山麓王国

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1309
曲解がどちらの意味かわからなかったんですが、曲解がないよう、すこし前の投稿内容を変えました。

あれはようするに、ふたりは小舟の中で、波の押し引きにたとえられるようないけないことをしていたわけですが、それをみているのはこの夜と波だけなんだから構わないんだという、若気の至りを肯定するような内容です。

黒澤明の『生きる』でもゴンドラの唄が印象的につかわれていますが、あれはむしろ「挽歌」の部分にスポットライトが当たっています。

主人公の渡辺勘治(志村喬)は末期がんで、じぶんの生きる楽しみがどこにあるのか、ワラにもすがるおもいで慣れない享楽の世界へ足を運び、若者たちの集う場へ行き、ピアニストにゴンドラの唄をリクエストします。

若者たちは放縦な愛の歌だとおもって聞いているのに、渡辺が陰陰滅滅たる調子でこの歌をうたうものだからしらけてしまう。

ゴンドラの唄では陽の部分だけがピックアップされていますが、森鴎外はベネチアの歌の陰の部分も取り上げて、黒澤明もやはり陰の部分にスポットライトを当てています。

で、ぼくもこの年になると、ゴンドラの唄を挽歌として聞いてるところがあります。

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思いがけず翻訳していただき、ありがとうございます!!

さすがですね。
鴎外の文章の格調高さを残しながらのわかりやすい翻訳をありがとうございます。

「二人は波の上に漂ひ、波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。」の箇所は、まったく意味を曲解していました。

鴎外の『即興詩人』は、アンデルセンを訳したのではなく、鴎外自身の体験による小説のように感じてしまうのは不思議です。
我=鴎外、と思って読んでしまいます。
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1306
以下の一節ですね。

我が乘るところの此舟は、即ちヱネチアの舟にして、翼ある獅子の旗は早く我が頭上に翻れり。帆は風に厭きて、舟は忽ち外海に走り出で、我は艙板の上に坐して、藍碧なる波の起伏を眺め居たるに、傍に一少年の蹲れるありて、ヱネチアの俚謠を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを言へり。こゝに大概を意譯せんか。其辭にいはく。朱の唇に觸れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髮は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に。二人はその蓋の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さゞらん。少女よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。汝の幸を知るものは、唯だ不言の夜あるのみ、唯だ起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。少年は一節を唱ふごとに、其友の群を顧みて、互に相頷けり。友の群は劇場の舞群の如くこれに和せり。まことに此歌は其辭卑猥にして其意放縱なり。さるを我はこれを聞きて輓歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壯の火は消えなんとす。



ぼくなりに、翻訳してみます。


わたしが乗ったのはベネチアの船だった。
ベネチアを象徴する有翼の獅子の旗が、頭上で忙しくひらめいている。

帆が風をはらみ、船はたちまち外海へ走り出す。
わたしは甲板の上に座って、起伏する紺緑の波を眺めていた。

そばで少年の集団のうちのひとりが、ひざまずいてベネチアで愛された歌を歌っている。
この歌は人生の短さと恋することの幸せをあらわしたものだが、おおまかに意訳してみよう。


朱の唇を重ねよ。あしたがまたくるとは限らないのだから。
恋せよ。汝の心が若く、汝の血が熱いうちに。
白髪は死の花。
咲けば心の火は消え、血は氷になっていく。

あの小舟の中に来たれ。
屋根に隠れて、窓をふさいで戸を閉じれば、だれの目にもつかないだろう。
乙女よ、だれもふたりの恋の幸せを邪魔することはない。
波の上に漂って、波が押し引きするようにふたりも愛し合う。

恋せよ、汝の心が若く、汝の血の熱いうちに。
汝の恋の幸せを知っているのは、言葉をもたぬこの夜と、波だけだ。
老いはすぐにやってくる。氷と雪とで汝の心と血を殺すために。



少年は一節を歌うたびに、仲間を振り返って、お互いにうなずき合っていた。
仲間たちは劇場の役者たちのように唱和している。

この歌の歌詞はまことに卑猥で、放埓で、無節操だが、わたしはむしろこの歌に挽歌を聞くような気持ちがした。
老いはすぐにやってくる。若さの灯火はすぐ消えるのだ。



こんなところでしょうか。
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節分に巻きずしを作ったんですね。
甘い卵焼きは欠かせない具材です。

節分の日は、東京駅構内の「駅弁屋」というお店で恵方巻を買おうとしましたが、太巻きの太さでカットされていないので、電車内で食べるのははばかられ、やめました。

毎年恒例の、立春吉方位のひとり旅に行ってきました。
節分・立春を吉方位で迎え、できる限り長く滞在しますが、今年は西南なので、近場の熱海に行きました。

立春の日はあいにくの雨でしたが、小降りになるのを待ち、熱海の來宮神社にお参りし、ご祈祷を受けてきました。
ご祭神は、日本武尊・五十猛命・大己貴命の三柱です。

何度もお参りしていますが、ご祈祷は初めてです。

巫女奉奏(巫女鈴を鳴らしながらの舞)、笙の奉奏、玉串拝礼と、他ではあまりないご祈祷でした。


ご祈祷の神饌(お下がり)でいただいた、干支の置物と、紅白の御幣が、縁起物の棚に加わりました。


ゴンドラの唄は歌詞も曲も好きです。
森鴎外訳の『即興詩人』の中の「妄想」に、ベネチアの水夫の歌が書かれていますが、吉井勇はそれを読んで参考にして歌詞を書いたとのことです。

またおもしろいのは、作曲した中山晋平は、ベネチア民謡の8分の6拍子をマネ?して、「ゴンドラの唄」を8分の6拍子で作ったそうです。
実際は、単純な3拍子に聴こえますよね。

中山晋平記念館が熱海にあり、2021年11月に記事にしていました。
熱海にいるうちに1304を読んでいたら、「ゴンドラの唄」の直筆譜面などがあったかどうか見てきたのですが・・・。

それにしても青空文庫の森鴎外訳は読みにくく、吉井勇が「妄想」から参考にした部分が漠然としか理解できません。

お参りと買い物の他はずっとホテルにいるので、仕事をするつもりでいたのですが、BSで、竹下景子がマドンナで初の海外ロケだという寅さんを真剣に観てしまいました(笑)
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童話は、子供のときに読んでもなんともおもわないのが、大人になると情緒が刺激されるように、この歌もある年齢を越えると胸にグッとくるように、時限爆弾がセッティングされてます。

命は短いのだから、恋すべき人に恋するのがただしい。

そして、生きるべき道筋にしたがって生きるのがただしい。
#音楽
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やっぱり、奥田民生は時代の寵児だったとおもう。

人間はもうラクをしていいんだ、という建前の中で、実際にはどんどん忙しく働かされて、思想はカラッポという時代。

かれはそんな潮流に入ってきた四半世紀前の時代を、もっとも上手にあらわしているアーティストだった。

高校時代にこの曲を聴いて以来、ずっと、「きみはぼくを忘れるから、そうすればもうすぐに、きみに会いにゆける」という歌詞が心に残っていた。

あなたがぼくを忘れれば、いつでも会いに行けるのではないかと望みながら、たとえそれがかなっても、結局かれは彼女に会いには行けないのだろう。

それは、ラクをしたくて、ラクを望んで、できない現代人とおなじようだ。

うまくできた歌詞だな、とこの年になっておもう。



#音楽
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ZZトップというロックバンドがあって、このベース&ボーカルのダスティ・ヒルは数年前に鬼籍に入りました。

