山麓王国

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何年前だったか、軽トラで信号待ちをしていたら、ある食堂の前の黒板に目が留まりました。
ふつうはきょうのおススメみたいなものが書いてあるんでしょうが、そこには俳句が書かれてありました。

「小さめの恋してみたき秋の空」

ほんの一瞬目にしただけなのに、なぜか忘れることなく、ずっと心に残ってます。

日常に満たされてるけど、なにかちょっとしたスパイスがほしい、といったところでしょうか。

その句がなぜか食堂の黒板に書かれてあるということに物語を感じたのだけど、でもあのような句のような感情は、家庭を持っていてある程度の年齢になった人には、普遍的なことかもしれません。

だからこそ俳句としてとてもよくできていて、共感しやすい。

四季のうち、秋であったほうがいいともおもうし、これがことしみたいなふざけた夏だったら、

「特大の恋してみたき夏の空」
「極端な恋してみたき夏の空」
「気まぐれな恋してみたき夏の空」

くらいになりそうです。

とまあ、ぼくがどこぞのテレビ番組の先生のような添削をすると、このような改悪が行われるというわけで、こんなのは数打っても当たりません(笑)
#与太話
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ドラクエ11。
勇者のレベルも99になり、ヨッチ族の物語も終了。
最後の敵も倒して、とうとうやるべきこともなくなりました。

ヨッチ族の物語の最後の敵は神様で、「勇者が最後の敵を倒せるか試すためにこんなことをした」というのだけど、歴代勇者の物語の最終盤では、最後の敵を倒してエンディングを見ないと先に進めないイベントがあるので、この点矛盾してるよなあと。

でもそれ以外がとてもよくできていたし、170時間も遊んだのだから、じゅうぶんです(笑)
#与太話
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https://www.yomiuri.co.jp/economy/202308...

コンビニおにぎりの中にゴキブリが入っていたんだそうで。

そういえば先日丸亀製麺のシェイクうどんにカエルが入っていたという問題もありましたが、こういうことは、工場を消毒するとかそういうこととは別個の問題があるようにおもうんですよ。

たとえばじぶんのおにぎりをつくるときに、ゴキブリが入ってりゃ、「見りゃわかる」でしょう。

じぶんのおうどんをつくるときにカエルが入ってたら、これも「見りゃわかる」はずです。

じゃあなにが問題なのかというと、製造過程で「だれも商品を見てない」ことが問題なんですよね。

会社側は、「製造ラインを停止した上で洗浄・殺菌、防虫業者による緊急点検・燻蒸処理などを実施いたしました。」というのだけど、それ以前に人間が目視で確認する部分のコスト省いてる、あるいは省かざるをえないという問題が横たわっていないかい? と。

会社側は人件費をケチりたいし、働き手は現場の衛生環境がわるくても、責任の所在がじぶんにないことを知っているし、そもそも人件費をケチられているので毎日の業務でいっぱいいっぱいでそんなことの相手をしていられません。

そりゃ殺菌や燻蒸も応急処置にはなるのだろうけど、この会社にかかわらずどこも似たようなものでしょうから、こういうケースは今後後を絶たないでしょう。


だって、ぼくもそうですもん。
ひとりで百姓やって、ひとりで収穫。ひとりで袋詰め。

そもそもがボンクラのオッサンなのだから、一生懸命やっても見落としが出ます。
さすがにゴキブリやカエルが入ってたことはありませんが、野菜の小さな傷を見落としていて、それが陳列棚に置いてからわるくなってた、みたいなことがあります。

反省するし、次におなじことはすまい、と気を付けるんですが、そうなるとひとり体制というのはとても怖い。

もしぼく以外にも働き手がいれば、ぼくが気づかないミスに気づいてもらえる可能性は上がるし、逆に相手が気づいていないミスにぼくが気づくこともあるでしょう。

じゃあそれはぼくが人件費をケチっているのか、というと、ぼくの場合はそうではありません。

ケチるもなにも、ひとり親方のぼくが最低賃金以下で仕事をしてるのだから、人を雇えるわけなんかないのであります! ←開き直り

#野菜
#与太話
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いまや花火大会も有料イベントになりつつあるようで、お金を出さない人は見てはいけない、なんてことになっているようですが、そんなん地元住人はなんの恩恵もなく、ただ住環境が脅かされて、ポイ捨てゴミの後始末をするだけじゃないかという反発もあるようです。

ぼくは高校時代、世界一のスケールだったときに富田林に自転車で行き、高台の空き地からPL花火を見ました。
人の家の空き地ですからいまだったら取り締まられるんでしょうが、当時はほんとうに自由でした。
もちろんすごい感動でしたが、いまとなってはもうあれ以上のものは見られないとわかって、花火の大混雑に立ち向かう気力もなくなったので、まあどうでもいいっちゃどうでもいいんです。

しかし現代は映像技術も進歩してるはずでしょうし、おなじ有料でやるんだったら、夏の間ドームかなにかを利用して、超リアルな劇場花火なんてのはできないのかな、と夢想しています。

