山麓王国

2025年7月2日の投稿2件]

Icon of gizumo
【書き足し・お詫び】
「新規に投稿」を押さないで投稿したのかもしれません。投稿日が7月2日になっているのに気がつきました。

記憶が間違っていなければ、7月8日だったかと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

手のケガ、破傷風などの心配がなくて、本当によかったです。

マダニ感染症で死者も出ているそうですが、植物も虫も怖いですね。

外来種のアライグマに付着しているマダニから感染することが多いらしいのですが、都内でアライグマが増加しているようで、最近、家の近所でアライグマが捕獲されたというニュースがありました。


自由意志のお話、非常におもしろいですが、なかなか一筋縄ではいかないテーマだと考えさせられました。

一生懸命考えているのですが、きちんと理解しないまま枝葉が広がってしまい、カオスに陥っています(笑)



遺伝、教育や環境によるプログラムに従わない行動がエラーであり、人間の自由意志だとすると、人生エラーが多いほど、充実しておもしろいのではないかと思ってしまいました。

現状維持(プログラムに従って生きる)もひとつの立派な生き方ですが、変革人生もまた楽しからずや、というところではないかと(笑)

自分で選択したつもりのことでも、それは、実は自分の意志で選んだのではない、という見方もできますね。



幕末の志士たちの行動は、世の中を憂いて、将来的に世の中を変えたいという信念に基づくものだったのでしょうが、自分たちの志が後世にどうひきつがれるのか見てみたいという気持ちが、まったくないはずはないと思えます。

でも彼らはそれを必要としなかったのでしょうね。

漫画『JIN~仁~』のラストでは、龍馬の死後、仁にはなぜか龍馬の声が聞こえ、心(頭)の中で会話ができるようになりますが、仁は龍馬が斬られた場に居たことにより、龍馬の血液や脳髄液を眼球や身体に浴びたので、龍馬の意識が仁の肉体に同居したという筋書きになっています。

龍馬は、「仁と一緒に未来を見てみたい、だから帰れ(仁がいた元の世界)」と言っていたかと思います。

創作なので、実際に未来を見たいと龍馬が言った史実があるのかどうかは不明ですが、あれを読んだ時、現代の日本や世界を見た龍馬はどう思うだろう、と考えたことがありました。

日本や世界の目覚ましい発展に驚くとともに、自分の名が教科書に出てきたり、変わることのない幕末ブームにも、さぞかし目を見張ったと思います。

地動説に魅入られた人たちも、「自分の役割はここまで、あとは後世の人間が受け継ぎ発展させてくれる」という、強い信念のもとに生きて憂いなく死んでいったとすると、幕末の志士たちと共通点があるように思います。



話がずいぶん逸れました(笑)

自由意志のお話は思ったより複雑で、考えが四方八方に散らばってしまい、うまく感想をまとめられず申し訳ありません。

書いては消し、書いては消し、で、結局まとまりませんでした←いつも、ですね(笑)

中でも、頭がぐるぐるしてしまったのは、プログラムで行動していること、それはその人の「運命」で、逆らって生きるのは(エラー)運命を書き換えているのか、あるいはそれも運命なのか、ということでした。



最近、都会からなぜそんなところに?という場所に移り住み、自給自足で暮らす道を選ぶ人たちのことをテレビの番組でよく観ますが、沖縄の離島で原始人的生活をしている方は、それとは違い、現状の変化を嫌ってのことなんですね。

地元のホテルの女将さんの話、「長崎さんはあんな生活をしているけど、話してみると意外にまともで挨拶もする」というのを読み、これはちょっと考えさせられました。

ああいった生活をしていたら、「(少しばかり)頭のおかしい人」と思われることがほとんどなのでしょうね。

信念をもって生きている人とは理解されないことがお気の毒に感じますが、たぶんご本人はぜんぜん気にしていないのでしょう(笑)



ここ数日、楽譜や仕事関係のファイルの断捨離をしていたのですが、仕事のこと・レシピ・ノージャンルの覚え書きを書いているノートも整理してまとめようと四苦八苦していました(笑)