かれらの稀有なところは、マディ・ウォータースのようなブルース一期生のえげつない連中にかわいがられながら、ブルースの素養を培って、商業的にはアメリカンハードロックで売り出したところです。

つまり、黒人ブルースからブルースロックではなくて、白人ハードロックに直結したバンドという点では、かなりめずらしい。

あとぼくに思い浮かぶ近いところだと、ジョニー・ウォーターくらいですが、かれもハードロックに近くはあるのだけど、ブルースロックですね。

そしてかれももう鬼籍です。



#音楽
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ジェフベックというギタリストは変な人で、硬派なようでいて、軟派なようでいて、ボーカルにはとびきりの女たらし(ロッド・スチュワート)やら、とびきりの変人(ジョニー・デップ)を選ぶ。

ソロでつくるギターインストは極上。

ギターを「歌うように弾く」という理想はよくいわれるけど、人間のあの柔軟な歌声に、エレキギターが匹敵したというのは、ジェフベックが唯一確立したところじゃないかとおもいます。

去年のはじめに訃報を聞いてから、なんだかかれの存在がずっと心に引っかかってるんですよ。



#音楽
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バディ・ガイ。

ブルースの巨人というか、狂犬というか。

だいたいが、ブルース黎明期からいえば2期くらいの立場にいる完璧ブルースの天才ながら、ネジが一本抜けて、初速からトップスピードにいくまでの感覚がおかしい化け物、というのがぼくの評価。

予測不能な音楽をするという点で、似ている人を探すとすれば、お笑いで言うところの、西川のりおでしょうか。

あの人の笑いの緩急は、バディガイによく似てる。

そしてぼくはバディガイも西川のりおも好き。

この曲はジミヘンドリクスのブードゥーチャイルに、エリッククラプトンがいたクリームの、サンシャインオブユアラブを組み合わせたジャムセッションのようなもの。

変態ギタープレイがこれでもかと聞けます。

#音楽
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きょうは酔っ払いで、音楽を楽しみます。



ジミヘンドリクスの曲には奇をてらったものが多いけど、これは中でも奇をてらってます。

最初にドンと音圧をかまして、「Anger(怒り)」という。

聴く側はビックリです。

そこから感情を色であらわす歌詞に、サイケデリックな、バラードのようなファンクのような、とりとめのない闇鍋のような曲調で、途中でいったん曲が終わったようにみせかけて、さらに畳みかけてくる。

ジミは音楽を通して、思想を前に出すようなことはしなかった技術者だったから、純粋な音楽性を楽しむことができます。

#音楽
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きょうは買い物に行って、ちょっと家のことをあれこれして、そのあときょうも山登りでひと汗かきました。

夕方には風呂をわかしながら広島風のお好み焼きづくり。

薪で風呂をわかすと1時間ちょっとかかるんですが、この間になにかひと仕事したくなるわけです。

白菜たくさんあるのに、キャベツの大きいのがひと玉100円しないものだからつい買っちゃって、バカでかいお好み焼きを4枚焼いてます。

ひとり暮らしでどうしてこんな大量に……とおもいながらも、やってるとたのしい。

広島風のは、最初はこれでひっくり返せるんだろうかというボリュームなのが、ひっくり返してるうちにまとまってきて、最終的にちゃんとお好み焼きになるのがおもしろいです。

まあ、野菜もたくさん食べられるし、当面お好み焼き定食でいいじゃないか、というわけでして。
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すこし距離をあければ、人間関係はだいたい良好なようにおもえます。

ほんのすこしの距離を保つことを、相手とうまく共有できるかどうかだとおもうんですよ。

離れていてすこしさびしい、頼れなくてすこしガマンしなきゃならないというくらいで、人間関係はちょうどいいのではないか。

スープの冷めない距離、というけど、出来立てアツアツの距離じゃなくて、冷めないくらいの距離だからいいのかもな、と。



かといって、スープが冷める、へたすりゃ腐る距離というのもあるわけで、あんまり遠くなると、実体をともなう関係性はないも同然です。

むつかしいなぁ。むつかしぃ。
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いくら農閑期だからと、一日中家の中にいるというのは逆にしんどくて、ゲームしてても肩が凝って頭が痛くなってきました。

買い物にでも行こうかとおもったんですが、正直もう買い物したいものもないので、ガソリンつかってどこかへ行こうという気にもならず。

そこで、裏山を頂上まで登ろうじゃないかと、えっちらおっちら上がっていきました。

片道たった300m、標高100mほど上がるだけなんですが、なにせそそり立つような獣道なので、いい運動になります。

てっぺんまでたどりついてから、いつも通らないゆるやかな坂で帰ろうとしたんですが、滑落しそうな急坂に当たってしまって、やむなく引き返し、また元の道へ。

熊に会ったりしないだろうな、とおもったんですが、道中は鹿のフンだらけ。

猪のフンが一か所だけありましたが、ヌタバになっているところもなくて、勢力図としてはほとんど鹿しかいないような感じ。

往復で1km程度しか歩いてないとおもうんですが、かかった時間は1時間半。

この寒いのに、てっぺんまでのぼったところですでに汗だくで、帰りはさらに汗だくに。

なにせ、立ち木をつかみながら登らなければならないくらいの勾配で、雪が残ってて足場がわるいし、下りは余計に怖い。

毎日この山を登ってたら、運動不足とは無縁でいられそうです。
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ぼちぼちゲームをしています。

二ノ国をクリアして、なんだかクリア後の世界まで遊ぶ気になれず、アンダーテールを遊んで、それもクリアしました。

アンダーテールは、「菩提をとむらう」ゲームといった感じ。

死ねばみな仏である、といって人を許すことがありますが、おなじように、生きている存在もみな許していくことに答えがある。

実際には生きている相手にああも善良にはふるまえないので、ふつうは死者として声を失った存在にだけ許しを与えて、菩提をとむらうわけです。

が、心のどこかでは、あのようになにもかも許して生きていければとおもう。

もちろんそうせずにやっつけたい相手をやっつけて進めることもできるんですが、殺しの道は修羅の道。

そのあたりの、道徳的な死生観を、ファンタジーとしてうまく昇華させている点でおもしろかったです。



次はスターオーシャンを、とおもっていたのだけど、セールで魔界戦記ディスガイアが安かったので購入。

シミュレーションゲームは苦手なのだけど、結局スターオーシャンを積みゲーにしてダラダラ遊んでます。


実生活では、風呂の薪仕事と、雪がだいたい溶けてきたので倒壊したネットや電気柵の立て直し。

あと、インクがでなくなって何年もほったらかしてたプリンターを、100均の注射器とアルコールで修理。

エプソンのプリンターはカートリッジホルダーが外れないので、洗浄できないとおもってましたが、ネットをみているといろいろやりようがあるようです。

全体的にインクの出がわるくて、特に黒が完全にふさがってました。

だから、モノクロで印刷すると白紙の用紙から白紙が出てきます。

ふつうは処分するところでしょう。

これを、注射器の先にチューブをつけて、アルコール液を吸い込んでからインク注入口にはめて、注射器をギュウギュウ押して、いったん休憩。

固まったインクがすこしずつ溶けてくれることを期待して、また注射器でアルコールを注入しようとする作業を繰り返すうちに、すこしずつアルコールが注入できるようになっていきました。

