山麓王国

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2026年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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今回はまず、呼ばれていないように感じるとおっしゃったギズモさんに、熊野への興味の取っ掛かりをつくってみようとおもいます(笑)

そのあとで、前回のギズモさんからのご返信に対して、いくつかじぶんなりに考えたことを書いてみますね。



古代の熊野はほとんど人間を拒むような大原生林でしたが、縄文土器が発掘されますから、古くから人は住んでいました。

おそらくそぼくな自然信仰と、最軽量の文明で生活をしていたこととおもわれます。

しかし神話を読んでいると、2世紀末くらいだとおもうんですが、饒速日についてきた出雲の人々が、紀伊国の豊富な山林資源を利用して製鉄や産業をおこしたようなのです。

わたしはこの時期に、ただの「木の国」だった紀伊国に、出雲由来の重量のある文明が流入したと考えました。



奈良時代にうつりましょう。

西国巡礼(三十三箇所巡礼)の最初の札所は熊野那智の青岸渡寺です。

ちなみにあの補陀落渡海をおこなった補陀洛山寺は、青岸渡寺の別院でした。

この寺青岸渡寺の由緒をみると、仁徳天皇の時代に裸形上人というインド人が熊野に漂泊したとあります。

この僧侶が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したというのですが、これは熊野の那智が天竺(インド)の補陀落の入り口にあるという伝説から創作されたものでしょう。

実際に寺院が建立されたのは7世紀はじめごろらしいので、おそらくそのあたりで熊野と仏教がつながっていったとおもわれます。



平安時代の816年(9世紀初頭)に、空海が高野山で真言密教の総本山、金剛峯寺をひらきました。

ちなみに高野山はおなじ和歌山でも、熊野ではありません。

熊野は和歌山の南東、三重県の南部にありますが、高野山は和歌山の北部に位置します。

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もちろん高野山も人里離れた深山でしたし、生活するにも厳しい場所だったのは間違いありません。

しかし熊野の山はそれどころではない秘境でした。



そういえば、高野山から紀ノ川に降りたあたりに九度山があります。

ここは真田昌幸と幸村の親子が、西軍に味方したために徳川家康にうとまれ、幽閉させられた場所でした。

真田親子は最初、高野山にいたのですが、あまりの寒さに音を上げて、九度山におりてきたそうな。



そんなへんぴな場所に、伝説的高僧である空海が大霊場を開きました。

この時期から紀伊国がにわかに注目され、人が集まるようになります。

人が集まるようになったことで、熊野も信仰の場として人気を集めるようになりました。



平安時代中期になると、天皇や皇族も熊野に御幸するようになります。

庶民も熊野を訪れるようになり、室町時代にかけてあまりの参詣客の多さに「蟻の熊野詣で」といわれるほどになりました。

平安時代から室町時代にかけて熊野は、神道・密教・山岳信仰・民間信仰などが闇鍋のようにミックスされた、ひどくややこしい霊場になるのです。



室町以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなりました。

もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさになっています。

これが明治の神仏分離令で、シンプルに……なったらよかったんですが、さんざんややこしい縁起を重ねてきた熊野が、いまさら単純化できるはずもありません。

結局熊野は現在に至っても、ややこしいまま放置されているんですね(笑)



さて、ざっと熊野のあらましを説明しました。

ここでいったん神話の時代の熊野に戻りましょう。



日本書紀ではイザナミの墓所は熊野の有馬村だったといいます。

なぜイザナミと熊野が結びつくのでしょう。



さらにもうひとつ、古事記ではオオナムチが八十神にいじめられたあと、大屋毘古(オオヤビコ)の助けを得るために紀ノ国へ向かいます。

大屋毘古は五十猛と同一とされたりもするのですが、どちらもスサノオの子神でした。

さらにオオナムチは、スサノオの住む根の堅州国へ向かいます。

なぜこうも紀伊国と出雲が結びつくのでしょうか。



これは、饒速日のころに紀伊国へ定住した出雲族がいたと考えれば、理解できます。

かれらは紀伊国で、じぶんたちの知っている時代の出雲の神々を信仰したことで、紀伊国に根付いたのです。

熊野と出雲神話が結びつく理由は、ここにあります。



熊野が「死と再生の場所」なのも、この時期の出雲信仰からきています。

イザナミは黄泉津大神で、スサノオも根の国の主、大国主も幽世大神ですね。

出雲は黄泉の国の入り口ですが、熊野もまた異界(死の世界)の入り口となりました。



そこに神武天皇の東遷がかかわってくることで、「復活」のニュアンスが生まれます。

神武天皇は難波に船をつけてナガスネヒコに対戦し、負けました。

その後神武軍は船で和歌山を海岸沿いに南下して熊野に回り込みます。

そして熊野三山を抜けて、吉野山から奈良へ向かいます。



熊野を抜ける際に、神武天皇の一行は遭難してしまいました。

熊野での遭難は、ほとんど死を意味します。

しかしヤタガラスに助けてもらって、熊野を抜けることができたのです。



また、神武天皇が熊野の山の毒気にあてられて寝込んでしまったというエピソードがあります。

このとき、高倉下命(タカクラジ)が、こんな夢をみたのです。



アマテラスが神武天皇の苦境をみかねてタケミカヅチを派遣しようとしたものの、タケミカヅチが言いました。

「わたしが行かずとも、わたしが国を平定した剣を、高倉下の倉に入れておきました。高倉下が神武天皇にこの剣を献上すれば、ヤマトも平定されましょう」



高倉下が目覚めて倉をみてみると、たしかに剣がありました。

剣を献上すると、神武天皇は蘇生したといいます。

この剣が、いま石上神宮のご神体となっている布都御魂でした。

氷川神社の六社にまつられている石上神社も、このときの神武天皇のエピソードを縁起にされていますね。

熊野が死と「再生」の場所とされるのは、これらの神武復活のエピソードがもとになっています。



ところで、高倉下は奇妙な系譜の持ち主です。

天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一ともいわれるのですが、天香山命の父親は天火明命でした。

