山麓王国

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明け方4時ごろ、まだ外は真っ暗なんですが、比較的近いところで獣のけたたましい鳴き声が聞こえました。

野菜がやられてないかなと表に出たら、鳴き声は畑ではなく山から聞こえてきたので、ひと安心。

だったのですが、ぼくが外に出た瞬間、獣の鳴き声が、「ギャア、ギャア」から、「キャッキャッ」と、まるで馬鹿笑いしてるように変化したんですよね。

なんだか化かされてるみたいだな、とおもいながら、アホらしくなって布団に戻った次第。

#与太話
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SNSをしてたとき、ぼくはほとんどの発信に、いいねがついたりはしても、返信はなかったんですよね。

いいねは、うるさいだけで、あんまりいいものじゃなかったです。
いいねを押す側は回覧板に印鑑押すような感覚なんですが、受け取る側はそうじゃないですよね。

ああいうことでじぶんの承認欲求を満たすというのは……たぶん満たせないんですよ。

むしろ心に競争が生まれて、苦しみのもとになる。

たとえば1万のいいねが毎回つくような人は、それが5000になると苦しむわけで。

でもふだん100ほどのいいねをもらってる人の中には、5000もいいねがつくなんて! といってうらやましがる人もいるかもしれない。

そこにあるのは結局数字であって、だれもそこに、いいねとおもってくれたひとりひとりをおもいうかべることはしません。
(というか、できない)

戦争で「〇万人の死者が出ました」というとき、亡くなったひとりひとりの尊い人生を追いかける人はほとんどいません。

〇万人という数字が、相対的に多いか少ないか。その数字で悲劇の総量を決めてしまう。

そういう状況下では、10の死者が出たときに「10人ですんだのか」とすらおもってしまうようになる。

かといって、われわれは死者の、ひとりひとりの人生をすべて受け止めることはできないし、結局は数であらわすほかないんですけどね。



だから、あんまりこういうサイトでも、アクセス解析なんてのはないほうがいいんだとおもってます。

だれが「何人来たのか」なんてことをやったところで、べつに商業的な効果を狙うサイトでもなし、分析する意味がありません。

それどころか、やっぱり満たされぬ承認欲求に苦しめられるだけですから、ひとりで書きたいことを書いてるのがいいとおもう。



この考え方は、たぶん少数派だとおもいます。

いや、「おもいます」じゃないな。

少数派である、と自信をもって言えます。

なぜなら、ネットでなにかを発信してるほとんどの人は、ぼくのようにひとりで書きものを楽しむなんてことはせず、SNSをやってるのだから(笑)

#与太話
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ぼくはうつ病を患っていた期間があって、ちょうど30になるあたりでしたが、もうともかく毎日、死ぬことばかり考えていました。

仕事上で裏切りにあったり、じぶんという人間の頼りなさへの絶望であったり、いろんな要素が混じり合ってのことです。

一日中寝ていたり、まともに歩けなくなるほどで、心療内科の薬も気休めのようなものでした。

死にたかったというよりは、もう死なざるを得ない、という感覚なんですが、これが「死ねばラクになる」という考えと混じり合って、結果、死にたいという考えになる。

生きているとずっと苦しい、つらい、いたたまれないような気分になって、逃げ場がないんですね。

そこでぼくは、生まれてはじめて、仏教について調べ出した。

あのときのぼくの心境は、わらにもすがるおもいだったはずですが、信じるものは「救われる」というのなら、それがどういうものか調べてみよう、くらいの意識です。



調べてみて、まず最初に、なんだこれはとおもいました。

仏教の開祖である仏陀は、この世に生きることは四苦八苦であると説いたんですね。

生まれる苦しみ
老いる苦しみ
病気になる苦しみ
死ぬ苦しみ

この4つの苦しみが、基本です。

この四苦に、さらに派生的に4つの苦しみが加わって、四苦八苦といいます。

愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)
怨憎会苦(憎むものと出会う苦しみ)
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(肉体と精神が存在することで生まれる苦痛)

なんと仏陀は、この四苦八苦をもって、この世は苦しみがすべてだ、と説いたんです。

たのしいとおもうことも、それは苦しみに薄くてすぐはがれるメッキを塗っているだけで、結局は苦しみになる、という。
幸せだとおもうことも、この幸せがいつまでも続くわけではないという苦しみになる。

この世にある唯一の真実は苦しみである、というんですから、それを知ったぼくはもう、ガッカリですよ。

この苦しみをどうにかしてほしい、とおもって仏教をひもといたら、いやこの世はぜんぶ苦しみですよ、というのだから、バカにするにもほどがあります(笑)

でも、その後じっくりと仏教について広範囲に調べていくと、どうやら仏教の経典というのは、この手の最初に落としてあとで持ち上げるタイプのロジックが非常に多いことがわかりました。




たとえば、般若心経では、じつはわれわれは無である、というんです。

みえているものも、感じていることも、聞こえていることも、じつは「ない」。

え?

いま、現にわれわれはここに存在してるじゃないかとおもいますが、般若心経は、ひたすら無を説きます。

この世が無であるということがわかって、はじめて仏の道が開かれるんだ、とまでいう。

最初は、まあ死ねばみんな無になるのだから、そういうことなのかな、くらいの理解でした。



でも、これはどうやら、無と、無限を越えた有がつながっている、ということがわかると、意味が通るようになってるようです。

般若心経がいう「無」は、0(ゼロ)ではありません。

数字の概念であらわすことができない、なにもないという世界です。

同時に、無量大数という概念があって、これは無限大ということでもあります。

これも数という概念ではあらわせない領域ではあるんですが、さらにその向こう側。

数の概念を越えたすべてという、イメージとしては、宇宙の果てをさらに超えた場所、というような感じです。

こうなると、人間の理解を超えている世界という点では、無と変わらないんですよね。

だから、なにもない、というのは、なにもかもである、ということとつながっている。

死んだらわれわれは、無になると同時に、なにもかもになる。

われわれが生きているのも、なにもない無の世界であると同時に、無限大を超えた有の世界です。

一本のヒモの、左右の端っこがそれぞれ、無と無限大であるとして、それを輪っかにつないだら、無と無限大がくっつくでしょう。

般若心経はちょうどこの、一本のヒモの、無と無限大がくっついたところにフォーカスをあてているわけです。




さらにもうひとつ、日本の仏教では、浄土真宗の開祖である親鸞がこんなことをいったそうな。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」

訳すと、こうなります。

「善人でも極楽往生できるのだ。悪人が往生できないわけがない」

え?