その中に、2年ほど前に若いのに癌で亡くなった奈良のお寺の住職が、SNSで発信していた言葉を、いくつか書きとめてあったものがあります。

・あの世とは思考の世界。思いの数だけ道がある。
・生前、三途の川があると思っていた人には川が用意されていて、死後の世界を考えたことがない人は、真っ暗な道をとぼとぼと行く。

抜粋の走り書きをいくつか読み返してみて、あれ??と思い、調べてみたら、曹洞宗の住職でした。

この方の話は、住職にしては宗教的な押しつけがなく、素直に心にすっと入るものが多かったのですが、禅の教えによるものだったからでしょうか。



水無月の記事を教えていただき、ありがとうございました。

カレーとかパフェとかの食べ歩きを記事にしている人はよく見かけますが、水無月とは!!

なにしろ売る期間が短く、早くても1週間前くらいから、短いと6月30日限定販売のお店も多く、この期間に購入すること自体、難しそうですね。

特長など、よくあれだけ克明に書けるなぁと思いますが、もっと簡潔においしいまずいを述べてほしかったです(笑)



6月30日、以前お話したことがある、埼玉県の「武蔵一之宮氷川神社」の夏越の祓に行ってきました。

この日は、神職さん・巫女さんたちが茅の輪をくぐる神事があります。

暑いので、その日そこに行かなくても近所の氷川神社でくぐってくればいいよね~、と何度も悪魔のささやきが聞こえましたが、結局ちゃんと行きました(笑)

14時開始と聞いていたのですが、15分前に着いてすぐ、社務所から大勢の神職さん、巫女さんがでてきて並びはじめました。

一列になって神橋を渡り、おひとりずつ茅の輪をくぐっていきます。

それが終わってから、参拝者が順番に茅の輪をくぐっていくのですが、すぐに舞殿で大勢の神職による儀式が10分ほど行われました。

それが終わると、また神職さんたちがぞろぞろと拝殿まで歩き、3分ほどの短い神事がありました。

夏越の祓の茅の輪くぐりはここ数年毎年やっていますが、神事は初めて拝見しました。

やはり神事というのは、感動しますね。

かなりの人が来ていましたが、隣にいた50代くらいの女性ふたりが(神事を知らず来たのが話の様子でわかりました)、ず~~っと、「来てよかったね!! ほんとによかったね~~~!」と何度も話していました。



このお参りのことを言いたかったわけではなかったのですが(笑)

神社の近くの西武そごうデパートで、「京都 五建外郎」というお店が期間限定で出店しており、水無月を販売していたので、電話で取り置きをお願いしておき、帰りに買ってきました。

他のお店、鶴屋吉信などは、日持ちが当日中なのですが、五建外郎の水無月は真空パックで8日間日持ちするというので、農園主さんに1パック(4切れ)お送りしようと思いまして。

ところが、帰ってから食べてみたところ、とてもとても召し上がっていただけるような味ではなかったので、申し訳ありませんが取りやめました。

外郎専門店ということですので、絶対おいしいと思ったのに・・・・。

真空パックなので味が落ちるのかもしれませんね。


猛烈な暑さが続いていますが、熱中症にならないよう、充分にお気をつけくださいね。



【書き足し】

武蔵一之宮氷川神社でおみくじを引きましたが(箱に手を入れて紙のおみくじを取るタイプ)、「平(たいら)」でした。

「心に苦労がたえない兆(うらかた)なり」と書かれており、そのあとに「自分のおこないしだいで良くも悪くもなるなり」とあって、そりゃ誰だってそうだよね、と思いました(笑)

ここのおみくじは、

大吉>吉>吉平>小吉>末吉>平吉>平>凶向吉>凶末吉>初凶末吉>吉凶末分>吉凶相交>凶 の順番です。

おみくじは予言ではないので、必ずそのとおりになるわけではないし、いいことも悪いことも書かれていますが、誰でも「大吉」が出ればうれしいものです。

「平」で帰るのはどうにも納得できなかったので(笑)、筒を振って番号が書かれている竹の棒を引きだす方のおみくじを引いたら「末吉」でした。

内容的には「平」も「末吉」も似たようなものでしたが、心も落ち着いたし、微力ながら神社の売り上げに貢献したし(笑)、いい気分で帰ってきた、というわけでした。
Icon of nouennushi
あらためて、先日はどうもありがとうございました。

