山麓王国

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禅問答を仕掛けたということは、答えがあって答えがない、というものになるのでしょうね。
でも、人によって解釈が違っていいのか、答えはひとつなのか気になるところではあります。

山椒大夫は、丹後が舞台だとしか知りませんが、その民宿のあたりなんですね。
民宿に寒山拾得などという名前をつけるとは、何か理由があるように思います。

森鴎外の娘、森茉莉の書いた「父の帽子」は、中学の時の国語の教科書に載っていました。
今、森鴎外記念館になっているところが森茉莉が育った家なのですが、当時、「駒込千駄木」といわれた場所で、私が生まれたのは豊島区駒込ですが、
そこよりずっと東大のある本郷に近い文京区千駄木になります。
八百屋お七で有名な吉祥寺も、本郷に近い、現在の文京区本駒込ですが、当時「駒込吉祥寺」と呼ばれていました。

それはどうでもいいのですが(笑)、鴎外も茉莉も、墓所が禅林寺といい、東京都下の三鷹市にあります。
「禅」がつくので調べてみたら、やはり黄檗宗のお寺でした。
鴎外と禅宗、どういう関連があるのか、気になりだしてしまいました(笑)
太宰治は、本人の希望で、鴎外の近くに埋葬してあるようです。
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鴎外はたぶん、わかる人だけわかってくれればいい、という形で、読者に対して禅問答を仕掛けたのだとおもいます。

ぜんぶ解けるようになっているはずなんですが、まだ仕掛けがあるような気がしてなりません。


寒山寺、日本にもあったんですね。

特に青梅市の三無の寒山寺は、なかなか風狂なお寺です(笑)

舞鶴の寒山拾得も気になりますね。

しかしこの民泊のある場所は、偶然なのかなにか縁があるのか、森鴎外の『山椒大夫』で、山椒大夫が支配していた場所にかなり近いです。

ちなみに舞鶴のあたりは海に面しているからか、民宿がたくさんあります。

子供のころはこのあたりに親戚がいて、会いに行った後、母方の一族みんなで海の民宿に泊まって、海水浴や釣りをしたものです。

大阪の寒山寺、ぼくもホームページを拝見しました。

もともと琵琶湖のほとりにあって、蘇州の寒山寺に似ていたそうですが、1634年に創建された当時の寒山寺がどこにあったのか、どういう眺めだったのか、気になるところです。
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くどいほどの説明をするタイプの作家だと、私が意味がまったくわからないと挙げた、
「僧らが、ぞろぞろと来てたかった」「道翹は真蒼な顔をして立ちすくんでいた」のところなど、きちんと説明をしないと読み手が理解できないことに気がついていたのに、
敢えてそうした、と考えていいことなのかもしれませんね。

寒山拾得縁起は、その補足というか言いたかったことを、寒山拾得とは打って変わったユーモラスなものにして書いたのかもしれないと思います。
それでも、充分に書いたとは言えないのかもしれませんが。

鴎外が緻密な仏教のパズルを作ったというお話ですが、鴎外は仏教にどのような思い入れがあったのか、知りたくなってきました。

今回、寒山寺や、寒山拾得を調べていたら、東京都下・青梅市にも寒山寺がありました。
蘇州の寒山寺に因んでいるという小さなもので、無宗派・無住(住職不在)・宗教法人格無しの三無の寺であるということですが、これではもう「寺」ではないですね(笑)


大阪にも寒山寺があったんですね。
箕面の寒山寺は臨済宗で、HPで見るとかなり古い、立派なお寺のようです。


もうひとつ、これも偶然見つけたのですが、寒山拾得という農家民宿が、舞鶴の西方寺という集落にありました。


https://www.uminokyoto.jp/gourmet/detail...