ふつうは逆でしょう。

悪人でも救われるのだから、善人が救われないわけがない、であれば意味が通ります。



しかし親鸞が言いたかったのは、阿弥陀仏は悪人を救いたがる仏さんだということでした。

じぶんが悪人であるということを自覚していない自称善人でさえ、阿弥陀さんは救っていかれる。

じぶんが悪人であると自覚して苦しむ者を、阿弥陀さんが救わないわけがない。

こういう理屈です。

仏教の世界では(あるいは宗教の世界全般そうかもしれませんが)、こういうロジックをつかうことが多いんですよね。




仏陀のいう四苦八苦の理屈の場合も、おなじようなものです。

この世を生きることのすべては苦しみである。

この苦しみをよく理解し、受け入れて、逃れ得ぬ苦しみと共存して生きていく。

それだけがこの世を生きる救いなのだ、と。

まず最初に、われわれの本質は苦しみである、という負の側面を伝えておいて、この苦しみと一緒に生きると覚悟を決めたところに救いがあるんだ、という論理です。

ぼく自身は仏教徒といえるほどの信者じゃないし、これといった宗教に帰依もしていませんが、それでも、こういう教義を理解することで、なんとなく腑に落ちるものがあるのは事実です。



で、結局なにが言いたかったのかというと、ぼくはいま、すごく苦しいのだけど、この苦しみと一緒に生きていくしかなくて、また苦しいのはぼくだけではないことでしょう。

それで、まあ、だからなんなのだといわれればそれまでなんですけど、ぼくだけが苦しいわけではないのなら、いちおう書いてみようかな、くらいのことだったのです(笑)

ずいぶん長い記事になっちゃったな。

きょうは集落の親睦会で、ぼくが幹事のような役割です。

とりあえず急いで収穫だけすませようっと。

#与太話
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そういえば、むかしのRPGは、だいたいレベル30くらいになると、ほとんど終盤だったんです。

レベルが50まであったドラクエ2から、ファイナルファンタジーもレベル制のものはそうでしたが、レベル100になっても、だいたいレベル30になると終盤。

とりあえずレベル40もあればRPGはまずクリアできる、というのが常識でした。

ところがここ15年くらいで、そういう風潮が打破されたようにおもえます。

いま二ノ国やってますが、レベル40になってもまだ作品の終わりが見えてきません。



ぼくなんか、もうマンネリでもなんでもいいから、パターンの中で生きていたいんです。

平和というのは、ルーティンとパターンで人生が固まることですよ。

人間というのは、ルーティンとパターンで、人生が安心できることが、平和なんです。

でもいまの経済のシステムはパターンとルーティンを打破することで新価値を創造するものだから、若いうちはそれでよかったのだけど、オッサンになるともうついていけない。

で、年を取るにつれて、この新価値が恐怖になりつつある。

いまのじいさんばあさんが、スマホ操作やキャッシュレスに恐怖を感じるように、ぼくがジジイ(もう半分以上ジジイなのだけど)になるころには、まったく別のシステム的な恐怖が待ち構えているはずです。

そのとき、せめて同世代で「ついていけねえや」と言い合える仲間がいればいいのだけど、なんだかいまの時代だと、そういう仲間すらできないかもしれないな、と、それが目下の最大の恐怖です。
#与太話
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いわゆるタイムリープという考え方の元祖は、ニーチェの「永劫回帰」ということになるとおもいます。

ニーチェは、死んだらあたらしくなにかに生まれ変わるのではなくて、おなじ人生を何度も何度も、永遠に繰り返すのだといいました。

そこまでは、タイムリープっぽい感じがありますが、ニーチェは実際にわれわれが永劫回帰していると主張していたのではありません。

生まれ変わりなんてだれも見たことがないのだから、永劫回帰だって可能性としてないわけではない。

とすれば、次に生きるじぶんのために、いまをもう少しよりよく生きようではないか、という思想です。

いまの人生を投げてしまったら、次の人生でもおなじように投げてしまうことになる。

そうならないように、いまを少しでもよいように生きていようではないか、とハッパをかけているにすぎません。



これが、現代では時間を都合よく巻き戻して、何度も何度もトゥルーエンディングにたどりつくまで、やり直すということをする。

ゲームだと、『ゼルダの伝説ムジュラの仮面』あたりは有名です。

小説だと、筒井康隆の『時をかける少女』がそうです。

漫画だと『東京リベンジャーズ』は典型的ですし、海外でも『ハッピー・デス・デイ』という映画はタイムリープを繰り返します。

ニーチェの場合は、一回こっきりの人生を合わせ鏡のようにして、だからこそこの一回を大事に生きよというのですが、タイムリープものの場合は、記憶を持ち越して何度もやり直してしまう。



なにが言いたいのかというと、いまどきのフィクションは、どれもチートなんだなあ、と。

特に現代では、作品の進行にしたがってチートキャラをすこしずつ小出しにするんじゃなくて、最初からどんどん出しちゃって、そういった作品を日常的にみているわれわれの脳みそは、ほとんど麻薬漬けのようになっている。

そうすると、『ワンパンマン』みたいな、最初から最強みたいなのも許されるし、『呪術廻戦』の五条悟のような最強キャラが最初から出てきてしまうわけです。

まあ、この手の最初から最強というようなシナリオは、古くはブルース・リーもそうなんですけどね。

ぼくとしては、そういうフィクションの麻薬から抜け出して、永劫回帰のような、地に足の着いた思想を目指す、というのが……まあ、ただしいとは言わないけど、でも、実際の人間生活は、そうなんだとおもうんですよね。

#与太話
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あっという間にあらわれて、あっという間に消えつつある「蛙化現象」という言葉ですが、これってむかしは「女心と秋の空」といってたもので、それがより極端で、男女の別がなくなったという感じでしょう。

「女心と秋の空」の場合は、女性って気まぐれだよね、くらいのニュアンスだったとおもいます。つまりスイッチでいえば、女性の気分を0から10まで、くるくる回して調節できるくらいの余裕のある言葉でした。

蛙化現象になると、もう完全にはしごを外すという意味です。

現代風に、男女どちらでも起こりうるという体にはしているけど、スイッチでいえばオンとオフしかない状態で、その間がない。

めちゃくちゃ好きだったのが、一瞬で大嫌いになるわけですから、すごい極端な言葉なんですよね。

右か左か、オンかオフか。
ほんとうはその間にグラデーションがあるはずなんですけど、みんなじっくりモノを考えることがなくなって、より短絡的に結果を求めるようになると、こういう極端な言葉が「消費」されるようになる。