「天火明命」は、山陰を旅していたときの饒速日の呼び名ですね。



なぜ天火明命の子が、紀伊国にいるのでしょうか。

そしてどうやって神武軍を助けたのか。

この点を結びつけるために、わたしはこう考えました。



さきほども言いましたが、饒速日はヤマトへ向かう道中で、山陰(出雲族)の製鉄集団も引き連れています。

かれらは紀伊国の豊富な山林資源を利用して武器生産をおこないました。

高倉下が饒速日の実際の子だったかどうかはさておき、天孫族に対する理解の深い、紀伊の製鉄氏族だったのでしょう。



さて、ここからは、神話をできるだけ現実に近い形で考えます。

難波で敗戦した神武の軍団は、船で和歌山を回り込み、熊野方面に向かいました。

難波はその名の通り波の激しい場所で、下船すれば平野部ですから、船での戦いは不利なのです。

神武天皇は「東に向かう戦いでは勝てない。西へ回り込まねばなるまい」といいました。

紀ノ川沿いにはナガスネヒコの息のかかった連中がいますから、和歌山西部から奈良に向かうことはできません。

熊野を越え、吉野山を抜けて高台から奈良の平野部を狙うゲリラ戦に、一縷の望みをかけたのです。

しかしこの熊野越えがたいへんな難所でした。



神武軍は熊野の荒坂の津に上陸したのですが、そのあたりは丹敷戸畔(ニシキノトベ)という原住民の巫女が支配していました。

神武軍は丹敷戸畔を誅したのですが、これでいよいよ神武軍は疲弊し、熊野の行軍はいっそう厳しいものになります。



一方、神武の敗戦を伝え聞いた高千穂の卑弥呼(アマテラス)は、ヤマトへ援軍を送るかどうかを会議していました。

しかしいま軍勢を送るよりは、急いで使いを出して紀伊国から饒速日の縁者を頼り、神武軍を助けてもらうほうが早いだろう、ということになります。

結果、天孫族への理解が深い高倉下が、神武天皇をお救いすることになりました。



そして紀伊国の出雲族で神武軍を助ける集団(ヤタガラス)が結成され、神武軍を救出します。

このころの紀伊国は、もともとその地に住んでいた原住民と、ナガスネヒコに与する者と、天孫族に理解を示す者がいました。

一命をとりとめた神武軍は、高倉下からじゅうぶんな武器が与えられたのみならず、大勢の仲間を得ました。



神話では布都御魂を神武天皇に与えたとありますが、当然戦争は剣一本でどうにかなるものではありません。

高倉下は神武軍の者にじゅうぶんな装備を与えましたが、それだけの財力をもった権力者で、天孫族に対する肩入れがあったのでしょう。

神武の軍隊はここで、死の窮地から救われ、復活したというわけです。

布都御魂とは一本の剣ではなく、神武軍を勝利に導いた武器の霊威でした。



ちなみにギズモさんが書かれていた、氷川神社にまつられている石上神社は、神武天皇の縁起が書かれてありますから、おそらく石上神宮のことをさすのでしょう。

じつは石上神宮をさらに山奥に向かうと、石上神社(いしがみじんじゃ)があるのですが、ここは石上神宮とは関係がないそうな。

また石上布都魂神社が岡山にありますが、ここは御祭神がスサノオで、神武天皇の縁起はありません。

氷川神社の六社では住吉大社も住吉神社となっていますので、おそらく「神社」という呼称で統一しているのだとおもわれます。



さて、また神話解釈の部分が長引いてしまいましたが、ここからは空海の話になります。

平安京では空海と最澄のもたらした密教が隆盛を極めていました。

修行僧たちは秘密主義的な密教の修行をおこない、庶民は道教も仏教も神道も一緒にしたような、なんでもありの信仰をするようになっていました。

神仏習合自体は奈良時代から始まっていたのですが、底が抜けたような何でもありになっていったのは、平安時代からです。



ちなみに空海自身がどうおもっていたかはわかりませんが、民衆の神輿の上にかつがれた空海は、エンタメ性の強いアイドル(偶像)と化しました。

民衆は各地で、ありもしない空海の奇跡をまことしやかに広め、仏教は誇大妄想化していきました。

いまでも金剛峯寺では、空海は修行を続けているということになっているため、食事が御廟に運ばれています。



空海が金剛峯寺を開いた結果、紀伊国そのものが誇大妄想的な異界となりました。

特に熊野は、大原生林がもつ元来の神秘性と、神話にもとづく「死と復活」のイメージ、そして山岳信仰(権現信仰)、さらに密教、道教的な民間信仰……これらが虚実織り交ぜながら融合していったのです。

ギズモさんが「ややこしすぎる」と感じた「異世界的、異質なもの」の原因は、ここにあります。



たとえば、ギズモさんのお話で引き出していただいた善財王ですが、これは室町時代に書かれた『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話でしたね。

インド(天竺)の摩訶陀国の善財王と、その妻と王子が、艱難辛苦の物語の果てに、紀伊国へと垂迹し、熊野権現となったという物語です。

この物語は当時、熊野の神秘性を高めることに大きく貢献しました。

しかしこの話はスケールは大きいけれど、原理的にはめちゃくちゃで、宗教に理解がある人ほど、頭を抱えたくなることでしょう(笑)



熊野の寺院の縁起にたびたびインドが登場するのは、熊野の那智が天竺(インド)の補陀落山とつながっているとされるからです。

ギズモさんがご紹介くださった那古寺は、おなじ補陀洛山の山号でも、房総半島の海辺から、はるか補陀洛山をあがめる、ごくそぼくな観音信仰の真言宗だったことでしょう。

しかし熊野の補陀落信仰はひどく過激で、さきほども申しましたが、棺桶舟に上人を閉じ込めて渡海させる習慣がありました。

これは実質的な自殺の強要でしたが、渡海によって往生した上人は、補陀落山で観音に救われ再生すると信じられていたのです。

どんな宗教でも、自殺して救いを得るような教えはありません。

しかし熊野では仏教の原理のうえに、じぶんたちに都合のいい物語を建て増しした結果、逆に原理の部分が失われて、補陀落渡海という狂信的な悪習慣が生まれてしまいました。



わたしは熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことだとおもいます。

わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたという事実だけをみていればよいでしょう。

ほかの神仏習合や山岳信仰、民間信仰がまじりあったややこしい部分は、ほとんど無視しても問題ないとおもいます。



さて、以上が熊野の話でした。

ここからはギズモさんのご返信に対するわたしなりの考察です。



記紀神話は、皇統の物語ですね。

しかしこれは物語ですから、実際に血縁がつながっているわけではないのです。

日本神話はつまり、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」でした。



わたしは神武天皇から「国家をつなぐ責任が生じた」と解釈しています。

天皇という呼称は、実際には推古天皇あるいは天武天皇の時代につかわれるようになりました。

それがなぜ神武を「天皇」としたかというと、この時点から「すめらぎ=皇統」によって国家を維持する思想が始まったからです。

血筋という意味では序盤からつまづいているわけですが、それでもなにがなんでも、万世一系ということにしなければならないんだという強烈な思想が、天皇(すめらみこと)という言葉にあらわれています。



ところで高千穂の場合、権力者の子孫を残すことで国をつなぐという思想はなかったようです。

女王の卑弥呼(アマテラス)には子がありませんでした。

それでも実際の血縁関係ではない周辺の有力な王族と手を組んで、女王統治のもとに「天孫」があるということにしたのでしょう。

高千穂では卑弥呼こそが天(カリスマ)であり、唯一無二の存在でした。

だからこそ高千穂のヤマト王権は、卑弥呼が亡くなると瓦解したのです。

卑弥呼の没後、九州では熊襲をはじめとした「まつろわぬ者(ヤマト王権に従わぬ者)」がはびこりました。



すめらぎの点でいえば、ヤマト王権にとって大国主は脅威だったことでしょう。

大国主は山陰各地の王族と連合し、実質的なリーダーとして、各地の王族の女性と関係を持ちました。

ヌナカワヒメもそうですね。

子を残すことで国家を存続させていくという思想は、むしろ出雲で完成しつつあったのかもしれません。



さて、神武天皇が実在したかどうかということについては、わたしも引っかかっていました。

高千穂から奈良へ軍勢が送られたのは間違いないとおもいます。

しかし軍の中に神武がいたかどうかは、はっきりしません。



特にわたしが引っかかっていたのは、神武の崩御と、卑弥呼が没したタイミングが重なることでした。

あるいは、神武はおらず、高千穂軍が奈良のヤマトを実効支配していたのかもしれません。

そして高千穂で卑弥呼が没すると、ヤマトで壮絶な権力闘争が起こった。

そのように考えることもできそうです。



しかし高千穂でも女王の下に王をつくっていたのに、当時の国家がその地に王をつくらずにやっていけるでしょうか。

また大物主と神武天皇の関係もありますをなかったこととすると、大物主がヤマト王権に取り入るきっかけがなくなってしまいます

東遷後の各氏族への論功行賞は、絶対的な権力者がいないとなかなかまとまらないでしょう。

そのように考えると、やはり神武天皇は存在して、たまたま崩御の時期が卑弥呼の没年と重なったと考えるほうがしっくりくるようにおもえました。



神武天皇がいたと考えた場合、東遷にじぶんの意志が働いていたかという件ですが、神武は自然に運命を受け入れていたと考えています。

運命を受け入れるという点で、卑弥呼と神武天皇はほんとうによく似ています。

わたしは以前、イザナミに足りなかったのはツクヨミ(道教)だったといいました。

これはいわば巫女としての規範ですね。

もっと突っ込んでいうと、巫女の帝王学です。

イザナギはまるで幼児に英才教育をほどこすように、幼い卑弥呼(アマテラス)に徹底的に巫女の帝王学を教え込んだのではないでしょうか。

そして卑弥呼は従順にじぶんの運命を受け入れて、すぐれた巫女(帝王)になりました。



神武天皇もまた天孫族の運命に対してひどく従順で、しかも完璧な帝王でしょう。

たとえ天才でも、教育されないまま才能を発揮することはできません。

ではいったいだれからこの英才教育をほどこされたのか。

そこでわたしは、アヒラツヒメが卑弥呼だったのではないかという飛躍した考えに至るのです。

わたしは卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したのではないかという線を捨てきることができません。



余談ですが、アヒラツヒメも不思議な存在でした。

アヒラツヒメは、阿多の小椅の君(あたのおばしのきみ)の妹といわれます。

阿多とは、海幸彦を祖神とする隼人の一族です。



また古事記ではコノハナサクヤヒメは神阿多都比売(カムアタツヒメ)と呼ばれていました。

やはり名前に阿多が入ります。

なぜ九州の有力者である阿多の名が、出雲の大山祇命の娘であるコノハナサクヤヒメと結びつくのでしょう。

海幸彦を起源とする阿多氏と、出雲の大山祇がなんらかの関係性をもっており、コノハナサクヤとニニギが結びついたのでしょうか。



しかしこの場合、コノハナサクヤから山幸彦と海幸彦が生まれたという時系列に決定的な狂いが生じます。

阿多にはなにかががあるような気がしてなりません。



しかしそういった疑問があるということはさておき、今回気になるのは、アヒラツヒメの名には「阿多」が含まれていない点です。

阿多の小椅の君の妹ですから、阿多の一族であろうと推測されているわけですが、その場合はふつう名前に阿多が入るはず。

しかし、アヒラツヒメは両親も不明で、阿多の名もありません。

阿多の小椅の君が何者であるかも、阿多であるということ以外は不明。

アヒラツヒメは神武東遷の際に同行することもなく、東遷を為したあとに奈良へ向かうこともありませんでした。

わたしはこのあまりにも謎の多いアヒラツヒメを、卑弥呼だと疑う余地があると考えています。

あるいはもっと突拍子もない想像をふくらませるとしたら、そもそも卑弥呼の出自が阿多の一族からきており、イザナギが高千穂に国を築く際に、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたのかもしれません。