冷房きいてて、屋台的な飲食ができる売店があって、2時間ほどのイベントで、というのだったらいいなあ。

おじさんは、そんなんのほうがいいなあ。
#与太話
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いまさらですが、3DSのドラクエ11を終盤まで遊んでいて、キャラクターはたいがいレベル90台後半。
ヨッチ族の物語をクリアしようと……これは正直つまらないんですが……がんばっています。

前回クリアしたときは飛ばしていた要素です。
ことしの頭には、それなりに楽しんでクリアしたファンタジーライフも、あらためてすべての職業をダラダラとクリアしました。

どちらも軽く200時間以上は遊んでるんですが、いま、ファミコンやスーパーファミコンが遊べる携帯端末が出たら、ぼくはどうなっちゃうんだろう。←寿命がきます

#与太話
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配達を終えて、朝、入院中の親父から電話があったんですよ。
まだ7時だったから、ふつうこんな時間にかかってくることはありません。

電話をとって、「もしもし」
返事がない。

可能性としてはふたつで、なにかとてもわるいことが起こっているか、単に電話のかけ間違い。

「聞こえてる? 電波わるいかな。ちょっとかけ直すから切るで」

と伝えて、電話を切ってかけ直すと、「もしもし」と父の声。

しゃがれてはいたけど、親父の声で、ひと安心。
結局スマホの操作を間違えてぼくにかかったらしい。

「体調はどない?」と聞くと
「体調か……最悪や」とひと言。

その言葉になんともいえぬユーモアを感じてちょっと笑ってしまい、とりつくろうように「そうか、あとひと息の辛抱やで、がんばってよ」と声をかけ「もしなんかあったら電話してや」というと、「ありがとう」と。

お盆を過ぎたあたりで、放射線治療と抗がん剤治療が終了し、そこから経過をみることになります。

ほんとうに、あともうちょっとの辛抱だし、なんとかこの治療が奏功してほしい。
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『竜馬がゆく』を読み続けています。トイレ読書なので、なかなか終わらない。ずいぶん前から読んでるんですが、まだ3巻の途中です。

ぼくは勝手にそうおもってるんですが、ぼくがそのとき思案しているようなことに、司馬さんの本がこたえてくれるようなことがよく起こるんですよ。

もちろんおもい込みにすぎないんですが、その起こる頻度がほかの本と比べてあまりに多いので、これは「司馬さんとの対話」だとおもうようにしたわけです。


1960年代に書かれたこの小説の中に、ある一節があって、それがいまのぼくの中で痛烈に響きました。

引用します。

竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでない限り、してはならぬ、と自分にいいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ。
相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。


最近、ついカッとなって、旧Twitterで、芸人を開店休業しながら政治活動をしてる人のツイートに反応したんですよね。

あんまり褒められたことじゃねえな、とおもいつつも、どうしてもこちらのおもうことを述べたくなったのです。

その人の発言は大炎上したようで運営側に削除されていますが、相手は大量の石つぶてを受けているので、ぼく個人の意見など届くはずがありません。

その後のかれの考え方をみる限り、あの発言に対して真意が読めずに反論をしているわれわれがわるい、ということになっているらしい。

それでまたカッとなって、もう一度メッセージを送って、それでもう、つくづく徒労感で、こんなことはするもんじゃないな、とこっちが反省する始末。

それで、もう旧Twitterに参加する気にもなれず、じぶんの王国に引きこもってる格好になってるわけですが、そこへ、けさの司馬さんからのメッセージ。

「人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。」

相手の考える正しさとじぶんの考える正しさがちがっていても、それはそれで受け止めておく、くらいの器量は、ぼちぼち持ちたいものです。

#与太話
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スマホから旧Twitterをみると、背景が真っ黒け。パソコンにはまだ仕様変更は適用されていないようです。

そうなるという話はニュースで聞いていたから、驚きはなかったものの、背景が黒いというだけで、フォロワーさんの善良でイノセンスな菜園ツイートも陰謀論めいてみえてきます(笑)


むかしテキストサイトの一群の中にいたころ、よくアクセス数を稼いでいた「斬鉄剣」というサイトがあって、これはなんだかあちこちにケンカをふっかけているおかしなサイトだったんですが、背景が真っ黒で、いかにも「後ろ暗い」演出でした。

いまからおもうとあれは炎上商法のはしりのようなもので、野次馬をあつめるような形でアクセスを稼いでいたんですが、しかしウェブサイトがマネタイズしにくい時代にあんなことをしていた理由は、いまだによくわかりません。

ああいう過激な言論にあこがれたといってたのが「侍魂」というテキストサイトでした。しかしこちらはべつに炎上を狙っているわけではなく、文字を積極的に装飾しておもしろさをアピールするものでしたが、やはり背景は真っ黒でした。
こちらは、言論の後ろ暗さというよりは、単純に黒い背景だったことで文字の装飾のインパクトが強くなる、という効果があったようにおもえますが、読み手としては背景の暗さによって、ブラックユーモアを楽しむ心構えができていたような気はします。

どちらも個人的には「有名サイトである」以上の興味はなかったのだけど、侍魂はとりわけ多くの閲覧者をあつめて、それらの一介の個人サイトが「ネット利用者を集約する」力強さには、ネット黎明期の勢いを感じました。

