全年11月26日の投稿[9件]
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前回のギズモさんの返信で痛いところを突かれて、半ばおどろき、半ば頭をかいているような次第です。
というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。
ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。
これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。
それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。
ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)
そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。
今回はとうとう1万字を越えてしまいました。
わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。
物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。
平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。
ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。
江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。
この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に天孫降臨(天孫降臨はニニギノミコトですね)したとあります。
場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。
天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。
ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。
そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。
4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。
神々が降臨したのは、このややこしい時代です。
神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。
この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。
出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。
製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。
物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。
物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。
津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。
創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。
奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。
吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。
しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。
このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。
ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。
冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。
この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。
石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。
これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。
そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。
生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。
物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。
そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。
布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。
そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。
つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。
ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。
一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。
ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。
たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。
その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。
ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。
この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。
矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。
弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。
そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。
すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。
岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。
そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。
では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。
いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。
当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。
あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。
この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。
しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。
物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。
そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。
さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。
時系列でいうと、
・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。
・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。
・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。
・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。
ということになります。
余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。
といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。
この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。
名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。
この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。
つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。
そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。
大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。
しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。
フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。
神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。
ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。
『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。
この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。
2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。
出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。
一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。
そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。
そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。
ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。
新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。
しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。
そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。
この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。
しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。
スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。
スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。
しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。
ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。
しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。
わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。
興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。
たたら製鉄は出雲が発祥です。
あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。
それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。
出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。
以下、さらに憶測です。
たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。
スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。
丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。
それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。
同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。
スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。
この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。
さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。
この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。
が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。
「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」
という意味にもおもえてきます。
しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。
各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。
日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。
いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。
この点でも憶測を働かせると……
スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。
大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。
スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。
しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。
ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。
さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。
スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。
近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。
わたしはこのように考えます。
ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。
あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。
物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。
この武器利権に物部の将来性を感じたのです。
そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。
https://articles.mapple.net/bk/8381/
かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。
そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。
そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。
鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。
社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。
その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。
剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)
それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。
物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。
別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。
彼女は物部守屋の妹でした。
太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。
物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。
日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。
しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。
これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。
そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。
近親の豪族風情と四人の子をなした女がを、当時の重臣である蘇我馬子や、崇峻天皇が競って奪うなんてことがあるでしょうか。
きわめて不自然です。
個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。
太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。
その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。
蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。
崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。
しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。
つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。
推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。
推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。
このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。
蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。
さて、ここからまた憶測の物語です。
仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。
特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。
寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。
蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。
しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。
守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。
物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。
朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。
かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。
それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。
さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。
しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。
天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。
太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。
太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。
物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。
かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。
そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。
と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。
しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。
結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。
にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。
さて、これで物部氏の話はおしまいです。
長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。
しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)
ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。
複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。
というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。
ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。
これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。
それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。
ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)
そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。
今回はとうとう1万字を越えてしまいました。
わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。
物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。
平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。
ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。
江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。
この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に
場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。
天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。
ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。
そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。
4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。
神々が降臨したのは、このややこしい時代です。
神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。
この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。
出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。
製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。
物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。
物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。
津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。
創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。
奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。
吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。
しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。
このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。
ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。
冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。
この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。
石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。
これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。
そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。
生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。
物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。
そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。
布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。
そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。
つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。
ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。
一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。
ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。
たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。
その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。
ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。
この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。
矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。
弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。
そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。
すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。
岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。
そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。
では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。
いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。
当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。
あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。
この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。
しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。
物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。
そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。
さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。
時系列でいうと、
・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。
・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。
・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。
・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。
ということになります。
余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。
といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。
この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。
名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。
この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。
つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。
そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。
大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。
しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。
フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。
神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。
ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。
『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。
この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。
2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。
出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。
一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。
そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。
そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。
ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。
新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。
しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。
そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。
この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。
しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。
スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。
スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。
しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。
ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。
しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。
わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。
興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。
たたら製鉄は出雲が発祥です。
あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。
それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。
出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。
以下、さらに憶測です。
たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。
スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。
丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。
それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。
同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。
スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。
この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。
さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。
この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。
が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。
「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」
という意味にもおもえてきます。
しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。
各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。
日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。
いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。
この点でも憶測を働かせると……
スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。
大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。
スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。
しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。
ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。
さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。
スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。
近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。
わたしはこのように考えます。
ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。
あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。
物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。
この武器利権に物部の将来性を感じたのです。
そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。
https://articles.mapple.net/bk/8381/
かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。
そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。
そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。
鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。
社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。
その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。
剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)
それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。
物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。
別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。
彼女は物部守屋の妹でした。
太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。
物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。
日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。
しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。
これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。
そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。
近親の豪族風情と四人の子をなした女
きわめて不自然です。
個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。
太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。
その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。
蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。
崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。
しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。
つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。
推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。
推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。
このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。
蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。