話を戻しましょう。

神武は天孫族の領土奪還のために東遷(戦争)することを運命として受け入れました。

そして苦難の末にヤマトの王(天皇)となると、この生まれたての国家をみごとにおさめてしまいます。

神武自身に乱れた逸話もなく、下剋上をねらう諸侯も完全に掌握しました。

王としてあまりにもできすぎていて、前回書いた通り「ある種の清潔さを感じる稀有な神」です。

言い方を変えると、ほんとうに実在していたのか疑わしいくらい清潔ですね(笑)



さらに余談ですが、イザナギが仕込んだ帝王学は、それだけ完成されたものだったとおもうのです。

ただこれは、「生まれたての国家においては」という但し書きがつきます。

ある程度国家が成長すると、巫女の神懸かりによる独裁よりも、もっと現実的で論理的な政治が求められるようになります。

しかしさいころを振ってばくちをするがごとき巫女政治には、依然として人々を惹きつける求心力がありました。

だからこそ崇神天皇は巫女政治を嫌い、巫女の象徴であるアマテラスを伊勢に封印したのではないでしょうか。



さて、実質的な皇室の先祖はだれかという話ですが、実際の血筋となると、これまで何度も途切れているようです。

初期の天皇の実在性はもちろん、26代継体天皇も天皇の血筋として認められるのかどうか議論されているようですね。

しかしさきほども申しましたが、大事なのは天皇のDNA以上に、すめらぎの思想です。



日本がポツダム宣言を受諾するとき、政府は唯一、国体の護持を条件にしました。

つまり天皇制という思想の維持だけが、敗戦を認める条件だったのです。つまり天皇制さえ維持してくれれば、日本がアメリカに占領され、支配されることも、その他あらゆる理不尽も甘んじて受けるというのです。

戦後、天皇を取り巻く環境は激変しましたが、それでもすめらぎは続いています。



ところで、すめらぎの思想というところで考えると、わたしは結局、実質的な皇室の先祖は、イザナギ、イザナミにたどりつくのではないかとおもえます。

ギズモさんはきっとこのわたしの答えを聞いて、はぐらかされたようで拍子抜けされたことでしょう(笑)

しかし無根拠にそう考えているわけではありません。



イザナギ・イザナミという名前の意味をたどると、「いざなう者」となります。

道教の陰陽でいえば、男は陽で、女は陰ということになるようですね。

もちろん、イザナミが陰だからわるいという話ではありません。

あの勾玉がふたつ合わさったような太陰大極図は、陰と陽があわさって、ひとつの循環になっていることをあらわしています。



人が死んで減ってしまえば、国は滅亡するというイザナミの陰。

人が多く集まって社会を形成すれば国になるというイザナギの陽。

イザナミが一日1000人黄泉の国へ連れていくことがあらわしているのは、人は死ぬという厳然たる事実です。

それに対してイザナギは1500人生まれる国をつくるといいました。

イザナギは、国家のためには死ぬ人数よりも多い人数をうまねばならないという、非常にシンプルな社会思想を持っていたんですね。



このイザナギから生じたアマテラスとスサノオは、対照的な運命をたどります。

一方はイザナギの教育によって高千穂の絶対女王となり、一方はイザナギと決別してみずから運命を切り開き、イザナミのいた出雲の支配者となりました。

ヤマトと出雲の、すめらぎをめぐる数奇な運命が、神話よりずっと後世にも続いたという話は、以前にもしました。



ヤマト王権は一時は出雲連合を平らげ、すめらぎを得ました。

出雲は滅亡したかにみえましたが、奈良時代になると関東で武士団が発生します。

かれらの出自をたどれば、はるかむかしに関東を開拓(国づくり)した出雲族が大勢いたことでしょう。

そしてこの武士団が鎌倉で幕府を形成します。



京都の朝廷を守るという名目で生まれた幕府でしたが、足利尊氏の時代になると北朝を擁して、京の朝廷を牛耳りました。

そしてもともとの朝廷は奈良吉野へ追われ、南朝として北朝と争います。

しかし結果的にすめらぎは南朝から北朝へ禅譲されました。

神武天皇が熊野を抜けて復活し、最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所だったというのは皮肉なことです。



日本書紀や古事記、先代旧事本紀を編纂した人々も、まさか将来、出雲族とすめらぎがこのように関係してくるとは、想像だにしていなかったことでしょう。

しかしわたしには北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和したようにおもえるのです。

……いろいろややこしい話をしましたが、皇統はイザナギ・イザナミから始まり、紆余曲折を経ながらいまもいざなわれ続けている、というのがわたしのアクロバティック解釈です(笑)



さて、アマテラスが伊勢神宮、大国主が出雲大社に「封じられている」と感じるという件ですが、わたしもそうおもいます。

伊勢神宮にアマテラスが鎮座したよりも前に、神話で「まつられた神々」は、ヤマト王権によってむりやり鎮魂されたと考えたほうがよいのかもしれません。

出雲大社も、三輪山も、箸墓古墳も、伊勢神宮も、「丁重にまつることで、ヤマト王権の礎になっていただく」というような意味合いが感じられます。

言い方を変えれば、たたりを防いでいるわけですが、これは実際丁重にまつらねば、出雲族が反乱を起こしたり、巫女勢力の恨みがつのったりといった実害があったことでしょう。



タケミナカタとタケミカヅチの力比べですが、わたしもこれは戦争だったとおもいます。

九州勢力(タケミカヅチ)が越の国の勢力(タケミナカタ)を諏訪で封じた、ということでしょう。

ギズモさんのおっしゃるように、タケミナカタの軍勢は越の国まで逃げて援軍を頼むつもりでしたが、諏訪で進退窮まり、降伏したのかもしれませんね。



さて、今回もやはり長くなりました(笑)

三寒四温といいますが、ギズモさんの予測された通り、雪が降るほどではないものの、寒さがぶり返しています。

わたしもぼちぼち花粉症が始まってきました。

不快な時期ですが、先日ふきのとうが芽吹いているのを発見し、いつの間にか梅の花も咲いています。

春はたしかに近づいているようですね。



最後になりますが、安政6年に、吉田松陰の思想に共鳴した攘夷派の氏子が、山口県下松市(くだまつし)の花岡八幡宮に破邪の御太刀(はじゃのおんたち)といわれる、巨大な刀を奉納しました。

全長4m65cm、重量75kg。

人間があつかう刀ではありませんが、動乱の日本を守るという、破邪の願いが込められているそうな。

https://www.google.com/search?q=%E7%A0%B...

おそらく百済からヤマト王権に贈られた七支刀も、そのような破邪の意味合いを込めてつくられたものなのでしょうね。

2025年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ほんとうに医食同源とはよく言ったもので、カラダに起こる多くの問題は食生活の改善で避けられるんでしょうね。

そうはいってもなかなかじぶんの食欲と肉体と折り合いをつけるのはむずかしいことなんですが(笑)