当時は違法な割れサイトなども、たいがい背景が真っ黒で、いちいちご丁寧に閲覧者にそのサイトの持つ印象をアピールしていたものです。


なにが言いたいのかというと、ウェブサイトのロゴであるとか、背景といったものが、利用者の心理になんらかの作用を及ぼすということは、やっぱりあるとおもうんですよね。

古い時代をおもい返しながら、旧Twitterがいまやっている演出は、後ろ暗いものを好む閲覧者をあつめる効果はあるだろうな、などと考えるきょうこの頃。

#与太話
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「クリニカアドバンテージ +ホワイトニング」という歯磨き粉をつかうようになってから、シャリシャリとした歯石になりかかったような歯垢が剥がれるのがおもしろくて、歯磨き→歯間ブラシ→フロス→歯磨き という、念入りな歯磨きを楽しんでいます。

2回目の歯磨きでもすこしシャリシャリしますから、一回ではどうしても磨きのこしが出ちゃうんでしょうね。

ちなみにぼくは先日歯医者の定期検診をすっかり忘れてしまい、また無事(?)歯医者難民となりましたので、もう虫歯になるわけにはいかんのです。←自業自得

#与太話
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日本の宗教について、身近なところで起こっていることでいうと、アニメやゲームで、世界中の神話や伝説からキャラクターがとられることって、日本特有の現象のようです。

転生ものにしてもそうなんですが、海外だと国をあげてひとつの宗教の価値観が根付いていたりするから、日本のように無節操な死生観や、世界中の神話からのパクリみたいなことは、かなり抵抗があるのではないかとおもいます。

日本だと、転生もののアニメや、神話のキャラクターが無尽蔵にあらわれるゲームが無節操であるという意識も薄いとおもうんですが、おそらく海外ではこれは、じぶんの信じる宗教への冒涜ということにさえなりそうです。


日本は江戸時代までは仏教推しでしたが、明治からは神道推しになりました。
推しどころか、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といって、仏教はもう日本から追い出そう、というところまで極端な運動に発展します。

ところが仏教とちがって神道には教義も教祖もないので、政府が天皇を神格化し、教育勅語という教義を作りました。

日本人はおおむねこの信仰のありようの変化を受け入れて熱狂したわけですが、太平洋戦争の敗戦によって教育勅語は廃止。
天皇は神ではなく人間であり、日本の象徴である、ということになって、日本人は「それじゃあわれわれはなにを信じたらいいの?」というところが宙ぶらりんになったんですね。

宙ぶらりんになったまま、80年近く過ぎようとしているわけです。


新興宗教もなんとなく怖いし、かといって葬式仏教も嫌気がさしてるし、なんだかなあ、といいながら、朝テレビで星座占いをみるようなのだってスピリチュアルで、プレ宗教みたいなものです。

みんながなにかひとつの信仰を持つ、ということがなくて、まとまらない。
お寺でお葬式をあげて、神社でお参りして、クリスマスパーティをする、なんて節操のなさにも、特に抵抗を感じることもありません。

なので、宗教的価値観に基づかないなんにでも転生しちゃう物語がジャンル化したり、ゲームのキャラクターには世界中の神様がやたらと出てくる、なんてことが起こってしまう。

それがわるいといってるんじゃないですよ。むしろよいことで、世界に例のない価値観だとおもっています。

人間はなにかを信仰せずにはいられない生き物だとおもっていますが、ぼくの場合も日本人であることをいいことに、特定の信仰に入信することもせず、つまみ食い的にいろいろとかじっては、なるほどなあ、なんてことをやりながら、だましだましその日を暮らしています。

そういう信仰の態度が許されている戦後日本の風土は、よいものだともおもっているのです。

#与太話
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もう10年以上、むかしの話です。
ディズニーで売ってるチュロスは、USJではなぜかチュリトスという名前で売られていて、売店でそれを「チュリトリス」と注文した女の子がいました。

それを聞いたぼくは目を伏せて心を殺すしかありませんでしたが、なぜかふとあのときのことをおもいだしたのと同時に、もしかしたら売店の人にとっては、その言い間違いはよくあることなのではないか、という気がしてきました。

https://www.google.com/search?client=fir...

検索してみたら、やっぱりそれなりにある間違いのようなので、あれは間違えた人がわるいんじゃなくて、チュリトスを売るほうがわるいんだ、とおもうようにしました。
マンゴーも名前がわるいとおもう。←延焼

#与太話
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ふと、當麻という言葉をみかけて、「あ」とおもいました。