蛙化現象というのは、そういう「時代の言葉」なんだとおもうのですよ。

#与太話
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ぼくはいま、現実逃避をしています。

野菜はうまくできないし、なんだか鬱っぽくなっちゃって、でも自殺するというほどの絶望でもない。

それで、とりあえず生きている、という以上は、生きていることを肯定したい。

ぼくはもうこんなことを何度も繰り返しているから、この苦しみが生まれる原因はわかってるんです。

それは、なにかを比べる、ということです。

なにかと比べて、じぶんが劣っている、というときに、苦しむ。

人と比べて、という場合もそうですが、去年のじぶんはもっとうまく野菜がつくれたのに、ことしのじぶんはどうして、というようなこともそうです。

そのようにして、いまを生きているじぶんを否定するところに、ぶつけようのない劣等感と怒りが生まれて、つまり抑鬱になってしまう。

いいときに調子に乗って自慢するということもしないかわりに、わるいときに他人と比べて落ち込むということもない。
そういうのがいいな、とおもうのは、いまがわるいときだからかもしれないけれど。

で、こういうときは、べつのことを考えていたい。。


日々の農作業はきちんとやってます。

が、やっぱり心のどこかで敗戦処理のような甲斐のなさを感じているときに、まったく目先が変わるラヴクラフトの翻訳をやってみると、これはけっこう腹の立つたのしい作業でした。


それでふと、ぼくがほんとうにネット上でやりたいのは、こういうことかもしれないな、という気がしてきたんですよね。

ぼくは近代文学を専攻していましたが、日本の文学でも明治大正の小説は、まだ文語と口語が混じっていて、きわめて読みづらいものがたくさんあります。

泉鏡花の幻想小説などは、内容はものすごくおもしろいのだけど、原本がほとんど文語文なので、現代文に慣れたわれわれは、ほとんど古文書を解読するようにして読まねばなりません。

著作権の切れた、現代では読解がむずかしい作品を、現代人がわかりやすく読めるように改変して、ネット上で公開するというのは、ニッチな分野ではあるけれど、人の需要を満たすことにもなるし、年をとってもライフワークにできるかもしれません。


なんというか……まあ、ぼくという人間は、ひとり遊びをこじらせちゃってるんでしょうね(笑)

#与太話
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『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』をみる。

NHKでやっていたドラマシリーズが映画化されたもので、もともと『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフとして漫画になっていたものを、映像化したものです。

累計の興行収入が12.5億円に達するそうで、よく当たっているのだとおもいます。

感想としては、アマプラでみるぶんには、とてもよかったです。

映画館でそれなりのお金を出して見るとなると、よほど登場人物のファンであるとか、原作が好きとか、そういう思い入れがないと、ちょっと物足りなさが残るんじゃないかという気がしました。

というのも、なんというか、ひと言でいうと、手堅いんですね。

手堅いというのは、誉め言葉であると同時に、安牌を狙った感じともいえます。

映画化作品であるからといって、奇をてらったことをせず、あまりドラマのときから逸脱したことをしていない。

ただ、筋書きがよいし、役者の演技がよかったから、わざわざ文句をつけるようなこともありません。

もしドラマシリーズがなくて、いきなりこの映画が実写の岸辺露伴シリーズの最初だったら、かなり強いインパクトがあったのではないか、という気がします。

#与太話
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ぼくは、椅子を壊すプロです。

そんなものにプロもアマもないのですが、ともかく、ぼくの座る椅子は、一般的な寿命よりはるかに早く壊れてしまう。

べつに体重がどうのこうの、というわけでなく、子供のころから椅子にグイグイ負荷をかけるクセがあって、それがいまは太ってしまったうえにクセが変わらないものだから、いよいよすぐ壊れてしまう。

いまつかっている椅子は、回転椅子なんですが、回転部分のねじがしょっちょう切れてしまいます。

木部にねじこんである金属が、切れるほどの負荷をかけているようです。

何度もそれで修理をしてるんですが、なんども切れる。

もういい加減あぶなっかしいので、あたらしい椅子を買おうかとおもってるんですが、どうせ壊してしまうことを考えると、ぼくにはビールケースあたりがちょうどいいんじゃないかという気がしてきました。

#与太話
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アマプラでマトリックス・レザレクションズをみる。

わるい点
・ご都合主義的な展開。
・バーチャルの世界はなんでも暴力。夢の中で憎いあいつをしばく、みたいなことを延々やってる。。
・マトリックスでやったことを、もう一度やってる。

よい点
・お金がかかっていそう。
・ザ・ワールドが発動する。
・シナリオはちゃんとおもしろい。
・敵側のわるいところは、モブの命は使い捨て。味方側のよいところは、戦うことは厭わなくても、命を大事にする。
・中年のネオとトリニティがよい。

評価がイマイチな理由は、たとえるなら、過去にすごい流行った曲を、熟練の域に達したミュージシャンが、節回しを変えて歌うと腹立つ、みたいなところかなあ、と。

個人的には、よかったです。
マトリックス3部作は見ておく必要があります。

ED曲、あれ、これレイジ・アゲインスト・マシーンちゃうの、とおもって調べたら、ブラス・アゲインストというバンドが、レイジの「Wake Up」をカバーしたものらしい。

レイジ・アゲインスト・マシーンは、非常に独特なベースラインとリズムを持つバンドで、政治的なメッセージを怒りと情動で伝えてくるのですが、異様な人気を誇りました。

#与太話
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うちの市は田舎ですが、それをいよいよ田舎寄りに向かっていったところにある、温泉がメインの温泉旅館は、むかし原発の補助金でつくられたもので、20年ほど前は300円で入湯できたらしいんですが、ぼくが移住したときは400円。

それがいまは600円で、値上げしても深刻な経営難のようです。

きょうこの温泉に行ったんですが、これまで月2回の休みだったのが、来月から毎週月曜日が休みになること、今後は温泉のみの運営で旅館と宴会のサービスは終了になるそうな。

ここの回数券をまだ15枚くらい持ってるんですが、なんだか早いところつかいきらないと、いつつぶれるかわからない感じ。

それで、帰りに寄った小さなスーパーは、我が家からいちばん近い、といっても車で10分ほどかかるんですが、来月の10日で閉店するんですよね。

こういう小さな、あんまり安売りもしないし、客もあんまり来ないような店が、地域で続けていくことができない、そういう余裕がない時代になってきたようです。
温泉もおなじで、こういうひなびたところまでガソリンをつかって、道楽を楽しむ人が減ってきた。

コロナのせいかなともおもいましたが、コロナはあくまで補助的に作用しただけで、たぶんこれは時間の問題だったでしょう。

まあ、きょうのように、家にいたらカラダにカビが生えてきそうなときに、おじさんが楽しめる道楽が、どうにも寂しいことになって、残念です。

#与太話
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【やたらマウントを取りたがる釈迦とやたら草刈り機をほしがる農園主の対談】

