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2026年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
以前にもおはなししたかもしれませんが、まだ5歳くらいの幼い姪っ子が、新聞折り込みにあった宝石のチラシをほしいとせがんできたことがありました。
幼児向けのおもちゃも、男の子にはロボットやヒーローなどの勇ましいもの。
女の子にはキラキラとピンク色の華やかなものが、いまもむかしも主流ですね。
ああいう傾向は、生まれついてのものなのでしょう。
モーパッサンの『首飾り』は、たぶん子供のころに読んだはずですが、すっかり忘れていて、読み返しました。
失礼ながら、むかしは「こむずかしい星新一」くらいにしかおもっていませんでした。
いま読むとおもしろいですね。
今回はなんだか話にまとまりがありませんが、雑談とおもっていただけるとありがたいです。
主人公のロイゼル婦人は、作品中で夫にすら馬鹿だとののしられるように、ひどく不器用でしょう。
それで、いじましいくらいじぶんを飾ることに執着して、夫がいるにもかかわらず、男を虜にして豊かになりたいと願います。
結果、ほんの一瞬男性たちにちやほやされたかとおもいきや、すぐに借金まみれになってしまいますよね。
彼女は首飾りのせいでこんな目にあったという、他罰的な考え方をしました。
首飾りをなくした彼女はフォレスチャ婦人に正直に謝ることをせず、事態を取り繕うために、よく似た首飾りを膨大な借金を背負ってまで購入しました。
この点で、彼女は一貫して愚か者なんです。
ところが視点を変えると、彼女は借金を返すために、あれほどイヤだった貧苦を受容して、10年かけて返済するわけでしょう。
貧苦は耐えがたい屈辱でしたし、美貌も虚栄心も失われましたが、彼女は道義的な責任はきちんと果たしました。
その点、彼女はまっとうな一面も備えていますし、すくなくともじぶん自身に対しては正直者です。
しかし夫でさえ彼女を肯定的には評価しなかったし、彼女自身ですら借金を返し終わっても不平と不満でいっぱいなんですね。
唯一、フォレスチャ婦人だけが最後の最後に心底からの同情を寄せてくれるんですが、彼女の発した言葉は残酷でした。
あのオチは、何重もの皮肉になっていますね。
ロイゼル婦人の夫がなけなしの貯金をはたいて買ったドレスが400フラン。
フォレスチャ婦人は「あの模造品の首飾りは、せいぜい500フランだった」といいます。
模造品が500フランで、夫がなけなしの貯金を崩してドレスにあててくれたのが400フラン。
それもフォレスチャ婦人からすれば「せいぜい500フラン」なんですよね。
この短編のテーマは、資本主義への皮肉です。
モーパッサンが生きた時代は、日本では江戸末期から明治時代中ごろでした。
木曜島の貝拾いがはじまったころです。
貝ボタンもそうなんですが、資本主義社会は人々に虚栄心をよびおこしました。
その中で勝ち組と負け組がはっきりしてくるようになります。
ボタンなんて、実用だけ考えれば、木をけずって作ることだってできます。
しかし、資本主義によってお金が使い切れないほど集まる人が増えてくると、たくさんお金を出してもいいから、ぜいたくな貝ボタンがほしいという人があらわれました。
そうすると、貝ボタンを売ってひと山当てたい人もあらわれます。
貝ボタンに興味はないが、貧苦はまっぴらで、金を得るためなら命もいらぬという切羽詰まった人も大勢いました。
そのような勝ち組と負け組を描いた小説だと、1845年に発表されたアンデルセンの『マッチ売りの少女』もそうですね。
少女は極めてまずしいマッチ工場主の娘でしたが、年の瀬の極寒の日にマッチを売ってこい、売り切れるまで帰ってくるなと町に出されて、凍死しました。
少女が町の家々の窓をのぞくと、クリスマスをお祝いする裕福な家族の姿がみえたというかたちで、当時社会問題になっていた貧富の差を描いています。
『首飾り』はその40年後の1885年に発表されていました。
いまでこそ資本主義の理不尽さにみんな慣れてしまって、マッチ売りの少女や首飾りのような小説を書いても流行りませんが、当時は資本主義がもたらした貧富の差は、まだまだあたらしい価値観です。
もちろんそれまでの世界にも貨幣は存在しましたし、商売だって存在していました。
しかし資本主義以前は、もしお金がなくても人の役に立つことでご飯くらいは食べさせてもらえました。
それに、金持ちなんて社会のほんの一握りで、ほとんどが横並びで貧しく暮らしていましたから、助け合いとお互い様の感覚がいきわたっています。
もちろん医療も発達していなかったし、人類はみな現在よりはるかに厳しい理不尽に見舞われていましたが、お金がないとどうしようもない、というわけでもなかったのです。
ところがむかしの資本主義のシステムは脆弱です。
お金は人間の心を反映するもので、言い換えれば「信用」でした。
その点で、むかしの資本主義はまだ信用されていません。
『赤毛のアン』にマシューおじさんという、善良で賢い登場人物がいます。
かれはもともと心臓が弱っていたところへ、じぶんたちの貯金をしていた銀行が倒産したという新聞記事をみて、ショックで発作を起こして倒れてしまいました。
当時、銀行が倒産するということは、預けていたお金がなくなることを意味します。
赤毛のアンの舞台はカナダですが、開拓時代のアメリカ大陸では州ごとに独自の通貨や銀行がありました。
銀行にお金をためて、そのお金を引き落としてべつの州に行くと「ああ、この銀行のお金はつもうかえないね」とか「この銀行は先週つぶれたよ」などといわれ、とたんにお金が紙くずになることだってめずらしいことではなかったのです。
3万6千フランを十年かけて返したロイゼル婦人の貧苦が、じつは500フランの価値しかなかったというのは、資本主義のこういった理不尽な一面を皮肉った話ですね。
現代だと、宝石や不動産や絵画といったモノや、投資などは「リスク資産」といわれます。
これらは資産としての価値が安定していません。
しかし値動きが大きく、ふつうに働くよりはるかに大きな収益が得られることもあるので、ひと山当てたい人がそこに集まるようになります。
必然的に「だましてでも儲けたい」人も集まるようになり、投資の世界は化かしあいになり、宝石や絵画には偽物が出回るようになりました。
木曜島の貝ボタンも、その後の日本の真珠産業にしても、やはりリスク資産ということになるのでしょう。
不動産の場合、むかしは「欠陥住宅」なんて言葉はありませんでした。
大工の腕がわるい、ということはいわれても、「家がその買値に見合っていない」というようなことは問題にはならなかったのです。
それどころか、むかしは「土地を買う」という概念じたいがありませんでした。
開拓して、じぶんの能力に見合うぶんを管理して生きていくことを「経営」といいます。
経営の経は「経典」の経ですが、ものの道理という意味ですね。
同時に地図には、経度という縦の糸があります。
ここにも経という字が入りますが、この道理の糸でじぶんの土地を区切って、じぶんの生活を営むから、経営といいました。
道理にあわない大きな範囲を欲張っても、土地は管理しきれません。
逆にラクをしようと小さな範囲を区切ると、暮らしを営むことができません。
このとき、土地は「じぶんの裁量にあわせて勝手に開拓しなさい」ということですから、お金で買うようなものではなかったのです。
ところで、モーパッサンよりも100年ほど前の、1772年(安永元年)の日本で『話稿 鹿の子餅』(わこう かのこもち)という小噺集が発表されました。
作者は木室卯雲(きむろ ぼううん)という江戸の旗本なのですが、いわゆる幕臣文人です。
ここに「蜜柑」という小噺があります。
現代「千両みかん」という名前で落語になっています。
分限者(金持ち)のせがれが、このところの暑さにまいってしまい、病みついてしまいました。
心配した家族が「なにかしてやれることはないか、食べたいものはないか」というと、なにも食いたくはないと言っていたものの、そのうち「冷たいみかんなら食べたい」と言い出しました。
手代がみかんを探してくるように言いつかったのですが、なにせもう六月です。
とてもみかんなどあるまいとあきらめていたのですが、須田町(いまの神田須田町)でたったひと箱だけ腐らずに残っていた在庫をみつけました。
しかし店側は「千両。びた一文まからぬ」と吹っかけたのです。
それでもこちらは大身代(大商人)。
店に問うてみるとそれでいいというので買い付けて、せがれに差し出すとずいぶん喜んでくれました。
それで10個のみかんのうち、7つを平らげて、「あとのみっつはお袋様にあげてくれ」といって手代に渡します。
手代はこのみっつのみかんをもって、店から蒸発してしまいました。
この話のおもしろみは、手代が千両で買い付けたみかんのうちみっつを預かったときに、「このみかんに三百両の価値があるのか」と勘違いしたところにあります。
江戸中期の千両は、だいたい5000万円ほどの価値があったそうな。
そうすると、みかんひとつ500万円ですね(笑)
もちろん作り話なうえに、非常に他愛ない小噺です。
が、江戸時代の日本で、すでにこういった資本主義的な皮肉が笑いの種になっていたんですね。
季節外れに残ったみかんを、千両で吹っかける商人もおもしろいところで、需要に対して供給が少なければ価格は吊り上がるという、経済の原理がはっきりしています。
そういえば、去年の大河ドラマの「べらぼう」はちょうど木室卯雲のころの話でした。
木室卯雲は出てきませんが、蔦屋重三郎の本屋に集う戯作者には、木室とおなじような幕臣文人が何人もいます。
田沼意次は木室とほとんど同年代の老中ですが、ドラマではかれが平賀源内と一緒に、現代に通じるような資本主義論を交わしている描写がありました。
「蜜柑」が書かれたころの江戸では、資本主義が芽生えつつあったんですね。
さて、3月上旬、ホルムズ海峡封鎖のニュースがあって数日したときに、行きつけのガソリンスタンドのレギュラーが200円を超えていたときにはおどろきました。
これは現代版の千両みかんのようなものか、とどうでもいいことを考えましたが、やりとりしているのは原油とイランの人命です。
いまのところ、幸い日本では原油価格は千両ほどには高騰していないものの、購買力の弱い国ではたいへんなことになっているようで、江戸時代のように牧歌的にはとらえられませんね。
さて、司馬さんからお尻を叩かれているような気がするものの、現実のわたしはじぶんの仕事や、公共のことでより現実的にお尻を叩かれています。
なかなか時間がとれず、いったいどうしたものかと思案していますが、どのようなかたちでじぶんの頭にあるものを出そうか、考え出すと頭がこんがらがってきますね(笑)
なにか神話時代の小説でも書いてみようかとおもい、いざ書き出して5000字ほどやってみたんですが、ほぼ司馬さんの模倣のような文章になってしまって、イヤになってしまいました。
ギズモさんにはパラダイムシフターとまでおっしゃっていただいたのですが、それはいくらなんでも買いかぶりすぎです。