ノズルチェックをすると、すこしずつ黒も印刷できるようになってきました。

アルコールを乾燥させてから起動、ノズルチェック、インクカートリッジを取り外して再度アルコールの注入、の繰り返しで、修理をはじめて3日目なんですが、あしたアルコールが乾燥したら、ほぼ修理できた状態になっている気がします。

修理にかかった費用は汎用インクカートリッジと注射器とアルコールで、1000円くらいでしょうか。



きょうは節分ですが、巻きずしをつくりました。

これも100均で、プラスチックの太巻き寿司の型があったので買ったんですが、はじめてやってみたところ、ご飯をもっと詰めたほうがよかったのか、切ると寿司のかたちが崩れました。

具は、お寿司の甘い卵をじぶんで焼いて、発酵してきた大根キムチを細かく刻んでごま油をあえたもの。

家の余り物でじゅうぶんおいしかった。

あとは素煎り大豆をポリポリ食べる。これなんだか妙に後を引きます。

裏山にヒイラギが自生しているから切ってこようかともおもいましたが、ひとり暮らしでそこまでする気にはなれず。

するとつい今しがたご近所の長老さんから、「いつもおおきに」といって寿司屋の巻きずしをプレゼントしていただきました。

やっぱり、お店の巻きずしはずっしり重たくて、明らかにご飯の量がちがうようです。

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1293
もうこういう言葉のやりとりをやめにしたいとおもっています。

ここは、ケンカしてまで続けるような場所ではありません。
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返信に困るであろう話、ということの理由を教えていただき、ありがとうございます。

ひとつ申し訳なく思うのは、ここは農園主さんの山麓王国で、メールのやり取りの場ではないと認識しています。
なので、おだやかな会話というものを考慮なさるお気遣いは無く、やり取りの中で気づいたこと、例えば今回の「かのように」の説明として京アニ事件を取り上げるということに何の問題もなく、ごく当たり前のことだと思います。
でも、それに対し私がトンチンカンな返信をしてしまうと、せっかくの説明が無に帰することになってしまいます。

それに対しても、気長にお返事してくださり、ありがたく思います。

時事問題は、確かにセンシティブだとは思います。
それを避けてほしいとはまったく思いませんが、農園主さんの意図やお考えとかけ離れた返信をすることがあるかもしれません。
そんな時は、スルーしていただいても、反論してくださっても大丈夫です。
ぶつかることとケンカになることは違うと思いますし、もしケンカになったらなったでその時は私に気遣うことなく対応してくださればいいと思います。

ここまで書いて、なんだかケンカを売っている文章に取られないかなと心配になりましたが、そういうつもりは全然ありません。

青空文庫で「かのように」を読んでみました。
農園主さんの説明で内容はわかりましたが、実際に読むと、会話が多いので想像よりおもしろく読めました。
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1291
市川猿之助の件は、ぼくにはほとんどわかりません。

梨園のことは門外漢であり、田舎に暮らしていると理解のとっかかりそのものがありません。

何年も前に、テレビに出ている姿は見たことがありますし、問題が起こったときにはニュース記事を読みましたが、その後なにがあったのかよくわかっていないのです。

自殺幇助か殺人か、ということも、ぼくにはわかりかねます。



話が本筋からずれるとおもうんですが、歌舞伎の場合はお客さんを呼べる千両役者であれば、殺人者だろうが薬物中毒者だろうが(法的な問題さえクリアしているのなら)舞台には上がれるのではないでしょうか。

あとはお客さんがどう判断するか、ということですが、歌舞伎だけは、役者がむかしのようになにをやっても大丈夫、と胸を張っていられる時代なのかは疑問です。

個人的にはもう、いかに伝統芸能だろうと、江戸時代の常識を現代に引きずるようなことはもう通用しないとおもっていますが、そのあたりは歌舞伎界の「かのように」のはしごがはずされる時代が来るかどうかでしょう。

歌舞伎役者だけは治外法権である「かのように」、客が扱っているうちは大丈夫。

大丈夫であるうちは、なんだか盤石なようにおもえるし、この状況がひっくり返るなんてありえないだろう、と考えがちです。

でも、「かのように」のはしごは、時代がくればあっさり外れるんですよね。

ギズモさんがおっしゃりたいのが、歌舞伎関係者が猿之助を殺人者ではない「かのように」扱っているのではないか、という話であれば、申し訳ないんですがぼくにはよくわかりません。



ぼくが「返信に困るであろう話」と言ったのは、京アニ事件のような時事問題を取り上げて会話のタネにするというようなことは、センシティブだとおもったからです。

ギズモさんは、そういう話を避けたいとおもうかもしれないとおもったのです。

一般的に、会話の際にこういう話はしないほうがいい、という例がありますよね。

たとえば政治の話。
たとえば野球の話。

みんなちがった正義があったり、熱くなりやすかったりで、ケンカになりがちな話題です。

……あとわれわれは宗教の話をしますが、これもしないほうがいいといわれます。

そういう話はできるだけ避けて「きょうはええ天気でんな」というような他愛ないことを話すのが、おだやかに会話するコツだといいます。

その点、京アニ事件について考察を深めていくような話は非常に微妙で、返事に困るだろうなとおもったのです。

ただ「かのように」を説明するには格好の時事問題で、取り上げずにいられませんでした。
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ごめんなさい、私の完全な理解不足でした。
読解力のなさにあきれています・・・。
「返信に困るであろう話」、とあったので、責任能力と統合失調症のことだと思い込んでいました。

読み間違いと的外れな返信は、自分が恥ずかしいだけではなく、書いた人にとってはひどくがっかりすることだと思います。
本当に失礼しましたm(_ _"m)

1287で私が書いたことは、忘れてください(笑)←笑ってる場合ではないですが。


「かのように」の新しい例、ありがとうございます。
おもい込み(常識)というのは、徐々に変わっていくのではなく本当にあっという間に覆るものなんですね。

正直なところ、「返信に困る」という意味は、いまだによくわかりません。
さらに正直なところ、今度は農園主さんが伝えたかったことがきちんと理解できたつもりでも、ではどう返信するかと言うと、「これ」というものがないのも本当です。

「かのように」は、いい意味合いではないんですね。
責任能力があったかのように、神話がほんとうであるかのように、文春が報じるような性交などはなかったかのように・・・。
そしてもっと時代が進化しても「かのように」はなくならない。

コロナ禍の事もそうなのかもしれない、と思いました。
ワクチンによる(らしい)重篤な副作用や死者が相当数出ていても、それはなかったかのように大きくは報道されず(または情報操作され)、ワクチンを正当化したということ。
緊急事態宣言による、外出自粛や休業要請が必要不可欠かのように行われたことなど。

「かのように」という宗教、これを信じたくなくても、それが常識となっていれば黙殺せざるを得ないというのがわかります。

芸能人でも政治家でも、権力を手に入れると、いろいろなことに使いたくなるのでしょうね。
昭和天皇の例で、マリー・アントワネットのことが思い浮かびました。
昭和天皇とは逆で、じぶんの立場に執着し、国民の熱狂に気分をよくする典型的なタイプだったから、断頭台という末路になったのではないかと思います。