お釈迦様「これ、農園主や。聞こえておるか」

ぼく  「あ、お釈迦様」

お釈迦様「農園主や。お前はいま、草刈り機がほしいとおもっておるな」

ぼく  「はい、すごくほしいです(もしかしてもらえるのかしら)」

お釈迦様「農園主や。おまえの生活の度合いからみて、そんなに何本も草刈り機をそろえる理由がどこにある?」

ぼく  「あ、いや、でもその、電動草刈り機にはメリットがたくさんあって……」

お釈迦様「そんな話は聞いておらん」

ぼく  「はい」

お釈迦様「その草刈り機はいくらするのだね」

ぼく  「あ、安くそろえたら、4万円を切るくらいでしょうか(やっぱりもらえるのかしら)」

お釈迦様「農園主や。そんなお金があるのなら、いま壊れている草刈り機を直すほうが先だとおもわないかね」

ぼく  「……はい。おもいます」

お釈迦様「4万円。お前ごときがポンポンはたけるようなお金じゃなかろうに、もういますぐにでもネットショッピングで気軽にポチしようとするものだから、わたしはお前の性根を叩き直してやらねばならないとおもって、わざわざ顕現したのだよ」

ぼく  「(性根……? お前ごとき……?)」

お釈迦様「農園主や。わるいことは言わないから、その買い物はいったんあきらめなさい。それで、ネットショッピングにかまけている時間があるのなら、草刈り機を買ったつもりで、いま手元にある草刈り機で一生懸命畑の草を刈りなさい」

ぼく  「……はぁ」

お釈迦様「お前が時間のムダを費やすのを、わたしは見ておられないのだよ。ましてそれがお金のムダになるのだから、小言のひとつも言いたくなるではないか」

ぼく  「でもお釈迦様。お言葉ですが、あの草刈り機があれば、カラダもラクになるし、エンジンの音も静かだし、きっといいことがたくさんあるはずで……」

お釈迦様「釈迦に説法!!」

ぼく  「わあ!! ごめんなさい!!」

お釈迦様「釈迦に説法を垂れるとはなにごとか。極楽の蓮池のふちを毎年5回も草刈りしておるわたしに生意気な口をききおるわ」

ぼく  「知りませんでした。すみません」

お釈迦様「もう草刈りシーズンも終わるうえに、ネットのセール時期でもないときにそんな買い物を急いでする理由がどこにある!? 農園主よ、ふだん清貧に努めているのに、4万円の買い物の重みがわからないのか。それにもうしばらくしたら、車検が控えているのではないか」

ぼく  「あ、はい。来年の2月に車検です」

お釈迦様「車検にいくらかかるか、ことしの秋野菜がちゃんとお前の貯蓄になるのか、そういうことを見極めてから、草刈り機は来年の春のセールのときに検討するのでも遅くはないのではないか?」

ぼく  「お……お釈迦様!! ぼくのことをそんなに気にかけてくださってたんですね」

お釈迦様「わかったかね。農園主よ」

ぼく  「はい、お釈迦様。草刈り機を買うのは、もっと先にしようとおもいます。ご助言、どうもありがとうございました」

お釈迦様「わかればよいのだよ。それではまた会おう。(ピロリロリーン)」

ぼく  「(……草刈り機、もらえなかったな)」


というわけで、すこし頭を冷やして、草刈り機を買うのはもう少し待とうとおもいます。

#与太話
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NHKの『生誕100年 司馬遼太郎 雑談「昭和」への道(1) 何が魔法をかけたのか』をみました。

ずいぶんむかしの放送で、62歳の司馬さんが直接ひとりで、カメラに向かって話しかけるというものです。


司馬さんは歴史作家でしたが、とうとう太平洋戦争については書けずじまいに終わりました。
書かなかったのではなくて、さんざん調べ、さんざん同時代の人間から話を聞き、さんざん悩んで、とうとう書けなかった。
その懊悩がよくわかります。

第二次世界大戦に至る国家の空気の変化を、魔法使いが杖を叩いて、魔法の森にしてしまったような、じつに不思議なもの、とたとえます。

そして、この「魔法を解くカギ」を司馬さんは探していて、それもよその思想から借りるのではなくて、自前のカギで開けたいと考えたけど、うまくいかない。


岡目八目というやつで、失礼ながらぼくのような世代の離れた人間は、こんなふうにおもうわけです。

「それは司馬さん、やっぱりあの戦争を直接経験した当事者が、客観的に明快に片付けるということは、ちょっとできないんじゃないでしょうか」

と。


じぶんが経験してしまった以上、その強烈に悲惨な経験を、主観抜きで客観的に、こういうことだったと論じることは、ちょっとできないんではないか。

客観視しようとしても、じぶんが経験したという主観がどうしたって邪魔をする。

じぶんの家が空襲で焼けたということを、小さなことのうちに入れなければならないような時代を直接経験して、どうやってそんな時代をカギひとつで開けることができるのか。

実際司馬さんは、「あんな馬鹿な戦争を」と何度もおっしゃる。

それはもうすでに、司馬さんが時代の当事者として、主観で考えるからそう感じるのであって、むしろその強烈な主観のせいで、司馬さんほどの作家ですら太平洋戦争をおおきくとらえて結論を出すことができなかった、ということ自体が、太平洋戦争のひとつの物語であるようにおもえました。

#与太話
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産業革命とIT革命には似たところがあるとおもっているんですが、せっかく先日産業革命の話をしたので、きょうはもうひとつ、今後起こるだろうことについて話をします。


産業革命で起こった劇的な変化のひとつは、人間が機械の管理をするようになったことです。

機械は、すさまじいチカラとスピードでものごとを成していきます。

モノを切断するにせよ、均一にモノを仕上げていくにせよ、畑を均すにせよ、そのスピードと正確さは、人間が手作業でかなう相手ではありません。

ところが、機械はそれを始動し、メンテナンスし、材料を調達して、しかるべき場所にセッティングする、というような維持管理が必要になってきます。

機械ができること以外は、結局人間がすべてをしなければならないわけです。

それで産業革命以来、人間は機械の維持管理をし、機械の生産力に合わせて働くようになりました。


ではIT革命ではどうかというと、これからはAIがつくる膨大な情報を人間が維持管理するようになります。

これまでは人間が情報を生産してましたが、今後すこしずつ、情報生産の役割はAIが担うようになります。

たとえばむかし、イラスト作品はすべて人間の手書きだったわけです。

それがWindows95あたりから劇的に変化し、パソコンで作品をつくるようになります。

それどころか、インターネットを利用して作品を出版社に送ったり、出版社は印刷会社にデータを送るようになる。

情報の生産速度と物流がすさまじい速さになったわけです。

しかし、まだ情報の生産は人間の役割でした。

これが今後AIが作品をつくるようになると、人間はAIの生産速度には勝てなくなります。
そのうち、生産する作品の正確さにおいても、人間がかなわなくなる日がくることでしょう。