しかしこれまでギズモさんと対話してきた内容の中で、古代について考えてきたことくらいは、なんらかのかたちで発表できるようにしたいとおもいます。
ただ司馬さんの模倣ではなくて、わたしがこれまでギズモさんとお話しするときに心掛けてきた、「わかりやすい」かたちにしましょう(笑)
いろんなやり方があるとおもうのですが、またおいおいやっていこうとおもいます。
イザナギ・イザナミは日本人の先祖ではないか、というギズモさんのお考えですが、わたしもそうおもいます。
わたしの場合は、実際の血筋というよりも、日本人としての精神性の根っこに、イザナギとイザナミがあるという感じでとらえています。
また卑弥呼の件ですが、わたしも魏志倭人伝で「鬼道」とよばれた卑弥呼の政治手法は、道教を取り入れたものだったとおもっています。
古代道教は道家(どうか)思想と呼ばれるのですが、鬼道にも「道」の字が入っていますよね。
最初の前方後円墳である箸墓古墳も、道教の天円地方(天はまるく、地は四角い)の思想からきています。
そもそも日本書紀や古事記は、宇宙と天地の誕生から始まるのですが、この場合の宇宙や天地という概念じたいが道教由来なんですよね。
花粉症、ひどくならずにすんでなによりでした。
わたしもことしはなぜか、そこまでひどい症状は出ませんでしたが、いまだにくしゃみはよく出ます。
ここ数日は、黄砂がすごいみたいで、車のフロントガラスに砂がついていました。
東京ではもう葉桜でしょうか。
こちらはちょうど満開が終わるころです。
数年前までは3月中に散ってしまっていたので、昨年とことしはちょうどよい開花時期でした。
そういえば、ことしは原木しいたけが上がるのも例年より遅く、タケノコもようやく芽吹いたのを4月3日に確認しました。
こちらではなんだか全体的に、季節がいつもより遅い感じです。
にわかにあたたかくなってきて、仕事も忙しくなってきました。
毎年言ってるような気がするんですが、当地の先輩方は、ちょうどこの時期は冬になまっていた体を急に動かすためにケガをすることが多いといいます。
いつも以上に気を付けて、お互いによい年度はじめにしましょうね。
2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ほんとうは仙台まで行きたかったんですが、宮城県に到着して車中泊をしていたところ、地震に見舞われました。
震度5~6くらいだったのですが、これが余震の可能性もあると考えると、もうぼちぼち潮時だとおもい、帰ることにしました。
その帰りの道中で牛久に立ち寄った次第です。
そんな時間はなかったのですが、できることなら岩手県、青森へ向かい、さらに日本海側から今度は秋田、新潟と観光ができればよかったなとおもいます(笑)
牛久大仏は浄土真宗ですが、開祖の親鸞の言葉として伝わる有名な言葉があります。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
ご存じとはおもいますが、これは悪人正機という逆説で、善人を自称するような無自覚な人間でさえ極楽往生をするのに、悪人を自覚している者が往生できないはずがない、という意味です。
親鸞は、阿弥陀如来は本来、悪人をこそ救いたいと願っているのだ、といいました。
では、どういう人が悪人で、どういう人が善人だったのでしょう。
当時の世相を考えると、京の都は度重なる飢饉で生活困窮者があふれていました。
それこそ芥川龍之介の『羅生門』のように、死人の衣服をはぎとってそれを売って生活せざるを得ないような人もいたわけです。
それどころかとことん追い詰められれば、餓死者の死肉で食いつないだというような者すらいたことでしょう。
そのような者たちは「この世を生きても地獄、死んでなお地獄に落ちる」という、どうしようもない苦しみの中で生きざるをえませんでした。
かれらはじぶんが罪深いことをイヤというほど自覚して、じぶんは悪人だという責め苦の中で生きています。
それに対して、都の貴族は飢饉などの災害が起こると、寺院を利用して加持祈祷を行いました。
そんなことのために庶民から吸い上げた税を浪費したのです。
都の足元で餓死者が出ている惨状にもかかわらず、金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んでいるのです。
都が奈良から京都へ移った平安時代には、仏教の考え方も変遷しています。
つまり、国のための仏教から、一般庶民のための仏教へと軸足を移しつつありました。
こういう変化がなぜ起こったのか。
元をたどると奈良時代に仏教権力が増長しすぎて、政治に口出しをするようになったからです。
こういった仏教勢力のありようを朝廷の貴族がいやがって、都を京に移しました。
京では加持祈祷は行うのですが、平安京内にあたらしい個人的な仏教寺院を建築することは禁じられたんです。
すると、これまで奈良朝廷のもとで甘い汁を吸っていた僧侶たちの多くは食いっぱぐれますよね。
国家鎮護のための仏教が、ほかならぬ朝廷によって半ば否定されてしまったわけです。
食いっぱぐれた仏教者は、なんとかしてあたらしい食い扶持を見つけなければなりません。
そこで民衆というあたらしい分野で信仰を獲得するようになり、各宗派によって苛烈なシェア争いが起こったわけです。
実際、民衆は苦しい暮らしの中でも、僧侶たちを養ってくれました。
これが、平安時代に仏教が大衆化し、さらに多様な宗派が生まれた原因です。
国家守護のための仏教を伝統的にやっている側からすると、大衆に仏教を広めようといって出て行った連中が気にいりません。
親鸞もそうですが、法然や日蓮など、大衆に仏教を広めた宗派の開祖がよく流罪にあったのは、それだけ政権や伝統的な寺院勢力から目をつけられていた、ということです。
しかし大衆仏教を広めようとする側からすると、庶民の苦境や暮らしのありように目を向けず、かれらから吸い上げた税でよい暮らしをし、加持祈祷で世のためになにかしているような気になっていることが気に入らない。
うがった見方をすれば、親鸞はこういう連中を皮肉って「善人」と言ったのかもしれません。
そのように考えていくと、浄土真宗の建造物である牛久大仏は、開祖の親鸞が望んだものだったのかどうか。
ああいった金満な大仏を建立することは、たとえバブル期の国民総中流が実現された豊かな時代だといえども、非常に「善人」的な所業です。
もちろん「善人なおもて往生をとぐ」ですから、牛久大仏におまつりされた方々も阿弥陀如来は救ってくれるでしょう。
しかし浄土真宗の側で、阿弥陀如来が本来救いたいのはそういう人ではなかったはずだ、という根本的な問いかけがなかった点で、個人的にはどうもあの仏教テーマパークにはいい感じがしないのが正直なところです。
もちろん、もっと手前のところまでたどって、そもそも親鸞たちが、シェア争いのために大衆仏教を開拓したという視点でみれば、非常に人間的たくましさや人間的あさましさにあふれており、金満な豊かさを求めていくことこそ、宗教の本来のありようなのかもしれません(笑)
桂枝雀の「宿替え」、ご覧になったんですね。
あの話は江戸落語では「粗忽の釘」として知られる話です。
夫婦で引っ越しをするんですが、粗忽者(おっちょこちょい)の親父がほうきをかけるフックがないからというので、あろうことか屋根の瓦と瓦を止める特大の瓦釘を長屋の薄壁に打ち付けてしまいます。
釘が隣の壁を突き抜けてしまったはずだとおかみさんにどやされて、親父がお隣さんのところへ行ったら、お隣の仏壇の阿弥陀仏のそばから釘が突き抜けていました。
当然隣人は仰天するんですが、親父は「えらいことだ。あしたから毎日ここまでほうきをかけに来なければならんのか」とボケたことを言う。
それだけの噺ですね。
枝雀さんはこの親父をずいぶんにぎやかに演じています。
あの番組では、胴くくりを畳にもかけていたせいで荷物が持ち上がらない、というくだりがなぜかおかしなことになって、話の段取りが狂ってしまったんですね。
それをアドリブでつないでいく当意即妙がみられましたが、そういえば枝雀さんの「宿屋仇」という落語では、終盤に見台が壊れて、それをアドリブで取り繕うなんてこともありました。
枝雀さんは舞台上のアクシデントが多い人でした。
なにせ話すスピードが桁違いに速いので、枝雀さん自身でもついていくことができず、軽いトチりがよくあったんです。
CD音源の落語を聞いていると、間違えるたびによくこの手のアドリブをやっていて、大いにウケています。
枝雀さんはビートたけしより8つほど年上なんですが、あの時代の漫才は非常に速かったんです。
速い芸というのが、当時の落語でももてはやされていたんでしょう。
江戸だと志ん朝さんは枝雀さんとほぼ同世代ですが、あの人も演目の佳境に入るとものすごい早口で、しかも正確でした。
その点現代の落語は、あまり速さを求めないようです。
枝雀さんは古典落語でも気に入らないと改変するというような、大胆なことをするんですが、たとえば「崇徳院」という落語があります。
崇徳院というと、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」が有名ですが、この句が落語の主題になってるんですね。
大阪の高津神社にお参りしたときに、一瞬だけ出会った女性に恋煩いをしてしまった船場の若旦那。
この若旦那は女性から「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書かれた紙をもらっていました。
当然下の句は「割れても末に あわんとぞおもう」ですから、女性からの、またお会いしたいというメッセージなんですよね。
それで若旦那がお店の熊五郎に相談して、熊五郎が単身、女性を探すことになります。
しかし少ない手掛かりで広い大阪をどうやって探せばいいのか。
途方にくれるんですが、往来を大声で「瀬をはやみ! 岩にせかるる滝川の!」とわめきながら歩いたりと、何日もすったもんだします。
それでも結局手掛かりが得られず、疲労の極の中、最後に入った床屋で、主人と客がくだんの女性の話をしているのを耳にするんです。
するとどうやら向こうもお店のご令嬢で、若旦那のことをおもって恋煩いしている真っ最中なんだそうな。
おどろいた熊五郎が客に詰め寄ります。
相手も急にご令嬢の恋煩いの相手の手掛かりが知れたものだから、喜べばいいのにけんか腰になり、もみあいになるうちに、床屋の鏡が割れる。
床屋の主人が「どないしてくれるねん」というと、大喜びの熊五郎、
「心配しなさんな。割れても末に買わんとぞおもう」
という、これが一般的なサゲです。
枝雀さん、このドタバタするばかりで要領を得ないサゲがイヤだったんでしょう(笑)
最後、熊五郎と客がもみあいになったところで話を区切って、
「探す相手がめでたく知れて、一対の夫婦(めおと)が出来上がります。『崇徳院』という、おめでたい一席でございました」
と、サラッとサゲてしまって、ふたりが夫婦になれたと伝えるんですね。
この夫婦になったというのは枝雀さんのサービスで、本来の古典にはそのようなくだりはありません。
でも、個人的にはじつに心根の温かい、よい改変だとおもいます。
ところで、けさNHKで桂米朝の「鹿政談」をみました。