話が逸れますが(いつもです・・・)
松本人志は、女性問題で芸能界を追放されるかもしれない立場になっています。
でも、女性を傷つけたかもしれないけれど(同意だったように思いますが)人を殺したわけではない。

一方で、市川猿之助は、親の自殺幇助で罪に問われました。
幇助ということですが、私はたぶん親の同意などなかったものだと思っています。
大の猿之助ファンなのでそうは思いたくないですが、そうとしか思えない状況です(報道された範囲での推測ですが)

あれはたぶん、なんらかの事情で、殺人ではなく幇助だったかのように仕立てたように思うんですよね。
それはなぜ?ということになると、猿之助の、他の人では代えられないたぐいまれな才能を惜しむ、手心だったのではないかと。
ただ、猿之助もあの世界ではかなりの暴君だったという話もあるので、人柄が加味されているのかどうかはわかりませんし、伝統芸能だからという見方もできるかもしれません。

でももし、藤原紀香の夫である愛之助(紀香ファンだったらごめんなさい)クラスの役者なら、執行猶予などの情状酌量があったかどうか疑問です。


松本人志の権力が、取り戻せるか、芸能界引退・休業になるかは、職業というより、人柄、権力のつかい方が影響するように思えますが、それはお笑い業界を歌舞伎より下に見ているわけではありません。
歌舞伎は、わざわざお金を払って観に行くのに対し、お笑いは、観に行くこともあるでしょうが、普段から誰でも気軽にテレビで観られるものなので、いいも悪いも万人に影響力が大きいように思います。
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「かのように」の例をさらに続けます。

松本人志の件においては、松本人志サイドは文春が報じるような性交などはなかった「かのように」したかったのでしょう。

社会的に、松本人志には「あんなにおもしろい人だし、必要とされてる人なのだから、多少の逸脱行為くらい許してやろう」というようなおもい込み(常識)が形成されていた。

少なくとも数年前まではこの常識が世間に通用していたわけで、そこを利用したかった。

ほんとうは社会倫理に逸脱した性行為くらいあるだろう、とみんなおもっていたけど、社会全体でなかった「かのように」ふるまってくれる、というわけです。

しかしそのはしごがはずされました。



たとえば敗戦によって戦後、天皇は人間宣言をし、国民のだれもが「天皇は神じゃない」と言えるようになりました。

ほんの数年前まで、天皇は神ではない、というホンネをいうと危険思想だと取り締まられていたのに、はしごは突然はずれます。

時代というのは社会に根付いていた常識を、あっという間に非常識にしてしまうんですよね。

しかし昭和天皇は賢帝だったので、最終的には国体は護持され、天皇制は軟着陸したといえます。

もし昭和天皇が軍事独裁体制に安易に乗っかって勇ましいことをいい、じぶんの立場に執着し、国民の熱狂に気分をよくするような暗君だったら、天皇制は廃止されていたことでしょう。

では、松本人志は賢帝だったのか、暗君だったのか。



これはお笑いの能力が高い、低いの話ではなくて、……もっといえばオンナ遊びの是非ということも話のオマケみたいなもので、これは人間が権力を手にしたときの、権力のつかい方の問題なのだとおもっています。

権力のつかい方の中に、女性の扱い方も含まれていたというだけの話です。
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1287
不快になるような部分はありません(笑)

京アニ火災の件について、もうすこし述べます。



以下は読売の社説です。

https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2024...

 将来ある多くの若者らの命を一瞬にして奪い去った凶悪な犯行である。被告は事件と正面から向き合い、罪の重さをかみ締めねばならない。

 36人が犠牲になり、32人が負傷した2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判で、京都地裁は、殺人罪などに問われた青葉真司被告に死刑を言い渡した。

 犯行の引き金になったのは「京アニに小説を盗用された」という被告の妄想だった。その点で検察側と弁護側に争いはなく、焦点は責任能力の有無に絞られた。

 弁護側は裁判で、妄想によって行動を制御できなかったとして、心神喪失か心神耗弱の状態だったと主張した。しかし、判決は「妄想の影響は小さかった」とし、完全な責任能力を認めた。

 そうである以上、犯行の悪質性や68人が死傷した結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。




朝日はこうです。

https://www.asahi.com/articles/DA3S15847...

京都アニメーションの放火殺人事件で、京都地裁はきのう、青葉真司被告(45)に死刑を言い渡した。判決は、京アニへの強い恨みに妄想が影響したとしつつ、ためらいを見せた事件直前の行動などから刑事責任能力を認めた。そのうえで犯行の計画性や結果の重大性を重くみた。





朝日は慎重に言葉を選んでます。

刑事責任能力を認めたうえで、結果の重大性を重くみたというんですよね。

つまり、結果の重大性が刑事責任能力の有無の判断に影響を与えたのではない、とわざわざ念押しをしてる。

しかし結果の重大性は事件が起こったとき、すでにわかっていたのだから、順序がおかしい。

「結果の重大性を踏まえたうえで、刑事責任能力を認めた」というホンネを隠しているようにしかおもえません。



それに対して、読売の記事は正直で、死刑で当然だよね、くらいの論調です。

結果の重大性を考えれば、あの程度の錯乱状態で心神喪失とかありえないよね、責任能力は100%あったに決まってるよね、くらいの勢いです。

そして、「結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。」とまで言い切っています。




いちおう主要各社の論調をみましたが、もはや日本社会においてかれが死刑になるのは常識と化しているようです。

つまり、あの事件の犯人は完全なパブリックエネミー(公共の敵)です。

死刑にならないわけはないだろう、とだれもがおもっています。

もちろんぼくもそうおもっています。

ぼくはここでなんだかんだ言ってますが、あの犯人の量刑が下がるようなことがあれば、司法に対して「それでは、社会にしめしがつかないだろう」とボヤくことでしょう。

絶対に犯人には責任能力はあったということにしなければならない。

もはや責任能力がないというようなことは、許されません。

もし仮に、犯人が完全な心神喪失状態で、なにも覚えていなかったとしても、あれだけの事件になると社会は、なにかしら理由をつけて責任能力があった「かのように」ふるまうほかないはずです。



明治時代に天皇が神ではないとは言えなかったように、いまの日本で「あの犯人は統合失調症にしか見えないのだから、たとえ30人以上殺してもやはり死刑はおかしい。結果の重大性が司法判断に影響を与えているのではないか」ということは、もしおもったとしても、ふつうは言い出せないことだとおもいます。



ぼくは、あの犯人の死刑の是非については、そりゃそうだろう、くらいにしかおもっていません。

ぼくが言いたかったのは、あの京アニ火災事件の判決は、100年以上も前に森鴎外のいったところの「かのように」の再現にほかならないということです。

おそらくどれほど時代が進化して、科学や法律がいま以上に合理化され、AIが人間の知性を凌駕したとしても、人間から「かのように」がなくなることはないでしょう。

犯人は統合失調症だったかもしれませんが、責任能力はあった「かのように」、みんなでそう信じようではありませんか、という宗教です。

いまわれわれは、この科学社会の最先端にあってなお、「かのように」のお手本のような判決と、社会の対応を目の当たりにしている、ということを伝えたかっただけなのです。
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権現社のリンクを読んでいただき、ありがとうございます。
あのサイトを読んだだけではあまりよくわからなかった『かのやうに』の意味が、とてもよく理解できました。

