山麓王国

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書こうとおもって忘れてました。

去年末、タモリが徹子の部屋に出演していて、これはまあ毎年年末には出演なさってるんですが、そこでタモリが、最近の若い子が「ヨーデル話法」になってるというんです。

営業がうちにくるとき、盛り上げたい話になると声が裏返るというんですが、番組をみているときは、あんまり実感がありませんでした。

ところがその後レコード大賞や紅白歌合戦をみていると、若いミュージシャンがみんな裏声を取り混ぜたヨーデルのような歌い方をしてるんですよ。

紅白のトリの福山雅治までヨーデルみたいな歌い方をしているので、さすがに親は「これはむかしの曲やろ」といって、ぼくが調べたら2023年の曲。

親も唖然としていました。

これは、タモリの慧眼なのかなんなのか、世の中がヨーデルになってるじゃないかと、不思議な気分になったものです。

ぼくがみたのはミュージシャンだけでしたが、世の中が裏声ブームになってるなんて。

おそらくうちのような田舎にはやってこようはずもない流行でしょうが、都市部ではそんな変化があるのかもなあ、と他人事のようにおもっている間に、もう小正月です。

#与太話
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人工知能は、地に足がついていないんだという考えはまさにそのとおりで、意識の真似事のようなことをしている、という感じです。

では意識とはなんなのか、ということが記事の中で語られていたわけですが、だんだんと宗教的な話になっていくんですよね。

科学がどんどん「人間」から剥離していって、たとえば医療がすべてデータで語られて、人間を見なくなっていくとき、それじゃあAIが医療をすればいいじゃないか、ということになる、という。

科学だけが突出して発達して、人間がどんどん置いてけぼりになっていくわけです。



そんなことを考えていると、近い将来、人間は結局、近代以前の信仰の生き物に回帰していくのではないかという気がします。

人間が科学を操っていこうという近現代だったから、宗教はなおざりにされていたわけですが、科学が人間を置いてけぼりにして、人間が追いつけなくなったとき、人間はまたなにかを拝むことで、心のよすがを求めずにいられなくなるようにおもえます。

病気が科学のチカラで治っても、生活が科学のチカラでどんどん便利になっていっても、なぜそうなっているのかということに理解がいかなくなった人類は、結局人知の及ばぬなにかを畏れることによって生きるしかないのではないか。

それはたとえば軽微なモノであれば、朝、テレビの星座占いをみて一日の行動指針を決めるというようなことから、重度のモノであればじぶんの稼ぎのほとんどを信仰に貢いで安心せねば気が済まぬといったところまで、いまと変わらぬような信仰のありようが、いよいよ深く根を張っていく。

科学の時代なんだからそんなことはもうしなくていいんだ、という時代から、やっぱりそうじゃないんだ、という反動の時代がくるのではないか。



なぜそんなことになるのかというと、宗教は人間の苦しみから生まれたものだからです。

AIは人間の意識の真似事はするけれど、苦しみを分かち合うことができません。

人間を生きるという苦しみがわからない存在が、いよいよ科学の分野で存在感を増していく。

そうすると(これまでも半ばそうだったのだけど)科学に必死になってついていく分野の人々もまた、人間的なあいまいさを排除して、データ至上主義のロボットのようになるほかありません。

AIが科学分野で突出し、人間がそこに追い付けなくなれば、多くの人は科学の土俵から下りて、人間にしかできないことに回帰していくことでしょう。

それは結局、理屈ではないなにかを共有することで人間同士が連帯していくということです。

そうすることで、AIの完全支配から逃れようとする……というと大げさかもしれませんが、ようするにいまのぼくの、自然とともに生きているようなことが……最後に結局手前味噌な話ではありますが、大地に足をつけて生きて、日々の資本主義活動に追われすぎず、ゆっくりと時間をかけてものごとを考えて、自然を畏れて生きるようなことが、どうしたって人間の行きつくところだとおもうのです(笑)