おどろいたことに、マクラが15分以上。
演目より長い時間のマクラでした。
枝雀さんの「宿替え」ではほとんどマクラがなかったでしょう。
調べてみたら、30秒でした。
枝雀さんの師匠が米朝さんですが、伝統の師匠と革新の弟子といった感じで非常に対照的なおもしろみを感じます。
鶏がらスープの件なんですが、レシピというほどのものはありません。
つかうのは玉ねぎやニンジンといった、カレーにつかうような香味野菜と、あとは塩だけです。
鶏がらと野菜と水を鍋に入れて……ぼくの場合は圧力鍋に入れますが、野菜が溶けて、鶏がらのうまみがすっかり出てしまうまで、じっくり煮ます。
圧力鍋の場合、あくとりはできませんが、玉ねぎやニンジンくらいならアクは気になりません。
あとは鶏がらを引き上げて、塩で味をととのえていきます。
やることはこれだけで、これが基本のスープになります。
余計なことをしないので、老若男女問わず優しい味付けのスープになるとおもいます。
逆にいえば、余計なことをしないのがコツかもしれません(笑)
ここから、たとえばニンニクやショウガ、白ネギやセロリなど、さらに香りの強い野菜を足して複雑な味付けにしてもよいでしょうし、いまの時期だと仕上がったスープに焼いた夏野菜を足してもいいとおもいます。
もちろんコショウを加えたり、バジルを加えたり、やろうとおもえばいくらでも足し算ができます。
母に出したのは、基本のスープでした。
そういえば、最後にカエルの件でひとつ、こんな記事をみつけました。
https://tanba.jp/2025/08/%e5%af%82%e3%81...
戦時中、兵庫県尼崎の杭瀬から丹波に疎開した児童が書き残した記録で、
「終戦直前には、田んぼ畑に跳んでいる普通の蛙を、自分で皮をはぎ、塩焼きにして食べた経験、これは三匹までは美味、五匹以上は青臭さが鼻について食べるのは無理」
とあったそうな。
田んぼにいるカエルというのは総じて小さくて、非常に歩留まりがわるく、肉として食べられるところは一匹20gもないとおもいます。
これを3匹までしか無理だったというんですから、50gも食べないうちに、嫌気がさすようなものだったんですね。
戦時中の飢えた子供でさえ「食べるのは無理」というんですから、救荒食にもなり得ない食材ということだったのでしょう。
2025年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
出典を読んだだけでは読みにくくわかりにくい情報(気が遠くなりそうでした(笑))を、かなりかみ砕いて書いてくださったので、す~~っと理解することができ、おもしろく読ませていただきました。
おもしろく、という言い方は失礼にあたるかもしれませんが、それだけ興味を持ってひきこまれるように読めました。
あらためて、キノコと海藻を食べることの重要性を認識しました。
今まで、切り干し大根やヒジキを使い、油揚げやさつま揚げ、ちくわなどをプラスした煮物をたまに作っていましたが、最近おもしろい乾物を見つけました。
「五島三菜」は、大根・人参・ひじきの三種類を干したものですが、他にも、ひじきと訂正:干したごぼうのミックスなども売ってます。
これとキノコを煮て、常備菜にしようと、買いだめしました(笑)←売っているところが限られているので。
ワカメは、ポン酢で食べたり、お味噌汁もいいですね。
胆汁酸吸着レジンのお話、びっくりです。
コレステロール値が下がっていなければ、この「プラスチック」を一生飲めと言われたわけですね・・・。
以前調べたらかなり副作用が多い薬だったので、薬に弱い私は飲まないと決めていましたが、樹脂(プラスチック)と聞いて、ますます飲む気はありません。
海藻、キノコの他、ココア、納豆、大豆、こんにゃくだったら、継続して摂れますし、コレステロール値のみならず、身体にいいに間違いないでしょう。
沖縄の食べ物のお話も、ためになりました。
沖縄料理というと、ゴーヤチャンプルーは時々作りますが、クーブイリチー、クーブジューシーは知りませんでした。
時々、じゅーしー、という豚肉の混ぜご飯の素のようなものは見かけますが、昆布料理もあったんですね。
薩摩藩が中国への輸出品として北海道から昆布を取り寄せたというのも、実に興味をひくお話です。
豚バラ・ニンジン・刻み昆布・豆腐の炒め物、作ってみます。
刻み昆布は、塩昆布やワカメでも代用できそうですね。
お書きになっていらっしゃるように、野菜、きのことお肉を塩昆布で炒めたクーブイリチーに陳皮パウダーで不老長寿。
同感です(笑)
スパムは大好きで、ポーク卵はたまに作ります。
スパムと卵を焼くだけですが、とってもおいしいんですよね。
ハムやウインナ、スパムのような加工肉は身体に悪いといいますが、身体に悪いものほどおいしい、のかもしれません(笑)
今回の記事でいちばん驚いたのは、血液検査の結果から、多血症にたどりついたということでした。
これはすごい発見だったと思います。
血栓症予防にも、キノコや海藻、野菜、陳皮パウダー、納豆などに特効があるようですし、食生活で改善されれば何よりです。
民間療法の延長と書いていらっしゃいますが、とんでもない。
立派な根拠のある、役立つお話をありがとうございました。
きちんと実行して、よりよい健康体質を作るよう努めます。
実は2月18日に、ウィルス性胃腸炎にかかりました。
すごく流行っているとは聞いており、知人もなったりしていましたが、まさかの感染でした。
食中毒ではなく、風邪が胃腸にきたということのようですが、2日間、眠れないほど頻繁にお腹をこわし、胃の違和感もありました。
熱が出る人が多いようですが、頭痛はあったものの、熱はでませんでした。
4日間の絶食を経て、復活するまで一週間かかりました。
インフルエンザが下火になってからウイルス性胃腸炎が大流行し、誰かがどこかでウイルスを撒いているのでは、と疑いたくなります(笑)
土井善治(訂正:善晴)さんですが、民藝とも関りがあるようですね。
民藝と言えば、立春に宇都宮の「栃木県立美術館」に行った時のことです。
展示室のひとつに、柳宗悦の息子、柳宗理のデザインした椅子が一脚ありました。
それも、監視員の座る折りたたみ椅子の隣に置かれていたので、展示品とは思わず、うっかり座るところでした(笑)
あまりにヒマすぎて、監視員もいなかったもので、勘違いしてしまいました。
私、この「監視員」を、ずっと「学芸員」と思っていましたが、監視員なんですね。
京都の龍谷ミュージアムも人が少なく私だけだったのですが、バッグからシャーペンを出してメモしようとしたら、部屋の隅から飛んできて「鉛筆しか使えません」と、鉛筆を渡してくれました。
シャーペンなんですけど、と言い訳するのも面倒だったので、謝ってお借りしました。
数年前、金沢の「石川県立美術館」に行った時も私ひとりだったのですが、展示室が多いんです。
私が部屋を移動するたびに、監視員の女性がついてきて椅子に座るのですが(追記・監視員はおひとりだったので、私と一緒に移動していました)、なんだか申し訳なくてゆっくり鑑賞してしまいました(笑)
数日前、豚ひき肉としいたけとタマネギのみじん切りを甘辛く炒めたものを作ってみました。
多めに作って冷凍しましたが、オムレツにのせてもよさそうですね。
胃腸もほぼ本調子に戻りましたので、張り切ってキノコや海藻を食べることにします(笑)
こちらはひな祭りの日にまさかの雪が降りました。
翌日もパラパラで、積もりませんが、とっても寒かったです。
まだしばらくは寒そうですが、風邪などひかないよう、お気をつけくださいね。
2025年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
お帰りなさい。
ゆっくりできてよかったです(*^^)
例年より暖かいとはいえ、1月に入ってからは空気がキーンと冷えています。
本年もよろしくお願いいたします。
おかげさまで実家でゆっくり過ごし、きょう帰ってきました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2024年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
まず、前回に引き続いて民主主義の話をしようかともおもったのですが、その矢先に韓国での戒厳令のニュースが飛び込みました。
あれはまさに「いざとなったら独裁権やそれに近い権限を持つ機関や人があれば、統制がとりやすくなる」というギズモさんのおっしゃった権限を、韓国の政権が利用したものでした。
いまの韓国は右派政権ですが、その政権の出した国家予算に対して、野党(左派)の反対があって決議することができず、国家運営が停滞してしまうという理由で、戒厳令を発したというのです。
戒厳令が実際に敷かれれば、国民の自由や人権は制限されることになります。
これに対して日本のネットでは、右派と左派がそれぞれの見方をいつものように批判し合っていました。
ぼくはそれをみて、ここでの民主主義の話はやめようとおもいました(笑)
ただひとつ、ギズモさんのおっしゃったように、どのような立場であれ、いい方向に世の中が変わっていくべきだとぼくもおもいます。
もしかしたら不完全燃焼におもわれるかもしれませんが、この件はこれでおしまいにさせていただきます。
モロヘイヤは、夏になると比較的食べやすい葉野菜のようで、よく売れます。
ぬめりはありますが、クセが少なくてアクもないでしょう。
夏の葉野菜って、ほとんどぬめりがあって、しかもアクが強いものが多いんです。
つるむらさきにせよ、空心菜にせよ、重曹などのアルカリ性の薬剤でアク抜きしないと口の中がギシギシするような野菜です。
おそらく地域性もあるとおもうんですが、モロヘイヤは下処理なしで料理につかえるので、うちのあたりの夏の直売所では人気があるようです。
人気があると知らず、これまであまりつくってこなかったのですが、意外とよく売れるので、来年は主力のひとつにしようとおもった次第です。
お風呂があたらしくなって、なによりでした。
個人的な話なんですが、ぼくはお風呂の配管の金属アレルギーなのか、薪で風呂をわかしたり、あんまり長く追い炊きをするとダメということがわかりました。
子供のころから、二日目のお風呂でじんましんが出る体質だったんですが、あたらめてこっちに住むようになってアレルギーの出どころがはっきりしました。
せっかく薪風呂が楽しめるお風呂なのに残念ですが、薪集めしなくてよくなったと前向きにとらえています(笑)
うちも風呂の窓があるんですが、窓を開けて外気を取り入れながらお風呂に入るの、気持ちいいですね。
さて、今回話が長引いたのは、大原寂光院に旅行した話を、平家物語と絡めて書こうとおもったからです。
5000文字ほどになったので、前後半にわけて投稿させていただきます。
寂光院に行ったのは、大原が京都市の中でも非常に山深い田舎だったからなんです。
どれくらい山深いかというと……NHKに2分に満たない大原の動画がありましたので、ぜひお暇なときにでもご覧ください(笑)
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?...