去年ぼくは、奈良国立博物館で「中将姫と當麻曼荼羅 ―祈りが紡ぐ物語―」という特別展をやっているのを、その開催期間が終わった冬の農閑期に知って、歯噛みしたのです。

ものすごく興味があったんですが、なぜ興味があったのかということを説明するために避けて通れないのが、中将姫の物語です。

以下、仏教説話として知られる中将姫物語を要約しました。


奈良時代の貴族、藤原豊成の妻に女の子が生まれます。
紫陽花寺で有名な長谷寺に願をかけて生まれたことから、長谷姫と名付けられました。

その後豊成の妻が亡くなります。

長谷姫が6歳のときに豊成は後妻をめとるのですが、この後妻が非常に嫉妬深い性格でした。
長谷姫は聡明な美女だったために、この継母から虐待を受けます。

長谷姫は13歳の折に、朝廷でその才が認められ、中将の位を授かって内侍となり、中将姫と呼ばれるようになりました。

いよいよ嫉妬心を燃やした後妻は、家臣に命じて中将姫を殺害しようとします。
しかし中将姫の心根を知っている家臣には、殺すなどできようはずがありません。

中将姫は家臣に助けられ、宇陀の山中にかくまわれて暮らすことになりました。

豊成はその後姫を探し続けたのですが、翌年ようやく再開を果たします。
豊成は娘を都に連れて帰ろうとしたのですが、姫はそれを断り、仏門に入りたいと願い出ました。

豊成はその願いを受け入れて、當麻寺に姫を届けます。
中将姫は16歳になっていました。

それからというもの、姫は毎日仏道に励み、亡くなった母をおもい、じぶんも極楽浄土へとのおもいを募らせるようになります。

あるとき姫は仏の化身に出会い、蓮をたくさん集めなさいという啓示を受けます。
中将姫は方々に頼んでたくさんの蓮をあつめて、それを糸にしました。
するとまた仏の化身があらわれて、この糸を織り上げなさいという。

姫は一心に蓮糸をつむぎ、一夜のうちにすばらしい曼荼羅を作り上げました。

曼荼羅を完成させた中将姫は、29歳で極楽に往生したといいます。


藤原豊成は実在の朝廷高官でしたが、中将姫は実在した人物かどうか、さだかではありません。
当時、奈良から大阪の四天王寺にかけて、この手の仏教説話が多数つくられたようです。

継母にいじめられて家を追い出され、仏の功徳を受けるというパターンはほかにも「俊徳丸伝説」があって、どちらも物語の骨格の部分がとても似ています。

それはともかく、ぼくは子供のころ、東大阪市にある「大蓮」という地域に住んでいました。
近くの公園の土を30cmも掘ると水がわいてくるようなところでした。

いまは治水工事がなされていますが、むかしの大阪はどこもかしこも沼地で、田んぼとレンコン畑だらけだったという、その名残があったんですね。

最近になって知ったんですが、この大蓮という地名は、中将姫が蓮の糸を探したときに、とてもよい蓮がとれたことからその地名になったとのことでした。

知らず知らず中将姫の伝説に縁のあるところで暮らしていたのだな、と勝手に親近感をおぼえていたのです。

#与太話
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おじさんは、ここ最近、ずーっとこの曲聞いてる。



#音楽
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中央線、東京に行ったときに一度だけ乗ったのだけど、こんな情緒のある感じじゃなかったな。
でも、たぶん、そこに暮らしていると、情緒が生まれるんだとおもうのです。


#音楽
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長生ちゃん、すごい人だったんですよね。



#音楽

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ことしはたぶんどこもお祭りさかんだとおもいますが、ぼくは大阪の八尾に住んでいたことがありました。

八尾というのは河内音頭の本拠地で、ちょっとヤンチャなのはやぐらの内側で「飛び河内」というカロリー消費の激しい踊りをして、やぐらの外側ではおっとりした老若男女踊れるのをやってる。

石田長生はギタリストで、charという日本を代表するギタリストの相棒を務めるような技巧者で、八尾出身でした。

ぼくは当時八尾のショットバーに通う阿呆な道楽者で、そのバーでブルースバンドをしてたんですが、あるとき店に行くと、先輩が「おい、この人知ってるか」という。

「んー?」というと、「石田長生さんやがな!」と興奮気味にいわれて、ああ、すごい人やんかと。
八尾出身の人だから、たまたま帰ってきてて、適当なバーに立ち寄った、ということなんでしょう。

ちょうどそのときは妹も後で合流して飲む予定だったんですが、ともかくぼくは酒飲みなので、長生さんとわあわあしゃべってるうちにべろんべろんに酔っ払い、妹も合流してこれもまた酒飲みで、次第に明るい酒ではあるけども乱れてくる。

「長生ちゃん! 帽子かして!」
「長生ちゃん! 一緒に写真撮りましょっ!」

悪魔のような酒乱の兄妹が、文句のいえぬ著名人を相手取り、妹が帽子をぶんどってぼくに長生きちゃんの帽子をかぶせ、ぼくと妹と長生ちゃんで写真を撮るという、いまからおもえば信じられぬような狼藉をはたらき、それでも長生ちゃんはなぜかうれしそうで、ご機嫌でしてね。
そのときはものすごくよい酒宴だったのです。

あれから15年ほどして、長生ちゃんがガンで亡くなったと知り、ぼくはそりゃあもう、いまでも落ち込んでます。

さて、AZUMIという、これも日本を代表するブルースギタリストがいて、この人の弾き語りは、完全なる憑依型。
予定調和的なものではなくて、その瞬間の空気から作品を生み出していくような、天才です。

大学時代に、伊勢の内宮のカップジュビーというカフェでライブをしていて、それを聞いて以来、いまもYouTubeで親しませていただいてるのだけど、そのAZUMIさんの、石田長生さんを憑依させた自家製河内音頭の一曲。



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夏ならではの怖い話、といっても、ぼくはなにか、守られているとか、直感はあるのだけど、霊感はまったくないんで、その手の話はできません。

ただ最近、個人的に怖いとおもったことはあって、それはなにかというと。

寝ている間に怖い夢をみて、金縛りにあったりして、「助けてくれ」と言おうとしてもうまく声が出せず、ようやくなんとか声が出て、「助けてくれえ!!」と叫ぶ。

そんな経験、ありませんか?