#与太話
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実家からもらった大阪王将の冷凍チャーハンがとてもおいしかった、というなんでもない日常の幸福を報告して、きょうは自家製のキムチづくりに挑みます。

というのも、ことしコリアンタウンで4か所から白菜キムチを買って、家族で食べ比べをしたんですよ。

そうすると、4店舗それぞれ、まったく味がちがう。

不評なものもあれば、好評なものもあり、こうも味がちがうものかと感心したものです。

ちなみに、6人ほどで食べ比べたんですが、味の評価はだいたい似たようなものでしたから、おいしいとおもうキムチはみんなおいしいとおもうようです。

おそらく、白菜のコンディションや水分量、ヤンニョムも材料のコンディションがあるでしょうから、店の味が常に均一というわけにはいかないとおもうんですが、これだけ多様な味になっているのなら、ぼくも工夫次第でおいしいキムチを作ることができるんじゃないか、と欲をかいたというわけです。

おいしいレシピができたらここに書いてみようとおもいます。

#与太話
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雑多に書き並べます。

新年になって、すこしおもうところあり、営利でブログをやってみようかと。

といいつつ、なんのアクションも起こしていません。

スタードメインだとドメイン代でサーバーも利用できるということで、かなり割安にブログ運営できそうですが、それでいったいぼくはなにを発信したいのだろう、ということが定まっていません。

いままで一貫してじぶんの書きものの方向性が定まったことがないので、もう半分あきらめてます。

しかしうちには道の駅の本があるので、全国の道の駅を基点にして、架空の旅ブログを書くのはおもしろそうだな、と。

その土地の名産や歴史、地理などを調べて書いていけば、そりゃあもういくらでも文字数は稼げるというわけで(笑)




ことしのぶんの生分解マルチを買いました。

一般的なマルチに比べて3倍ちかい出費ですが、バイオマルチだと土に還ってくれるので、マルチを回収する手間がありません。

たとえば500mマルチを張るということは、500mのマルチを「回収しなければならない」わけです。

回収したマルチは粗大ごみで捨てるのですが有料です。

そのあたりの経費を考えたときに、ビニールマルチを買うよりも1万5千円ほど多い出費は、じゅうぶん取り戻せるという判断です。

ことしはオクラもバイオマルチで栽培する予定です。

うちはオクラとニンニクは、バイオマルチに穴あきマルチの規格品がなかったので、ビニールマルチを利用していました。

しかしオクラはむりやりバイオマルチの規格品(95cm幅のマルチに30cmおきの穴が2列)で代用することとし、ニンニクにもビニールマルチをつかうのをやめて露地栽培に切り替えたので、ことしからはもうマルチのプラゴミが出ません。

これは気分的に非常にラクなことです。

ぼくのスタイルの農業で出る大きなゴミといえば、あとはべた掛け不織布くらいですが、これは比較的ゴミとしては出しやすいんですよね。



ふとおもったのが、充電式のサイクロン掃除機は吸引力が足りなくて苦労しますが、よく考えればコード式のサイクロン掃除機でもぼくとしては問題がないんですよね。

結局従来の紙パック式のキャニスター式が便利だとおもってたんですが、ことしカメムシが大発生しましてね。

紙パック式って、カメムシを吸っちゃうともう、排気がすごい匂いになるんですよ(笑)

それですぐに紙パックを交換というのはあまりにももったいないし、その点、サイクロン掃除機だとムダがないなと。

というわけで、コード式でじゅうぶんな吸引力があってサイクロン式、というのはどうなんだろう、とおもったわけですが、これからちょっと調べてみます。

#野菜 #与太話
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イーロンマスクの薬物常用疑惑。

https://www.yomiuri.co.jp/economy/202401...