この動画の冒頭で、大原を俯瞰した場面があるのですが、その画像を拝借して、寂光院の位置を示します。

京都市内はいまや外国人観光客のルツボと化していて、休日はもちろん平日でも人が多く、駐車場を探すのにも苦労しますし、行く気になれませんでした。
ところが大原は京都市にもかかわらず、喧騒から離れた場所にあります。
特に私生活上のなにかがあったわけではありませんが、旅行に行けるのが平日だったので、日本の歴史上指折りの悲劇の舞台のひとつを、実際にみてみたいとおもった次第です。
ぼくは、當麻曼荼羅を編んだ中将姫もそうですが、日本史上の、悲劇のヒロインに興味があるのかもしれません。
大原は地理的には、京都市中心部(御苑)の北東にあたります。
御苑から寂光院までの距離は直線距離で10kmちょっとです。
実際に行こうとおもうとあと数km伸びるでしょう。
行こうとおもえば、徒歩で半日の距離です。
御苑は朝廷のあった場所で、平清盛ら平家の一族がいた場所でもありました。
安徳天皇の母、平徳子は29歳のときに山口県の壇ノ浦の悲劇から生還して、朝廷から北東に10kmしか離れていない大原に隠棲しました。
本人が望んでそこに決めたわけではないとはいえ、いじましい距離だとおもいます。
余談ですが、大原では古くから「大原女」といって、山でとれる柴(小枝)や薪、農産物を女性が頭に乗せて、京都市内まで売りに出ていたといいます。
徒歩しか交通手段のなかった時代には、山の恵みを都で売るにはちょうどよい距離だったんですね。
大原女は特徴的な格好をしているんですが、これは徳子の従者であった阿波内侍が作業着にしていた衣装が元になっているそうです。
さすがに戦後は大原女の風習も廃れましたが、いまでも観光文化としては残っています。
大原に行ってつくづく感じましたが、建礼門院徳子の伝説が土壌や空気に溶け込むようにして残ってるんです。
話を戻します。
徳子は天皇の母とはいえ、その天皇もうしなわれ、朝廷からすれば逆賊とさえいわれかねない立場になってしまいました。
つい数年前までは、朝廷で栄華の頂点を極めていたのです。
それがすべてを失い、29歳にして剃髪し、700m級の山々に四方を囲まれた大原の山麓で、世をはかなみ、平家の菩提を弔いながら生きることになってしまった。
出家した徳子(建礼門院)のこのような歌が残っています。
思ひきや 深山の奥に住まひして 雲井の月をよそに見んとは
深い山奥に住まうこととなり、かつて朝廷から見ていた月を、まさかこれまでの暮らしと縁のない、遠く離れた場所から眺めることになろうとはおもいもよらなかった、というような意味です。
「よそ」という言葉に、ここはじぶんの本来の居場所ではないという意味が込められているようにおもえます。
かつて暮らした朝廷の華やかさに焦がれ、汚名と孤独を背負いながら、過酷な山奥で生活するのは、死ぬよりもつらいことだったかもしれません。
(後半へ続く)
2024年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
しかしながら、ここまで物理的かつ科学的なお話、農園主さんの広汎な知識やご見解には、改めて感服しました。
ダークマターの記事の引用、そして五次元のわかりやすいご説明をありがとうございます。
謎だったものが、だんだんと解明できてくるという、本当にすごい研究をしている人たちがいることに驚きます。
蝶の話は、よく聞きますね。
前回書こうと思ったのですが、スピリチュアルに偏った考えを持っていると思われたくなかったので(笑)、避けました。
群馬の家(義理の息子の実家)で身内だけのお通夜があり(私は行きませんでした)、翌日は、家から出棺しました。
少ししてから、葬儀場に向かおうと家を出て、車に乗り込む際、アゲハがふわふわ飛んでいました。
誰も何も言いませんでしたが、私は、あ!!と思いました。
田舎ですし、アゲハが飛んでいたからと言ってどうということのない、普通の光景かと思いますが、1匹だけゆったりと飛んでいました。
そして葬儀場に着き(車で5分ほど)、車を降りたら、同じ(はずはないですが)アゲハが飛んでいて、まるで道案内するかのように、葬儀場の入り口まで飛んでいなくなってしまいました。
話は変わり、母が小学校低学年の時、福島のお寺に学童疎開していました。
もう終戦間近のことですが、ある日、真っ黒の大きな蝶が飛んできて、母の周りだけをずっと飛び続けていたといいます。
ちょうどその頃東京の留守宅では、家にいた全員が、母の父親の「俺だ、今帰ったよ」という声を聞いたそうです。
そして翌日、戦死の公報が届きました。
興味深いのは、昔の人は、そういう不可解な出来事について、偶然とか嘘とはとらえず、実に自然に、当たり前のように受け止めていたということです。
うちの家系だけおかしい(笑)のではなく、どこにでも、そういう傾向があったように思います。
農園主さんが書いていらっしゃるように、『科学がなかったころから、われわれは感覚的に、なにか本質的なことを理解していたのかもしれない』というお話にも通じるかもしれません。
太古では、日食・月食の原理を知っている人が、「神様がお怒りなので、これから空が真っ暗になる」と言って、実際その通りになり、民から預言者と怖れられていた人がどこの国でもいましたが、あれは自然現象を知らない人にとっては、本当に神様が起こした現象、または一種のオカルト、心霊現象の類ですよね。
安倍晴明なども、天地の理に精通していたからこそ、できたことが多かったと思います。
強烈な心霊現象や微弱なメッセージ、そういう科学的・物理的に納得できない何かをすべて否定してしまう人もいれば、「そういうこともあるのでは?」と受け止める人もいるわけですよね。
今回の話は、ネット上にうっすらとはびこる「五次元意識」のようなスピリチュアル、チャネリングのようなものではないし、あくまで科学的な事実と可能性から、われわれがなにか感覚的に理解している不思議な話をつないで「楽しむ話」だとおもっていただけるとありがたいです
の部分を充分に理解したうえで、心底興味を持って読ませていただきました。
ありがとうございます。
「インターステラー」、とっても興味がありおもしろそうなので、すぐに観るつもりでしたが、なかなか時間が取れませんでした。
ネットで見ると、けっこう難解な内容のようですが、近いうちに必ず観ますね。
2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回はかなり長い記事になりました。
ちょうど終戦に近い時期ですが、とりとめのない話なので、適当に拾いやすい話題を拾っていただければとおもっています(笑)
『昭和天皇物語』、読ませていただいています。
むかし、作画の能條純一さんの将棋の漫画『月下の棋士』を読んだことがあります。
画力のある漫画家さんですが、やはり女性が積極的に読みたい絵柄ではないですよね(笑)
東郷平八郎の意には沿わない学者が「天皇の耳には入れたくない授業」をする話はたいへん興味深かったです。
しかしかれらはその道の学問を究めたからこそ、軍国イデオロギーに毒されずにいられたわけで、そのようなリベラルな教育は天皇にのみ施されていたんですよね。
いま現在のわれわれにとって常識のような学識は、大正当時には、天皇にのみ与えられるような特権的なものだったわけです。
国民に向けては、明治・大正・昭和とグラデーションがかかっていくように、徐々に国粋主義的な愛国教育が幅を利かせるようになりました。
とりわけ大東亜戦争に至ってからは国民への思想教育は苛烈を極めました。
ただ、この思想教育はかならずしも軍部だけが積極的におこなっていたというわけではありません。
教育勅語やマスコミの煽りを軸に、国民に火がついて、国民同士でお互いに思想教育をやりあい、「軍部を育てた(増長させた)」という一面が強かったのです。
以前この話をしたかもしれませんが、司馬遼太郎の随筆集『この国のかたち』に、こんな話がありました。
司馬さんは学徒動員で軍隊を経験しているんですが、かれが還暦を越えたあたりで、10歳ほどしか違わない下の世代たちと会う機会があったそうです。
そこで「ボクの青少年期には、天皇ということはあまりいわれませんでしたよ」と話しても、相手に理解してもらえなかったといいます。
なぜかというと、大正生まれで強制的に軍人になった人は、むしろ世間から隔離されていて、軍隊での上意下達さえ守っていれば、三食食えていたし、特に「天皇のために死ね」というような思想教育はほとんどなかったらしいのです。
しかし戦争末期に少年だった昭和生まれの世代は、多感なころに周囲から「天皇は絶対である」という思想教育の虐待を受けていたんですよね。
だから、司馬さんが軍隊で天皇についてうるさくいわれなかったということは、たった10歳ほど下の世代には、よく理解できなかったそうです。
司馬さんいわくこの昭和ひとケタの世代は、「精神の上で、最大の戦争の被害者」なのだそうな。