一生懸命叫んだので、これでだれか助けてくれるんじゃないかと期待しながら、なんとか金縛りを解いて、フッと目が覚める。

しかしどうやらこのとき、「助けてくれ」の言葉は、実際には言葉になっていないらしいんですよ。

ぼく自身は、あれは現実の言葉になっているとおもい込んでいたのですが、実際はまったく言葉になっていないようです。

だから、すごい怖い夢をみても、一生懸命叫んでも、現実にはだれも助けにきてくれないんですよね。



ばあちゃんが亡くなる二日前のこと。

97歳のばあちゃんは、もう意識もほとんどなく、衰弱していたんですが、もう最後かもしれないと、親戚がみんなで集まってあれこれしゃべってたときに、ベッドに寝ているばあちゃんの指がとことこと動くのをみたんです。

なにか懐かしい声がするので、意識の反応があったのだろう、というくらいのことでした。


いまになって、もしかしたらばあちゃんは、夢の中で、なにかわれわれに向かって、言葉を叫んでいたのかもしれないなと、そんなことをおもったんですよね。

あの指の動きからばあちゃんの言葉を汲み取ってやることはできなかったものか、とおもうと同時に、じぶんが死ぬときも、もしかしたら、一生懸命叫んでるのにだれにも言葉が届いてないのかもしれないなとおもうと、背筋がキュッとなったんですよね。
#与太話
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このツイートは、日本に難民申請を行っているクルド系の男に、じつは金づるになる株主がいて、高級車を乗り回すような立場であったということに対して、ビートきよしが「何が難民だ帰れ帰れ今すぐ帰れ」と言った、というものです。

まあ著名人なんだし、わざわざこんな排斥的な意見を表明しなくてもよいともおもうけど、これに左翼インフルエンサーたちが組織的にものすごく執着をして、返信や引用リツイートでヘイトだと言い募り、あげく「ヘイトきよし」などと叫んでいるのをみて、なんだか理解がひとつ進んだ気がします。


先日、フランスで暴動が起きました。
アラブ系の少年が警官に射殺されたことをきっかけに広がったのですが、反差別を主張する極左が煽った暴動だったといいます。

もちろんこの問題の背景には、少数者の苦しみへの配慮の欠ける国の姿勢など、日本とよく似た構図があったわけで、そこを無視するわけにはいきませんけど、それはいったん置いといて、このフランスの事件を見て、ぼくが国家転覆を企図する左翼活動家だったらこうおもいますよ。

「あ、いまの世の中って、反差別を利用すれば、暴動を起こしたり、国家転覆のクーデターを起こすワンチャンあるのか」

難民とか、いかにも弱者っぽい立場の問題をうまく利用して、われわれはこういうのを守るのだ、とやって、じつはこっそり弱者難民を装って日本に侵入するテロリストともうまく手を組んで、大きなムーブメントを起こして国家転覆を狙うってのはどうだろう。

少なくとも、フランスでは、ちょっといいところまでいったじゃないか、と。


日本では埼玉県にクルド系住人が集中しているようで、かれらが川口市内の病院で乱暴狼藉のケンカ騒ぎを起こしたというニュースがありました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/5a35ac...

埼玉に居住するクルド人の中にはいわゆるヤンキーのような示威的な行動をとるのもいたそうで、記事中の言葉を借りれば、「コンビニでたむろし、メンチ切ってくる」「車で危険運転をする」「気味が悪い、怖い人たち」だったそうな。

少なくともぼくがTwitterで観察している限り、左翼系の人たちはこの機動隊まで出動した暴力事件のニュースには、だんまりを決め込んでいました。

まだ是々非々で、アカンものはアカンという立場を表明しているのならわかるんですが、だんまりだったんですよ。


このあたりを踏まえると、ビートきよしがよくわからない金回りのよいクルド系住民の難民申請ということに気味のわるさを感じて、帰れ帰れといったのは、まあ著名人の言葉としてうかつではあるとおもうけど、関東圏内に住む人としては当然の危機意識のあらわれだとおもいます。


ところが極左系の連中がこの、いち芸能人の自由な範囲でのつぶやきに過剰に反応し、組織的にヘイトだと大騒ぎして攻撃したあたり、もしかしたらかれらも、こういった「難民」を利用してなにかやろうとしてるのかもな、と邪推せずにいられません。

で、いちばん気の毒なのは、そういう政治運動に巻き込まれて、ほんとうに支援が必要な難民が、悪党扱いされて十把ひとからげに排斥されることになる、ということだとおもうんですけど、この点もビートきよしはすでにつぶやいてます。