「見えないなにかが守っていた」というお話で、以前も似た話をしたかもしれませんが、もう少し突っ込んで雑談してみようとおもいます。

アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は一神教で、絶対神がいますよね。

ユダヤ教やキリスト教ではヤハウェとかエホバ、イスラム教ではアラーと呼ばれています。

そのような絶対神のいる宗教では、たとえば病気にかかる、死ぬというようなときも、神の思し召しによってそうなったのだと、すなおに受け入れてしまうんですね。



もちろんそうはいっても、実際にはそんなカンタンには割り切れなかったとおもいます。

生きる執着はわれわれの生命の根本ですから、生の執着を前にすれば宗教なんて方便にすぎません。

いくら頭では「主にお任せします」と繰り返しても、肉体の痛みを前にすれば、勘弁してくれ、なんとかしてくれ、と叫ぶほかないときもあるでしょう。

しかし、それでもやっぱり、われわれはじぶんの意志で生まれてきたのではないし、訪れる死もじぶんの意志ではどうしようもありません。

この理不尽にかりそめにでも納得するには、じぶんの生死にはじぶんの意志ではどうにもならないチカラが働いているとおもうほかないんですよね。

そしてその大きなチカラは、人間よりも優れた叡智をもっていて、われわれを導くために生まれさせ給い、そして死なせ給うのだと。

そう考えないと、人間は生きるにせよ死ぬにせよ、その孤独に耐えきれません。



余談ですが、ユダヤ教よりさかのぼって紀元前3000年ごろ、エジプト神話では太陽神ラーが最高神に位置付けられていました。

しかし15代エジプト王朝あたりから覇権がナイル川中流の都市テーベに移ります。

するとラーはその地で崇められていた軍神アメンと融合し、「アメン=ラー」となりました。

アメン信者がエジプト王朝の政権中枢に食い込んできたというわけです。



ちなみにファラオ(古代エジプトの王)はラー、もしくはアメンの化身とされました。

紀元前2500年ごろ、エジプト第5王朝あたりから、ファラオの即位名の最後に「ラー」の名前がつくようになります。

これは、ファラオはラーの化身であるという意味を持っていました。

歴代で200人以上いるファラオの中でもっとも有名なのはツタンカーメンでしょう。

この第18王朝のファラオの正確な名前は「トゥト・アンク・アメン」です。
日本ではこれを省略して「ツタンカーメン」と呼んでるんですね。

「アメン神によく似た御姿」というような意味なんだそうです。



エジプト王朝からさらに時を経てギリシャ神話が生まれます。

さらにギリシャ神話を模倣するかたちでローマ神話が生まれました。

ギリシャ神話の最高神はゼウス。

ローマ神話の最高神はユピテル。

このふたりはおなじ神だといわれます。

そしてゼウスもユピテルも、ゼウス=アモン、ユピテル=アモンという呼び方で、エジプトのアメン神と融合するんです。

当時の中東やヨーロッパで覇権が移り変わる中で、信じられていた神が政治権力に組み込まれて、徐々に融合していくのはおもしろい現象です

日本の神仏習合とも似ていますね。



日本の場合、かつて伊勢に「おかげ参り」の風習がありました。

伊勢神宮の門前町は「おかげ横丁」といいますが、これは江戸時代に伊勢参りのことを「おかげ参り」と呼んだことに由来しています。

なぜおかげ参りというようになったかというと諸説あります。

アマテラスのおかげさまでお参りできる、という意味。

また伊勢参りは一種の修行でしたから、道中人々に物心両面で助けを受けながら参拝の旅をします。

この、道中の人々の情けのおかげでお参りができるという意味。



個人的にはまず仏教用語として根付いていた「お蔭様」という言葉があったとおもいます。

そこに太陽神であるアマテラスの光の「影」の意味合いを重ねることで、おかげ参りとしたのではないかとおもっています。

アマテラスの光を求めて旅する「おかげ参り」というわけです。

いずれにせよ、われわれはじぶんのチカラだけでは決して生きてゆかれないのだ、という敬虔な感情がおかげ参りを支えていたのは間違いありません。

洋の東西、宗教の違いにかかわらず、われわれはじぶんの生き死にを、見えない大きな存在にゆだねて安心していたんですね。



ヘスペリジンの情報とともにお気遣いをいただき、感謝と恐縮の気持ちでいっぱいです。

気弱になりがちなタイミングでしたから、よけいにご厚意が身に沁みました。

七味につかわれる陳皮だけがこんな細かい粉末になったものがあるんですね。

みかんの甘い風味と同時に粉山椒のような風味があって、レシピを調べてみたらいろんな料理につかえそうです。

個人的に好みの味でした。

陳皮には血流をよくする働きとともに胃腸の働きをととのえる効果があるといいますし、免疫向上も期待できそうです。

大事に、かつ積極的に利用させていただきます。ありがとうございました。

2024年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ギズモさんの返信を読みながら、「あれ、日蓮宗や顕正会の話はしたっけな」とおもいました。

前回の投稿の続きとして、今回、日蓮の話をしていたからです。

不思議なことに、ギズモさんはぼくが話すより前に日蓮の話をなさっていたんです(笑)



勧誘の話を読みながらおもったのが、宗教って、末端の信者ほど信仰に対して純粋で、敬虔だということでした。

でもそれは、金儲けとしての宗教教団の、隠れ蓑として作用してしまいます。

教団は明確に金儲けの意図をもっているのだけど、そうおもっていない熱狂的な末端の信者がいて、教団側は外側に向けてかれらをみせることで、「ほらうちの宗教は金儲けなんて考えていない、こんなにも純粋な信仰なんですよ」と。



精神病棟の患者さんの話、興味深かったです。

おそらく、自他の境界があいまいな、いわゆる第六感が働く人はほんとうにいるのだろうとおもいます。

ただ、それで金儲けをしているような人は、ほぼすべてニセモノだとおもいますが。

さて、前回の続きです。



(前回の続き)

金剛般若経は、玄奘三蔵が翻訳した仏教の経典のひとつですが、煩悩から解脱しなければならない理由を、以下のように述べています。

「修行者が衆人に施しを与えるにあたって、あるいは衆人が修行者から施されるにあたって、じぶんの肉体や精神といった煩悩に囚われていてはならない」

この場合の施しというのはお金ではなくて、「教義を施す」という意味合いですね。

教義を説く、あるいは教義を教えてもらうためにも資格が必要で、その資格が煩悩からの解脱だというのです。

たしかに現代の日本でも千日回峰行を成した大阿闍梨などは、解脱に近い苦行を成し遂げたことで、「衆生に施しを与える資格を得た」ということになるわけですが、しかしこれは現代人にとっては非常に物足りない理由なのではないでしょうか。

ぼくが以前に書いた、死を目前にすると人間は生きている意味を見いだすから解脱を目指す、というのは、仏教の場合はまちがいだったようです。

仏教はぼくが言ったような、個人主義的な理由で解脱を目指そうとはしていません。

よくよく考えると、仏教ではそもそも「ひとりひとりが生きる意味」については語っていないんですね。

仏教は、国家鎮護にはじまって、次は魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというところに存在意義があります。

(訂正)日本に渡ってきた仏教は国家鎮護に利用され、次は衆生の魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというカタチで変化してきました。

仏教が個人の生きる意味のようなものを考えだすのは、鎌倉時代になって、日蓮が日蓮宗(法華宗)を立ち上げてからなんですね。



ぼくはどうしても今回の3回の話で、生きる意味についてまで話を広げたかったんですが、ちょっとアプローチを変えて、西洋の話をさせてください。

これまではずっと東洋の思想から人間を理解しようとしたんですが、近代西洋はどのように考えたのか。

ちょうどぼくはいま、テレビ番組の「こころの時代」で、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーが取り上げられているのをみていました。

ヴィクトール・フランクルはユダヤ人で、ジークムント・フロイトに師事する精神科医でもありました。

ホロコーストの経験を描いた『夜と霧』という作品でも知られています。

かれは戦時中、ナチスによって強制収容所に送られました。

極限の迫害、死の恐怖と苦しみを味わいながらも、生きて終戦を迎えることができました。

しかし親も兄弟も、さらには妻も、収容所でみんな亡くなっていたんですね。

失意と苦悩の中、かれはかねてからの仕事であったロゴセラピーの確立をめざしました。

そんなロゴセラピーは「実存主義」という思想を土台にしています。



実存主義は19世紀に登場しました。

どうしてこの思想が生まれたかというと、近代西洋で産業革命が起こってから、文明社会がどんどん巨大になったからなんです。

社会が巨大になると、人々をより合理的に動かす必要が出てきます。

それでまず合理主義が台頭し、合理性で社会を統制するようになりました。

ところが、あまりに人間を合理的に働かせすぎると、人間は生きる意味を見失ってしまうんですね。

これは現代でもそうだとおもいます。

ただ家賃や光熱費を支払い、食べて寝るだけで終わっていく生活を維持するために、一日中ロボットのような仕事をしていると、「じぶんはなんのために生きているんだろう」とむなしさにとらわれてしまいます。

もちろんぜいたくを言わなければ食っていくことができるわけで、日常で死の恐怖に苛まれることだってなく、きちんと社会の役にも立っている。

にもかかわらず、心が満たされなくて、生きているのがつらくなるのです。

この合理主義の弊害が、近代西洋の社会問題でした。

そこで生まれたのが、実存主義です。

社会を発展させるのが人間の目的だという点は、合理主義も実存主義も共通してるんです。

しかし人間を鋳型にはめて管理して社会を発展させる合理主義では、人間が社会のために消費されるだけになってしまいます。

だから人の個性や自我を認めて、じぶんの適性を追求していくやり方で社会を発展させていくべきじゃないか、というのが実存主義です。

つまり、社会が合理的になろうとすればするほど、同時にわれわれはじぶんの主体性を見つめ直して、生きがいや生きる意味を積極的にみつけていかねばならない、というわけです。