その虐待というのは、たとえば小学校でさえ軍隊的に組織され、校長が連隊長、学級長が小隊長といった具合で、生徒たちはこれら隊長の命令で、真冬でも裸足で登下校させられたといいます。
もちろんそういった命令は、各学級に飾られている天皇の肖像画のもとにおこなわれるわけです。
司馬さんはこの話を仙台で聞いたというのですが、当然東北の仙台ですから、冬の寒さはたいへんなものだったでしょう。
ぼくが子供のころにある教師から聞いた話だと、集団疎開先のお寺で、出された食事が合わず、廊下で戻してしまったところ、教師から「お国が危急存亡の中、申し訳ないとおもわんのか」とさんざんぶん殴られたあげく、吐いた吐しゃ物を飲まされたというのです。
その伝聞がほんとうかどうかはぼくにはわからないのですが、ぼくの心に強烈な印象を残している話です。
少なくとも、当時の国民同士が目の色を変えて、子供に異様な教育をしていたのは間違いないでしょう。
半藤さんの『日本のいちばん長い日』では、天皇や陸軍大将を含む政治中枢がポツダム宣言の受諾を決めた……つまり敗戦を受け入れるとなったときに、陸軍の青年将校たちがクーデターを起こそうとしたところを描いています。
上官が決めたこと、不可侵の神である天皇が決めたことであるにもかかわらず、青年将校という若手の立場にある連中が、軍国イデオロギーに染まり切って、「最後の最後まで戦い抜いて、国民も総玉砕せにゃならんだろう」といって、ポツダム宣言受諾を阻止しようとする。
大東亜戦争はもっと早く、原爆が落とされるより前に終わらせられなかったのか、という話もありますが、もはや軍の上層部も、天皇でさえ、国民の意志がああも盛り上がってしまっていては、中途半端なところでは止めるに止められない状況だったのだとおもいます。
話を天皇に戻しますが、たとえばヒトラーは典型的な西洋的な皇帝の性質をもっています。
ヒトラー自身が非常に頭のキレる人間で、大衆扇動や組織の統制もみずから行っていました。
西洋の皇帝の代表といえばナポレオンですが、かれもたいへんなキレ者で、この優秀さが独裁につながっていきます。
そういう意味では昭和天皇はやはり東洋的な皇帝でした。
昭和天皇も賢い人ではありましたが、西洋の独裁者のような一代限りのカリスマとは一線を画しています。
今回の大河ドラマの「光る君へ」もそうですが、日本では天皇は官僚の傀儡(あやつり人形)のようになってしまうんですよね。
中国の皇帝もそうなんですが、天皇自身が独裁的に社会を動かすという例は、ほとんどありません。
天皇は世襲制で、どんなに愚昧でも、どんなに幼少でも、官僚が支えていくんですよね。
そのかわり、たとえ優秀でキレ者の帝であっても、やはり天皇はシンボルにすぎず、官僚が実質的に国家を動かしていくわけです。
しかし昭和天皇は独裁者となった瞬間があります。
それはポツダム宣言受諾のときと、それから漫画の最初にも描かれていましたが、マッカーサーとの会談のときだったといえるでしょう。
昭和天皇は終戦に向けて動き出し、鈴木貫太郎を総理大臣に、阿南惟幾を陸軍大将に推します。
かれらは天皇の親衛隊ともいえる理解者でしたから、天皇はかれらを政治中枢に据えることで、終戦への道筋をつけたといえます。
そして戦後、マッカーサーに対して命乞いをせず、それどころか国民を救うように求めたこと。
このふたつの大問題において、若き天皇はだれにもおもねらないじぶんの采配によって国民の運命を決定づけたんですよね。
戦後日本人は昭和天皇に戦争責任を問いましたが、皮肉なことに、昭和天皇は大東亜戦争を終わらせ、終戦後に国民を守るときにだけ、明確に独裁者だったというのがぼくの解釈です。
ところで、半藤一利さんなんですが、あの人は司馬遼太郎が書けなかった昭和について書いたという点で、司馬さんの後継者のような存在なんですよね。
実際司馬さんの担当編集者だった時代があり、司馬史観をじゅうぶんに吸収した人でもありました。
司馬さんは敗戦を経験したときに、日本という国に絶望しました。
それでむかしの日本人はもうすこしマトモだったんじゃないか、古い日本人のよさを発掘していこう、と考えたところから、歴史作家のキャリアがスタートするんです。
結果、日本史を鮮やかに切り取ってヒーローを生み出す大作家になるわけですが、昭和史だけは書けませんでした。
司馬さんいわく、あの時代はまるで魔法使いがあらわれて、日本という輝ける国家を暗い森に変えてしまったようだ、というのです。
司馬さんはその魔法を解くカギを、よそから借りるのではなく、自前のカギで開けたいとおもい、そのカギはほとんどできかかっているのだけど、開けることができないといいました。
司馬さんは軍人でしたから、大東亜戦争の不条理を当事者として経験しているわけです。
その司馬さんが、当時の軍部中枢の人物とも対談し、煮え切らぬ官僚答弁のような逃げ口上を受けて、ほんとうに苦しいおもいもしている。
ぼくからすれば、そんな司馬さんが昭和史を書けないのは当然だとおもうし、実際司馬さんは昭和を書くと発狂するとまでその苦しみを吐露する中、半藤さんが昭和史を引き継ぐんですよね。
半藤さんは昭和5年生まれですから、司馬さんより10ほど年下の、まさに「精神の上で、最大の戦争の被害者」です。
しかしある意味では戦争の現場を直接経験したわけではありませんから、昭和史をもっとも上手に客観視できる世代でもあります。
その半藤さんの研究した昭和史は、まだしばらく日本の昭和を理解するためのスタンダードであり続けるのではないかとおもっています。
デスクトップのパソコン、気の毒でしたね。
キーボードやディスプレイはつかいまわしがききますし、部屋にデスクトップ専用のスペースがあって邪魔にならないなら、腰を据えて作業するのにデスクトップは便利だとおもいます。
ギズモさんはデスクトップは仕事用として、ノートパソコンと分けて活用なさっているようですし、本体を買い替えて2台目として活用するのもいいのではないでしょうか。
うちの母も最近パソコンが壊れたのですが、一台しか持っていないので、結局ぼくがネットショッピングで買い替えて、実家に届くように手配しました。
ぼくはというとノートパソコンを2台持っているので、もし片方が壊れても、もう一台で買い直しの手配ができます。
といっても一台はほとんどゲームにつかっているんですけどね(笑)
最近、やっぱりゲームを遊ぶならデスクトップがいいなあ、とおもっていて、そのうちお小遣いをためてゲーミングPCを買ってやろうと画策しています。
暑さの心配をいただいて、ありがたいです。
おかげさまで、ことしはスポーツドリンクをタイミングをみて飲むようにして、作業中にはいただいたネッククーラーを利用して乗り切っています。
ギズモさんも、先日集中豪雨があったとニュースで知りましたが、問題なかったでしょうか。
2024年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
かぐや姫のお話をうかがったので、きょうは返信でいただいた富士山や朝熊神社のお話をまじえて、こんな話はいかがでしょうか。
できるだけ混みあった話にはせず、わかりやすく伝えたいのですが、深掘りしているので、すこし気合を入れてお読みください(笑)
イザナギとイザナギの国生みの神話はご存知だとおもいます。
この際にたくさんの神が生まれました。
スサノオやアマテラスがそうですが、オオヤマツミもそのひとりです。
オオヤマツミは、コノハナサクヤやイワナガヒメの父親です。
つまり、コノハナサクヤやイワナガヒメからすると、スサノオは「おじさん」ということになります。
そのスサノオおじさんの子に大年神がいます。いわゆる年神様です。
コノハナサクヤたちからすると、いとこの関係ですね。
この大年神の妻が、香用比売(かぐよひめ)といいます。
つまり、コノハナサクヤたちからすれば、香用比売はいとこの大年神の奥さん、ということになりますね。
コノハナサクヤとの血縁はありませんが、非常に近いところに、かぐや姫に名前の似た、かぐよ姫がいるわけです。
この「かぐ」には、輝くとか、見目麗しいという意味があり、農耕祭祀の玉や農具にかかる光をあらわすともいわれます。
たとえば奈良県の香具山は、「輝く山」という意味になりますし、かぐよ姫もかぐや姫も「輝く姫」という意味になります。
光り輝く竹から生まれた美しいかぐや姫ですから、やはり言葉の意味は通っています。
しかしかぐや姫といちばん関連性が強いのは、古墳時代の天皇とされる11代垂仁天皇の妻、迦具夜比売(かぐよひめ)でしょう。
迦具夜比売の父親は大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)といい、その弟に讃岐垂根王(さぬきたるねのみこ)がいます。
竹取物語の翁の名前は讃岐造(さぬきのみやつこ)ですから、迦具夜比売のおじさんが讃岐垂根王であることは、偶然とはおもえません。