日本でも、フランスのあの暴動事件は、対岸の家事じゃないんだとおもいますよ。

#時事
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こちら、「フルベッキ群像写真」といいます。

オランダの宣教師グイド・フルベッキが佐賀藩の藩校で学生と教師をあつめて撮影した写真で、明治初年頃のものといわれています。

……フルベッキですか。(なにかを想像しながら)
#与太話

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軽トラでスーパー行く途中に、ラジオでこの曲を聞いて、最初、「あ、変わったブルースだな」とおもって、しばらく聞いてたら、なんか聞き覚えがあるぞ、と。
途中で、あ、これレニー・クラヴィッツのアメリカンウーマンやんか、と気づいたんですが、もともとこっちが原曲で、Guess Whoというバンドの曲だったようです。
個人的にはこの原曲のほうが好きだなあ。



#音楽
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ふだん何気なくつかってる言葉が、じつは省略語で、意味がわからないということがあります。

回をわけて2例あげますが、今回は「祇園」。

祇園精舎の鐘の声、と平家物語の冒頭にありますが、祇園とは「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」の略。
ですから、省略せずにいうと「祇樹給孤独園精舎の鐘の声」になります。
漢字が多くてイヤになります。

祇樹というのは、ブッダがいたころのインドの、コーサラ国の祇陀太子(ジェータ太子)が所有していた樹林です。
祇陀太子の樹林だから、祇樹。

給孤独というのは、スダッタという金持ちのニックネーム。
漢字で書くと須達長者なんですが、孤独な貧民に施しを与えるような人だったそうで、そこで給孤独というニックネームがついたそうな。

精舎というのは修行する場所ということです。

この言葉が生まれた由来として、スダッタがブッダに入れ込んだあげく、ジェータ太子に頼み込んで巨額の私財を投じて樹林を買い取り、ブッダの修行の場所にしてくれと喜捨するんですね。

だから「祇樹給孤独園」は「祇陀太子の樹園を買った給孤独が、ブッダに捧げた修行の園」ということになります。
この言葉が省略されて祇園となったわけです。

ちなみにインドの祇園精舎は場所も特定されていて、グーグルマップにも載ってます。
https://www.google.com/maps/place/%E7%A5...

#与太話
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オクラ、獣害がおさまったおかげで、お盆あたりから多少収量が持ち直すかもしれないなという感じ。

例年とはまったく比べ物になりませんが、うまくいけば人件費以外は回収できるかな。
出費した分がそのまま戻ってきて終了、といった感じですが、戻ってこないよりはマシだろう、とため息まじり。

さて、梅雨まで大量の雨が降り続いたあと、いまはカンカラカンに乾く日々が続いていますが、このような無茶苦茶な天気がいい実験になっていると考えて、ことしはあえてズッキーニもオクラも葉を落とさずに育てています。

ズッキーニは葉を落とさないと、実に葉擦れを起こすものがありますし、収穫の見落としも発生するんですが、収量は例年より上々の印象。

オクラは実の2~3節ほど下からどんどん葉を切り落とすのが栽培の基本なんですが、これをすると干天続きで水をやれなかったときに、枝がすべて落ちて茎だけの棒になったことがあります。

葉っぱを残すことで、株元が日陰になって多少は変化があるか、あるいはやっぱりダメか、うちは水やりの届かない圃場が多いので、そのへん、観察してみようとおもいます。

#野菜
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原題「The Homesman」、邦題が「ミッションワイルド」。

トミー・リー・ジョーンズが監督と主演を務めた映画で、きょうアマプラで3回目をみました。

3回見て、3回気づきがある映画です。

ネットのレビューなどでは、ペラペラの感想や説明であふれてますし、どういう映画なのか、よくわからないという人がほとんどだとおもうんですが、ストーリーについてはネットを調べれば出てきますから、ぼくは説明されていない部分を書きます。

これはアメリカの西部開拓時代において、社会がイケイケの開拓精神や資本主義、男尊女卑の抑圧とそれを黙殺する風潮に堕している。その堕落はプロテスタント教会も例外ではなく、だれも本来の崇高な精神を顧みることはない、という骨格の話です。

ほんとうの善性をもった信仰の人が、ほかならぬ神に打ちのめされるような話で、この映画は西部開拓時代ではあっても、既存のアングロサクソン賛美の勇ましい西部劇とは真逆の、アングロサクソンの開拓史の暗部を暴くような構成になっています。


ぼくは先日、ビッグモーターの件で「経済」「経営」の経という字は、お経とおなじ語源で、道理を意味する、といいました。45

じぶんの生活を実践するには道理が必要で、お金を扱うにも道理が必要。

その道理は、わが国においては仏教の「経」が負担していて、近代資本主義の礎であるヨーロッパ、アメリカではキリスト教の敬虔さが、「金がすべてさヒャッハー!」みたいな実際主義的な暴走を止めていた。

……ところが、ほんとうは、止められなかったんですよね(笑)
止められているなら、現代にビッグモーターの問題などは起こりません。

資本主義はルール無用の奪い合いであり、主義を前にすると道理は踏みつけにされます。

西部時代のアメリカはみな開拓と資本主義に狂っていて、まっとうに信仰し、まっとうにお金を運用し、その地に根付いて生きようとする人を退屈だと言い、みななにか空虚な成功を夢見ている。

主人公のヒラリー・スワンクと、心を病んだ女性たち以外は、すべてがこの手の人間で、唯一小悪党のトミー・リー・ジョーンズが実際主義からすこし改心しかかるのですが、やっぱり最後は拳銃ぶっぱなしながら、資本主義と開拓精神の熱狂に戻っていくのです。