さて、ここからまた憶測の物語です。
仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。
特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。
寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。
蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。
しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。
守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。
物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。
朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。
かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。
それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。
さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。
しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。
天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。
太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。
太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。
物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。
かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。
そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。
と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。
しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。
結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。
にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。
さて、これで物部氏の話はおしまいです。
長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。
しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)
ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。
複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。
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民主主義を説明するにはひと言ではもちろん足りないんですが、それでもムリにひと言でいえば、民主主義とは「手続き」なんですね。
国民・市民による選挙という手続きによって政治家が選ばれ、憲法・法律という手続きによって国家の秩序をたもつ。
この「手続き」のシステムが民主主義の背骨になっています。
で、この手続きの面倒くささは、民主主義の長所でもあり、短所でもあるんです。
たとえば安倍晋三を殺した山上徹也は、そこにどんな正当性があろうと、国家からみればテロリストということになります。
なぜなら民主主義国家では、たとえ悪があるとわかっていても、それは法秩序の手続きによって正していかねばなりませんし、殺して解決してやろうというのは、手続きを踏んでおらずアウトだからです。
しかし、ここでひとつの疑問が生まれます。
「法が権力者を優遇することがあるような例外がある以上、国民が民主主義のシステムをおとなしく守っているだけではダメな局面もあるんじゃないか?」
この疑問は残念ながら、ただしいんです。
山上徹也が革命分子から「山上烈士」などともてはやされたのは、民主主義のシステムを暴力的に打ち砕いたときに、それでたしかに世の中が変わってしまったからです。
山上徹也の「家庭の事情」をマスメディアが大きく取り上げ、統一教会は弱体化し、政治的には安倍派の影響力も衰微しました。
革命側からみれば、以下のように言いたくなることでしょう。
「日本は民主主義だなどと言ってるが、手続きを無視して暴力でものごとを変えたら、世の中はちゃっかりそこに乗っかって、変革をおこなったじゃないか。
ほんとうにこの国が民主主義国家なら、安倍晋三殺害によって世の中を変えるなんてことはしてはいけなかったんじゃないのか。
統一教会の問題はそのままにしておかなきゃいけないし、マスメディアはこの問題を問題として取り上げちゃいけなかったはず。
民主主義にあるべき手続きを踏んでいないのだから、本来無効でなくちゃならないことを、変革の材料として認めてしまっているじゃないか。
テロリストが権力者を殺して世の中を変えたなんて、あってはならないのに、山上徹也は安倍晋三を殺して、世の中を変えてしまった。
民主主義国家なんてこんなもんなんだよ」
戦争のころの日本の民主主義がおかしかった理由は、この山上徹也的な手法が横行していたからです。
必要となれば民主主義的な手続きを完全に無視して事を運び、変革をおこなってしまい、あらためて民主主義的に事を運ぶ、というやり方です。
本来、こんなことは超例外でなければならないんですが、日本自体しっかりした民主主義的思想が共有できておらず、さらに二二六事件によって軍部が政治中枢に入り込んでから、収拾がつかなくなったんですね。
これはおそらく以前にも書いたことがあるとおもうんですが、昭和天皇も戦後なお「いざとなれば手続きを省略できる独裁のほうがよいのではないか」と考えていたようです。
ほかならぬ昭和天皇が、民主主義の手続きのもどかしさをボヤいていたわけです。
日本は明治以降、曲がりなりにも選挙制度と立憲主義をとっていて、西洋的な国家運営を目指していました。
そこにはもちろん、民主主義的な方向性も含まれていました。
しかし昭和天皇でさえ、いざとなれば手続きなんかやってる場合じゃないだろうという認識だったわけです。
戦後GHQは、このように民主主義が恣意的に運用されることを認めませんでした。
「『民主主義国家』を謳う国が、国ごとに実際は異なる政治体制だとすると、もう『民主主義』という言い方をやめてもいいように思います」
というギズモさんの言葉はもっともです。
アメリカにしたって、トランプが4年前に議会を襲撃しましたが、あれは議会制民主主義を手続きを経ずに破壊しようとしたわけで、本来あってはならないことです。
アメリカが厳格に民主主義を標榜するのであれば、トランプは処刑されてしかるべきでした。
しかし当のアメリカが、それはそれとしてトランプを再選させてしまいました。
民主主義は厳格に運用されないと意味がないんですが、その運用のありようは国によってちがうし、その時代によって厳格に運用されたり、いい加減になったりする、維持管理がたいへんなシステムなんだとおもいます。
指をケガする出来事が続いたとのこと、たいへんだったとおもいますが、その後障りはないでしょうか。
もしぼくにおなじようなことが起こったら、やっぱりなにかのメッセージだとおもってしまうことでしょう。
なにかじぶんの心の方向性で改めるべき点がないか、振り返ります。
今後はより注意深く行動しよう、ともおもいます。
まあ、実際にはまたおなじようなことはやらかしちゃうわけですが(笑)
結局、ケガをじぶんの行動改善のきっかけにしてるんです。
家電の故障などもそうですが、ケガなども一度起きると続けざまにあれこれ起こることがありますね。
うちの父は、がんが発見された後、検査でそれがふたつだったとわかり、肺がんを胸腔鏡手術で治療するはずが、問題が発生して胸を横に20cmも切る開胸手術になってしまいました。
さらにその後の入院中にコロナに感染。
退院後に咽喉がんの放射線治療で苦しみ、その数か月後に帯状疱疹を発症。さらにその数か月後に脱腸がみつかり、これも手術で治しています。
これまでほとんど大きな病気のなかった父が、たった1年の間で立て続けにいくつもの病気治療に追われました。
まあ、全身のメンテナンスをして改善したのだとおもえば、いまとなってはよかったとおもいますが、ああいうことがほんとうに起こるから、不思議ですね。
平家物語なんですが、先日、直売所が改装工事で休業したんです。
それでできた貴重な休日を利用して、日帰りで大原の寂光院に行きました。
平清盛が死んだ後、あれよあれよと平家は没落します。
清盛に煮え湯を飲まされていた後白河法皇が源氏と手を組み、平家は頼朝が派遣した義経に追われ続けます。
京都から瀬戸内海沿いへと撤退しながら、最後壇ノ浦で一族郎党みな討ち死にします。
権勢を極めた清盛は、とうとう孫に天皇を持つにまで至ったのですが、清盛の娘であり、7歳の安徳天皇の母である平徳子は、目の前で我が子が清盛の妻である二位尼に手を取られ、舟から飛び込んで壇ノ浦の海に入水するさまをみます。
後を追って徳子も海に身を投げたのですが、彼女だけが源氏方に救われてしまうんですね。
子を失い、家族もみな失い、権力も失い、じぶんだけが生き永らえてしまった。
寂光院は平徳子(建礼門院)が、壇ノ浦の合戦ののちに隠棲していた尼寺で、平家の菩提を弔い、自身の運命に苦しみながら日々を過ごしたといいます。
没落し、断絶したとはいえ、天皇の母です。
丁重に扱われていましたが、なにせたいへんな田舎でした。
在所の人々が、夏野菜と赤ジソでつくったお漬物を持ってきたのだけど、これを建礼門院はしみじみと喜んで食べたといいます。
そのときにこの漬物を「しば漬け」と名付けたそうな。
大原にはこの時代のしば漬けを再現した、ほんとうにシンプルな製法のものが売られていて、このお漬物を買ってきて、食べたんですが、乳酸発酵の効果でものすごく酸っぱい(笑)
スーパーに売ってるしば漬けとはまったくちがう、まったく現代に迎合していない、それでいて洗練されたお漬物でした。
こんなに純朴で、風変わりで、大昔の味をつないだお漬物はめったにないとおもい、今度京都の贈りもののひとつにしようとおもったんです。
が、なにせお漬物は好き嫌いがありますから、これだけは事前に伺っておこうとおもった次第です(笑)
国民・市民による選挙という手続きによって政治家が選ばれ、憲法・法律という手続きによって国家の秩序をたもつ。
この「手続き」のシステムが民主主義の背骨になっています。
で、この手続きの面倒くささは、民主主義の長所でもあり、短所でもあるんです。
たとえば安倍晋三を殺した山上徹也は、そこにどんな正当性があろうと、国家からみればテロリストということになります。