さらに、富士山の浅間大社の由来は、過去の噴火で荒廃していた富士山に、垂仁天皇が浅間神をまつったのが始まりといわれています。
かぐや姫の物語の最後は、不老不死の薬を富士山で焼いてしまうというものですが、垂仁天皇と富士山の関係性も、かぐや姫の物語と無縁ではないでしょう。
これらの点をみると、かぐや姫のモデルが迦具夜比売という説は、かなり固いとおもいます。
では、コノハナサクヤに近しい大年神の妻の香用比売はどうでしょう。
お話いただいた朝熊神社も、御祭神は「大年神・苔虫命・朝熊水神」とされていますが、朝熊神社は古く桜の名所だったそうで、御祭神を「桜大刀自命(コノハナサクヤ)・苔虫命・朝熊水神」とする説もあるそうな。
大年神とコノハナサクヤ姉妹に接点がもたらされるような話で、さらに朝熊神社と浅間神社になにか接点があるのではないかといううわさもあります。
とはいえ、このように論拠のあやしいところから結び付けて考えるのは危なっかしいことですね。
香用比売とかぐや姫のラインは、いかにも接点がありそうでしたが、詰めていくと、単なる偶然ともいえるレベルで、線としてはかなり薄いといわざるをえません。
ただ、すくなくとも、かぐや姫を匂わせるかぐよ姫が、日本神話の物語の中にふたりいるわけです。
かぐや姫の富士山のエピソードと、香用比売や迦具夜比売の関係性については、なんとなくご理解いただけるのではないかとおもいます。
ところで、ギズモさんもおっしゃっていたように、富士山の御祭神がコノハナサクヤになったのは近世以降で、それまでは「浅間神」(ギズモさんのおっしゃる「比奈赫夜姫(ヒナカグヤヒメ)」)としてまつられていたといいます。
近世に国学の情報が流通するにしたがって、「不死の山」から長寿のイワナガヒメをあてるようになり、火中で子を生んだとされる姉妹のコノハナサクヤも連想され、御祭神にまつられるようになったのでしょう。
またかぐや姫伝説とコノハナサクヤがむすびついていくわけですが、コノハナサクヤと富士山の関係は近世以降のものですから、それ以前をたぐっていくと、「比奈赫夜姫(ヒナカグヤヒメ)」、やはりかぐや姫が御祭神のようにまつられていたのかな、とおもいます。
2024年5月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
気温の変動が大きく、体調を崩している人も多いようです。
地形のお話はおもしろいですね。
コリアンタウンで有名な新宿区の新大久保ですが、やはり窪地になっていたようです。
東京23区内は、全部が平地という感覚がありますが(私の地理的な知識が乏しいので)、地名を見て行くとそうでないことがよくわかります。
時代とともにいろいろなことが進歩して変わっていくなかで、地理も変化していっていることには気を留めていませんでした。
時代物を読むと、時々地図があって、それを見ると今の東京とずいぶん変わっているのがわかります。
特に川は昔とずいぶん違うようですね。
シャコ。まったく見なくなりましたね。
昔の古いサザエさんの4コマ漫画で、外国人がお寿司屋さんで「レインコート、ガレージ」と注文しているのを覚えています(笑)
小魚、とても高いです。
シラスも高いので、家で佃煮を作りたくてもなかなか。。。
お魚はお店によって扱っているものも違えば値段もまちまち。
スーパーで売っている焼き魚を買った方がお得ということはよくあります。
ところで、このところ、とっても頭を忙しくしています(笑)
仕事で、歌詞(童謡・唱歌などの短いもの)をプロジェクターに映すためには、ファイル形式がwordではだめで、パワーポイントにしないといけないんです。
今まで、A4の紙6枚をポスター印刷し、貼り合わせていたのですが、貼った部分がどんどんヨレヨレになってきて、その度作り変えるのはひじょう~~~にめんどうで、プロジェクターを使わせてもらう方が便利かなと思いました。
そこで困ったのは、私のデスクトップはwindow8,1で、
パワポは入っていません。
ノートパソコンは娘に貸し出したままで、返って来る見込みがないので(5年経つので動作が相当遅くなっているようで、戻ってきたとしても無理そう)、仕方なく、NECのノートパソコンを買いました( ノД`)シクシク…
高性能なものは必要ないので、スペックは低く、安価で軽いものにしました(色が変な青で気にいらないけど・・・)
ただ、パワポを一から作るのはなかなか厄介なので、wordのファイルをパワポに変換できるソフトを使用しています。
word→PDF→パワーポイントと変換するので、ちょっと時間はかかりますが。
ところが、パワポにした段階で見ると、字がずれてしまっていることが多いんですよね。
これはパワポで直して、やっと完成です・・・という長い道のり(笑)
2024年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
この記事のことから、申し訳ないのですが、もう少し母の話を続けさせてください。
父の時は、社葬にするという話でしたが、父の生き方考え方は、↓ のとおりだったので、母と妹と相談して、家族だけの直葬としました。
先生がいわれた
礼だ礼だといっても玉や絹布の事であろうか
楽だ楽だといっても鐘や太鼓のことであろうか
(儀礼や形式よりも その精神こそが大切だ )
論語 阳货第十七 11
今回、母も直葬にしました。
これから書くことは、経緯がよくわからないかもしれませんが、詳しい事情は伏せたいので、失礼をお許しください。
25日、妹の家の家電に、豊島区役所から留守電が入っていたそうで、すぐ妹からその旨メールがありました。
私から区役所に電話をしましたが、開口一番、担当の職員さんが「お母さまのことで、何か連絡がありましたか?」と。
「いえ、どこからも」と答えると、「実はお母さまが亡くなりまして。。。」というお話でした。
事務的な話をしたあと(火葬の件など)、すぐに母が入所していた有料老人ホーム(入所は3年前です)に連絡をし、「長女ですが、区役所から連絡をいただいて、、」と話すと、「23日に病院で亡くなりましたが、その時連絡がありませんでしたか?」という話をされました。
これ、責任のなすり合いみたいなものですよね。
どこから連絡があって然るべきだったのかとなると、私は、ホームと行政、双方にその責任があると思います。
ただ、うちも放りっぱなしでいたわけなので、そのあたりを追及するつもりはありません。
でも、もし連絡がこなかったとすると、引用してくださった記事に書かれているケースと同じことになっていたかもしれません。
役所もホームも言い訳のように(言い訳そのものですが)、「長女の方の連絡先に電話したら、この電話は現在使われていないということでしたので」と。
一回引っ越しているので家電は確かに変わりましたが、区役所は妹の携帯番号も把握しているので、入居の際も連絡先として、私と妹の双方の電話番号が記録されているはずです。
1月に肺炎で入院した時はともかく、亡くなる2日前に容態が変わり、ホームに病院から連絡があったとのことですので、その時点でなぜ連絡をくれなかったのか。
いくら鬼のような娘でも、そのような連絡が来れば行きました。
人の家の事情を聞かされてもお困りですよね、ごめんなさい。
所詮、お役所仕事というのはこういうことなんだな、と思える出来事でした。
今日ホームから、母がホームに隣接しているデイサービスに連れて行ってもらい、楽しそうに過ごしている写真が送られてきました。
電話でも、明るく社交的でみんなと仲良く過ごしていた、という様子をお聞きすることができたので、ちょっと安心もしています。
(追記)「安心」と書きましたが、「心が休まりました」という表現の方が合うと思い、書き足します。同じ意味ではあるでしょうが、少し違うように思ったので。
高校生の頃、頭はわるいくせに、古文・漢文が10段階の10だったのも、最近シャンソンを歌うようになったのも、母のおかげです。
母の悪い面は、自分はそうならないようにと気をつけてきたし、いいところもそうでなかったところも、やはり影響は大きいです。
今聞いていらっしゃるの、とってもおもしろそうですね。
特に「テスカトリポカ」は、興味がありますので、近いうちに読みたいと思います←また積読が増えそうですが(笑)
今日は暖房をつけたくらい、冷えました。
「春は名のみの風の寒さよ」という歌詞そのものの陽気でした。
農園主さんも、寒暖差にお気をつけください。
火葬の予約の件、教えていただいてありがとうございました。
やはり待ち時間が長くなっているのですね。
いざというときの心積もりをさせていただきました。
最近は直葬が増えているようで、ぼくもそうしてもらうつもりなんですが、きょうちょっと気になる記事をみかけました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/2024040...