人間はAIの生産物である大量の情報を、せっせと手直ししたり、人間のセンスに合わせて加工するなどする、維持管理側に回るわけです。


AIが仕事を奪う、人間の仕事がなくなる、なんていわれていますけど、ぼくはそんなことは起こらないんじゃないかとおもってます。

それどころか、今後も人間は機械に振り回され、AIに振り回され、膨大なモノと情報を維持管理し、流通させることに従事するのだろうと。

ようするに、これまであった仕事がAIの役割になることはあっても、それによって新しく仕事が生まれるので、やはり人間は忙殺される。


世の中が効率的になればなるほど、人間の生活はラクになるんじゃないか、という幻想を抱きますが、実際には世の中が効率的になればなるほど、人間もまた効率的に働かされるようになるだけで、ちっともラクにならないんですよね(笑)

ただ、ものごとが効率的で合理的であるということが、人間にとって「快」であることはたしかなので、世の中はやっぱり、徐々によくなってきているのでしょう。


ぼくにしたって、トラクターで畑を耕して、ネットで種を購入して、販売した野菜の代金は自動振り込みです。

もう一度クワとスキで畑を耕して、野菜を手売りする時代に戻りたいかといったら、いまのほうがいいですもの。

#与太話
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映画『風船』をみる。

1956年の作品なんだそうですが、この時代の映画のテーマはしばしば資本主義とどう向き合うか、というものになりがちで、これもそうです。

ただ、個人的にあんまり好きな作品ではなかったです。

資本主義の影響から解き放たれた人間が善良に描かれる、という普遍的なパターンの中で、最後に主人公の娘が、資本主義的な暮らしかそこから解き放たれた暮らしか、どちらを選ぶかという究極の選択を迫られる。

そして最後に彼女が、資本主義から解き放たれる選択をした、ということがひとつの隠れシナリオなんでしょうけど、この脚本を書いた人に、「ほんとうにそれでいいんですか」と問いかけたいような気分です。

時代の行く末を暗示するような映画ではあるんですが、アケスケと言うか、身もふたもないというか、いまどきの時事問題でいうと、ビッグモーターの社長が逃げおおせてしまうようなところがあって、イヤな感じが残るんですよね。

レビューをみると評価のいい作品ではあるんですが、ぼくとしては、好きになれない。

主人公の名前があの有名作家の村上春樹と同姓同名で、あくまで偶然なんですが、ぼくは村上春樹の作品も好きじゃなくて、不思議とかれの小説がきらいな理由とこの映画がイヤな理由とが共通してます。

時代を描いているようで、核心に迫るようなことはしない。玉虫色のストーリーを手のひらでコロコロ転がして遊ぶような趣味のものは、ぼくとしてはダメなのです。

しかし、『風船』というタイトル自体が、そういうフラフラしたものを象徴しているようですし、おそらくこの作品に不満を感じるぼくは、1956年のこの映画作品の作り手に釣られてるのでしょう(笑)

#与太話
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きょうは昼寝をしたあとからずっとだるくて、いまも頭がボーっとしてます。

どうしてなんだろうとおもってたんですが、もしかしたら、気圧と気温の変化ではないかとおもっていて、特に気温。

これまで35度くらいの室温に順応してきたカラダが、きょうに限って25度くらいに下がったことで、もう扇風機をつけてるとカラダが冷えて寒くて。

そんなバカなことがあるんだろうかとおもったんですが、幸い、太陽光温水器にまだあたたかいお湯が残っていたので、きょうはこれを湯舟に張って、いまお風呂に入ったんですが、ようやく体温調節ができた感じです。

まさか人間がちょうど心地いいくらいの気温に下がることで、こんな体調変化が起こるとおもっていなかったのでおどろいてるんですが、それだけこの一か月は、安定して暑かったということなんでしょうね(笑)
#与太話
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阿部定について調べていたのは単なる気まぐれで、なんであんな事件を、とおもったからなんですが、いまのぼくの理解力なりに気づけたことはあります。

彼女は若いころからヤンチャな子ではあったようですが、だんだんとヤンチャぶりが突き抜けるようになります。
そもそもがイケイケの性格だったわけですが、あの愛人の性器を切り取る事件は、二・二六事件の3か月後。
定が30歳のときです。


二・二六事件とは、陸軍内部の過激派が起こしたクーデターです。

このクーデターは未遂に終わりましたが、それまでもくすぶっていた日本国内の過激派がいよいよ台頭し、それによって政権内でも軍部が増長することとなり、太平洋戦争に突入していく決定打となりました。

単純にいえば、すごくきなくさい時代だったわけです。
個人主義、自由主義的な生き方が許されない空気が充満していました。

ところが定はそういう時代において、好きなように生きる。
その生き方は刹那的で、とうとう苦界に身を沈めながらも、好きなように生きるわけです。


しかし事件の一年前に足抜けして、東京の料亭で偽名をつかって働くんですが、ここでも料亭の亭主石田吉蔵と不倫します。

この不倫相手に、いわゆる阿部定事件が起こるわけです。

石田吉蔵との情事の様子はずいぶん詳しく証言されてるんですが、もちろん相手は死んでいるし、定の主観ですから、まるまるすべてを鵜呑みにするわけにいかないでしょう。

しかし証言を読む限り、定はアブノーマル……というより、常識と非常識の垣根をわざと越えたがるようなところがあったのではないかとおもえます。

彼女はヒステリー(解離性障害)があったというのですが、ヒステリーは、心的外傷が引き金になります。

彼女は15歳のときに、大学生と遊んでいるうちに強姦されてしまう経験をしていました。


ところで、最近ぼくに起こった、ものすごくしょうもない出来事でたとえますが、ぼくは先日自走式草刈り機の修理をしようとして、ボルトを無理に締めこもうとしたら、そのままネジ部分が切れてしまって、癇癪を起こして「こんなくだらない機械は、捨ててしまえばラクになる」とおもったんですよ。

もちろんそんなことをするのは「短気は損気」だし、常識的ではありません。
でも癇癪を起こしているときのじぶんはこういう思考パターンになります。

「常識に縛られて、この怒りが抑圧されるくらいなら、非常識でも怒りに任せてムチャクチャにしてしまったほうが、よほどマシだ」

と。
もちろんいい年したおじさんだから、そこはグッとおもいとどまるんですけどね(笑)


