まあ現実離れした考えですが、そのあたりの恬淡とした死への態度を、司馬さんは明治維新の志士にたとえたのでしょう。
この明治維新の志士たちは、みんなあまりじぶんの命に執着せず、それぞれの立場で日本の将来を憂いていました。
もし名を成さずに死ぬとしても、じぶんの生き方が次の世代になにかしらのバトンを渡す、時代の礎になるだろうという、そういうぼんやりした理念だけを懐に抱えて、その時代を生きて、死ぬにしても満足して死んでいったのだとおもいます。
明治維新の志士たちの行動は、変革を求めるものなので、エラーなわけですが、同時に非常に魅力的な自由意志によって活躍していたのだとおもいます。
そのように考えていくと、ほとんどの人々は、すべてを知りたい、すべてを為したいと願い、自由意志に向かっていくのですが、いまだだれもすべてを為すことも知ることもできませんし、われわれはみな道半ばに死んでいく仲間なのかもしれません。
ごく一部には、自由意志を求めず、現状が変化することを嫌い、原始人のようにして暮らすことを望む人もいます。
沖縄の離島で、裸で採集生活をしながら生活し続ける日本人の老人がいたのをテレビでみたことがあります。
調べてみたら長崎真砂弓という人らしいのですが、ああいう暮らしは現代人がそうそうできるものではないですね。
実際、以下の記事のように、ああいう原始的な生き方を文明人の側が許さない、という側面もあるようです。
https://www.dailyshincho.jp/article/2015...
なんだか尻切れトンボのような終わり方になりますが、この話はいったんここで終わりにしておきます。
ぬか漬け、いまの時期から始めると、夏野菜から冬野菜までゆっくり楽しめますね。
ひとり暮らしだとぬか漬けは持て余してしまうのでつくりませんが、家族で食事のたびに季節の野菜のぬか漬けをおかずの一品にする、ということができれば、続けられそうな気がします。