そのあたりがわかったうえであの作品をみると、みえてくるものがまるで違ってくるという、そういうタイプの映画です。

#与太話
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マダラジソで梅干し漬けてるんですが、けっこう赤くなってます。
#野菜
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ホームページの宿命で、ほっとくと返信のラリーはどんどん長くなっていきます。

もしホームページのコミュニティを広げたら、返信のリソースがたいへんなことになっちゃうぞ、というおかしな焦燥感とともに、じゃあコミュニケーションをはしょるかというと、それはどうもホームページの道義に反するという、これまたおかしなジレンマが起こってしまう。

まあ、ホームページの道義ってなんなんだ、という話なんですけども(笑)

それでも、どうしてもこの点が割り切れなくて苦しむ、ということを、20年前にもやっていたなあ、とほほえましく懐古するきょうこのごろ。


ホームページが衰退していった原因のひとつは、本筋から離れたリソースが増大していく、という点だったとおもいます。

ただ日常を語りたいだけなのに、最低限のプログラムの知識が必要だったり、いいねですませられないからコミュニケーションがどんどんふくらんでいく。
管理人の性質に合わせてホームページのルールなるものがどんどん増えて、立て看板だらけになっていく。
その点、システムの保守管理をしてくれているブログやSNSと比べて、ホームページ時代は非効率的でした。

でもいまぼくは、やっぱりこの非効率が大事だったんだ、と考え直しています。


生活が効率的であるということは一種の快楽ではあるので、頭ごなしに否定はできませんけど、じつは人間自体は非効率的な生き物です。

現代は効率を求める快楽に向かいすぎて、非効率を愛する視座が欠けているようにおもえるんですよね。

あんまりいまこの瞬間の効率性だけを求めすぎると、子供をもうけるのだって非効率的だ、子供にじぶんの生活の足を引っ張られる、みたいな極端な考えに行きつきそうだし、実際少子化という現象はそういうことだとおもいます。
ぼく自身、ここまで極端ではなくても、家庭がないことの背景に、非効率を愛せなかったじぶんがいるような気がしてなりません。

しかしぼくはもう、これから日を追うごとに非効率的で非生産的な、孤独なジイさんに向かっていくわけですから、せめてこれからは、この採算の取れない「お祭りの場所」(楽しいけど生産性のない場所)を愛することで、活路を見出そうじゃないかという、淡い期待を寄せているのです(笑)

#与太話
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『浮雲』というタイトルの小説を、二葉亭四迷は明治20年に、昭和24年には林芙美子が書いています。
で、ぼくはどちらも読んだことがありません。

だから、知らないのをいいことにこれからものすごくうるさいことを書き連ねますが、まずぼくはいままで、浮いていない雲を見たことがないんですよ。

「頭痛が痛い」みたいなもので、雲はそもそも浮いてるのに、わざわざ念を押すように浮雲という意味がどこにあるのか、と。

しかしふと気になって、浮くの対義語である「沈む」から、「沈雲」なんて言葉はあるのだろうか、と調べてみました。

これがあったんですよね。

「垂れこめる雲」という意味合いなんだそうで、沈雲(ちんうん)なんていわれると、不肖のおじさんは下品なことしかおもい浮かばないんですが、ともかく雲は常態として浮かびながら、さらに浮いたり沈んだりしてみえるようで、わざわざ雲の浮かび方に対してそういうまわりくどい言葉が用意されている。

たぶん、浮雲は「ふわふわと軽い雲」、沈雲は「どんよりと重い雲」というようなニュアンスなのだろうとはわかってるんですよ。

しかしそれだとまたぼくみたいなヒネクレモノは、
「浮いている雲の軽い重いなんて、どうやって計るのですか( ー`дー´)キリッ」
なんて考え始めるわけです。

しかしそんなことを言いはじめたら、「青雲のこころざし」なんていうけど、ぼかぁ青い空はみたことがあっても、青い雲は見たことがないのですよ。

そんな感じで雲に対してウザ絡みしているうちにメンドウになって、あーあ、二葉亭四迷もこの際小説のタイトルを『雲』にしといてくれりゃ、こんなことを気にしなくてすんだのにと無茶苦茶な八つ当たりをする始末。

ね、ものすごくうるさい話だったでしょう(笑)

#与太話
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独裁が唯一許されるシチュエーションがあって、それは「徳治主義」をおこなったときです。

一時期のブータンがそうでしたが、国際的な潮流である資本主義の土俵に乗らず、精神的な幸福を追求するというような、ある意味国民に忍従を強いるような政策をとっても、国民がついてきたのは、統治者に徳があったからです。