ぼくはオッサンなので女性の気持ちはわからんですし、この一節はあくまでぼくの想像にすぎませんが、大事な貞操を軽薄に蹂躙されるような経験をしたとき、そのまま異性や性行為に恐怖をおぼえてしまうタイプもいれば、あえてアクセルを全開に踏み込んでムチャクチャするタイプもあるのではないか。

定の元来の性格もあるとはおもいますが、彼女が大学生に強姦されたとき、やり場のない怒りを常識によって抑圧するくらいなら、おもいきり非常識に傾いて、ムチャクチャなことをして心のバランスをとるほうが、まだマシだと感じたとするなら、ああいう極端にアブノーマルで、男性蹂躙的な行為に及んだのも理解がいくような気がします。

いずれにせよ、定は愛人が求めるまま、絞首プレイを楽しみ、その後も睡眠薬を服用させて、相手の望むまま首を絞めて殺害し、陰茎と睾丸を切り取って持ち歩き、三日後に逮捕されます。


この事件があまりにもセンセーショナルなために、その場面だけがクローズアップされるわけですが、ぼくが彼女のことを調べながらおもったのは、この事件以外の彼女は、なんというか、ものすごくふつうなんですよね。

最初はただの個人主義者で、刹那的に生きているように感じていたし、実際そのために苦労していて、晩年も恋多き人生ではあったようだけど、よくよくみていると、人間関係や義理人情を大事にしているから、常にだれかが彼女を支えており、彼女も社会に対して極力迎合しようと努力している。

この社会になんとか居場所を持とうとしている姿には、一種のいじましさすら感じます。


しかし、だからこその凄味というか、ごくふつうの人であればあるほど、事件の猟奇性がまた一段と際立ってくるんですよね。
#与太話
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筒井康隆という人は、知性と狂気と笑いが混在するような気色のわるい小説を書くのですが、実際に当人に会った人からすると、極めておだやかな紳士で、人当たりの良い人物だというのです。

かなりむかしに読んだものなので記憶があいまいですが、ある書評で、筒井氏は小説で狂気を発散することで、穏やかな日常を過ごせているのではないかという分析がなされていました。

ぼくにもそういうところがある……というか、逆にそういう振り子の作用のない人間などこの世にいるのだろうか、とおもっています。
実生活をマジメにやればやるほど、どこかでフマジメなじぶんを吐き出す場所が必要でしょう。

この不完全で理不尽な社会の中で、まったく精神が振れずに適応できるような人は、そのほうがどこか病的におもえるのですが、いままでぼくが実際に接した人で、振れ幅なしに生きている人はひとりとしていませんでした。

その点、ここはほんとうによい場所で、ぼくは振り子の反作用で一時的な非常識を楽しんで憂さ晴らしをすることもできるし、またごく素直に良識人としてあることもできます。

ぼくの精神性の振り子を正常に作用させるために必要であれば、人が眉をひそめるようなことも書きますが、おおむねそれらも、ほんとうの非常識人からすれば、物足りないくらい良識的だろうとおもいます。
それがぼくの限界です。
#与太話
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何年前だったか、軽トラで信号待ちをしていたら、ある食堂の前の黒板に目が留まりました。
ふつうはきょうのおススメみたいなものが書いてあるんでしょうが、そこには俳句が書かれてありました。

「小さめの恋してみたき秋の空」

ほんの一瞬目にしただけなのに、なぜか忘れることなく、ずっと心に残ってます。

日常に満たされてるけど、なにかちょっとしたスパイスがほしい、といったところでしょうか。

その句がなぜか食堂の黒板に書かれてあるということに物語を感じたのだけど、でもあのような句のような感情は、家庭を持っていてある程度の年齢になった人には、普遍的なことかもしれません。

だからこそ俳句としてとてもよくできていて、共感しやすい。

四季のうち、秋であったほうがいいともおもうし、これがことしみたいなふざけた夏だったら、

「特大の恋してみたき夏の空」
「極端な恋してみたき夏の空」
「気まぐれな恋してみたき夏の空」

くらいになりそうです。

とまあ、ぼくがどこぞのテレビ番組の先生のような添削をすると、このような改悪が行われるというわけで、こんなのは数打っても当たりません(笑)
#与太話
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ドラクエ11。
勇者のレベルも99になり、ヨッチ族の物語も終了。
最後の敵も倒して、とうとうやるべきこともなくなりました。

ヨッチ族の物語の最後の敵は神様で、「勇者が最後の敵を倒せるか試すためにこんなことをした」というのだけど、歴代勇者の物語の最終盤では、最後の敵を倒してエンディングを見ないと先に進めないイベントがあるので、この点矛盾してるよなあと。

でもそれ以外がとてもよくできていたし、170時間も遊んだのだから、じゅうぶんです(笑)
#与太話
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神道には、教義も教祖もないのだけど、神社に参拝する側の理解として、これだけは間違いないということがひとつだけあります。

それは、その場所で代々長い間、ようわからんながらに神さまなるものに畏怖の心を持ちながら、人々がおもいを寄せていた、という点です。


平安時代の終わりごろから、鎌倉時代になるかならないか、といったあたりまで生きた西行という僧侶が、伊勢の神宮に訪れたときに、こんな歌を詠みました。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

そこになにが奉られているかよくわからないのだけど、畏れ多くて勝手に涙がこぼれる、というわけです。

神社なんてそれでいいんです。
よくわからんけど畏れ多くて、拝んでしまう、ということをむかしの人が連綿と繰り返していて、そこにあんまり小難しい理屈はなかったし、現代のわれわれもそれでいい。


明治以降、急に降ってわいたような国家神道の思想や、現代だとお参りのマナーや心構えみたいなものは、お参りをする側からすればどうだっていいことです。

過去にわたって鎮守の神様のもとで、たとえば病気の身内のためにお百度を踏んだり、みずからの心願成就を祈念したり、地域で集まってお祭りをしたりと、暮らしに根差すような形で長い間神社がそこにあった、ということだけが、ほんとうです。

だから、そういう過去の人々の願いや祈りの中に現代を生きるじぶんも混ぜてもらって、そのときのじぶんのありようを聞いてもらう。浄めてもらう。

ぼくにとって神社に参拝するのは、その程度の意味合いです。
神様もご先祖さんも、おおらかに、こちらの気持ちをじっと聞いてくださる。


それできょうは神社にお参りしてきました。当地の氏神さんである八坂神社と、市内にある若宮神社です。

八坂神社も若宮神社も、厄除けのご利益があるといいます。

「最近、畑はうまいこといかんし、親父に病気がみつかるし、タイミングがわるいのかいろいろわるいことが立て続いているようにおもえまして。どうぞこの厄を浄めてもらいたいんです。よろしくお願いします」
と、わずかばかりのお賽銭を入れて、二礼二拍手一礼。

