No.1680
前回のギズモさんの返信で痛いところを突かれて、半ばおどろき、半ば頭をかいているような次第です。
というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。
ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。
これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。
それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。
ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)
そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。
今回はとうとう1万字を越えてしまいました。
わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。
物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。
平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。
ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。
江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。
この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に天孫降臨(天孫降臨はニニギノミコトですね)したとあります。
場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。
天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。
ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。
そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。
4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。
神々が降臨したのは、このややこしい時代です。
神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。
この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。
出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。
製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。
物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。
物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。
津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。
創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。
奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。
吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。
しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。
このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。
ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。
冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。
この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。
石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。
これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。
そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。
生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。
物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。
そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。
布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。
そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。
つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。
ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。
一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。
ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。
たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。
その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。
ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。
この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。
矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。
弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。
そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。
すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。
岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。
そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。
では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。
いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。
当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。
あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。
この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。
しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。
物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。
そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。
さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。
時系列でいうと、
・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。
・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。
・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。
・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。
ということになります。
余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。
といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。
この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。
名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。
この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。
つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。
そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。
大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。
しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。
フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。
神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。
ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。
『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。
この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。
2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。
出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。
一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。
そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。
そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。
ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。
新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。
しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。
そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。
この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。
しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。
スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。
スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。
しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。
ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。
しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。
わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。
興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。
たたら製鉄は出雲が発祥です。
あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。
それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。
出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。
以下、さらに憶測です。
たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。
スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。
丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。
それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。
同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。
スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。
この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。
さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。
この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。
が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。
「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」
という意味にもおもえてきます。
しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。
各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。
日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。
いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。
この点でも憶測を働かせると……
スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。
大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。
スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。
しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。
ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。
さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。
スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。
近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。
わたしはこのように考えます。
ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。
あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。
物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。
この武器利権に物部の将来性を感じたのです。
そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。
https://articles.mapple.net/bk/8381/
かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。
そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。
そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。
鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。
社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。
その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。
剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)
それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。
物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。
別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。
彼女は物部守屋の妹でした。
太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。
物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。
日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。
しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。
これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。
そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。
近親の豪族風情と四人の子をなした女がを、当時の重臣である蘇我馬子や、崇峻天皇が競って奪うなんてことがあるでしょうか。
きわめて不自然です。
個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。
太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。
その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。
蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。
崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。
しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。
つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。
推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。
推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。
このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。
蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。
さて、ここからまた憶測の物語です。
仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。
特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。
寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。
蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。
しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。
守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。
物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。
朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。
かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。
それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。
さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。
しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。
天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。
太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。
太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。
物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。
かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。
そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。
と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。
しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。
結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。
にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。
さて、これで物部氏の話はおしまいです。
長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。
しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)
ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。
複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。
というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。
ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。
これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。
それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。
ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)
そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。
今回はとうとう1万字を越えてしまいました。
わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。
物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。
平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。
ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。
江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。
この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に
場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。
天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。
ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。
そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。
4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。
神々が降臨したのは、このややこしい時代です。
神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。
この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。
出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。
製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。
物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。
物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。
津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。
創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。
奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。
吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。
しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。
このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。
ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。
冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。
この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。
石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。
これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。
そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。
生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。
物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。
そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。
布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。
そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。
つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。
ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。
一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。
ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。
たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。
その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。
ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。
この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。
矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。
弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。
そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。
すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。
岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。
そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。
では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。
いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。
当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。
あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。
この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。
しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。
物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。
そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。
さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。
時系列でいうと、
・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。
・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。
・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。
・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。
ということになります。
余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。
といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。
この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。
名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。
この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。
つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。
そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。
大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。
しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。
フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。
神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。
ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。
『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。
この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。
2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。
出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。
一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。
そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。
そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。
ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。
新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。
しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。
そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。
この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。
しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。
スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。
スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。
しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。
ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。
しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。
わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。
興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。
たたら製鉄は出雲が発祥です。
あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。
それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。
出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。
以下、さらに憶測です。
たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。
スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。
丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。
それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。
同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。
スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。
この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。
さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。
この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。
が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。
「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」
という意味にもおもえてきます。
しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。
各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。
日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。
いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。
この点でも憶測を働かせると……
スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。
大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。
スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。
しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。
ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。
さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。
スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。
近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。
わたしはこのように考えます。
ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。
あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。
物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。
この武器利権に物部の将来性を感じたのです。
そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。
https://articles.mapple.net/bk/8381/
かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。
そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。
そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。
鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。
社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。
その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。
剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)
それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。
物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。
別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。
彼女は物部守屋の妹でした。
太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。
物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。
日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。
しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。
これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。
そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。
近親の豪族風情と四人の子をなした女
きわめて不自然です。
個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。
太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。
その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。
蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。
崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。
しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。
つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。
推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。
推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。
このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。
蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。
さて、ここからまた憶測の物語です。
仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。
特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。
寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。
蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。
しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。
守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。
物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。
朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。
かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。
それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。
さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。
しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。
天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。
太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。
太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。
物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。
かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。
そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。
と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。
しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。
結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。
にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。
さて、これで物部氏の話はおしまいです。
長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。
しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)
ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。
複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。