人同士が常時つながりあうということをしなくなった社会では、じぶんの死がだれにも知られないまま、行政に「処分される」ことも、可能性のひとつとして覚悟しておかねばならないのかもしれません。
うちのあたりは、最近でこそ少なくなりましたが、集落のだれかが亡くなると自治会でお葬式に参加することがよくありました。
その際、お焼香のスタイルや、どのタイミングでご遺族に挨拶するのかといったことは、ぼくはわざと無頓着でいるようにしています。
故人を悼む気持ちを持ち、礼服と数珠と袱紗だけは欠かさず失礼にだけならぬよう気を付ける、というだけで、段取りや決め事に関しては、もう笑って許してもらおう、と(笑)
ぼくに社会的な立場がないからこそ許されるのだとおもいますが、いまの葬儀社が執り行う段取りは、むかし各家庭でお葬儀をしていたころにはなかった(地域の独自ルールだった)もので、この半世紀の間に醸成されてきたものなんですよね。
だから、できなくて当たり前くらいの感覚でいます。
ぼくはいま、アマゾンのオーディブルがまた2か月200円で聞けるというので、再登録しました。
年末に200円で2か月さんざん楽しんだのに、また間を開けずにキャンペーンで不思議だったんですが、今回は「口訳 古事記」と「テスカトリポカ」を聞き、いまは「塞王の盾」を聞いています。
現代小説には疎いんですが、ちょっと流行りものに手をだした感じです。
山本周五郎、青空文庫にあるのですね。
よい情報をありがとうございます。
「三十二刻」、また時間のあるときに読ませていただきます。
これから戦後の読みやすい作家の作品が多数青空文庫に充実しそうですね。
2024年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
兼任(笑)もあるんですね~。
不動明王は大日如来の化身という考えもあるとすると、未・申・酉を守っているわけですね。
関東の三大師のひとつ、川崎大師の薬師殿の中には、大きな薬師如来がいます(いらっしゃる、と書くべきか・・・)。
その中に、十二支に合わせて、十二神将という像がまつられています。
これも十二支の守り本尊のようですが、天部で、奈良の新薬師寺で初めて知りました。
三國志に出てくるような、孫悟空のような、アニメのような、という雰囲気です←例えが変かもしれません。
勢至菩薩は確かに印象は薄いですが、単独で信仰される仏様ではないというのが一因だそうですね。
今回調べてみて初めて知ったことばかりでしたが、なんだかすごいパワーのある菩薩さまなんですね。
柊のセットは、毎年必ずスーパーで売られるんですが、玄関に飾ってあるのを殆ど見たことがありません。
あれだけ売っているんだからもっと見かけていいはずなんですが、どうやら私だけが売り上げに貢献しているようです(笑)
「日本全国酒飲み音頭」ではありませんが、古くから伝わる行事は毎月のようにあるのに、バレンタインやクリスマス、ハロウィンの方が有力ですね(笑)
いわしの水槽があった場所ですが、ネットで検索しても見つかりませんでした。
千葉県の九十九里の「海の駅」に(道の駅みたいなところです)、いわし資料館があり、そこにいわしの展示水槽があって、NPOからのクレームに館の関係者が困惑しているというニュースがネットにありました。
もしかすると、ショッピングモールと、このいわし資料館を勘違いしていたかもしれません。
突然思い出しましたが、美味しんぼで、あの食通の京極さんが、土佐のいわしの丸干しに大感激する話がありました。
丸干しと目刺しは違うんですよね。
急に食べたくなりました(笑)
菩薩や明王や天部には、有名なものと、あんまり有名でないものがありますよね。
ご存知かもしれませんが、生まれ年の「守り本尊」なるものがあるそうです。
以下、十二支による守り本尊の一覧です。
子年 千手観音菩薩
丑年 虚空蔵菩薩
寅年 虚空蔵菩薩
卯年 文殊菩薩
辰年 普賢菩薩
巳年 普賢菩薩
午年 勢至菩薩
未年 大日如来
申年 大日如来
酉年 不動明王
戌年 阿弥陀如来
亥年 阿弥陀如来
ぼくの場合は午年で「勢至(せいし)菩薩」が守り本尊になるのですが、最初に聞いたときは、そんな菩薩があることを知りませんでした。
勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍なのだそうで、おなじ脇侍に観音菩薩がいて、阿弥陀三尊というそうですが、どうも勢至菩薩の印象は薄い気がします。
おひなさまが大陸の王朝の影響を受けているというのは、もしかしたらほんとうにそういう面があったかもしれませんね。
江戸当時の人形職人は、おそらく実際の宮中をみたことはないはずですし、参考にできるものはなんでも参考にしたとおもいます。
その中には大陸の王朝の文物もあったかもしれません。
享保のころは豊かな時代で、ひな人形もバブルっぽい華美なものになっていたそうですが、ああいう演出はたしかに日本的なものではないですね。
柊イワシは、地域によってやるところとやらないところがあるそうですが、ぼくが物心ついて以来、一般家庭の玄関先で柊イワシをみたことはないかもしれません。
豆まきは子供のころにしましたし、いまでもやっているようですが、これも身近なものではなくなりました。
ことし、すこし気まぐれを起こして、煎り豆を裏山の奥のほうでまいてきました。
家のまわりにまくのはネズミを呼ぶようなものなのでやめましたが、むかしの人は、人間以外の生き物に対しても、それを福として呼び込むくらいの、牧歌的な心の余裕があったのかもしれませんね。
東京ではショッピングモールにいわしの巨大水槽があるのですか。
NPOのクレームも含めて、あまり田舎ではみられない光景のような気がしますが、飼育目的ではなく、生け簀として利用するというのだったらクレームもなかったかもしれない……いや、やっぱりクレームがついたでしょうね(笑)
2024年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ほんのすこしの距離を保つことを、相手とうまく共有できるかどうかだとおもうんですよ。
離れていてすこしさびしい、頼れなくてすこしガマンしなきゃならないというくらいで、人間関係はちょうどいいのではないか。
スープの冷めない距離、というけど、出来立てアツアツの距離じゃなくて、冷めないくらいの距離だからいいのかもな、と。
かといって、スープが冷める、へたすりゃ腐る距離というのもあるわけで、あんまり遠くなると、実体をともなう関係性はないも同然です。
むつかしいなぁ。むつかしぃ。
2024年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
そこから歩いて5分もしないところに「彌榮神社」という名前の神社があります。
読み方は「やえいじんじゃ」。あるいは「やえじんじゃ」です。
なぜか御幸森さんにお参りした後に、ついでのように参拝してたんですよね。
が、最近知ったんですが、これはどうも「やさかじんじゃ」でもあるそうな。
つまり「彌榮」を「やさか」と読むようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%...
祭神は八坂神社とおなじ、スサノオノミコトと妻のクシナダヒメ。そして仁徳天皇もまつられています。(ちなみに御幸森天神宮の祭神も仁徳天皇です)
彌榮神社はむかしは牛頭天王社と言われていたそうですから、もう祇園社(八坂神社)の流れで間違いありません。
さて、大阪の実家から100kmも離れたうちの田舎の氏神は八坂神社で、これは歩いて10分くらいのところにあります。
やはり祭神はスサノオノミコトであり牛頭天王です。
そしてぼくが毎年お参りする市内の若宮神社は、厄除けの神社ということをきっかけにお参りしたのですが、あとあと調べてみると、なんと祭神が仁徳天皇でした。
これはいったいどうしたことかとおもいます。
しかもぼくは伊勢に住んでいたことがありますが、うちの市内には元伊勢
ぼくがこのあたりで参拝する神社は、八坂神社と元伊勢さんと若宮神社だけなのですが、それぞれ祭神が共通していることは、最初にお参りしたときには意識していませんでした。
先に言っておきますが、ぼくは陰謀論が嫌いなんです。
移住した先の神様がこれまでの人生にかかわっていた神様ばかりだったなんて、こんなのは偶然だ、と言いたい。
言いたいのだけど、後から取ってつけたような話ではなくて、ぼくが知らない間にそういう整合性がそろっていたのだから、お手上げです。
しかしこの点について、だからこういうことなんだ、という具体的な話はありません。
じぶんでもわけのわからない間にずいぶん神仏の接点の似通った場所を移住先にして、そのようなところを居場所とした。
そういうこともあるのだな、と不思議におもう、という程度のことです。
こんなことをきっかけにおかしな飛躍的思考にのめり込む、ということはよくあることだとおもいますが、ぼくはそういうことはありません。
が、もしこの出来事に必然があるとすれば、ぼくがいま住んでいるこの田舎に、よりご縁というか、親近感をおぼえる出来事ではあったな、と、その点で実際的な作用があったとおもいます。
#与太話
JAがなぜかことしはカレンダーを届けてくれなかったので、思案してじぶんでカレンダーをつくってみました。
クリアファイルを割いてA3サイズにして、A4のカレンダー配布サイトでプリントしたものをクリップで留めて、洗濯ばさみではさんでカレンダーに。
まあ、チープではあるんですが、意外とうまくできたなと納得してます
売り物にならないサトイモを冷凍して、白菜も収穫してひと玉湯がいて冷蔵庫で保存。
コリアンタウンで食べたキムチがおいしくて、キムチの作り方を調べていたのですが、問題はアミエビの塩辛がなかなか手に入らないこと。
それで代用できるものがないかと探していたら、ナンプラーと干しエビをつかえばよさそうなので、今度はじぶんでヤンニョムをつくってキムチをつくろうとおもっています。
#野菜
ありがとうございます。おかげさまでにぎやかに楽しめました。
甥っ子や姪っ子から、どうして彼女をつくったり結婚しないんだと聞かれて、はぐらかしていたのですが、子供なりのあけすけな意見としてはそういうことなんだろうな、とボディブローのように効いてきています。
お手軽なフィットネスは去年ラジオのCMでよくかかっていたのですが、都市部のフィットネス需要は相当なものですね。
うちのような田舎でもフィットネスは数件ありますが、車で片道15分以上かかるので、仮にやってみたとしても、とても続きそうにありません(笑)
2023年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
時代とともに穏やかなものに形を変えていったように思います。
私もかぐや姫あたりから聞くようになり、岡林信康や泉谷しげるなどは、ずいぶん後から仕事の一環として何曲か聞いた程度です。