真偽のほどはわかりませんし、個人的には薬物をやっていようがいまいが、かれの経営のやりようが受け付けられないんですが、この疑惑を受けてふとおもったのが、映画『スカーフェイス』のトニー・モンタナ(アル・パチーノ)です。

あの作品は、トニー・モンタナがキューバからアメリカにわたり、裏社会の一味となってコカインの密売で麻薬王と呼ばれるまでにのしあがるものの、自身もコカイン中毒になって破滅していくというものでした。

素寒貧の青年が麻薬王にのぼりつめる過程と、イーロンマスクの成り上がり人生にはどこか共通点があるようにもおもえますし、どんな社会でもごぼう抜きの出世の背景には、その人の身の丈をはるかに超える無理があるものです。

だから薬物に手を出した……かどうかはぼくにはわかりませんが、もしそうだったとしても不思議はなかろうとおもうほどの人生ではあるとおもいます。

#与太話
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帰省時に、いつも参拝するのは御幸森天神宮というところで、鶴橋にあるコリアンタウンの西端にあります。

そこから歩いて5分もしないところに「彌榮神社」という名前の神社があります。

読み方は「やえいじんじゃ」。あるいは「やえじんじゃ」です。

なぜか御幸森さんにお参りした後に、ついでのように参拝してたんですよね。

が、最近知ったんですが、これはどうも「やさかじんじゃ」でもあるそうな。

つまり「彌榮」を「やさか」と読むようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%...

祭神は八坂神社とおなじ、スサノオノミコトと妻のクシナダヒメ。そして仁徳天皇もまつられています。(ちなみに御幸森天神宮の祭神も仁徳天皇です)

彌榮神社はむかしは牛頭天王社と言われていたそうですから、もう祇園社(八坂神社)の流れで間違いありません。


さて、大阪の実家から100kmも離れたうちの田舎の氏神は八坂神社で、これは歩いて10分くらいのところにあります。

やはり祭神はスサノオノミコトであり牛頭天王です。

そしてぼくが毎年お参りする市内の若宮神社は、厄除けの神社ということをきっかけにお参りしたのですが、あとあと調べてみると、なんと祭神が仁徳天皇でした。

これはいったいどうしたことかとおもいます。

しかもぼくは伊勢に住んでいたことがありますが、うちの市内には元伊勢神宮神社があり、アマテラスオオミカミもこの地の祭神ということになります。

ぼくがこのあたりで参拝する神社は、八坂神社と元伊勢さんと若宮神社だけなのですが、それぞれ祭神が共通していることは、最初にお参りしたときには意識していませんでした。



先に言っておきますが、ぼくは陰謀論が嫌いなんです。

移住した先の神様がこれまでの人生にかかわっていた神様ばかりだったなんて、こんなのは偶然だ、と言いたい。

言いたいのだけど、後から取ってつけたような話ではなくて、ぼくが知らない間にそういう整合性がそろっていたのだから、お手上げです。

しかしこの点について、だからこういうことなんだ、という具体的な話はありません。

じぶんでもわけのわからない間にずいぶん神仏の接点の似通った場所を移住先にして、そのようなところを居場所とした。

そういうこともあるのだな、と不思議におもう、という程度のことです。

こんなことをきっかけにおかしな飛躍的思考にのめり込む、ということはよくあることだとおもいますが、ぼくはそういうことはありません。

が、もしこの出来事に必然があるとすれば、ぼくがいま住んでいるこの田舎に、よりご縁というか、親近感をおぼえる出来事ではあったな、と、その点で実際的な作用があったとおもいます。

#与太話
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「ミッション・ワイルド」という映画があります。

まだプライムビデオでみられるようです。

なんだかアクション映画のようなタイトルですが、さにあらず。

舞台は西部劇の時代のアメリカ西部ですから、じゃあ西部劇なのかというとそうでもない。

徹底したヒューマン映画です。

トミー・リー・ジョーンズが監督と脚本と主演を務めた作品で、おなじく主演女優にヒラリー・スワンク、ちょい役にメリル・ストリープが出ていたりと、そうそうたる顔ぶれ。

どういう映画かというと、アメリカという国の精神性・倫理性を暴いています。

作品の舞台である19世紀のアメリカは開拓時代で、白人たちが東海岸からアングロアメリカを広げていこうとする真っ最中です。

東部はすでに安定していましたが、ミズーリ川をへだてて西部はまだまだゴールドラッシュで、法整備も追い付かず、お金の価値も安定していない危険地帯です。

弱肉強食というか、みんな一攫千金を夢見て、女性の人権意識なんて存在しないも同然。

西部ネブラスカで農業をしながら敬虔に、堅実に暮らしていたメアリー・ビー・カディ(ヒラリー・スワンク)は、あるとき西部の厳しい暮らしに心が壊れてしまった3人の女性を、ミズーリ川を越えた東部のアイオワの教会に届けるという役目をみずからうけおいます。