あと、おかげさまで手の腫れは落ち着きました。

心配していた破傷風や、炎症がひどくなるといった症状はいまのところなく、落ち着いています。

ギズモさんに、誕生日を境に厄落としだとおっしゃっていただいて、なるほどそうかもしれないとおもえました。

ものごとにはバイオリズムのような波があって、よいことも長く続くものではないし、わるいこともおなじですね。

あるタイミングをきっかけに、続いていたわるいことが底をついて、好転していくことはよくありますし、ぼちぼちそういうタイミングとおもいたいところでもあります(笑)

末吉は「上がり目」ですから、そこからは上がっていく運勢ですしね。



ところで先日、夏越の祓での和菓子、水無月の話題をいただきましたが、こんなブログ記事がありました。

https://note.com/rakusaku/n/n196c96a6682...

なかなかこんなことをしている方はめずらしいとおもうのですが、水無月を食べ比べしておられます。

ギズモさんのおっしゃっていたとらやと俵屋吉富もレビューされていました。

特にそこから広げていくような話でもないのですが、ういろうに小豆という単純な和菓子にこれほどいろんな種類とこだわりがあるのを実際に知ると、あらためて驚きます。



肉体内の細胞にも意志があるのかという件ですが、細胞には役割のプログラムはあるとおもうのですが、人間のような複合的な意志はないとおもいます。

しかし人間自体にも、自由意志はないという説があります。

つまり、遺伝や外界の教育などの刺激によって、じぶんの行動が決定されるだけで、じぶん個人の自由な意志というものは存在しないというのです。



もしそうであれば、人間もまた最初のプログラム(遺伝)と、後から書き換えられたプログラム(教育や環境)で行動しているといえます。

そして細胞がエラーを出すことがあるように、人間もやはり、プログラムに必ずしも従わず、エラーをだすことがあります。

陰謀論にひっかかったり、イデオロギーに傾倒したり、カラダが病気になっても病気ではないと信じ込んだり……。

ぼくは、あるいはこのエラー(プログラムに従わない行動)こそが、人間の自由意志なのではないかとおもっています。



ところでつい最近「チ。」というアニメをみました。

いまはアベマで最終話まで全話みられるんですが、おもしろいものでした。

どういう話かというと、中近世(15世紀)のヨーロッパが舞台です。

日本だとまだ戦国時代になるより前の室町時代。コロンブスがアメリカ大陸を発見する大航海時代よりもすこし前といったところです。

金儲けを肯定するプロテスタントが生まれるよりも前ですね。

地動説を取り締まる異端審問官と、審問官たちに殺されながらも地動説の情報をつないでいく人々の物語です。

主人公は複数登場するのですが、ほんの数話の間でどんどん死んでいきます。

しかしみんな、地動説に魅入られて、この説が後世につながっていくことを信じて、じつにいさぎよく死んでしまうのです。

「知らないことを一生懸命知ろうとしても、生きている間に、いったいどのくらいのことを知ることができるのか・・・・。」

あの作品には、ギズモさんの問いかけに対するひとつの答えがあるような気がしました。

つまり、あの作品で地動説に魅入られた者たちは、結局コペルニクスが世界の認知を変える現場を知らないまま死んでいきます。

地動説という、あくまで真実のとっかかりのようなものに触れただけで、あとはそれをどうにかしてつないでいくのがじぶんの役割だといって、それがどのように発展していったかという歴史の真実は知らないのです。