実存主義では、人間は鋳型からつくられた道具ではなく、かといって般若心経のいう空や無でもなく、まちがいなく実存しているという立場をとります。

さらにじぶんの実存にはきちんと意味があることを、じぶん自身で求めていかなければいけない、ともいいました。

そのためには、理性的で善良に暮らし、主体的にこの社会にかかわっていくことが必要だというのです。



さっき例にとった日蓮宗(法華宗)は、実存主義とすこし似ています。

ごく大雑把にいえば、日蓮はこんなことを言いました。

「よその宗派のように、死んでから阿弥陀如来に救ってもらおうというのではダメだ。いまこの世に生きているわれわれが努力して、この世に生きる人々を救うというのでなければ、意味がないだろう」

まあ、日蓮宗の排他性や分派といった是非は置いておくとして、日蓮の主張に共鳴する人は多かったようです。

時代を経て宮沢賢治も日蓮宗に帰依しましたし、霊友会、立正佼成会、創価学会、顕正会あたりも日蓮宗から派生した新興宗教です。



ちなみに、ぼくは日蓮宗にも実存主義にも、不信、というか不満を感じています。

なぜならこれらの思想は、社会でなんの役にも立てないといって苦しんでいる、事情のある人々には「生きる意味」を提示していないからです。

実存主義も日蓮宗も、社会の役に立てる人にフォーカスを当てた思想でしょう。

社会にうまくかかわることができない……たとえば重度の障がい者や、気力・体力の衰えた老人にとっては救いがないとおもうのです。

もちろん実存主義によってみんなが社会を成熟させることで、本来鬼子や姥捨てのように扱われて捨てられていた命も救われるようになれば、それはいいことだとはおもいます。

しかし、その鬼子や姥捨ての当事者たちの生きる意味については、実存主義も日蓮宗も教えてくれません。

この不平等について考えると、まだ死ねばみな救われると説く浄土信仰のほうが、思想の上では平等な気がするほどです。

社会にうまく関われない人の生きる意味については、現代社会でもまだ明確な答えを見いだせていないんですね。



それはともかく(笑)

実存主義から派生したロゴセラピーは、般若心経とも似ているところがあります。

ロゴセラピーの主張は、むずかしいものではありません。

基本的にはふたつのことを言ってます。

(続く)

2024年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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去年は、モロヘイヤもつるむらさきもオクラも鳥害・獣害のオンパレードでしたが、ことしはいまのところおおむね良好に発芽して育ってくれています。

防獣ネットの下をくぐる小動物を防ぐために、ネットに直接竹杭を打って、獣がくぐれないようにしたのもよかったのかもしれません。

でも、毎年この時期にはカラスが繁殖期で異常な鳴き方をするんですが、そういうこともなく、獣が荒ぶるような様子もなく、不思議なくらいです。

もしかしたら、春に獣にとってじゅうぶんなエサがあったとか、獣にとっての気象条件がよかったなどの条件があったのかもしれません。

あとは天気がおだやかであってくれればよいのですが、こればかりは祈るほかありませんね。

そういえばこの2年ほどは、サルも現れなくなりました。

サルが好む豆などの野菜をつくらなくなって、集落一丸でしつこく追いかけまわしていたのがよかったのでしょう。

2024年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ありがとうございます。
今日はずいぶん楽になりましたが、まだかゆいし、頭痛もします(笑)
アレルギーの薬を飲んでいても、さほど効き目がありません。
相変わらず家の中にユリの香りがするせいかもしれません。

かゆみは痛みよりつらいことも多いですよね。


親子って、やっぱりそうそう簡単な関係ではないですね。
血がつながっているからこそ厄介な面もあり、そこをうまく折り合いをつけて生きて行くのは、なかなか難しいこともあります。

私の場合、母はこういう人なんだと受け入れることで、いびつな鏡のイヤな跳ね返りを、なんとなく回避してきたのかもしれません。



23日に亡くなったのですが、どの葬儀場もとても混んでいて、最短で昨日ということでした。

親戚などには、家族だけで済ませるというお知らせをし、葬儀は昨日一日だけで、ごく簡単なものにしました。

2月は亡くなる人が多いのでずいぶん待つようですが、この時期にこれほど混んでいるとは思いませんでした。

一般的には亡くなった翌日がお通夜、翌々日が告別式で火葬という流れですが(友引ははずして)、ずいぶん日にちがかかってしまいました。


最近は、テレビでもよくやっていますが家族葬も多く、簡易型の葬儀が増えつつあるようですね。
亡くなった人の地位や職業から、どうしても盛大にやらないといけないケースもあるでしょうし、生きている人の体裁のために盛大に行う場合もあるでしょうし、葬儀もそれぞれですね。

昨日は、ひとりで火葬に立ち会っている方もいらっしゃいました。

お墓と同じで、葬儀の形も変わってきているし、これからも変わっていくのかもしれません。


ところで、長女なので、一番最初にお焼香をしたのですが。
10年以上お葬式に出たことがなかったので(それは言い訳になりませんが)、うっかり、抹香ではなく香炉の灰の方をつまみそうになり、葬儀やさんに「そっちじゃありません」と言われてしまいました(笑)

お焼香は宗派によってやり方が違うので、お葬式に出る時は前の人のやり方を盗み見て真似をするのですが、今回トップバッターということで、しくじりました・・・。


数日前、青空文庫で、新しく追加された作品の中から、山本周五郎の「三十二刻」を読みましたが、なかなかおもしろかったです。
you tubeで朗読もありましたが、時代物は特に、漢字が見えないと理解しにくいことがあるように思いました。
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ユリ科の花粉のアレルギー、すこしでもよくなりましたでしょうか。

ぼくもアレルギー(アトピー)持ちなので、かゆいことの不快感は共有できるとおもいます。

先日またかゆみが出てきて、花粉症の対策ついでだと、眠くなりにくい飲み薬を飲んだんですが、かゆみが落ち着くと同時にリラックスしたんですよね。

たぶん、かゆいという不快感でカラダが緊張状態になっていたんだとおもいます。



解けない宿題の件ですが、ぼくたちは親の遺伝を強く受け継いでいて、親のいいところもわるいところも、多かれ少なかれ受け継いでしまいますよね。

それで、親のあり方を解読して、こんなふうにはなるまい、あるいはこのようになりたい、ということを選別して、じぶんを形成していくことが多いです。

親になにか悪癖があると、じぶんに直接遺伝しているような気がするから、きつく当たってしまったりすることも、ぼくの場合はありました。

親に対して、じぶんに理解できない部分があると、いびつな鏡のようになってじぶんにイヤな跳ね返り方をしてくることがあるんですが、その点ギズモさんはどこかでうまく親とじぶんとを切り分けられたのかな、とおもいました。



ところで、最近都市部では火葬の手配に時間がかかると聞いたことがありますが、お葬儀から日をあけて、あらためて家族で集まって荼毘にふしたということでしょうか。

うちも実家は大阪市内なので、いつか団塊世代の親を送るときには、火葬を待つかもしれないとおもっています。

2024年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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お雛様は、この前、ある市が運営する小さな博物館で、享保びなから、明治大正昭和、現代のものまで並べられたのをみてきました。

享保びなのお雛様は、とりわけ頭の飾り物がとても華美で、なんというかたとえがうまくいえませんが、シャンデリアというか、赤ちゃんのベッドメリーみたいな、こういう飾りはちょっと現代ではあまり見かけないようにおもえます。

はまぐりはもう取りつくされて、何年も生育した大ぶりのものが出回らなくて、大きなのはすごい値段ですよね。

そういえばことしはいわしが豊漁なんですが、意外と日本海側は毎年シーズンになると安くなるので、いつもと値段が変わりません(笑)

この時期のマイワシは、たくさん買っておいて、内臓も取らず、そのまま圧力なべに放り込んで、水に塩を入れて、ショウガをひとかけ入れて30分以上弱火で煮ます。

新鮮なものに限りますが、いわしはサンマとおなじでワタも食べられますし、いまの時期のいわしは卵を持っていて、これもなかなかの珍味なのです。

圧力なべで長時間煮ることで、骨までやわらかくいただけるようになって、残ったお出汁は醤油を足して厚揚げと炊いたり、キムチと豚肉と少量のウェイパーでおうどんにしたりしました。