蘇州料理かと思いましたが、ジビエ中心みたいですね。
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鴎外がもっと書きたかったのをおさえて書いたのではないか、というのは、ほんとうにそうだとおもいます。

ぼくもおなじことを考えていました。

ふつう物語は肉付けしていくものなんですが、もともと寒山寺に伝わっていた伝承を物語にするにあたって、極限まで徹底して引き算してますよね。

そのうえで、仏教の摂理に対して、つじつまが合うように仕上げています。

なにも参考にせずに書いた、といいますが、ギズモさんもおっしゃっていたように、かなり調べてから書いているようにおもえます。

鴎外はほかの小説では、ちょっとくどいくらい説明をするタイプの作家だったりします。

念押しのように説明を加えてくるので、読み手が想像する自由を失うと批評されているほどなんですが、寒山拾得に関しては、前知識なしではなにがなにやらさっぱりわからないくらい絞って書かれています。

すさまじいのは、『寒山拾得縁起』の最後のひと言でした。

「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」

鴎外は、じぶんの中にも仏性が宿っている、ということをユーモアを交えて、きちんと伝えているんです。

おとといから読解していくうちに、現代のぼくが理解している仏教理解に対して、ぜんぶつじつまが合う形でパズルがどんどんはまっていくものだから、これはどういうことなんだ、と不思議でした。

それだけ鴎外が緻密な、仏教のパズルをつくったということなのだろうとおもいます。
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疑問に対し、わかりやすい解説をありがとうございます。
ずいぶん、勘違いや読み間違いをしていたようですが、わからなかったことが一度にスッキリしました。

目上の人に対し、ていねいな態度で接するのが礼儀という認識でいると、目下の人に対してゾンザイに扱うことになる、これは気づいていなかったことです。

道翹が真っ青になった理由、人となりもよくわかりました。

寒山拾得のようにはなれないとわかりながらも、あきらめることはせず、仏性を求めて修行し、生き続ける。
禅宗というものの一端が、少しですがわかったように思います。
自分は俗人だという事を、しっかりと認めることから始まるようにも思えました。

ネットで関係するものをいくらでも検索できるというのは、便利ではなく、ちょっとした弊害のような気がします。
様々な参考資料を読むと、知識が深まるというより、よけい訳がわからなくなることもあります。
森鴎外が、当時どのような文献をどのくらい取りよせて参考にしたのかどうかはわかりませんが、膨大な資料の中から、
自分が書きたい部分を切り取ってから、削って削って短編に仕上げたのでは、となんとなく想像しました。
もっと書きたいというのを、抑えたようにも感じます。
これはもちろん私の想像でしかないので、真実はわかりませんが。

先ほど、旧字旧仮名の方でも読んでみましたが、やはりこちらのほうが、しっくりきますね。
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ギズモさんの疑問に対して、もうすこしぼくの見解を述べてみようとおもいます。

今回も長めの投稿になります。



閭丘胤が寒山拾得に向けてていねいな挨拶をしたのは盲目の尊敬だからだろうというギズモさんの考察は、その通りだとおもいます。

ただ、閭丘胤は宗教のことがさっぱりわからないので、宗教の道に通じていそうな人であれば、盲目的に尊敬してしまうんですね。

えらい人だという前知識があったから慇懃に接したというのではなくて、その道のことがなにもわからないので、とりあえずていねいに扱っておこうというわけです。

ところが作品中にも書かれている通り、「盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬ」のです。

閭丘胤は僧侶や道士となればあてずっぽうに尊敬します。

尊敬しているんだからいいじゃないか、ともおもいます。

しかし鴎外は、それでもしたまたま相手がほんとうに尊崇に値する人物であったとしても、そんなあてずっぽうな尊敬ではなんの意味もない、と言い切ってしまうのです。

閭丘胤は、相手が僧侶であるというだけで、その格好や身分を問わず、尊敬はしています。

けれど結局は俗人ですから、お輿に乗って国清寺に向かう途中では、庶民が道をあけてひざまずくのをみて、いい気分になっています。

僧なら僧で、どれくらい徳のある人間なのかということが、気になってしまう。

人を物差しで測らねば気がすまない俗人であることが、作品中で描かれています。



豊干と寒山拾得の関係性ですが、寒山拾得は「わかったうえで対等にふるまっている」のだとおもいます。

目上の人にていねいに接すると、それは同時に目下の人をゾンザイに扱うということにもなります。これはふたつでひとつのセットになっています。

接待するときに上座をつくれば、下座ができるようなものです。

人間社会に生きる以上、上下意識は切っても切り離せないのですが、寒山拾得はものの道理をわかったうえで、だれにも媚びず、だれをも蔑まず、みずからも風狂に生きています。