われわれもおそらく、こんなに情報過多の時代ですが、ほとんど「なにも知らないまま」死んでいくことでしょう。

それで、じぶんの人生で得られた知恵を、次世代が引き継いでくれます。

人間の文明というのは、つねにあたらしい世代が前の世代の屍を越えていくようにしてリレーを繰り返し、発展しています。

でもこの発展はさっき言った、人間のエラーだとおもいます。

人間は本来は、遺伝と教育によって、前の世代とおなじようにして生きているべき生き物です。

生存できるかどうかという視点でみれば、現状が変わらないほうがよくて、変革は起こらないほうがいいんですよね。

だから、エラーのない生き方という意味では、異端審問官のほうがよっぽどまともです。

科学的真実がどうであろうと、じぶんに授かった肉体と、先人に教わった知恵の中に生きていくのは、おかしなことではありません。

でもエラーこそが人間の自由意志という意味では、異端審問官の生き方には自由意志がありません。



いま、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談の本が手元にあります。

『日本人と日本文化』というタイトルです。

その中に、禅について対談しているときに、司馬さんがふと明治の志士の死に方について話すんです。

その部分をすこし引用します。



司馬 日本人の場合は、いろんな宗教が入ってきたわけですが、日本人にいちばんうまく適合した宗教は、これもほんとうの禅とどれだけ関係があるかどうかは別として、私は禅だと思います。禅は日本人とウマが合ったという感じです。(中略)直感的なところとか、煩瑣な理屈がないということがひじょうによかったんでしょうね。たとえば、幕末の志士などは、平気で死んでしまって、お念仏のひとつも唱えないのかしらと私はときどき思うのです。彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしらと、いろいろ思うのですけれど、彼らは別にそれを思って死んだのではありませんね。どうもあのころになると、禅というものはずいぶん武士の心の中に入っていたらしい。アッという間に空に帰することができるような人間がずいぶんといたらしい。



禅宗は思想面でいえばシンプルな宗教で、人間に優劣をつけません。

仏さんが上で人間が下、というようなこともしないんですね。

それで、人間の中に仏性が宿っているというんです。

じぶんの内にある仏性を悟ろうと修行して、あとはひたすら生活を突き詰めます。

生活が「完璧に調和する」ところを目指すところから、日本に到来した禅宗は、あのシンプルで無駄がない東山文化のような禅芸術にむすびつきました。

禅寺では食事作法や掃除の仕方などが、異様なほど厳しいものになっています。

そうやって生活を研ぎ澄ましていくと、死さえも洗練された簡素さで受け止めてしまう……と、まあ現実離れした考えですが、そのあたりの恬淡とした死への態度を、司馬さんは明治維新の志士にたとえたのでしょう。



この明治維新の志士たちは、みんなあまりじぶんの命に執着せず、それぞれの立場で日本の将来を憂いていました。

もし名を成さずに死ぬとしても、じぶんの生き方が次の世代になにかしらのバトンを渡す、時代の礎になるだろうという、そういうぼんやりした理念だけを懐に抱えて、その時代を生きて、死ぬにしても満足して死んでいったのだとおもいます。

明治維新の志士たちの行動は、変革を求めるものなので、エラーなわけですが、同時に非常に魅力的な自由意志によって活躍していたのだとおもいます。



そのように考えていくと、ほとんどの人々は、すべてを知りたい、すべてを為したいと願い、自由意志に向かっていくのですが、いまだだれもすべてを為すことも知ることもできませんし、われわれはみな道半ばに死んでいく仲間なのかもしれません。

ごく一部には、自由意志を求めず、現状が変化することを嫌い、原始人のようにして暮らすことを望む人もいます。

沖縄の離島で、裸で採集生活をしながら生活し続ける日本人の老人がいたのをテレビでみたことがあります。

調べてみたら長崎真砂弓という人らしいのですが、ああいう暮らしは現代人がそうそうできるものではないですね。

実際、以下の記事のように、ああいう原始的な生き方を文明人の側が許さない、という側面もあるようです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2015...



なんだか尻切れトンボのような終わり方になりますが、この話はいったんここで終わりにしておきます。

ぬか漬け、いまの時期から始めると、夏野菜から冬野菜までゆっくり楽しめますね。

ひとり暮らしだとぬか漬けは持て余してしまうのでつくりませんが、家族で食事のたびに季節の野菜のぬか漬けをおかずの一品にする、ということができれば、続けられそうな気がします。

編集

■全文検索:

複合検索窓に切り替える

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■新着画像リスト:

新着画像リストは出力しない設定になっています。

全230個 (総容量 183.18MB)

■日付検索:

■カレンダー:

2025年7月
12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031

■カテゴリ:

■最近の投稿:

最終更新日時:
2026年3月28日(土) 10時30分40秒〔7日前〕