節分にいわしを食べる習慣がありますが、あれは旧暦に食べられていたんじゃないかとおもうことがあります。

新暦の2月はまだいわしのシーズンには早くて、いまごろが最盛期なんですよね。



トイレの神様ですが、むかしはかまどや厠に神様がいたんですよね。

神仏習合からきていて、三宝荒神はかまどの神様といいます。

で、烏枢沙摩明王がかまどや厠の神様といわれています。

あと、トイレの神様としては金勝要神という神様が出てくるのですが、これは大本教に関係する神様のようで、女神ということなので、おそらくあの歌の神様はここに由来するのでしょう。

ちなみに烏枢沙摩明王は以下の画像のようで、まあなんというか、「キレイな神様」という感じではなさそうですね(笑)
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2024年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ぼちぼちゲームをしています。

二ノ国をクリアして、なんだかクリア後の世界まで遊ぶ気になれず、アンダーテールを遊んで、それもクリアしました。

アンダーテールは、「菩提をとむらう」ゲームといった感じ。

死ねばみな仏である、といって人を許すことがありますが、おなじように、生きている存在もみな許していくことに答えがある。

実際には生きている相手にああも善良にはふるまえないので、ふつうは死者として声を失った存在にだけ許しを与えて、菩提をとむらうわけです。

が、心のどこかでは、あのようになにもかも許して生きていければとおもう。

もちろんそうせずにやっつけたい相手をやっつけて進めることもできるんですが、殺しの道は修羅の道。

そのあたりの、道徳的な死生観を、ファンタジーとしてうまく昇華させている点でおもしろかったです。



次はスターオーシャンを、とおもっていたのだけど、セールで魔界戦記ディスガイアが安かったので購入。

シミュレーションゲームは苦手なのだけど、結局スターオーシャンを積みゲーにしてダラダラ遊んでます。


実生活では、風呂の薪仕事と、雪がだいたい溶けてきたので倒壊したネットや電気柵の立て直し。

あと、インクがでなくなって何年もほったらかしてたプリンターを、100均の注射器とアルコールで修理。

エプソンのプリンターはカートリッジホルダーが外れないので、洗浄できないとおもってましたが、ネットをみているといろいろやりようがあるようです。

全体的にインクの出がわるくて、特に黒が完全にふさがってました。

だから、モノクロで印刷すると白紙の用紙から白紙が出てきます。

ふつうは処分するところでしょう。

これを、注射器の先にチューブをつけて、アルコール液を吸い込んでからインク注入口にはめて、注射器をギュウギュウ押して、いったん休憩。

固まったインクがすこしずつ溶けてくれることを期待して、また注射器でアルコールを注入しようとする作業を繰り返すうちに、すこしずつアルコールが注入できるようになっていきました。

ノズルチェックをすると、すこしずつ黒も印刷できるようになってきました。

アルコールを乾燥させてから起動、ノズルチェック、インクカートリッジを取り外して再度アルコールの注入、の繰り返しで、修理をはじめて3日目なんですが、あしたアルコールが乾燥したら、ほぼ修理できた状態になっている気がします。

修理にかかった費用は汎用インクカートリッジと注射器とアルコールで、1000円くらいでしょうか。



きょうは節分ですが、巻きずしをつくりました。

これも100均で、プラスチックの太巻き寿司の型があったので買ったんですが、はじめてやってみたところ、ご飯をもっと詰めたほうがよかったのか、切ると寿司のかたちが崩れました。

具は、お寿司の甘い卵をじぶんで焼いて、発酵してきた大根キムチを細かく刻んでごま油をあえたもの。

家の余り物でじゅうぶんおいしかった。

あとは素煎り大豆をポリポリ食べる。これなんだか妙に後を引きます。

裏山にヒイラギが自生しているから切ってこようかともおもいましたが、ひとり暮らしでそこまでする気にはなれず。

するとつい今しがたご近所の長老さんから、「いつもおおきに」といって寿司屋の巻きずしをプレゼントしていただきました。

やっぱり、お店の巻きずしはずっしり重たくて、明らかにご飯の量がちがうようです。

2023年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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「ひ」と「し」が正しく発音できないのは、他の地域にもあるようで、例えば北海道では「旭川」を「あさしかわ」と発音する所もあるようなんです。

仕事でボイストレーニングもやっているのですが(歌だけでなく発音も)「ひ」「し」の発音は誰でも曖昧になりやすい傾向があるようです。
「ひがし」も、「しがし」に聴こえてしまう人はけっこういます。
「ひし形」となると、「シシガタ」に聴こえてしまい、案外多くの人が曖昧な発音で、聞き取りにくくになります。

三代東京に住んでいる人がそうだとか、遺伝とか諸説ありますが、私が考えるところでは、江戸っ子特有の巻き舌的なべらんめぇ口調と、
威勢のいい早口の癖が、発音不明瞭の言葉を作っていったようにも思います。
そういう話し方をする家庭に生まれたから、それを聞いて育ったからといって、そうそう上手に「ひ」「し」が混同したり入れ替わったりしないと思うんですが(笑)
現代でこういう話し方をする人は、ご高齢の一部の人のようですね。

実際は、舌の横方向の形状に関係があるらしいのですが、詳しい理由はわかりません←これだけ書いて結局わからない(笑)


東京の場合、代々住んでいる人はそんなにいるわけではなく、戦後の集団就職あたりから東京に出て来て、そのまま住み着いたというほうが多いかもしれません。
これは、農園主さんが1133で書いていらっしゃる、「それぞれちがった習俗や文化を持ち込む」というお話のように、東京もそういうところだと感じます。
(追記1)
お正月のお雑煮の作り方が家庭によってずいぶん違うのは、その一例かと思います。

お七の話、事実はほとんど不明で、大げさに脚色されたものばかりですね。
昨年あたりでしたか、お七のことを少し詳しく調べてました。
気性が激しいから火をつけた、という話も読んだことがありましたが、農園主さんが書いていらっしゃるように、論理の飛躍だと思います。

女心というものを私なりに考えると、一途に思いつめた末のことで、当時火付けが死罪とわかっていての行動。
自宅が火事になれば、愛する人のいるお寺に避難でき会えるという、短絡的思考ではありますが、会いたい一心だったとわかります。
会いたさ見たさに怖さも忘れ、という歌もありますが(大正13年 籠の鳥)、本当に必死だったんでしょうね。

お七が処刑されたあと、お七の棺に両親がお七が執着した着物をかけてやるのですが、寺男たちが小遣い稼ぎに振袖を質屋に(ひちや・しちやが出てきました)売ってしまいます。
それを親に買ってもらったある娘が、原因不明の病で寝込み死んでしまうのですが、その日は、お七の処刑された日。
そして一年後、やはりお七の命日に原因不明の病で死んだ娘は、その因縁の着物を着てから寝込んだのだとか。

棺にかけてやって、供養されたはずの振袖がまだあったということを知ったお七の親が、今度こそお七の振袖を供養しようとお寺に持って行くのですが、
不思議なことに追記2 振袖に火がついて、その火があっという間に燃え上がり、江戸の大火(明和の大火)となったというお話は、実にもっともらしくできています。

ただしこれは、本郷の質屋の娘、お梅の話と実に紛らわしく、お梅の場合もとても似た話でありながら、振袖火事=明暦の大火とされていて、よくわかりません。
脚色されやすい題材なんでしょうね。

(追記3)
明暦のほうが明和より前なんですね。だとすると、お梅の話のほうがお七より先ということになります。あ~よくわからない(笑)


今日は、お札3体をいただく日でしたか?
ずっと続いてきた慣習をやめるというのも一苦労かと思いますが、それこそ心が伴わない単なる儀礼、習慣ならば、負担のないように行事を減らすのはいいことですね。

寒山拾得が軍服を着せられ~~、というのは、なんだかとても考えさせられますね。

お七の事から「籠の鳥」という歌を思い出し、何気なく検索していたところ、桂吉朝が「狐芝居」という上方落語の中で、実際にこの歌の冒頭を歌ったと書いてあり、
さらに検索しましたが、動画は残っていないようでした。
どんな話かな、とYouTubeを探したら、「ふじいでら素人噺の会」の「可笑家五目」という人のものがありました。
歌は歌っていませんでしたが、この人本当に素人? うまいな~~と思いました。
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出かける前に、ちょっとおもったことをメモ代わりに。