道中、原住民に襲われたり、砂漠の狼に食われるかもしれない過酷な旅で、本来は男でなければできない役目なのですが、ほかの男どもはみな腰が引けている……もっといえば、心の壊れた役に立たない女のためにそんな危険を負う気になれないようで、メアリーが買って出たのです。

彼女は敬虔で勇気あるプロテスタント信者なんですが、30を越えても結婚できずにいます。

周囲の男たちはみんな資本主義に毒されていますから、堅実に生きてじぶんを持っている彼女を「男に対して説教臭く、つまらない女性だ」とけなすのです。

彼女は旅に出る前に、ジョージ・ブリッグス(トミー・リー・ジョーンズ)という、アメリカそのものを象徴するような軽薄な小悪党と出会い、ともに旅をすることになりました。



……まあ、オチを言ってしまうのはアレなのでこのへんにして、ぼくはこの作品を3度みて、そのたびにアメリカという国の抱えるジレンマについて気づくことがありました。

アメリカにはプロテスタントの尊い理念があるはずなのに、資本主義は理念を蹂躙し、正直者がバカを見るようなことになって、だれもこの理念を顧みようとはしない。

一瞬、プロテスタントの敬虔な理念に打たれることがあっても、すぐに忘れてまた資本主義の放縦な暮らしに戻ってしまう。

あの映画をみると、アメリカのプロテスタント精神はもう廃れているのかもしれない、とおもえます。

以前、クトゥルフ神話について調べたことがありましたが、アメリカの恐怖作家が創作した神話的世界観は、一部のコアなファンによって支えられ、「宗教のないアメリカに生まれた宗教」ともいわれたそうです。

「宗教のないアメリカ」というけれど、プロテスタントという宗教があるじゃないか、とおもいますが、それほど実際のアメリカでプロテスタンティズムは形骸化しているのでしょう。

おそらくこのアメリカにおける「プロテスタントの形骸化」が、クリスマスにせよバレンタインにせよ、アメリカから日本に輸入されてきた宗教イベントがなぜ空虚で、資本主義的なのかということを理解するとっかかりになるようにおもえます。

#与太話
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オーディブル。

まんまことシリーズ。

この作品はすこしずつ主人公たちの結婚が進んでいくんですが、それ以外は謎解きのようになっていて、いわば舞台が江戸の、大人による『ズッコケ三人組』のような感じです。

9巻まであるうちの、7巻『かわたれどき』まで聞いて、さすがにすこし疲れてきました。

1巻10時間ほどあるので、70時間ちょっとは聞いたことになります。

そこで、気分を変えて『木挽町のあだ討ち』を聞くことに。



これはなんとなくうわさでおもしろいということを聞いていて、江戸が舞台であるということ以外、どんな話かさっぱりわからないまま聞いてみました。

つい今しがた聞き終えたんですが、たしかにおもしろい。

芥川龍之介が書いた『藪の中』という作品があります。

これはいまでも「真相は藪の中」なんて言い方をする、そのもとになった作品です。

ある男が死んだ、その真相を知るために、いろんな人から話を聞いていくんですが、みんなそれぞれに証言が食い違っていて、なにがなんだかわからなくなる。

『藪の中』はみんな語り口調で話していく作品なんですが『木挽町のあだ討ち』もおなじやり方で、いろんな人が話をする格好で物語が展開していきます。

真相がどんどんわからなくなっていく短編の『藪の中』の向こうを張って、真相がすこしずつ明らかになって、最終的にすべての伏線がキレイに回収される長編が『木挽町のあだ討ち』といった感じ。