泉谷しげるの「春夏秋冬」は、10年ほど前、仕事で歌いました。
病院の職員の新年会に呼んでいただいたのですが、そこは共産党の病院でした←私はその病院にも共産党にも関係はないのですが、ご紹介で。
全部で10曲ほど歌いましたが、なぜこれを選曲したのかまったく思い出せません。
思想的に問題がなかったのか今になって気になります(笑)
アメリカあたりのフォークは、もともと「叫ぶ」の意味合いがあったようですが、日本でもそのような歌い方のイメージが大きく、
ストレートな歌詞もあれば、よく読めば何かを示唆しているものもあったかと思います。
かぐや姫は全体的にのんびりした感じが多いけれど、たまにシャウトしているのがありましたね。
「朝日楼」、持ち歌なんです。
ご存じだと思いますが、「朝日のあたる家」は、アメリカの古い民謡ですが、それをアニマルズがブルース的にカバーして大ヒットしました。
「朝日のあたる家」が刑務所を示唆しているので、女性版として遊郭と表現したのが浅川マキですね。
「朝日のあたる家」だと、なんとなく単調になるものが、浅川マキの詞によって、農園主さんの仰る、情念や怨の要素満載の歌になり、
この歌詞だとああいった歌い方しかなくなるわけですね。
これが持ち歌と聞くと、私のイメージもベラになってしまいそうですが(笑)
歌詞だけを変えてもこれほど違う曲になるので、やはりこれも農園主さんが書いていらっしゃるように、コピーではなく、「じぶんの色を出して遊ぶ」ことが、
音楽の楽しさのように思います。
「変装用メガネ」は、度が入っていない素通しレンズのメガネです。
そんなものをわざわざかけるくらいならば、かけなくていいではないかという自問自答をしながら敢えてかけているのですが、ただの「度なしメガネ」というのがつまらないので、そのような愛称になりました(笑)
今日は、お隣の神奈川県。大磯にある「六所神社」に行ってきました。
御創建は2100年ほど前、崇神天皇甲申の歳(紀元前97)、出雲地方より移住した氏族がこの地域を「柳田郷」と名付け、彼らの祖神である櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊(大国主命)を守護神とした。
一年ほど前にお参りしたことがあったのですが、昨日の夜なんとなくHPを見ていたら、今日が5年に一度の大しめ縄の掛け替えの日でした。
出雲大社の大しめ縄を製作している島根県「大しめ縄創作館」に奉製を依頼しております。
行った時は掛け替えは済んでいましたが、ピッカピカのしめ縄に心がす~~っとしました。


車は怖いですね。
巻きこまれなくて本当によかったです。
(追記)
去年10月の六所神社です。しめ縄の色、違いますね。
配達を終えた帰りに、国道を走っていたら、前の車が寝ぼけてたのかなんなのか、カーブ道で時速60kmくらい出しながらガードレールにぶつかりました。
「がしゃん」という音がして、車の軌道が変わるほどでしたから、けっこうな衝撃だったとおもいます。
エアバッグが出てもおかしくなさそうですが、あれくらいでは出ないのかもしれません。
そのまま走り続けていたので、ぼくも後ろをついていたんですが、10分ほど走って前の車が右折するとき、追い越しざまに車をみたら、左のボディがボコボコになっていました
後ろからみていたらわからなかったんですが、カーブでガードレールに気づいてあわててハンドルを切って、結局横から当たった格好だったのでしょう。
黒いセダンで、たぶんミドルクラスの乗用車だとおもうんですが、あれを修理するとなると、10万ではすまないだろうなとおもいます。
もちろん、命にかかわるようなことじゃなかったのならよかったというのが傍観者の感覚ですが、当人はきっといろいろおもうこともあるでしょう。
ほんの数秒の不注意でタイヘンなことになってしまうんですよね。
他山の石として、ぼくもいよいよ気を付けようとおもった次第です。
#与太話
岡林信康は、むかしうちの隣町に住んでいたようです。
しかしぼくのフォークの知識は、かろうじて吉田拓郎に届くかどうかといったところで止まっていて、岡林信康までは届いてないんですよね。
ぼくの場合は、かぐや姫とかチューリップ、長渕剛あたりから入っていて、それはぼくらの世代では多くがそうなんじゃないかとおもいます。
それよりひとつ世代をさかのぼると、ぼくが生まれる前の、50年代60年代の時代の特徴が理解できていないと、曲のよさを知る取っ掛かりがつかめないような気がします。
友川カズキや吉田拓郎もそうなんですが、フォーク黎明期あたりの音楽はちょっと手が届きにくいというか、かれらの曲は網羅して聞くよりも、つまみ食い的に好きな音楽をたまたま見つける、という感じになりがちです。
ちあきなおみに妖怪人間のベラを感じたというのは、ただしいとおもいました。
というのも、たぶんあの系統のミュージシャンのラインがあるんですよね。
ぼくの知る限り、その系統のパイオニアにあたるのが浅川マキです。
浅川マキは、演歌にもあるような「怨」だとか「情念」といった要素を抽出して、歌謡の世界に持ち込んだというか……アンダーグラウンドとしか言いようのない世界観で、一種熱狂的なファンを獲得していました。
その路線の延長線に、ちあきなおみや藤圭子があって、彼女たちも「怨」や「情念」を抽出してるんですが、浅川マキよりは商業的に洗練されています。
で、さらに彼女らの亜種、発展形のようなラインに、中島みゆきや和田アキ子がいます。
変わったところだと、森田童子もそうだとおもいます。
以下は浅川マキの「朝日楼」(もとはアメリカのフォークソング)で、次がおなじ曲を歌うちあきなおみです。
ちあきなおみの動画の最初に、「訳詞 浅川マキ」とあります。
あと浅川マキの「ちっちゃな時から」という曲があるんですが、このファンクな曲を聴くと、和田アキ子がこの系譜にあるのもお分かりいただけるとおもいます。
浅川マキを画像検索したものを貼り付けておきますが、妖怪人間ベラ系統の総元締めのような圧倒的存在感があります。

ギズモさんは近眼なんですね。
ぼくはもう、一般的な人よりもはるかに早い老眼で、もう50~60代の方のレベルの老眼鏡をつかっています。
変装用のメガネ……ギズモさんは有名人なのでしょうか?
歌は本人が歌ったものがいちばん伝わるというのは、ぼくもそうおもいます。
そのうえで、個人的にはカバーをする人がどのように元歌の解釈の幅を広げるのか、ということは楽しみで、たとえばビートルズのカバーなんかだと、たまに特大ホームランを打つようなミュージシャンがいたりするんですよね。
そもそもハードルが高いところを越えてくるような作品が、ごくたまにあるのを探すのが楽しいというか……ぼくはヘンな楽しみ方をしています(笑)
日本のミュージシャンの場合はよく、「カバーじゃなくてコピー」と揶揄されることがありますが、もうすこしじぶんの色を出して遊んでもいいような気がします。
2023年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
去年までは、マルチを張りっぱなしにしていたので、いったん草刈り機で地際を刈って、オクラを畝間によけて、マルチを剥がして、そこからトラクターをかけていました。
ことしはオクラが膝くらいまで生長したところでマルチを剥がしてしまったので、刈り倒しの手間がなく、そのまま耕耘してすき込みしました。
手間がなくてたいへんよろしい。
オクラをなぎ倒すのにトラクターの前の部分がこすれたりしないかとおもいましたが、問題もなく、来年からはオクラがひざ丈くらいまで育ったところでマルチを剥がすやり方でいこうとおもいます。
#野菜
きょう収穫したカブ。

きょう袋詰めした春菊。
#野菜
ちょうどこの時期は、真っ白な霧に覆われるのですが、野菜を配達に行くと、ほんの2kmも離れるともう霧が晴れてくるのです。
で、うちに帰ってくるとまた霧で、フォグライトをつけないと前が見えないくらい。
この霧は、ようするに雨粒のようなものです。
うちのあたりは、この時期は雨が降らなくても、朝になると霧の水分で野菜はみずみずしいままです。
冬になると雪に閉ざされる不利な土地ですが、こういうメリットもあります。
というか、このメリットのおかげで、毎年この時期の葉野菜は上出来になります。
#野菜
2023年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
2か月ほど前のこの記事読みながら笑ってたのだけど、カニエ・ウエストの妻のビアンカ・センソリがほとんど裸のような衣服で外を歩いているというんです。
で、たしかにベージュでスケスケの服で、乳首も完全に透けてるんですよね。
しかし、ぼくが笑ったのはそこではありません。
この記事の1枚目の画像の、カニエウエストの股間ですよ。
「砲丸でも入ってるんか?」
この股間はなんならビアンカ・センソリよりヤバい感じがしたんですが、メディアがそこはまったく触れないのがおもしろくて。
2023年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
昼の日射で畝は乾いて上々の出来。
ここにあらためてダイコンとタマネギを植えたのですが、本命は練った畑にまいた極早生のタマネギでした。
ねちゃねちゃの土で栽培したものと、きれいに成形した畝で栽培したものと、どのように生育するか、比べてみようとおもっています。
【追記】
きょう、天気予報のことで怒りましたけど、種まきをミスると、損失は種代……ではなくて、種代と、本来収穫できるはずの作物にまで及ぶので、かなり大きなものになります。
きょうは結局、種代は追加でかかりましたが、納得のいく形で畑の作り直しができたのと、向後の勉強の機会(土の状態のよしあしによる生育の差を確かめる機会)が得られたので、よかったとしましょう。
#野菜
ウェザーニューズの天気予報をみたら、晴れに変わってるじゃないですか。
しかもあした雨が降ったら、当面天気が持つような感じに書き換わってるじゃないですか。
夕方まで待ってれば、きっと畑のコンディションもだいぶよくなってたことでしょう。
「おいコラ、そんな予報やったら、おれでも下駄放り投げるだけでできるわい!!
下駄放り投げて、テキトーに晴れ曇り雨やいうて、その時間になったら実際の天気に書き換えたらええんやろ。ラクな仕事やのう。
ふだんから ”いちばん当たる天気予報” とか吹いとるけど、ぜんぜん当たらんやないか。そういうのを世間では ”下駄を履かす” って言うんやぞ。
なんでその日の雨の予報が、その時間になったら晴れに書き換わってるねん。真逆やないか。
百姓殺す気か!!
ウェザーニューズというのかい!? ぜいたくな名だね!! いまからお前の名は下駄予想屋だよ。わかったら返事をするんだ。下駄予想屋」
というわけで、リアルに種を損したので、実害が出たぶんの文句をここで吐き出すことにしました(笑)
ことしのダイコンは、まあ食べられないことはないだろうけど、あんまり期待できなさそうです(笑)
#野菜