世の中は均衡をとろうとするので、引っ張るチカラを強めると、向こうから引っ張り返すチカラも強くなります。

じぶんが一方的に引っ張り続ける、ということが……たとえじぶんの一生の間はそれでいけたとしても、不均衡はいつかかならず是正されます。

あるいはそれは子孫が根絶やしになるほどの革命かもしれませんし、もっとべつのカタチかもしれません。

当然じぶんが生きている間に是正されてダメになるかもしれない。

人間が、そのような引っ張り合いの土俵からおりるのはもっとも望ましいようにおもえるのですが、国家はそれを許すでしょうか。

第二次世界大戦のような戦場で、寒山と拾得が軍服を着せられ、銃剣を担がされているような風刺を、ふと想像していたのです。

#与太話
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きょうは自治会の宮講といわれる行事があるんですが、まあお酒と一緒に食事会をするだけです。

きょうは野菜の配達のみにして、ひさしぶりに午前中を休みにしました。

午後は、様子を見て収穫するかどうか決めます。

牛頭天王の掛け軸を飾るんですが、これはおそらく江戸時代以前のもので、地域の八坂神社が以前祇園社だったころの名残で、末端の氏子はスサノオではなく、いまだに牛頭天王をまつっているようです。

しかしいまでもよその田舎では宮講というと、ぼくのような人間には堅苦しくてイヤになってしまうような儀礼や型が多いようですが、うちのあたりではもう、お酒をふるまう食事会と化していて、儀礼というと掛け軸に向かって拝礼する程度のことです。

その儀礼も、二礼二拍手一礼をするんですが、祇園社を神道とみるとか、仏教とみるとか、祝詞をとなえるとか、そんな堅苦しいことも考えないあたりが、じつによろしい。

そんな宮講でさえ、もう人が集まらなくなって、もう来年からは開催しないというのでもいいのではないか、という声が聞かれます。

よその自治会ではもうやめているところもあるらしいです。

まあ、移住者が増えてきた昨今、地域でおなじ神仏を信心するという時代ではありませんし、実際わずらわしい行事を減らしていかないと、自治会の役員も少なくなって負担がタイヘンです。

やっぱり神様というのは、イザナギが言ったとおり、人が千人死ぬのであれば、千五百人生まれるようにしてやる、というような社会であってこそ信仰されるものです。

いまの中山間部のように、人が死にゆくままになって、外から人を呼んでなんとかつじつま合わせをしているような地域では、それぞれがちがった習俗や文化を持ち込むわけですから、なかなか信仰をまとめることもできないことでしょう。

#与太話
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1130
八百屋お七のことはほとんど知らず、恋する男に会いたいために家に火をつけるという話を知っていただけなんですが、ほんの軽く調べた状態でふたつほど、横道にそれるような雑談を。

Wikipediaを読み飛ばすように読んでいたところ、お七は丙午生まれなのではないか、という俗説がある、ということを知りました。

丙午に生まれた女性は気性が激しい、という迷信に基づいています。

気性が激しいので、恋する男の家に火をつけるようなことをするんだという、論理の飛躍です。

が、それでふと合点がいったのが、元東京都知事で意地悪ばあさん役をしていた青島幸男が書いた『人間万事塞翁が丙午』でした。

この作品は直木賞を受賞してるんですが、それなりに分厚い本で、東京日本橋で戦前戦後を生きるハナという女性の半生を描いています。

高校生のころに読んだというのもありますが、作品中に、丙午生まれの女性の気性が激しいという説明が出てきたかどうか記憶になくて、ずっと「どうして塞翁が丙午」なんだろうとおもっていたんです。

「人間万事塞翁が馬」という故事は、幸不幸は予想がつかないという意味ですが、これに丙午という言葉をくっつけて、「丙午生まれのハナが、予測のつかない時代をたくましく生きる」という意味だったのか、といまさら気づいたという次第でした。



あと、お七という名前なんですが、大阪の人は……まあむかしの大阪の人ですが、これを「おひち」と読みます。

「し」という言葉が「ひ」になってしまうようです。

なので、大阪では質屋の看板の横にわざわざ「ひち」とルビを振ってあるのを見たことがあります。

しかし「シシ鍋」が「ヒヒ鍋」になるようだと、サルを鍋にしているようでギョッとします。

逆に江戸っ子は……これもむかしの江戸っ子なのだろうとおもいますが、「ひ」の発音が「し」になってしまうといいます。

「昼間」が「しるま」になるような感じでしょうか。

これも「マントヒヒ」が「マントシシ」になるようだと、マントを着たイノシシを想像するわけですが、大阪と東京では「し・ひ」の発声が逆になるということを、ふとおもい出した次第です。



あと、東京と大阪の人……あるいは地域による人々の性格的特徴の違いは、仏教の宗派によるところが大きいのではないかとおもったんですが、これはまたべつの機会に。

2023年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ことしはカメムシがほんとうにすごい。
毎日10匹ほど捕獲してますが、これは家の中だけの話。

野良仕事をしていたらすさまじい数のカメムシがいますが、もう相手をしません。
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『魔法少女まどか☆マギカ』をみました。

感想と考察です。



望みをかなえることと引き換えに魔法少女として契約すると、ソウルジェムという結晶に魂を移して、肉体はかりそめになる。

魔女はグリーフシードという結晶を持っています。

魔法少女は魔女を討伐し、グリーフシードを得てソウルジェムを浄化するのですが、浄化ができずにいると魔法少女は魔女になります。

なので、ソウルジェムの成れの果てが、グリーフシードということです。

そのため魔法少女は魔女の討伐に明け暮れなければならず、それでもいずれは魔女になってしまう。



ソウルジェムとグリーフシードの関係性でふとおもったのが、シェイクスピアの『マクベス』です。

権力闘争によって血で血を洗う悲劇となるこの戯曲では、冒頭に3人の魔女が出てきて、このような言葉を残します。

"Fair is foul, and foul is fair."

「きれいはきたない。きたないはきれい」

魔女たちにたぶらかされたマクベスとその夫人は権力欲におぼれて、殺人を繰り返しました。

しかし深層心理でその罪悪を浄めたかったのか、夫人は夢遊病となり、夢の中で落ちない血を落とそうと、必死に手をこすり続けるのです。

魔法少女の、汚れていくソウルジェムを延々とグリーフシードで浄化し続けなければならないというくだりは、野望と引き換えに、血の浄化を延々と繰り返して絶望するマクベス夫人のようです。



地球外生命体のキュゥべえは、宇宙のエントロピーの問題を解決するために魔法少女と魔女を利用している、ということなんですが、たとえると戦争における武器商人のような役割です。

武器商人は、戦争をする互いの国に武器を売りつけて、利益を得ます。
かれらは戦争によって儲けることだけを考えているので、戦争が悪であるという観念がありません。

おなじようにキュゥべえは、魔法少女を魔女にし、新たな魔法少女を勧誘することを繰り返して、エネルギー(利益)を得ることが目的で、人間的な善悪に興味がありません。



最後のまどかが魔法少女になるための願いは非常に宗教的です。

じぶんの足元のだれかを救うのではなく、神のようにすべてを救う犠牲と救済を望みます。

最終話に至る間際で、タイムリープによって最適解を得ようとする展開になりましたが、最終話でこれまでの謎解き的な物語から一気に、神話として作品が完成したのには感心しました。
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納豆一日に2パック。

ナットウキナーゼのサプリメントはどうも効いている気がしませんが、実物の納豆は食べてから3日で、胸の痛みが軽快しつつあります。

ねばねばさえなければ、習慣にしやすいんですけどね。


まだうずくときはありますが、痛みは遠ざかりました。

やっぱり血栓系の症状だったのだろうとおもいます。

かなり不穏な痛みでしたが、生き返りました。もう元気です。

2023年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ここしばらくの菜園について、まとめて書いておきます。


7月くらいになるとぼちぼちニンニクの値段が落ちます。
あたらしいニンニクのときの値段では売れなくなるし、市場ではいつだって中国産のニンニクが爆安価格で大盤振る舞いです。

そこでぼくは値段の落ちる7月くらいから、球のにんにくをほぐして、バラで売るんですが、この際に大きなものは来年の種球に回します。

小さくて売り物にならないのは、来春に葉ニンニクとして売る用に回します。

つまり売り物にするのは中くらいの大きさのもの。

で、よけておいた大きな種球は先日植え終えて、きょうは葉物野菜がうまく育たなかった畝を片付けて、再度耕して、葉ニンニク用の小さな種球をばらまきました。



ダイコンとタマネギにかけていた不織布をはずすと、ダイコンはまあまあ。

タマネギはよくわかりません。雑草のほうがよく生えてます(笑)