判決の時間、ちょうどテレビを観ていました。
かなり論理の飛躍(支離滅裂なところ)もあり、うまくまとめることはできないのですが、思うところを書いてみます。長いですm(_ _"m)

昔は、なんの罪もない人を、キツネ憑きとか「キチガイ」と決めつけ、座敷牢に入れたり病院に閉じ込めたり、殺したりしたことが往々にしてありました。
西洋の魔女裁判もそうですね。
そういったことが、まるで正しい「かのように」、当たり前のように行われてきていたんですよね。

奉行所のお裁きにしても、正しいものばかりではなかったはずです。
今と違って科学的な捜査もなかったので、手心を加えたり重罪にすることは、日常茶飯だったと思います。
危険人物を排除して、よりよい世の中にするために罰を与え罪を償わせるわけですが、決してそれは公正に行われてきたわけではなく、無実の罪に苦しんだ人も大勢いたわけです。

現代は、科学的で精密な捜査が当然となり、さらには精神的な面も判断材料として重要なものとされています。
かなり細かい検査も行われるようですが、果たしてその結果は本当に「正しい」と言えるものなのでしょうか。
身体の病気のことで言えば、誤診はいくらでもあり得ます。
裁判の判決というものは、どうにでも操作出来得るものだと、私は思います。もちろん、全部がそうとも言えませんが。
この体質は、キツネ憑きの時代から変わらない、歪んだ「正義」を押し通すものかもしれません。

それはそれで社会的には必要なことなのかもしれませんが、もし犯人が身内だったら、「精神的に問題があったために責任能力がない」と見做されることは、何よりも大切なことかと思えます。
本人の意思はどうでも、親兄弟としたら、どんなに罪を犯しても、死刑にだけはさせたくないと願うはずです←中には死んでくれた方が、と思う親もいるとも思えますが。
事件を起こす以前から精神面になんらかの問題があれば、無実・減刑を期待することは当然です。
何の問題もないのに「責任能力がなかった」と判断される場合があれば、それは法の悪用であるわけですが。

今回の場合は、親が離婚したり父親から虐待を受けていたりと、複雑な環境の問題もあったようですが、そういったことも関係しての長年の統合失調症である可能性もあるので、精神的な問題がないはずがないと私には思えます。
ただ、精神面に問題があるイコール責任能力無し、とは言えないケースもあるのではないかと。
また、現在なんらかの精神的な病状があるとしても、事件の当日どのような精神的状態であったかを、正確に判断できるのかどうかという疑問もあります。


責任能力を判断する方法について、そこには機械的な検査の他、心情的なものも左右するとは思いますが、まずは差別のない正確な診断が必要です。
その診断が100%信じられるものでない限り、精神的な問題による責任能力の有無を判断しようとすることは、法的な(事務的な)判断とは少しばかり違い、バイアスがかかるものだと思うんです。

結論として、今回の判決が正しかったのか、何らかの思惑が介在しての結果だったか、ということは、当然ながら判断はできません。
でも、多くの材料から判断する他にも、「事情」があったので、多少なりとも減刑の措置がなく死刑になったのではないか、という推察はできます。


ご存知かもしれませんが、一応列挙します。
責任能力について最も問題になりやすいのは、統合失調症のケースであり、心神喪失で無罪になった被告人の多くが、統合失調症で幻覚や妄想に支配された状態で犯行に及ぶことは多いんだことと思います。
しかし、単に統合失調症にかかっているというだけで、責任能力が否定されるわけでなく、責任能力の有無や程度は、犯行前の生活状況や犯行時の病状、幻覚や妄想の内容、犯行の動機、手口などの事情を総合して判断されるようです。
なので、責任能力ありでも不起訴・執行猶予の余地がある場合もあります。

完全責任能力(刑事責任を完全に問える能力)が認められても、次の4つの事情があれば、不起訴や執行猶予を獲得できる可能性が増えます。

①本人が精神的な問題を自覚している
②本人が治療を受けることに意欲的である
③実際にクリニックなどに通院して治療を受けている
④家族が本人の更生をサポートしている

今回の場合、この4点の事情が該当しないこと、本人の反省がみられないことから、総合的に見ての判決になったのではないでしょうか。
でも、この4点についても手心を加えることも不可能ではないでしょうし、「公正だった」かどうかはわかりません。

他に、関連する記事の抜粋をペーストしますが、これも見方のひとつとして挙げるだけで、これに賛同しているとかいないとかではありません。

臨床心理士の矢幡洋氏が解説する。

「確かに、妄想傾向の影響はあるでしょう。ただし、統合失調症だからといって、合理的な行動や判断ができないというわけではないんです。統合失調症だけれども、犯行当時、きちんとした合理性・計画性を持っている時点で、責任能力があるだろうと判断されると思っています。

 犯行を行った時点で完全に幻覚・妄想に支配されて、全く自分の行動のコントロールが効かなかったなどということでなければ、責任能力ありとみなされるのが、今の精神疾患を患っている犯罪者に対する基本的な判決の傾向です。

 その点で言えば、犯行に必要なものを買い揃えるとか、犯行が行われるまでに怪しまれないように行動するとか、青葉被告は犯行時にかなり計画的なことをしています。ある程度、合理性を持った判断を行って、直前まで周囲に怪しまれないで現場に足を運んでいる。その点で、責任能力ありとみなされるケースだと私は見ています」



参考までにもうひとつリンクを貼っておきますが、これは、「こういうケースがあるので今回の事は仕方がない」と言いたいわけでは決してなく、人が人を裁くということの難しさや危うさを、改めて感じた次第です。

https://www.kuins.ac.jp/news/2023/07/18_...

長くなってしまいましたが、農園主さんのお気持ちを不快にする内容でしたら申し訳ありません。
ただ、決して反論ではない、ということは、どうぞご理解ください(o_ _)o))
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1284
唱歌に関してなんですが、一流の作曲家と作詞家が、日本に残るような小品を残す、というようなイメージがあります。

現代においては、そのような有志で音楽をつくる例を聞きません。

売れるか、売れないかで音楽を作るし、どんな才能のある人でも「じぶんのおもうほんとうによいモノ」をつくろうとすると、同人化したり、アングラになってしまう時代です。

ぼくはアマプラでアニメをよくみますが、1シーズン3か月のアニメが大量に生産されていて、それぞれのアニメにオープニングとエンディングの歌があります。

これらは音楽の質はともかく、もう飽和状態もいいところで、「心に残るアニメソング」なんて言える速度ではありません。

いまや音楽は使い捨てになったとおもわずにいられません。

そしてそんなわれわれに配慮した……というわけではないでしょうが、アマプラではアニメのオープニング曲とエンディング曲は、飛ばせるようになってます(笑)



権現社のリンク先の文章を読みながら、おもったことがあります。

おそらく返信に困る内容になるとおもうんですが、書きます。

権現社の文章中に『かのやうに』という森鴎外の小説についての記述がありました。

あの作品には物語的な要素はほとんどなくて、理屈が大半を占めます。

その理屈部分をぼくなりにカンタンに説明すると、こうです。



科学的に考えれば、世の中に神様はいません。

しかし歴史という学問においては、神様がいると仮定して考えます。

たとえば数学には点や線という概念が出ますが、実際に点や線があるわけではありません。

数学をやるうえで、この座標に点や線があると仮定しておかないと、理解がしづらいのです。

歴史もおなじで、神様がほんとうにいるわけではないのですが、日本史だと天皇が日本神話の系譜に連なるという以上、神様がいると仮定しないと理解がむずかしくなるんですよね。