なぜなら民主主義国家では、たとえ悪があるとわかっていても、それは法秩序の手続きによって正していかねばなりませんし、殺して解決してやろうというのは、手続きを踏んでおらずアウトだからです。
しかし、ここでひとつの疑問が生まれます。
「法が権力者を優遇することがあるような例外がある以上、国民が民主主義のシステムをおとなしく守っているだけではダメな局面もあるんじゃないか?」
この疑問は残念ながら、ただしいんです。
山上徹也が革命分子から「山上烈士」などともてはやされたのは、民主主義のシステムを暴力的に打ち砕いたときに、それでたしかに世の中が変わってしまったからです。
山上徹也の「家庭の事情」をマスメディアが大きく取り上げ、統一教会は弱体化し、政治的には安倍派の影響力も衰微しました。
革命側からみれば、以下のように言いたくなることでしょう。
「日本は民主主義だなどと言ってるが、手続きを無視して暴力でものごとを変えたら、世の中はちゃっかりそこに乗っかって、変革をおこなったじゃないか。
ほんとうにこの国が民主主義国家なら、安倍晋三殺害によって世の中を変えるなんてことはしてはいけなかったんじゃないのか。
統一教会の問題はそのままにしておかなきゃいけないし、マスメディアはこの問題を問題として取り上げちゃいけなかったはず。
民主主義にあるべき手続きを踏んでいないのだから、本来無効でなくちゃならないことを、変革の材料として認めてしまっているじゃないか。
テロリストが権力者を殺して世の中を変えたなんて、あってはならないのに、山上徹也は安倍晋三を殺して、世の中を変えてしまった。
民主主義国家なんてこんなもんなんだよ」
戦争のころの日本の民主主義がおかしかった理由は、この山上徹也的な手法が横行していたからです。
必要となれば民主主義的な手続きを完全に無視して事を運び、変革をおこなってしまい、あらためて民主主義的に事を運ぶ、というやり方です。
本来、こんなことは超例外でなければならないんですが、日本自体しっかりした民主主義的思想が共有できておらず、さらに二二六事件によって軍部が政治中枢に入り込んでから、収拾がつかなくなったんですね。
これはおそらく以前にも書いたことがあるとおもうんですが、昭和天皇も戦後なお「いざとなれば手続きを省略できる独裁のほうがよいのではないか」と考えていたようです。
個人の自由のないことは言語道断だけれども、
ものが着々進むのは事実上、統制の強い力で引っ張らねば上がらぬ。
自由 民主という方向でゆくと なかなかものは進まぬ
これはむつかしい。
スターリンでもヒトラーでもムッソリーニでも
全体主義で引っ張るのが仕事は進む
英米のような思想系統のものは
自由でしかも仕事がいくかもしれぬが
国によってはそれではなかなか
国運を急に引っ張るはむつかしい
これはむつかしい問題だね。
ほかならぬ昭和天皇が、民主主義の手続きのもどかしさをボヤいていたわけです。
日本は明治以降、曲がりなりにも選挙制度と立憲主義をとっていて、西洋的な国家運営を目指していました。
そこにはもちろん、民主主義的な方向性も含まれていました。
しかし昭和天皇でさえ、いざとなれば手続きなんかやってる場合じゃないだろうという認識だったわけです。
戦後GHQは、このように民主主義が恣意的に運用されることを認めませんでした。
「『民主主義国家』を謳う国が、国ごとに実際は異なる政治体制だとすると、もう『民主主義』という言い方をやめてもいいように思います」
というギズモさんの言葉はもっともです。
アメリカにしたって、トランプが4年前に議会を襲撃しましたが、あれは議会制民主主義を手続きを経ずに破壊しようとしたわけで、本来あってはならないことです。
アメリカが厳格に民主主義を標榜するのであれば、トランプは処刑されてしかるべきでした。
しかし当のアメリカが、それはそれとしてトランプを再選させてしまいました。
民主主義は厳格に運用されないと意味がないんですが、その運用のありようは国によってちがうし、その時代によって厳格に運用されたり、いい加減になったりする、維持管理がたいへんなシステムなんだとおもいます。
指をケガする出来事が続いたとのこと、たいへんだったとおもいますが、その後障りはないでしょうか。
もしぼくにおなじようなことが起こったら、やっぱりなにかのメッセージだとおもってしまうことでしょう。
なにかじぶんの心の方向性で改めるべき点がないか、振り返ります。
今後はより注意深く行動しよう、ともおもいます。
まあ、実際にはまたおなじようなことはやらかしちゃうわけですが(笑)
結局、ケガをじぶんの行動改善のきっかけにしてるんです。
家電の故障などもそうですが、ケガなども一度起きると続けざまにあれこれ起こることがありますね。
うちの父は、がんが発見された後、検査でそれがふたつだったとわかり、肺がんを胸腔鏡手術で治療するはずが、問題が発生して胸を横に20cmも切る開胸手術になってしまいました。
さらにその後の入院中にコロナに感染。
退院後に咽喉がんの放射線治療で苦しみ、その数か月後に帯状疱疹を発症。さらにその数か月後に脱腸がみつかり、これも手術で治しています。
これまでほとんど大きな病気のなかった父が、たった1年の間で立て続けにいくつもの病気治療に追われました。
まあ、全身のメンテナンスをして改善したのだとおもえば、いまとなってはよかったとおもいますが、ああいうことがほんとうに起こるから、不思議ですね。
平家物語なんですが、先日、直売所が改装工事で休業したんです。
それでできた貴重な休日を利用して、日帰りで大原の寂光院に行きました。
平清盛が死んだ後、あれよあれよと平家は没落します。
清盛に煮え湯を飲まされていた後白河法皇が源氏と手を組み、平家は頼朝が派遣した義経に追われ続けます。
京都から瀬戸内海沿いへと撤退しながら、最後壇ノ浦で一族郎党みな討ち死にします。
権勢を極めた清盛は、とうとう孫に天皇を持つにまで至ったのですが、清盛の娘であり、7歳の安徳天皇の母である平徳子は、目の前で我が子が清盛の妻である二位尼に手を取られ、舟から飛び込んで壇ノ浦の海に入水するさまをみます。
後を追って徳子も海に身を投げたのですが、彼女だけが源氏方に救われてしまうんですね。
子を失い、家族もみな失い、権力も失い、じぶんだけが生き永らえてしまった。
寂光院は平徳子(建礼門院)が、壇ノ浦の合戦ののちに隠棲していた尼寺で、平家の菩提を弔い、自身の運命に苦しみながら日々を過ごしたといいます。
没落し、断絶したとはいえ、天皇の母です。
丁重に扱われていましたが、なにせたいへんな田舎でした。
在所の人々が、夏野菜と赤ジソでつくったお漬物を持ってきたのだけど、これを建礼門院はしみじみと喜んで食べたといいます。
そのときにこの漬物を「しば漬け」と名付けたそうな。
大原にはこの時代のしば漬けを再現した、ほんとうにシンプルな製法のものが売られていて、このお漬物を買ってきて、食べたんですが、乳酸発酵の効果でものすごく酸っぱい(笑)
スーパーに売ってるしば漬けとはまったくちがう、まったく現代に迎合していない、それでいて洗練されたお漬物でした。
こんなに純朴で、風変わりで、大昔の味をつないだお漬物はめったにないとおもい、今度京都の贈りもののひとつにしようとおもったんです。
が、なにせお漬物は好き嫌いがありますから、これだけは事前に伺っておこうとおもった次第です(笑)
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とてもやさしい素敵なお母さまですね。
お母さまにそういった見方ができるというところに、農園主さんの温かみを感じます。
もち米から、~~というのを読んで、ちょっと笑ってしまいましたが、その次の行で、失礼しました!となりました。
でもそのお気持ちはとても大切なことだと思います。
とは言え、できるか、と言われたら無理ですが(笑)
簡略化させても、気持ちがあれば・・。
その通りだと思います。
うちの方でも、少し前までは12月25日あたりになると、注連縄・注連飾りなどのお正月飾りを売りに来る人が何軒かありました。
臨時のテントを張り、頼まれれば玄関に飾っていってくれます。
その姿も見なくなり、注連飾りは、ハロウィンが終わるとスーパーで大々的に売られ、あの独特の風情も消えてしまいました。
それでも、お米屋さんでついたお餅しか買わず、お鏡餅もそこで買うという高齢の方は、まだ見かけます。
・・・切るのが大変だろうと思うんですけどね。
特に鏡餅を割るのはひと苦労かと。
賛同していただき、ありがとうございます。
わざと極端なこと、と書いていらっしゃいますが、農園主さんが仰っているご自分のお葬式の在り方は、私は大賛成です。
私もほぼ同じことを娘に伝えています。
もし、娘の仕事関係などで体裁が必要なら、仕方ないから盛大なお葬式をしても許すけど(本当は困るというニュアンスをしっかり入れて)、
そうでなければ、葬儀は不要、散骨にして、その後の回忌供養も省略するようにと。
ファミレスや居酒屋でわいわい、いいですね。
それ、追加で伝えておきます(笑)
ひとつだけ考え直そうかなと思うところがあって。
実は父が亡くなった時、お通夜や告別式の時も、斎場で火葬の際も、お坊さんを呼ばなかったんです。
それは、ケチということではなく、これについて家族の意見がほぼ一致したし、特に問題はないと思っていました。
一般的には、火葬する時はお経で送りますよね。
これをしなかったことは、今になって心残りです。
キリスト教でも牧師か神父がきますし、無宗教でもお経は必要だと思うようになりました。
できることなら真言宗智山派の僧侶に来てもらい、一番安い(安い=短い)コースでいいので、お経をあげてくれたらうれしいと思っています。
CDでもいいんですけどね(笑)
笑ってはいますが、私がお葬式をしてもらう頃は、スマホあたりからお経を流すような形式の葬儀が一般的になるのではないか、とも思います。
と、どこまで長生きするんだ、というお話でしたヾ(@⌒ー⌒@)ノ
お母さまにそういった見方ができるというところに、農園主さんの温かみを感じます。
もち米から、~~というのを読んで、ちょっと笑ってしまいましたが、その次の行で、失礼しました!となりました。
でもそのお気持ちはとても大切なことだと思います。
とは言え、できるか、と言われたら無理ですが(笑)
簡略化させても、気持ちがあれば・・。
その通りだと思います。
うちの方でも、少し前までは12月25日あたりになると、注連縄・注連飾りなどのお正月飾りを売りに来る人が何軒かありました。
臨時のテントを張り、頼まれれば玄関に飾っていってくれます。
その姿も見なくなり、注連飾りは、ハロウィンが終わるとスーパーで大々的に売られ、あの独特の風情も消えてしまいました。
それでも、お米屋さんでついたお餅しか買わず、お鏡餅もそこで買うという高齢の方は、まだ見かけます。
・・・切るのが大変だろうと思うんですけどね。
特に鏡餅を割るのはひと苦労かと。
賛同していただき、ありがとうございます。
わざと極端なこと、と書いていらっしゃいますが、農園主さんが仰っているご自分のお葬式の在り方は、私は大賛成です。
私もほぼ同じことを娘に伝えています。
もし、娘の仕事関係などで体裁が必要なら、仕方ないから盛大なお葬式をしても許すけど(本当は困るというニュアンスをしっかり入れて)、
そうでなければ、葬儀は不要、散骨にして、その後の回忌供養も省略するようにと。
ファミレスや居酒屋でわいわい、いいですね。
それ、追加で伝えておきます(笑)
ひとつだけ考え直そうかなと思うところがあって。