その点、為政者に必要なのは、合理性や能力よりも徳だといえます。

合理性や能力は、徳をカバーする重要な才能ではありますが、やっぱり天秤にかけたときには徳のほうに傾くものです。

歴史をみると、石田三成は事務者としての能力はバツグンでしたが、なにせ冷徹で人望がなく、秀吉の威光を借りても関ヶ原の戦いでは家康に勝てませんでした。

家康自身に特別すぐれた徳があったとはおもえませんが、少なくとも当時の諸大名の中では「清濁併せ呑む器量を持つ、話の分かる統治者」ではあったとおもいます。

有能なだけで徳がない独裁者は、必ずどこかでこけます。

ヒトラーにしても、超有能で、人民をコントロールすることに血道をあげ、民族主義を喚起してドイツ国内のナショナリストを熱狂させましたが、最後はあのザマです。

レーニンやスターリンも有能で、かれらは死線を生き延びましたが、国際協調路線を投げだして当時のソ連に戻りたいと望んだ、後継者のプーチンは現在ロクでもないことになってます。

A級戦犯で死刑にされた東条英機と、戦後を87歳まで生きた昭和天皇の差はなにかというと、国体護持うんぬん以前に、昭和天皇の徳を考えずにいられません。

昭和天皇がもし謀略をもって政治をおこなう、有能でイケイケの覇権主義者であったらば、いくら戦後の国体護持をとりつけたとしても、おそらく万世一系は途絶えていたでしょう。

なにが言いたいかって?

Twitterは、曲がりなりにもいまよりは、青い鳥が飛んでいたときのほうがよかったなあ、という話です(笑)

#時事
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このホームページの投稿欄なんですが、パソコン(Windows)からだと「CTRL + ↓」で領域を広げることができます。
「CTRL + ↑」で、狭めることもできます。
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ビッグモーターや知床遊覧船で経営コンサルタントパートナーを務めていた男がいたそうで、この経営指導が黒幕なんじゃないのかと噂になっています。

まあ問題そのものはともかく、ぼくはというと、いつもどおり遠景を俯瞰するような話がしたいのですよ。

経営コンサルタントといいますが、経営という言葉の語源は仏教にさかのぼるようです。

経営の経と、お経の経はおなじ字で、おなじ意味なんですが、「ものごとの筋道、道理」を意味します。

では営とはなにかというと、いとなむ、おこなう、励む、というようなことですが、「実践する」ということなんです。
つまり経営とは、ものの道理の実践に励む、ということ。

そもそもの意味には、お金を稼ぐというようなニュアンスはありません。
資本主義という概念は、比較的あたらしいものなので、もともとは単に、じぶんにできる精一杯、奉仕するというような感じです。

源氏物語の夕顔のくだりに「大殿も、けいめいしたまひて、日々に渡り給ひつつ」とあるのですが、この「けいめい」が「経営」で、左大臣が光源氏のために忙しく立ち回った、というような意味合いです。

また平家物語では「多日のけいえいをむなしうして」とあり、これは多くの日数をかけた建築がムダになってしまった、というような意味合いです。

このことからみても、経営という概念からお金、つまり資本主義を取り除くと、そこには人のために心を砕くという意味が残ってきます。

もうすこし掘り下げて、経緯という言葉があります。
地図の縦の座標軸を経度、横の座標軸を緯度といいますが、経という言葉には、機織りにおける縦の糸という意味も含まれています。
緯は、横糸のことです。
この縦横の糸が、さっきの筋道・道理という意味とあいまって、ものごとのなりゆきをあらわす経緯という言葉になる。

さらにこの縦の糸(道理)を、生活をするための家の区画をつくる縄として考えて、「じぶんの規模を決めて縄張りをつくり、その範囲で力を尽くしてものごとに取り組む」というような意味合いが、経営という言葉に含まれてくるのです。

この言葉だけをみると、経営とはすばらしい理念なのだな、と感心します。

ところが経営という言葉に資本主義が絡むと、金を儲けるのが至上命題となって、道理が引っ込んでしまうんですね。
資本主義に限りませんが、道理はしばしば主義に服従して、「主義を実践するための道具」にすりかえられてしまうわけです。

たとえば「お金を儲けることに成功した経営者の言うことは絶対である」というゆがんだ価値観もまた、会社という世界の中では、やろうとおもえば道理になってしまいます。

社長を神様として、その宣旨はすなわち教義であり、道理なのだ、とまあ、そういう主義で道理がないがしろにされた結果、「経営がカルト化していく」ようなケースは後を絶ちません。

それで、社員はというと、実際には道理とはほど遠い非道徳的な仕事内容の中で酷使されながら、一方で便所の便器を手で洗うようなことで、上っ面の道理の実践を強要されて、あたかも道理的な仕事を実践しているように洗脳されてしまうというわけです。

#時事
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ちょうどブラタモリをみていて「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という俳句が出てきたんですが、ドナルド・キーンという日本文学の屈指の評論家はこの句に対して、すごいことをいいました。

まず、この俳句には、母音が i になる言葉が7つもあるというんですね。

「し」ずかさや 「い」わ「に」「し」「み」「い」る せ「み」のこえ

で、セミの鳴き声はミーンミーンですが、「min min」ですから、母音は i なんです。

つまり、芭蕉はこの句を詠む際に、セミの鳴き声の i を意識して、母音が i になる言葉を多用したという分析をするんですね。

ぼくはこれを聞いたときに、ドナルド・キーンの分析力のすごさはもちろん、俳句という文芸はもう江戸時代に完成されていて、たった17文字の芸術がやれることは、早々に頭打ちになっていたのだとぼうぜんとしたものです。
#与太話

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