でも高天原の神話を日本の歴史とごちゃ混ぜにすると、科学的にはウソをついていることになるでしょう。

その場合、歴史学者は神をどう取り扱えばいいのか。



明治になると、日本では天皇が現人神で、ほかのどんな神仏よりもえらいということになりました。

突然そんなことになったわけですから、「ふざけるな」という人もいたのですが、そういう輩は危険思想の持ち主として取り締まられました。

ふつうに暮らしているぶんには、「はあ、天皇が神様ですか。(よくわからんけどじぶんには関係ないし)わかりました」と言っておけばいいわけです。

しかし歴史学者のように、ほんとうのことを書かねばならない立場の人は、神がいるといえばウソになるし、かといって神などいないといえば、あの時代では危険思想の持ち主であるということになってしまいます。

そこで結論としては、神様がいるとみんなが考えている以上、つまりそれが常識である以上、神話がほんとうの歴史でないことはあきらかなのだけど、いちおう神話がほんとうである「かのように」考えるしかあるまい、というわけです。



で、返信に困るであろう話はここからです。

最近京アニ放火事件の犯人が死刑を宣告されました。

事件の詳細をみていると、あの犯人は統合失調症の可能性があるとおもうんですが、司法によると責任能力があった、というのです。

もし犯人が統合失調症などで精神的に錯乱していて、責任能力がない状態だった場合は、法律上罪に問うことができません。

しかし私怨で建物に火をつけ、36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせた大事件です。

どんな事情であれ、犯人を罪に問わないという決断ができるでしょうか。

すると、犯人がどんな状態であったにせよ、責任能力があった「かのように」みなして、死刑にするほかなくなります。

もし犯人は心神耗弱だから無罪だということになると、社会が司法を一斉にバッシングし、収拾がつかなくなることでしょう。

もちろん、犯人に責任能力があるかどうかなんて判断はむずかしいし、どうとでもできるといえばできます。

オウムの麻原だって、実際のところ責任能力があったのかどうかはわかりませんが、死刑になりました。



現代は科学の時代ですが、じつは社会には常識という名前の宗教が存在していて、法秩序より社会常識が優先されるようなことはいくらでもあります。

で、おそらく多くの人がこの点に気づかずに社会常識の信者になっていて、「かのように」が発動しても、知らずに受け流すか、そんなことはごく当たり前のことだと割り切るか、もし違和感をおぼえても、それが社会常識である以上、黙殺せざるを得ないんですよね。
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一晩で50㎝ですか?  相当な降り方だったんですね。
雪かき、お疲れ様でした。
ずいぶん冷えたことと思います。
これだけ降って除雪におわれると、雪見酒なんてのんきなことを言ってもいられないでしょうが、今日はゆっくりお風呂とお酒で温まってください。

遠藤周作は、自分も楽しみながら人を楽しませたい、という気持ちで生きていたように思えます。
佐藤愛子のエッセイにもよく出てきますが、農園主さんが書いていらっしゃるように、人間の「虚をつく」のが大好きだったんでしょうね。

以下は、「遠藤周作の沈黙とその舞台、潜伏キリシタン」についての記事と、2番目は「沈黙」に関する、東京都調布市・サレジオ会調布修道院内の、チマッティ資料館の館長を務めるガエタノ・コンプリ神父のインタビューです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/21da66...

https://www.christiantoday.co.jp/article...


貼ってくださった youtube、以前観たことはありましたがすっかり忘れていました。ありがとうございます。
音楽業界でヨーデルは案外希少なので、これは当たったでしょうね。

最近はまったくテレビの歌番組を見ていないので、どんな音楽が流行っているのかもわかりませんが、農園主さんのおっしゃるように、「じぶんたちの民族音楽を、日本独自のカタチでどれだけ進化させてきただろうか」ということについては、とても考えさせられます。

唱歌の話になりますが、音楽の教科書から文部省唱歌がどんどん消えて行き、童謡も唱歌も親が知らないから子どもを寝かせる時に歌えない、だから子どもも知らないで育つというのはなんともさみしいことです。

保育科・幼児教育科受験のための曲目はもはや知らない歌ばかりですが、それは日本の唱歌や童謡のいいところを取り入れて作られたものとはどうも違っています。

文部省唱歌は、鎖国が終わってようやく、西洋音楽(音階)を取り入れながら日本独特の歌を作った一番顕著な例だったように思いますが、その後はたぶんないですね。
唱歌から童謡に発展はしても、そこまでだったように思います。

古い童謡・唱歌が消えていっても、子どもが大きくなっても覚えていて歌え、歌い継げるような、日本独自の進化した民族音楽が必要かもしれません←古い人間の戯言です(笑)

おとなの歌については、外国のモノマネをした機械的進化をしてきているので、心に残る歌というのがなくなり、「日本の歌は外国の歌よりつまらない」と感じます。

ところで、「全日本民医連」というサイトに、「神々のルーツ」というシリーズがあり「原始神道の誕生」「消された権現社の名」などがありました。
サイト内で「神々のルーツ」で検索すると、他の記事がでてきます。

農園主さんなら、また違った解釈、考え方があるように思いますので、参考までに。

https://www.min-iren.gr.jp/?p=44760
(権現社)

https://www.min-iren.gr.jp/?p=44982
(山がご神体、みたいな話)

お返事のお気遣いはないようにお願いします(*^^*)
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ゆっくりお休みをいただいて、助かりました。

こちらはきのうからたっぷり雪が積もり、除雪のしどおしでした。

どれくらい積もったかというと、これくらい。

202401251402111-nouennushi.jpg

暖冬の影響か、べちゃ雪で除雪もしにくく、車が通ると圧雪でワダチがガチガチに凍ってアイスバーンになり、きょうの正午ごろに、集落の登り坂の一部で車が立ち往生してしまったということで、朝からずっと雪かきしてました。

今夜もまだ降るらしいんですが、おそらくあとひと息で今回の豪雪は収束するでしょう。

それにしても、ここ数年、一度に50cm以上降るドカ雪が続いています。

暖冬のことしくらいは安心できるだろうとおもってたんですが、結局ことしもひどい大雪でした(笑)


1279
遠藤周作については、たしかさくらももこのエッセイにも書かれていたはずで、いたずら好きのじいさんだ、というような内容だったとおもいます。

遠藤さんは非常にひょうひょうとしたユーモアのある人物でしたが、同時に家族内でこじれていたり、キリスト教の問題など、いわゆる純文学的な暗いテーマを心に抱えた人でもあり、肉体的に病気の多い人でもあったんですよね。

個人的には、この人は人間の「虚をつく」のがよほど好きなのか、エッセイでも純文学でも、ずっとそんなことばかりしてる印象です。

じぶんでも狐狸庵と名乗っていましたが、実際に狐狸のようなつかみどころのなさがあったのだとおもいます。

かれが日本人の立場でキリスト教に挑んでいくのも、重苦しく書きながら、じつは無邪気で無垢な子供が、大人にえげつない質問をするような、あどけなさを装いながら、相手の虚をつくユーモアを秘められているようにおもえます。