実は父が亡くなった時、お通夜や告別式の時も、斎場で火葬の際も、お坊さんを呼ばなかったんです。
それは、ケチということではなく、これについて家族の意見がほぼ一致したし、特に問題はないと思っていました。
一般的には、火葬する時はお経で送りますよね。
これをしなかったことは、今になって心残りです。
キリスト教でも牧師か神父がきますし、無宗教でもお経は必要だと思うようになりました。
できることなら真言宗智山派の僧侶に来てもらい、一番安い(安い=短い)コースでいいので、お経をあげてくれたらうれしいと思っています。
CDでもいいんですけどね(笑)
笑ってはいますが、私がお葬式をしてもらう頃は、スマホあたりからお経を流すような形式の葬儀が一般的になるのではないか、とも思います。
と、どこまで長生きするんだ、というお話でしたヾ(@⌒ー⌒@)ノ
1089
切り餅の入った鏡餅も、カジュアルな信仰という点ではいいとおもうんです。
もしほんとうに信心からやる場合は、もち米を育てて、山にウラジロを探して、庭に橙を植えるなど、「買わずに手配する」ところまでいきますよね。
じつはうちのあたりではほんとうにそういうことがまだ行われていて、80歳になる長老はいまでも最低限のもち米を育てて、年始になると「山のあのあたりにウラジロが生えてて、取りに行ってた」というようなことを言います。
しかしそんなことは、もうわれわれの世代は付き合っていられません(笑)
儀礼を簡略化させても、つないでいきたいという気持ちが残っていれば、大事なものはちゃんと伝わっていくとおもっています。
ギズモさんのお父さんのお葬儀のお話なんですが、簡略的にやろうと提案したギズモさんの考えにぼくも賛同します。
同時に、体裁的なものからわれわれはなかなか抜け出せないというのも理解できます。
ぼくも儀礼的なものが苦手で、ぼくはじぶんから先に「親になにかあれば、ぼくは菩提寺に連絡して家族葬をあげるけども、ぼくが死んだときは葬儀はいらない。どうしてもやりたいのであれば普段着で、僧侶なしで、極力安上がりにして、家族だけで集まってわいわいやってほしい」と伝えています。
家族からすればかえって迷惑かもしれないんですが、ぼくが望んでもいないのに大金をかけて葬儀をする必要はありません。
ぼくのイメージだと、弟あたりが代表でぼくを荼毘にふして、そのあとで家族に連絡してどこかファミレスなり居酒屋なりにでも行って、わいわい飲みながら思い出話でもしてくれれば、じゅうぶんなんです。
あとは骨を……まあ墓に入れてくれてもいいし、入れなくてもいいです(笑)
ぼくの死によって、家族の縁を再確認する場にして、仲良くにぎやかに、という気持ちだけが大事で、儀礼的なセレモニーは必要ないんです。
もちろんぼくはわざと極端なことを言ってるんですが、むかしのように体裁であれこれしなくていい時代ですから、カジュアルな形で、心だけはつないでほしいとおもうんですよね。
切り餅の入った鏡餅も、カジュアルな信仰という点ではいいとおもうんです。
もしほんとうに信心からやる場合は、もち米を育てて、山にウラジロを探して、庭に橙を植えるなど、「買わずに手配する」ところまでいきますよね。
じつはうちのあたりではほんとうにそういうことがまだ行われていて、80歳になる長老はいまでも最低限のもち米を育てて、年始になると「山のあのあたりにウラジロが生えてて、取りに行ってた」というようなことを言います。
しかしそんなことは、もうわれわれの世代は付き合っていられません(笑)
儀礼を簡略化させても、つないでいきたいという気持ちが残っていれば、大事なものはちゃんと伝わっていくとおもっています。
ギズモさんのお父さんのお葬儀のお話なんですが、簡略的にやろうと提案したギズモさんの考えにぼくも賛同します。
同時に、体裁的なものからわれわれはなかなか抜け出せないというのも理解できます。
ぼくも儀礼的なものが苦手で、ぼくはじぶんから先に「親になにかあれば、ぼくは菩提寺に連絡して家族葬をあげるけども、ぼくが死んだときは葬儀はいらない。どうしてもやりたいのであれば普段着で、僧侶なしで、極力安上がりにして、家族だけで集まってわいわいやってほしい」と伝えています。
家族からすればかえって迷惑かもしれないんですが、ぼくが望んでもいないのに大金をかけて葬儀をする必要はありません。
ぼくのイメージだと、弟あたりが代表でぼくを荼毘にふして、そのあとで家族に連絡してどこかファミレスなり居酒屋なりにでも行って、わいわい飲みながら思い出話でもしてくれれば、じゅうぶんなんです。
あとは骨を……まあ墓に入れてくれてもいいし、入れなくてもいいです(笑)
ぼくの死によって、家族の縁を再確認する場にして、仲良くにぎやかに、という気持ちだけが大事で、儀礼的なセレモニーは必要ないんです。
もちろんぼくはわざと極端なことを言ってるんですが、むかしのように体裁であれこれしなくていい時代ですから、カジュアルな形で、心だけはつないでほしいとおもうんですよね。
オーディブルは、ずいぶん久しぶりに割引キャンペーンを楽しんだのですが、作品が増えておもしろくなっていました。
まず最初に、百田尚樹の『日本国紀』を聞きました。
お金を出して買う気にはなれませんが、興味はあったのです。
前半だけ聞いて、続きを聞くかどうかは考え中ですが、感想は以下の通りです。
・著者の思想の偏向した部分を理解したうえでなら、わかりやすい歴史本です。
・秀吉の朝鮮出兵は、明の征服もできたはずだ、というような、たらればで他国を侵略して勝てたという妄想がしょっちゅう出てきて呆れます。
・日本すごい、万世一系がすばらしい、と、じつにしつこい。
とりわけ皇室に関する観念の押しつけがひどい。これでは皇室も悪女の深情けにあったような気分でしょう。
司馬遼太郎は、日本を絶対的なものと考えて(盲目的に日本はすごいと信じ込む態度)、他国と相対的に比べる見方ができなくなったことが、太平洋戦争に負けた原因だと言いました。1025
この本を読んでいると、日本への絶対視がすさまじく、日本は世界征服できるとでも言わんばかりで、これは日本を侵略戦争に導き、さらに敗戦に導くために書いているのだろうかとおもうほどです。
歴史を振り返れば、世界の近代とはすなわち、帝国主義の敗北と言っていいでしょう。
が、この本は帝国主義的な史観に満ちています。
このように考えていると日本はダメになるという見本のような本です。
見方を変えれば、現代の皇国史観や、侵略主義を否定するようにみせかけて侵略主義を肯定する詭弁的なレトリックを勉強する材料にはなるとおもいます。
その次にいま聞いているのが、畠中恵の『まんまこと』シリーズです。
いま2巻目の「こいしり」を聞いています。
もともとNHKの時代劇でドラマとしてみて興味を持ちました。
人との縁やつながりが現代よりずっと深い時代ですが、まともな医療がないので、人の死はいまよりずっと身近で、はかない。
現代では感じ取りにくい人間同士のつながりのありようを、謎解きをからめながらうまく描いています。
女性の視点で男性を描いているからか、男の本質的な野蛮さはないんですが、物語なので気になりません。
そういえば、うちの母はむかし、ぼくの弟がこんなことを言っていたと伝えるときに、「ぼくはお母さんのことをこうおもっていた」という形で話すんですが、弟はじぶんのことを「ぼく」とはいいませんでした。
弟はじぶんのことを「おれ」というし、母のことを「おかん」という。それなりにふつうの、突っ張った男です。
けれど母は弟の話し言葉をフィルタにかけて、じぶんが「ぼく」と言い、母のことを「お母さん」と言っていたという形でぼくに伝えるわけです。
そういう女性らしい、客観的なやさしさの世界が、この作品の中にあるようにおもえます。
#与太話
まず最初に、百田尚樹の『日本国紀』を聞きました。
お金を出して買う気にはなれませんが、興味はあったのです。
前半だけ聞いて、続きを聞くかどうかは考え中ですが、感想は以下の通りです。
・著者の思想の偏向した部分を理解したうえでなら、わかりやすい歴史本です。
・秀吉の朝鮮出兵は、明の征服もできたはずだ、というような、たらればで他国を侵略して勝てたという妄想がしょっちゅう出てきて呆れます。
・日本すごい、万世一系がすばらしい、と、じつにしつこい。
とりわけ皇室に関する観念の押しつけがひどい。これでは皇室も悪女の深情けにあったような気分でしょう。
司馬遼太郎は、日本を絶対的なものと考えて(盲目的に日本はすごいと信じ込む態度)、他国と相対的に比べる見方ができなくなったことが、太平洋戦争に負けた原因だと言いました。1025
この本を読んでいると、日本への絶対視がすさまじく、日本は世界征服できるとでも言わんばかりで、これは日本を侵略戦争に導き、さらに敗戦に導くために書いているのだろうかとおもうほどです。
歴史を振り返れば、世界の近代とはすなわち、帝国主義の敗北と言っていいでしょう。
が、この本は帝国主義的な史観に満ちています。
このように考えていると日本はダメになるという見本のような本です。
見方を変えれば、現代の皇国史観や、侵略主義を否定するようにみせかけて侵略主義を肯定する詭弁的なレトリックを勉強する材料にはなるとおもいます。
その次にいま聞いているのが、畠中恵の『まんまこと』シリーズです。
いま2巻目の「こいしり」を聞いています。
もともとNHKの時代劇でドラマとしてみて興味を持ちました。
人との縁やつながりが現代よりずっと深い時代ですが、まともな医療がないので、人の死はいまよりずっと身近で、はかない。
現代では感じ取りにくい人間同士のつながりのありようを、謎解きをからめながらうまく描いています。
女性の視点で男性を描いているからか、男の本質的な野蛮さはないんですが、物語なので気になりません。
そういえば、うちの母はむかし、ぼくの弟がこんなことを言っていたと伝えるときに、「ぼくはお母さんのことをこうおもっていた」という形で話すんですが、弟はじぶんのことを「ぼく」とはいいませんでした。
弟はじぶんのことを「おれ」というし、母のことを「おかん」という。それなりにふつうの、突っ張った男です。
けれど母は弟の話し言葉をフィルタにかけて、じぶんが「ぼく」と言い、母のことを「お母さん」と言っていたという形でぼくに伝えるわけです。
そういう女性らしい、客観的なやさしさの世界が、この作品の中にあるようにおもえます。
#与太話
記事の最初に青いナンバーが書かれていない場合は独立した記事でしたね。
失礼しました。
ご神体の説明をありがとうございます。
最近は、鏡餅に見える形のものでも、中に四角い切り餅が詰め合わせてあるものが増えていますが、あれは意味がないということですよね。
なんでも便利になっていますが、意味を理解した上で買うことが大事ですね。
お住いの地域では参拝行事があるんですね。
ネクタイ着用は、気軽に行ってはならない行事だからとは理解できますが、やはりめんどうですよね。
そういうものだから、という慣習を継続するか、変えていくかは、厄介な問題のように思います。
神聖なものだからというのが根底にあったとしても、簡略化の見直しは必要なのかもしれません。
話がそれて申し訳ありませんが、父の葬儀は家族だけの密葬で行いました。
父は儀礼的なものを嫌う人でしたので、私が「礼服でなくても黒の服ならいいのでは?」という、とんでもない提案をしました。
母も妹の家族も、そうね、そうよね、という賛同をしたのに関わらず、結局全員ちゃんとした礼服で来ました。
葬儀場の人や葬儀会社の人に、常識知らずの人だと思われたくない、ということです。