なので仏陀といわれる豊干にさえ媚びることなく「豊干がしゃべったな」と言ったのでしょう。



寺を訪れた閭丘胤が拾得について聞いたとき、道翹がこんなエピソードを話しましたね。

「拾得は賓頭盧尊者のありがたい像に食事を供える役目をあずかっていたにもかかわらず、お供えをした後、あろうことか尊者と向き合って食事をしたのです。尊者の像がどれだけ尊いものかわかっていなかったのでしょう。だからいまは厨房で僧どもの食器を洗わせているのです」

道翹からすれば「拾得ごときが、賓頭盧尊者の像と向き合って食事をするような真似をした」というわけです。

そして厨房のかまどの前に寒山と拾得がいるのをみて、道翹は「おい、拾得」とつっけんどんに声をかけます。

かれもじつは閭丘胤とおなじ、身分の差を意識する俗人です。

社会のありように合わせて、おもい込みで人間を上に見たり、下に見たりする。

寒山拾得はそんな道翹のことも、上にも下にも見ていないので、どう呼ばれても歯牙にもかけぬ様子です。



閭丘胤は寒山拾得にくどくどとじぶんの身分を伝えました。

「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」

このとき、閭丘胤はそれが礼儀だとおもっているのでしょうが、じぶんの社会的地位の高さを伝えてるんですよね。

寒山と拾得は当然その卑俗さを見抜いて、笑います。

それだけでなく、閭丘胤が宗教に通じてもいないのに、盲目の尊敬をじぶんに向けているだけであることも見抜きました。

実際閭丘胤は、寺に行く道中、こんなふうに考えています。

牧民の職にいて賢者を礼するというのが、手柄のように思われて、閭に満足を与えるのである。

僧侶にていねいに接すれば、じぶんの格が上がるような気がする、という閭丘胤の心根にも寒山拾得は笑ったのです。

さらにいうと寒山拾得は、豊干がそんな閭丘胤の "驕慢を折伏" させるために、寒山拾得を紹介したのだということまで、見抜いたのでしょう。

「豊干がしゃべったな」というのは、「豊干め、よけいなことを押し付けてくれたな」くらいの意味合いがあるかもしれません。



道翹が真っ青になって立ちすくんだ理由ですが、かれは閭丘胤が主簿という、日本でいうところの都道府県知事のような立場であることを知っていました。

寺でも主簿のご参詣だというので、おろそかにはしない。

とあります。

閭丘胤が社会通念上の礼儀をもって寒山拾得に当たったこともわかっています。

道翹には、閭丘胤が「盲目の尊敬」であてずっぽうに礼を尽くしているだけである、というようなことは見抜けません。

道翹も閭丘胤とおなじく、社会的立場で人の上下をはかる俗人でした。

だから身分の低い(とみなしている)寒山拾得が、身分の高い閭丘胤に対して無礼を働いたことに恐れをなして、真っ青になって立ちすくんでいるのです。

ちなみに「僧らが、ぞろぞろと来てたかった。」のは、単に飯どきだったから厨房に集まってきたというだけでしょう。



しかし、そのように読み解いていくと、われわれがいくら寒山拾得のようになりたいと願っても……そう願えば願うほど、じぶんが俗人であることを痛感せざるを得ないのではないでしょうか。

アキレスと亀のたとえのようですが、寒山拾得のような境地を求めても、われわれは人間を生きている以上、どうしても越えられない壁があって、いくら近づいても、その境地に至ることはできず、その壁をみるたびに、じぶんは結局こちら側(俗人の側)であるとおもわざるを得ません。

しかし、だからといって閭丘胤のような俗人になるのではなく、じぶんの仏性を求めて修行をしながら、同時にじぶんは寒山拾得にはなれぬと知る、というようなところが、禅宗のやっていることなのかなあ、という気がします。

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