たとえば多神教の日本と、一神教のキリスト教の対立や融合なんて、ものすごく基本的で重要なテーマですが、キリスト教の中では臭い物のフタのようなところがあって、ギズモさんもおっしゃってましたが、ほんとうに嫌な顔をしたり批判する人もいたことでしょう。

遠藤さんはそこをなんの悪気もなく突っつくんですよね(笑)

それでもし、本気で顔を真っ赤にして怒る人がいたら、あんなマジメな作品を書いていながら、遠藤さん自身は狐狸が人を化かして喜ぶように、愉快げに笑っていた気がしてなりません。

というのも、重苦しい問題提起の作品ほど、心にどこか楽観性、ユーモアがないと書けないとおもうからです。



タモリのヨーデル話法からヨーデルの詳しいお話、ありがとうございます。

「歌唱力よりアイドル性が重視されている」という話をうかがいながら、そういえばこんな子がいたな、とYouTubeをゴソゴソ探し回っていました。

ご存知かもしれませんが、貼り付けておきます。



ソフィア・シキチェンコというウクライナの歌手ですが、彼女はもう大人になっています。

ギズモさんのおっしゃるとおり、民族音楽としてのヨーデルをいちばんうまく歌うのは東欧人だとおもいます。

日本人がそれっぽいことをしても、文化的に根を張っていないのでうまくいきません。

しかしそこを踏み込んで考えていくと、日本人はじぶんたちの民族音楽を、日本独自のカタチでどれだけ進化させてきただろうか、という考えが鎌首をもたげてきました。

日本的な音楽を、外国の音楽と融合させて、なにかあたらしげにしたものはあります。

けれど、アメリカでブルースがロックに発展していった、ジャズがフュージョンに発展していったというような、自国内での突然変異というようなことは、日本ではあまり起こらない気がします。

その点で「平成あたりから、どんどん歌手の質が低下している」というご指摘にも、同調できるフシがあります。

昭和は、結局明確なカタチになったかははっきりしませんが、なにか生み出そうとはしてたんですよね。

昭和には商業的な中にも日本的な音楽をブラッシュアップしていこうという気風があったのが、平成になると商業音楽であることだけが大事になっていくでしょう。

売れる音楽、儲かる音楽だけが正義という価値観の中で、大事なモノを落っことしてしまったような気がするのです。
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わかりました。
ご連絡、ありがとうございます。
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ちょっと申し訳ないんですが、しばらくじぶんの問題に注力するため、休みます。
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妙義神社の詳しいお話をありがとうございます。
偶像の物語がおまけみたい、というお話、とてもわかりやすいです。

「深い河」は闘病中に書いているので、最後の作品になるという予感もあったかもしれませんね。
リドルストーリー的になったのは、みんな違ってみんないい、ということかもしれませんが、遠藤周作は自分なりの結末があったのだと思います。
日本人にキリスト教というものを広めたことで、カトリック界からその功績を称えられた一方、歪められたキリスト教を書いたと非難もされた遠藤周作ですが、結局は最後まで答えの出ないキリスト教というものを追い続けたのではないかと。

タモリさんのヨーデル話法のことは、ネットで知りました。
コロナで人と話す機会が減少したために、声帯の筋肉が衰え、しっかりした声が出せなくなっている人が世代に関係なくいるので、そのせいかなと思ってもいました。
高齢者の場合は顕著ですが、若くても、歩かなければ筋肉が衰えるのと同様、声帯にも影響がでますが、必ずしもそのせいとも言えません。
コロナ禍では、学校の音楽の時間に「歌う」ことが禁止だったので、子どもにも言えることですし、カラオケ屋がずっと営業休止だったことも遠因のように思います。

ヨーデルは単純に声がひっくり返ればいいというものではなく、地声がまずしっかり出せて、その上で裏声をさらにしっかり出せないと歌えません。
「ひっくり返る(裏返る)」のは、偶然の現象であって、歌唱とは異なります。
現代の歌手は、正式なボイストレーニングを受けていないのではないかと思えるほど、地に足がついた歌唱ができていません。
かなり厳しい見方かもしれませんが、歌唱力よりアイドル性が重視されているように思います。

ウイリー沖山の「山の人気者」は日本で大ヒットしましたが、あの歌唱力でさえ、スイスのヨーデルにはかなわないと思います。
それは、歌唱力の問題ではなく、外国人が日本の民謡をどんなにうまく歌っても、日本人の歌う民謡とは違いがあるのと同じかもしれません。

最近の歌手は、ミックスボイスというおかしな歌唱法で歌う(歌わされる)人が多く、それがトレンドのようになっていますが、その歌い方もしっかりできていないために、「声がひっくり返った感」が目立ってしまうように感じます。
あの歌い方がかっこいい、と思って歌っているのでしょうから、文句を言う筋合いでもないのですが(笑)

偉そうなことを言いましたが、ボイストレーニングを教える立場でありながら、ヨーデルをちゃんとは歌えません(笑)
替え歌「焼肉食べ放題」は盛り上がるので歌いたいのですが、私も「運が良ければ声をひっくり返すことがない」程度の歌い方しかできないんです。

いわゆる商業歌手が出てくる前は、歌謡曲(国民歌謡)の流行歌手は、音大出かクラシックの勉強をした人だったのですが(東海林太郎・淡屋のり子などの頃)、それ以降の歌手も、殆どが聴きごたえのある歌唱力の歌い手さんでした。
平成あたりから、どんどん歌手の質が低下しているように思いますが、これも時代なのでしょうね。
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書こうとおもって忘れてました。

去年末、タモリが徹子の部屋に出演していて、これはまあ毎年年末には出演なさってるんですが、そこでタモリが、最近の若い子が「ヨーデル話法」になってるというんです。

営業がうちにくるとき、盛り上げたい話になると声が裏返るというんですが、番組をみているときは、あんまり実感がありませんでした。

ところがその後レコード大賞や紅白歌合戦をみていると、若いミュージシャンがみんな裏声を取り混ぜたヨーデルのような歌い方をしてるんですよ。

紅白のトリの福山雅治までヨーデルみたいな歌い方をしているので、さすがに親は「これはむかしの曲やろ」といって、ぼくが調べたら2023年の曲。

親も唖然としていました。

これは、タモリの慧眼なのかなんなのか、世の中がヨーデルになってるじゃないかと、不思議な気分になったものです。

ぼくがみたのはミュージシャンだけでしたが、世の中が裏声ブームになってるなんて。

おそらくうちのような田舎にはやってこようはずもない流行でしょうが、都市部ではそんな変化があるのかもなあ、と他人事のようにおもっている間に、もう小正月です。

#与太話
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遠藤周作『深い河』を聞く。

最後まで聞いて、なんだこの終わり方は、と戸惑いました。



あ、小説を読んでいない場合はここまでにしてください(笑)