以前、祖母のお葬式の時に、わざわざレンタルの式服を借りてきた人が何人かいらしたので、お香典の他にそんな無駄なお金をかけさせて申し訳ないと思ったことがありました。
買えばけっこうなお値段のものですし、こういうものも、時代とともに変わっていっていった方がいいのかな、と思います。
失礼しました。
ご神体の説明をありがとうございます。
最近は、鏡餅に見える形のものでも、中に四角い切り餅が詰め合わせてあるものが増えていますが、あれは意味がないということですよね。
なんでも便利になっていますが、意味を理解した上で買うことが大事ですね。
お住いの地域では参拝行事があるんですね。
ネクタイ着用は、気軽に行ってはならない行事だからとは理解できますが、やはりめんどうですよね。
そういうものだから、という慣習を継続するか、変えていくかは、厄介な問題のように思います。
神聖なものだからというのが根底にあったとしても、簡略化の見直しは必要なのかもしれません。
話がそれて申し訳ありませんが、父の葬儀は家族だけの密葬で行いました。
父は儀礼的なものを嫌う人でしたので、私が「礼服でなくても黒の服ならいいのでは?」という、とんでもない提案をしました。
母も妹の家族も、そうね、そうよね、という賛同をしたのに関わらず、結局全員ちゃんとした礼服で来ました。
葬儀場の人や葬儀会社の人に、常識知らずの人だと思われたくない、ということです。
以前、祖母のお葬式の時に、わざわざレンタルの式服を借りてきた人が何人かいらしたので、お香典の他にそんな無駄なお金をかけさせて申し訳ないと思ったことがありました。
買えばけっこうなお値段のものですし、こういうものも、時代とともに変わって
1083
1086
さっきの記事は、返信ではなく独立した記事だったので、ここで返信させていただきます。
人の形をしていないものをご神体とするということなんですが、身近なところだと鏡餅の意味を説明するときにこの知識が必要になってきますね。
よく似たところで、依り代という考えがあります。
紙でできた人形(ひとがた)にじぶんの穢れを移して、川に流すというようなことや、先祖の霊を鎮める精霊流しも、あとお墓もそうですね。
以前書いたような気もするんですが、日本人は桜を好むでしょう。
春にパッとみごとに咲いて、すぐに散ってしまう。
人生もそのようにありたいものだ、と願う心をあらわすという意味で、日本のあちこちに植えられている桜は、ある意味では日本人の精神性をあらわす依り代のようなものだとおもっています。
いまの時代、神社もお寺もよりカジュアルな形で信仰してもらえるようにシフトしてもらいたいものですし、実際そうなりつつありますよね。
キャッシュレスやインターネットに対応する寺社が、これまでの宗教儀礼的な建前をうまく崩しながら、現代の様式に対応してくれれば、信仰の荒廃が防げるような気もします。
しかしうちの田舎なんかで、神社の参拝行事のときには、ネクタイをしてこいというようなことはいまだにいわれますし、お葬式も礼服が当たり前です。
服装はあくまで一例でしかないんですが、このあたりを普段服でよい(寺社の側から積極的に、普段服で問題ないとアピールする)という寛容な形にシフトしていれば、ここまで寺社の祭礼が「めんどうくさい」とおもわれずにすむのではないか、とおもうんですけどね。
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さっきの記事は、返信ではなく独立した記事だったので、ここで返信させていただきます。
人の形をしていないものをご神体とするということなんですが、身近なところだと鏡餅の意味を説明するときにこの知識が必要になってきますね。
よく似たところで、依り代という考えがあります。
紙でできた人形(ひとがた)にじぶんの穢れを移して、川に流すというようなことや、先祖の霊を鎮める精霊流しも、あとお墓もそうですね。
以前書いたような気もするんですが、日本人は桜を好むでしょう。
春にパッとみごとに咲いて、すぐに散ってしまう。
人生もそのようにありたいものだ、と願う心をあらわすという意味で、日本のあちこちに植えられている桜は、ある意味では日本人の精神性をあらわす依り代のようなものだとおもっています。
いまの時代、神社もお寺もよりカジュアルな形で信仰してもらえるようにシフトしてもらいたいものですし、実際そうなりつつありますよね。
キャッシュレスやインターネットに対応する寺社が、これまでの宗教儀礼的な建前をうまく崩しながら、現代の様式に対応してくれれば、信仰の荒廃が防げるような気もします。
しかしうちの田舎なんかで、神社の参拝行事のときには、ネクタイをしてこいというようなことはいまだにいわれますし、お葬式も礼服が当たり前です。
服装はあくまで一例でしかないんですが、このあたりを普段服でよい(寺社の側から積極的に、普段服で問題ないとアピールする)という寛容な形にシフトしていれば、ここまで寺社の祭礼が「めんどうくさい」とおもわれずにすむのではないか、とおもうんですけどね。
ありがとうございます。
わかりやすいように、そして短くまとめてくださったことと思います。
神仏習合に至るまでの政治と宗教の関係が、とてもよく理解できました。
神道は天皇との関係があって存続してきたとは思っていましたが、そんな簡単なことではなく、
「神道を日本の国教として、仏教の教義と教祖で信仰を補強した」ということなんですね。
政治と宗教のつながりに、国民は振り回されてきたということになるのでしょうか。
神様仏様が、人間に振り回されてしまったのかもしれませんが。
現代の日本では、神道も仏教も日本人にとっての宗教という感覚はあまりなくて、神社やお寺は心のよりどころのようなものなのかな、と思います。
ひとつの神だけ、ひとつの仏だけを信仰している人も稀で、多面的に関わっている傾向があるかもしれません。
また、「信仰」と「信じる」の違いもありますね。
日本はもともと神々の国。
様々な歴史がある中で、神道が消えてしまわないでよかったと思います。
創建が古い神社は、修復などのため奉賛を募っているところが多いですが、最近は寄付・奉賛という言葉でなく、クラウドファンディングで資金を集める方式も増えていますね。
リターンに工夫する神社もあって、神社の進化と努力には目をみはるものがあります。
わかりやすいように、そして短くまとめてくださったことと思います。
神仏習合に至るまでの政治と宗教の関係が、とてもよく理解できました。
神道は天皇との関係があって存続してきたとは思っていましたが、そんな簡単なことではなく、
「神道を日本の国教として、仏教の教義と教祖で信仰を補強した」ということなんですね。
政治と宗教のつながりに、国民は振り回されてきたということになるのでしょうか。
神様仏様が、人間に振り回されてしまったのかもしれませんが。
現代の日本では、神道も仏教も日本人にとっての宗教という感覚はあまりなくて、神社やお寺は心のよりどころのようなものなのかな、と思います。
ひとつの神だけ、ひとつの仏だけを信仰している人も稀で、多面的に関わっている傾向があるかもしれません。
また、「信仰」と「信じる」の違いもありますね。
日本はもともと神々の国。
様々な歴史がある中で、神道が消えてしまわないでよかったと思います。
創建が古い神社は、修復などのため奉賛を募っているところが多いですが、最近は寄付・奉賛という言葉でなく、クラウドファンディングで資金を集める方式も増えていますね。
リターンに工夫する神社もあって、神社の進化と努力には目をみはるものがあります。
すこし日本の古代の宗教と政治の話がしたいのです。
仏教を推進したい大和朝廷が、廃仏派の物部氏を討伐したとき、古神道の生殺与奪の権限は朝廷にゆだねられました。
そのときになぜ、神道を残そうということになったのか。
神道に「利用価値がなければ」、廃することでよかったとおもいます。
仏教のみでやっていく選択をしてもよかったはずです。
では当時の朝廷にとって、神道の利用価値とはなんだったのか。
神道には(特に古神道には)教義も教祖もありません。
日本の歴史の中で、神道に教義(教育勅語)と教祖(天皇)があったのは、大日本帝国憲法発布から太平洋戦争までのわずか半世紀ほどです。
古神道は、人々を導くものがない原始宗教でした。
なのに朝廷が神道を残した理由は、古神道は皇統を証明するのに都合がよかったからです。
皇統がどのようにして日本各地を守ったかということが伝わっていたため、これを神道における祭神としてまつったのです。
そして全国各地に社と祭神をまつることでその住民たちが地域、国家という縄張りを意識する。
これを日本の防衛の論拠としたわけです。
また、国家を統べる宗教が仏教しかない場合、日本が日本であるオリジナリティがなくなってしまいます。
朝廷は、大陸の属国ではなく、大陸と対等に渡り合うひとつの国家を建設するつもりでしたから、日本オリジナルの宗教があるのが望ましかった。
そこで神道を日本の国教として、仏教の教義と教祖で信仰を補強したのです。
かくして朝廷は神道を殺さずに利用しました。
仏教で国内を統治していた中国が革命によって政権転覆を繰り返していたことを考えると、もし日本が仏教の一本柱で国家統治をしていたとしたら、日本も王朝がどんどん革命によって入れ替わっていたのではないかという気がします。
しかし当時は仏教が隆盛を極め、国民から神道の信仰が衰退します。
そこで神道がなんとか生き残りを図ったのが神仏習合です。
そんなわけで、神道の神々は仏門にくだったという物語になっていくわけです。
#与太話
仏教を推進したい大和朝廷が、廃仏派の物部氏を討伐したとき、古神道の生殺与奪の権限は朝廷にゆだねられました。
そのときになぜ、神道を残そうということになったのか。
神道に「利用価値がなければ」、廃することでよかったとおもいます。
仏教のみでやっていく選択をしてもよかったはずです。
では当時の朝廷にとって、神道の利用価値とはなんだったのか。
神道には(特に古神道には)教義も教祖もありません。
日本の歴史の中で、神道に教義(教育勅語)と教祖(天皇)があったのは、大日本帝国憲法発布から太平洋戦争までのわずか半世紀ほどです。
古神道は、人々を導くものがない原始宗教でした。
なのに朝廷が神道を残した理由は、古神道は皇統を証明するのに都合がよかったからです。
皇統がどのようにして日本各地を守ったかということが伝わっていたため、これを神道における祭神としてまつったのです。
そして全国各地に社と祭神をまつることでその住民たちが地域、国家という縄張りを意識する。
これを日本の防衛の論拠としたわけです。
また、国家を統べる宗教が仏教しかない場合、日本が日本であるオリジナリティがなくなってしまいます。
朝廷は、大陸の属国ではなく、大陸と対等に渡り合うひとつの国家を建設するつもりでしたから、日本オリジナルの宗教があるのが望ましかった。
そこで神道を日本の国教として、仏教の教義と教祖で信仰を補強したのです。
かくして朝廷は神道を殺さずに利用しました。
仏教で国内を統治していた中国が革命によって政権転覆を繰り返していたことを考えると、もし日本が仏教の一本柱で国家統治をしていたとしたら、日本も王朝がどんどん革命によって入れ替わっていたのではないかという気がします。
しかし当時は仏教が隆盛を極め、国民から神道の信仰が衰退します。
そこで神道がなんとか生き残りを図ったのが神仏習合です。
そんなわけで、神道の神々は仏門にくだったという物語になっていくわけです。
#与太話