宮司さんががっかりする程度のお賽銭しか入れないので、せめて若宮神社では厄除けのお守りをいただこうとおもったのだけど、おおらかで優しい神様はこうおおせになった(ようにおもえた)。

「よう来た。ようわかった。でもおまえみたいな貧乏人は、もう無理せんでよい」

その証拠に、社務所はだれもいませんといわんばかりに窓をぴっちり閉めて、中にはブラインドがかかっていました。(おそらく実際は暑すぎるから)

ぼくは心の中でかしこまりながら、
「おっしゃるとおり、ことしはタイヘンなんです。お言葉に甘えさせてもらいます。おおきに、ありがとうございました」
とお礼を申し上げた次第。

帰りにスーパーで買い物して、晩酌のおともにお刺身でも買おうかと考えたけど、お守りのかわりにお刺身を買うような贅沢をするようではさすがに申し訳ないと、そこは自粛しましたとさ。←晩酌はする

#与太話
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https://www.yomiuri.co.jp/economy/202308...

コンビニおにぎりの中にゴキブリが入っていたんだそうで。

そういえば先日丸亀製麺のシェイクうどんにカエルが入っていたという問題もありましたが、こういうことは、工場を消毒するとかそういうこととは別個の問題があるようにおもうんですよ。

たとえばじぶんのおにぎりをつくるときに、ゴキブリが入ってりゃ、「見りゃわかる」でしょう。

じぶんのおうどんをつくるときにカエルが入ってたら、これも「見りゃわかる」はずです。

じゃあなにが問題なのかというと、製造過程で「だれも商品を見てない」ことが問題なんですよね。

会社側は、「製造ラインを停止した上で洗浄・殺菌、防虫業者による緊急点検・燻蒸処理などを実施いたしました。」というのだけど、それ以前に人間が目視で確認する部分のコスト省いてる、あるいは省かざるをえないという問題が横たわっていないかい? と。

会社側は人件費をケチりたいし、働き手は現場の衛生環境がわるくても、責任の所在がじぶんにないことを知っているし、そもそも人件費をケチられているので毎日の業務でいっぱいいっぱいでそんなことの相手をしていられません。

そりゃ殺菌や燻蒸も応急処置にはなるのだろうけど、この会社にかかわらずどこも似たようなものでしょうから、こういうケースは今後後を絶たないでしょう。


だって、ぼくもそうですもん。
ひとりで百姓やって、ひとりで収穫。ひとりで袋詰め。

そもそもがボンクラのオッサンなのだから、一生懸命やっても見落としが出ます。
さすがにゴキブリやカエルが入ってたことはありませんが、野菜の小さな傷を見落としていて、それが陳列棚に置いてからわるくなってた、みたいなことがあります。

反省するし、次におなじことはすまい、と気を付けるんですが、そうなるとひとり体制というのはとても怖い。

もしぼく以外にも働き手がいれば、ぼくが気づかないミスに気づいてもらえる可能性は上がるし、逆に相手が気づいていないミスにぼくが気づくこともあるでしょう。

じゃあそれはぼくが人件費をケチっているのか、というと、ぼくの場合はそうではありません。

ケチるもなにも、ひとり親方のぼくが最低賃金以下で仕事をしてるのだから、人を雇えるわけなんかないのであります! ←開き直り

#野菜
#与太話
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いまや花火大会も有料イベントになりつつあるようで、お金を出さない人は見てはいけない、なんてことになっているようですが、そんなん地元住人はなんの恩恵もなく、ただ住環境が脅かされて、ポイ捨てゴミの後始末をするだけじゃないかという反発もあるようです。

ぼくは高校時代、世界一のスケールだったときに富田林に自転車で行き、高台の空き地からPL花火を見ました。
人の家の空き地ですからいまだったら取り締まられるんでしょうが、当時はほんとうに自由でした。
もちろんすごい感動でしたが、いまとなってはもうあれ以上のものは見られないとわかって、花火の大混雑に立ち向かう気力もなくなったので、まあどうでもいいっちゃどうでもいいんです。

しかし現代は映像技術も進歩してるはずでしょうし、おなじ有料でやるんだったら、夏の間ドームかなにかを利用して、超リアルな劇場花火なんてのはできないのかな、と夢想しています。

冷房きいてて、屋台的な飲食ができる売店があって、2時間ほどのイベントで、というのだったらいいなあ。

おじさんは、そんなんのほうがいいなあ。
#与太話
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いまさらですが、3DSのドラクエ11を終盤まで遊んでいて、キャラクターはたいがいレベル90台後半。
ヨッチ族の物語をクリアしようと……これは正直つまらないんですが……がんばっています。

前回クリアしたときは飛ばしていた要素です。
ことしの頭には、それなりに楽しんでクリアしたファンタジーライフも、あらためてすべての職業をダラダラとクリアしました。

どちらも軽く200時間以上は遊んでるんですが、いま、ファミコンやスーパーファミコンが遊べる携帯端末が出たら、ぼくはどうなっちゃうんだろう。←寿命がきます

#与太話
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『竜馬がゆく』を読み続けています。トイレ読書なので、なかなか終わらない。ずいぶん前から読んでるんですが、まだ3巻の途中です。

ぼくは勝手にそうおもってるんですが、ぼくがそのとき思案しているようなことに、司馬さんの本がこたえてくれるようなことがよく起こるんですよ。

もちろんおもい込みにすぎないんですが、その起こる頻度がほかの本と比べてあまりに多いので、これは「司馬さんとの対話」だとおもうようにしたわけです。


1960年代に書かれたこの小説の中に、ある一節があって、それがいまのぼくの中で痛烈に響きました。

引用します。

竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでない限り、してはならぬ、と自分にいいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ。
相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。


最近、ついカッとなって、旧Twitterで、芸人を開店休業しながら政治活動をしてる人のツイートに反応したんですよね。

あんまり褒められたことじゃねえな、とおもいつつも、どうしてもこちらのおもうことを述べたくなったのです。

その人の発言は大炎上したようで運営側に削除されていますが、相手は大量の石つぶてを受けているので、ぼく個人の意見など届くはずがありません。

その後のかれの考え方をみる限り、あの発言に対して真意が読めずに反論をしているわれわれがわるい、ということになっているらしい。

それでまたカッとなって、もう一度メッセージを送って、それでもう、つくづく徒労感で、こんなことはするもんじゃないな、とこっちが反省する始末。

それで、もう旧Twitterに参加する気にもなれず、じぶんの王国に引きこもってる格好になってるわけですが、そこへ、けさの司馬さんからのメッセージ。

「人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。」

相手の考える正しさとじぶんの考える正しさがちがっていても、それはそれで受け止めておく、くらいの器量は、ぼちぼち持ちたいものです。

#与太話
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スマホから旧Twitterをみると、背景が真っ黒け。パソコンにはまだ仕様変更は適用されていないようです。