ここからはネタバレを含む解説になります。



この小説、主人公たちが最終的にどうじぶんの心に決着をつけたか、というカタルシスがなくて、美津子が大津の危篤を知らされるシーンでぶつりと完結してしまうのです。

「あなたの友人ですか、怪我をした日本人は……」
と彼は唾をのみこんで言った。
「危篤だそうです。一時間ほど前から状態が急変しました」


これで終わり。

おい、大津はどうなって、美津子はどうなったんだ、と言いたくなります。

しかしこの小説、突然終わってしまう不思議な小説ですね、という感想ですむ話でないことはたしかです。

この中途半端なところで終わらねばならない理由がある。

そこを考えてみようとおもいます。



この小説がどういう物語かというアウトラインは読んでもらわねば仕方ないんですが、深い河というのは単にガンジス川という意味ではないでしょう。

ふたつの岸を隔てる大きな川、というニュアンスが含められているとおもいます。

ひとつには、もちろん生者の世界と死者の世界を隔てる深い河。

宗教と無宗教(無神論)を隔てる深い河。

そして多神教(汎神論)と一神論を隔てる深い河。

宗教と宗教や、おなじ宗教どうしや、宗教と政治が対立する深い河。

さらに日本でいえば、太平洋戦争を経た世代と、その後の資本主義社会を生きる世代の価値観、考え方のちがいを隔てる深い河。

こういった対立的な要素がそこかしこにちりばめられていて、読み手はややもするとこの対立構造にいらだつようになっています。

わざといらだつように、遠藤さんが誘導しているのでしょう。

しかしこの対立のいら立ちは、インディラ・ガンディー首相が暗殺されたことによるインド国民の暴動でピークを迎え、そこに巻き込まれる大津の自己犠牲によって雲散霧消してしまいます。

そして、どうなるのか、ということが、読み手に放り投げられました。




信仰をもたない無神論者の美津子は、汎神論者である大津を蹂躙し、信仰から引きずり下ろそうとします。

が、最終的には大津のたゆまぬ信仰心に打たれるようになっていきます。

そしてあの最後の唐突な、大津の危篤を知らされる場面。

どうしてあの終わり方なのか、ということを考えると、ぼくはこう考えます。



遠藤周作の最晩年に書かれたこの作品は、信仰を持つ人に向けて書いたのではなく、美津子のように信仰を持たないあたらしい世代に向けて書いたはずです。

もし日本がひとつの信仰を頑なに守るような国柄だったなら、この作品は生まれなかったか、まったくべつの問題提起になっていたことでしょう。

個人主義社会の中でだれもがじぶんのことしか考えないようになり、どこかで人間や社会を冷笑していて、資本主義というあたらしいムーブメントに首ったけになっている、そんなわれわれの世代は、物質社会の恩恵をろくに受けず(受けられず)、それでも信仰に生きる大津の、無私で普遍的な自己犠牲をどうとらえるか。

しかしそこに遠藤さんがヒントを与えないものだから、読み手は戸惑うんですよね。

美津子が大津の危篤に際して、どう行動したかということも、描かなかった。

そこを描いてしまうと、作品が野暮ったく、説教臭いものになってしまう、ということをわかっていて、筆をおいたのでしょう。



ぼくなどは、美津子は大津に帰依するほかないとおもいます。

どう考えたって、大津(あるいは大津の死)にひざまずき、生涯をかけて大津という人間に向き合う以外に道はありません。

けれどぼくがもっと若い時期であれば、大津の自己犠牲は尊いけれど、べつに美津子が生き方を変える必要はないし、大津が犠牲を払ったのだから信仰を持てというストーリーだと、押しつけがましくてイヤだな、とおもっていたはずです。

たぶん遠藤さんはそのへんを見抜いていて、いろんな層の読者に時限爆弾をしかけるように、結末を描かなかった。

この結末の続きをどう考えるかは、おそらく世代間でかなりちがう、ということなんだとおもいます。

畳む


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1273

TVerのご紹介ありがとうございました。

妙義大権現について調べていると、ここの権現信仰は不思議で……たとえば秋葉権現は秋葉三尺坊という人間離れした修験者の伝説から由来しているわけですが、妙義権現の伝説は以下のようなものです。



法性坊尊意僧正という比叡山の13代目天台座主がいました。(比叡山の〇〇坊、というのがいかにも天狗っぽいですね)

知徳にすぐれその名は広く知れ渡り、特異な力を持つ修験者であり、菅原道真の師でもありました。

天慶3年(940年)2月23日、沐浴ののち無病にて逝去します。75歳。(84歳とも)

それから67年後の寛弘3年(1006年)2月24日、妙義山で三歳の児童が神憑りになり、こんな神託を述べました。

「わたしは比叡山の座主、尊意である。前世からの因縁があり、悪魔を法力によって鎮め、仏法を守護するためこの山に住む。妙義権現というべし。」



この妙義権現は、3歳児のことをいうのではなく、妙義山に住み着いた尊意僧正の霊気のことをいうのでしょう。

ところで、妙義山に掲げられている「大」は、妙義大権現の大であり、一説には大日如来の大ともいわれるそうです。

権現は天狗信仰であり山岳信仰です。

大日如来は密教・真言宗の本尊、つまり空海による高野山、高野聖をイメージするとわかりやすいんですが、これも山岳仏教です。



しかしよく考えると、妙義権現は天台宗の13代目の座主です。

天台宗なんです。

大日如来はというと真言宗です。

空海の真言宗と、最澄の天台宗がごちゃごちゃになってるんですよね。

そして神道の側面ではヤマトタケルが祭神になりました。

そのヤマトタケルも権現とむすびついて、武尊大権現となる。

全体的にご神体に対する観念がゆるいというか、節操がないようにもおもえます(笑)



そのゆるさの原因を考えると、妙義山はもともと、仏教色の強い権現信仰の修験道、霊山だったのでしょう。

はっきりしたご神体よりも、山体そのもののほうが重要だったんだとおもいます。

もともと妙義山という奇岩への信仰があって、そこに権現や大日如来というような概念が肉付けされていったと考えると、ヤマトタケルが武尊大権現になる理由もわかる気がします。

つまり妙義山の実質的な本尊は山体そのものなので、それが尊意僧正の伝説であったとしても、あるいは大日如来だったとしても、あるいはヤマトタケル権現だったとしても、そういった偶像の物語は、おまけみたいなものというわけです(笑)

大事なのは、崇敬すべき妙義山があることなのでしょう。



日本でもパクチーの需要が高まれば、品質も高まり、値段も安くなるはずですが、一時期パクチーブームのようなものがメディアによって取り立てられたものの、やはり食習慣に根付くところまではいかなかったようですね。

野菜の種では「コリアンダー」の名前で親しまれていますが、この葉野菜はそだてるのはカンタンです。

害虫も少なく、家庭菜園レベルなら無農薬で育てられる印象があります。

しかり営利で育てるのは、ほとんど売れない可能性があるので怖いですね(笑)




ネット上の付き合いに関しては、おもうところはあります。

ぼくは、ネット上の交友を離れてリアルの交友になることが、とても大事なことだと感じています。

そうならない間にだれかが亡くなるというのは、ギズモさんのおっしゃる「SNSでのおつきあいというのはそういうもの」という段階で終わってしまうことでしょう。

バーチャルな世界でだれかが亡くなるというのは、もちろんわれわれはそこにも人間の死を想像はするのですが、相手の人間そのものを知らない以上、結局はアバターの死、あるいはその方が残した情報の死なんですよね。

しかし、人の顔のみえない軽い付き合いのほうがラクでいい、というのがいまの社会のホンネのようにもおもえますし、その点では「ネットからリアルへ」を求めるぼくは、旧時代の人間なのかもしれません。

いまどき、オフ会という言葉も聞かなくなりましたしね(笑)

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