どちらも自家用なのですが、白菜も大根も、自家用でいい加減につくったものはそれなりにできてます。



サトイモをきのうから収穫しています。まだ10月なのと、やっぱり夏に雨がもらえなかったこともあって、去年よりかなり小ぶりです。

しかしあれだけのひどい天気のわりには、まあまあ盛り返してくれました。

幸か不幸か、大風でバイオマルチが破れて、それによってことしは土寄せをしたんですが、やっぱり土寄せをすると子芋の頭が白くてきれいです。

そのぶん去年より歩留まりがよいので、ひとつひとつのイモは小さめでも、このままいけば最終的には去年と変わらないくらいの成績が狙える……かも。

#野菜

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きょうは、全国的に防災訓練の日だったようですが、うちの自治会では集落一帯のゴミ拾いをしてから、防災用のおかゆの試食←これが防災訓練。


きょうの作業は、ほうれんそうと春菊、かぶの種まき。

ほうれんそうは残り5mほどでワリフが切れたので、長繊維不織布でカバー。
ちょうどいい生育実験になりそうです。

かぶと春菊は長繊維不織布で栽培しますが、これから雨が続くようになって気温が下がりそうなので、あまり悪い影響は出なさそうな気がしています。

それよりは、今度雨が降り出すとなかなかまた土が乾かないんじゃないかと、そっちのほうが心配です💦

きょうの万歩計は1万2千歩。ほどよく疲れました。
#野菜

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いまさらですが、3DSのドラクエ11を終盤まで遊んでいて、キャラクターはたいがいレベル90台後半。
ヨッチ族の物語をクリアしようと……これは正直つまらないんですが……がんばっています。

前回クリアしたときは飛ばしていた要素です。
ことしの頭には、それなりに楽しんでクリアしたファンタジーライフも、あらためてすべての職業をダラダラとクリアしました。

どちらも軽く200時間以上は遊んでるんですが、いま、ファミコンやスーパーファミコンが遊べる携帯端末が出たら、ぼくはどうなっちゃうんだろう。←寿命がきます

#与太話
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ルパン三世の作曲家である大野雄二の、大野雄二節は、たしかにあるのです。

もう、この人にしかできない節回しというか、聞けばすぐ、「大野さんやんか」となる。

この曲はぼくがとても好きなルパン三世の一曲ですが、大野雄二さんのほかの曲を聞いて、ルパン三世を彷彿することもあります。



これなんかわかりやすい一例で、横溝正史の金田一耕助シリーズにおける犬神家の一族の曲ですが、もう冒頭部分がルパンそのもの。

あまりにも犬神家の一族の曲として定着してるからそうなっているだけで、あるいはルパンが犬神家なのか、大野雄二がルパンなのか、大野雄二が金田一耕助かもしれないし、金田一耕助がルパンなのか、もう倒錯してワケがわかりません。

#音楽
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炭鉱のカナリヤは、Twitter(Twitterと、言いたい)を去る。
きょうかあしたに、ぼくのアカウントは消えます。
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配達を終えて、朝、入院中の親父から電話があったんですよ。
まだ7時だったから、ふつうこんな時間にかかってくることはありません。

電話をとって、「もしもし」
返事がない。

可能性としてはふたつで、なにかとてもわるいことが起こっているか、単に電話のかけ間違い。

「聞こえてる? 電波わるいかな。ちょっとかけ直すから切るで」

と伝えて、電話を切ってかけ直すと、「もしもし」と父の声。

しゃがれてはいたけど、親父の声で、ひと安心。
結局スマホの操作を間違えてぼくにかかったらしい。

「体調はどない?」と聞くと
「体調か……最悪や」とひと言。

その言葉になんともいえぬユーモアを感じてちょっと笑ってしまい、とりつくろうように「そうか、あとひと息の辛抱やで、がんばってよ」と声をかけ「もしなんかあったら電話してや」というと、「ありがとう」と。

お盆を過ぎたあたりで、放射線治療と抗がん剤治療が終了し、そこから経過をみることになります。

ほんとうに、あともうちょっとの辛抱だし、なんとかこの治療が奏功してほしい。
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きょうの農作業は、出荷をすませて、わずかばかりの収穫と袋詰め。朝夕の水やり。
きのうやり残した除草剤散布。
奥の圃場の草がだいぶ伸びてたので、トラクターで中耕除草。

トラクターをかけていると、土が乾燥しきっているので、細かい砂が舞うんですね。
この畑でこれなら、砂漠でトラクターをかけたらどうなるんだろうな、としょうもないことを考えながら、アレルギー体質なので、砂を吸うとあんまりよくありません。

いろいろしゃあないんですが、長靴が日射を受けることで足指の先が低温やけどみたいになったり、職業病みたいなものはどうしても起こりますね。

仕事中、来客がおふたり。巨峰とデラウェアをひと房ずつと、ビールを6本いただいて、感謝しきり。

#野菜
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『竜馬がゆく』を読み続けています。トイレ読書なので、なかなか終わらない。ずいぶん前から読んでるんですが、まだ3巻の途中です。

ぼくは勝手にそうおもってるんですが、ぼくがそのとき思案しているようなことに、司馬さんの本がこたえてくれるようなことがよく起こるんですよ。

もちろんおもい込みにすぎないんですが、その起こる頻度がほかの本と比べてあまりに多いので、これは「司馬さんとの対話」だとおもうようにしたわけです。


1960年代に書かれたこの小説の中に、ある一節があって、それがいまのぼくの中で痛烈に響きました。

引用します。

竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでない限り、してはならぬ、と自分にいいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ。
相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。


最近、ついカッとなって、旧Twitterで、芸人を開店休業しながら政治活動をしてる人のツイートに反応したんですよね。

あんまり褒められたことじゃねえな、とおもいつつも、どうしてもこちらのおもうことを述べたくなったのです。

その人の発言は大炎上したようで運営側に削除されていますが、相手は大量の石つぶてを受けているので、ぼく個人の意見など届くはずがありません。

その後のかれの考え方をみる限り、あの発言に対して真意が読めずに反論をしているわれわれがわるい、ということになっているらしい。

それでまたカッとなって、もう一度メッセージを送って、それでもう、つくづく徒労感で、こんなことはするもんじゃないな、とこっちが反省する始末。

それで、もう旧Twitterに参加する気にもなれず、じぶんの王国に引きこもってる格好になってるわけですが、そこへ、けさの司馬さんからのメッセージ。

「人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。」

相手の考える正しさとじぶんの考える正しさがちがっていても、それはそれで受け止めておく、くらいの器量は、ぼちぼち持ちたいものです。

#与太話
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スマホから旧Twitterをみると、背景が真っ黒け。パソコンにはまだ仕様変更は適用されていないようです。

そうなるという話はニュースで聞いていたから、驚きはなかったものの、背景が黒いというだけで、フォロワーさんの善良でイノセンスな菜園ツイートも陰謀論めいてみえてきます(笑)


むかしテキストサイトの一群の中にいたころ、よくアクセス数を稼いでいた「斬鉄剣」というサイトがあって、これはなんだかあちこちにケンカをふっかけているおかしなサイトだったんですが、背景が真っ黒で、いかにも「後ろ暗い」演出でした。

いまからおもうとあれは炎上商法のはしりのようなもので、野次馬をあつめるような形でアクセスを稼いでいたんですが、しかしウェブサイトがマネタイズしにくい時代にあんなことをしていた理由は、いまだによくわかりません。

ああいう過激な言論にあこがれたといってたのが「侍魂」というテキストサイトでした。しかしこちらはべつに炎上を狙っているわけではなく、文字を積極的に装飾しておもしろさをアピールするものでしたが、やはり背景は真っ黒でした。
こちらは、言論の後ろ暗さというよりは、単純に黒い背景だったことで文字の装飾のインパクトが強くなる、という効果があったようにおもえますが、読み手としては背景の暗さによって、ブラックユーモアを楽しむ心構えができていたような気はします。

どちらも個人的には「有名サイトである」以上の興味はなかったのだけど、侍魂はとりわけ多くの閲覧者をあつめて、それらの一介の個人サイトが「ネット利用者を集約する」力強さには、ネット黎明期の勢いを感じました。

当時は違法な割れサイトなども、たいがい背景が真っ黒で、いちいちご丁寧に閲覧者にそのサイトの持つ印象をアピールしていたものです。


なにが言いたいのかというと、ウェブサイトのロゴであるとか、背景といったものが、利用者の心理になんらかの作用を及ぼすということは、やっぱりあるとおもうんですよね。

古い時代をおもい返しながら、旧Twitterがいまやっている演出は、後ろ暗いものを好む閲覧者をあつめる効果はあるだろうな、などと考えるきょうこの頃。

#与太話

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