そうなるという話はニュースで聞いていたから、驚きはなかったものの、背景が黒いというだけで、フォロワーさんの善良でイノセンスな菜園ツイートも陰謀論めいてみえてきます(笑)


むかしテキストサイトの一群の中にいたころ、よくアクセス数を稼いでいた「斬鉄剣」というサイトがあって、これはなんだかあちこちにケンカをふっかけているおかしなサイトだったんですが、背景が真っ黒で、いかにも「後ろ暗い」演出でした。

いまからおもうとあれは炎上商法のはしりのようなもので、野次馬をあつめるような形でアクセスを稼いでいたんですが、しかしウェブサイトがマネタイズしにくい時代にあんなことをしていた理由は、いまだによくわかりません。

ああいう過激な言論にあこがれたといってたのが「侍魂」というテキストサイトでした。しかしこちらはべつに炎上を狙っているわけではなく、文字を積極的に装飾しておもしろさをアピールするものでしたが、やはり背景は真っ黒でした。
こちらは、言論の後ろ暗さというよりは、単純に黒い背景だったことで文字の装飾のインパクトが強くなる、という効果があったようにおもえますが、読み手としては背景の暗さによって、ブラックユーモアを楽しむ心構えができていたような気はします。

どちらも個人的には「有名サイトである」以上の興味はなかったのだけど、侍魂はとりわけ多くの閲覧者をあつめて、それらの一介の個人サイトが「ネット利用者を集約する」力強さには、ネット黎明期の勢いを感じました。

当時は違法な割れサイトなども、たいがい背景が真っ黒で、いちいちご丁寧に閲覧者にそのサイトの持つ印象をアピールしていたものです。


なにが言いたいのかというと、ウェブサイトのロゴであるとか、背景といったものが、利用者の心理になんらかの作用を及ぼすということは、やっぱりあるとおもうんですよね。

古い時代をおもい返しながら、旧Twitterがいまやっている演出は、後ろ暗いものを好む閲覧者をあつめる効果はあるだろうな、などと考えるきょうこの頃。

#与太話
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「クリニカアドバンテージ +ホワイトニング」という歯磨き粉をつかうようになってから、シャリシャリとした歯石になりかかったような歯垢が剥がれるのがおもしろくて、歯磨き→歯間ブラシ→フロス→歯磨き という、念入りな歯磨きを楽しんでいます。

2回目の歯磨きでもすこしシャリシャリしますから、一回ではどうしても磨きのこしが出ちゃうんでしょうね。

ちなみにぼくは先日歯医者の定期検診をすっかり忘れてしまい、また無事(?)歯医者難民となりましたので、もう虫歯になるわけにはいかんのです。←自業自得

#与太話
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日本の宗教について、身近なところで起こっていることでいうと、アニメやゲームで、世界中の神話や伝説からキャラクターがとられることって、日本特有の現象のようです。

転生ものにしてもそうなんですが、海外だと国をあげてひとつの宗教の価値観が根付いていたりするから、日本のように無節操な死生観や、世界中の神話からのパクリみたいなことは、かなり抵抗があるのではないかとおもいます。

日本だと、転生もののアニメや、神話のキャラクターが無尽蔵にあらわれるゲームが無節操であるという意識も薄いとおもうんですが、おそらく海外ではこれは、じぶんの信じる宗教への冒涜ということにさえなりそうです。


日本は江戸時代までは仏教推しでしたが、明治からは神道推しになりました。
推しどころか、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といって、仏教はもう日本から追い出そう、というところまで極端な運動に発展します。

ところが仏教とちがって神道には教義も教祖もないので、政府が天皇を神格化し、教育勅語という教義を作りました。

日本人はおおむねこの信仰のありようの変化を受け入れて熱狂したわけですが、太平洋戦争の敗戦によって教育勅語は廃止。
天皇は神ではなく人間であり、日本の象徴である、ということになって、日本人は「それじゃあわれわれはなにを信じたらいいの?」というところが宙ぶらりんになったんですね。

宙ぶらりんになったまま、80年近く過ぎようとしているわけです。


新興宗教もなんとなく怖いし、かといって葬式仏教も嫌気がさしてるし、なんだかなあ、といいながら、朝テレビで星座占いをみるようなのだってスピリチュアルで、プレ宗教みたいなものです。

みんながなにかひとつの信仰を持つ、ということがなくて、まとまらない。
お寺でお葬式をあげて、神社でお参りして、クリスマスパーティをする、なんて節操のなさにも、特に抵抗を感じることもありません。

なので、宗教的価値観に基づかないなんにでも転生しちゃう物語がジャンル化したり、ゲームのキャラクターには世界中の神様がやたらと出てくる、なんてことが起こってしまう。

それがわるいといってるんじゃないですよ。むしろよいことで、世界に例のない価値観だとおもっています。

人間はなにかを信仰せずにはいられない生き物だとおもっていますが、ぼくの場合も日本人であることをいいことに、特定の信仰に入信することもせず、つまみ食い的にいろいろとかじっては、なるほどなあ、なんてことをやりながら、だましだましその日を暮らしています。

そういう信仰の態度が許されている戦後日本の風土は、よいものだともおもっているのです。

#与太話
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もう10年以上、むかしの話です。
ディズニーで売ってるチュロスは、USJではなぜかチュリトスという名前で売られていて、売店でそれを「チュリトリス」と注文した女の子がいました。

それを聞いたぼくは目を伏せて心を殺すしかありませんでしたが、なぜかふとあのときのことをおもいだしたのと同時に、もしかしたら売店の人にとっては、その言い間違いはよくあることなのではないか、という気がしてきました。

https://www.google.com/search?client=fir...

検索してみたら、やっぱりそれなりにある間違いのようなので、あれは間違えた人がわるいんじゃなくて、チュリトスを売るほうがわるいんだ、とおもうようにしました。
マンゴーも名前がわるいとおもう。←延焼

#与太話
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それにしても暑くて暑くて。

あんまり暑いとセミすら元気がなくなるようで、梅雨が明けたころの蝉時雨はたいしたものでしたが、いまは山の木陰でシャワシャワ鳴いとるな、くらいなものです。

そない長生きもできんのに、こないムチャクチャな暑さやとアンタらもずいぶん気の毒やな、と同情してる場合じゃありません。
この時間帯は、ぼくもヘタすりゃ家の中で倒れ込みそうです(笑)
#与太話

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