たぶん、作者は『藪の中』を意識してるだろうとおもうんですよね。

ちなみに『木挽町のあだ討ち』はところどころにホロッとくるところがあります。

ひとつ間違うとベタな展開になりがちなところを、こちらの心に浸み込むように伝えてくる技術はすごいとおもいました。



あとこれから、遠藤周作の『沈黙』の朗読があたらしく入ってきたのでこれを聞こうかとおもっていて、さらに半藤一利の語る昭和史と幕末史あたりも聞こうとおもっています。

2か月間で200円の割引セールなんですが、いまだいたい一か月。

ふだんの月額1500円はとても出せませんが、さて、タイムリミットまでにどこまで聞けることでしょう(笑)

#与太話
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そういえばきのう、朝6時半くらいのこと。

配達を終えた帰りに、国道を走っていたら、前の車が寝ぼけてたのかなんなのか、カーブ道で時速60kmくらい出しながらガードレールにぶつかりました。

「がしゃん」という音がして、車の軌道が変わるほどでしたから、けっこうな衝撃だったとおもいます。

エアバッグが出てもおかしくなさそうですが、あれくらいでは出ないのかもしれません。

そのまま走り続けていたので、ぼくも後ろをついていたんですが、10分ほど走って前の車が右折するとき、追い越しざまに車をみたら、左のボディがボコボコになっていました

後ろからみていたらわからなかったんですが、カーブでガードレールに気づいてあわててハンドルを切って、結局横から当たった格好だったのでしょう。



黒いセダンで、たぶんミドルクラスの乗用車だとおもうんですが、あれを修理するとなると、10万ではすまないだろうなとおもいます。

もちろん、命にかかわるようなことじゃなかったのならよかったというのが傍観者の感覚ですが、当人はきっといろいろおもうこともあるでしょう。

ほんの数秒の不注意でタイヘンなことになってしまうんですよね。

他山の石として、ぼくもいよいよ気を付けようとおもった次第です。

#与太話
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出かける前に、ちょっとおもったことをメモ代わりに。

世の中は均衡をとろうとするので、引っ張るチカラを強めると、向こうから引っ張り返すチカラも強くなります。

じぶんが一方的に引っ張り続ける、ということが……たとえじぶんの一生の間はそれでいけたとしても、不均衡はいつかかならず是正されます。

あるいはそれは子孫が根絶やしになるほどの革命かもしれませんし、もっとべつのカタチかもしれません。

当然じぶんが生きている間に是正されてダメになるかもしれない。

人間が、そのような引っ張り合いの土俵からおりるのはもっとも望ましいようにおもえるのですが、国家はそれを許すでしょうか。

第二次世界大戦のような戦場で、寒山と拾得が軍服を着せられ、銃剣を担がされているような風刺を、ふと想像していたのです。

#与太話
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きょうは自治会の宮講といわれる行事があるんですが、まあお酒と一緒に食事会をするだけです。

きょうは野菜の配達のみにして、ひさしぶりに午前中を休みにしました。

午後は、様子を見て収穫するかどうか決めます。

牛頭天王の掛け軸を飾るんですが、これはおそらく江戸時代以前のもので、地域の八坂神社が以前祇園社だったころの名残で、末端の氏子はスサノオではなく、いまだに牛頭天王をまつっているようです。

しかしいまでもよその田舎では宮講というと、ぼくのような人間には堅苦しくてイヤになってしまうような儀礼や型が多いようですが、うちのあたりではもう、お酒をふるまう食事会と化していて、儀礼というと掛け軸に向かって拝礼する程度のことです。

その儀礼も、二礼二拍手一礼をするんですが、祇園社を神道とみるとか、仏教とみるとか、祝詞をとなえるとか、そんな堅苦しいことも考えないあたりが、じつによろしい。

そんな宮講でさえ、もう人が集まらなくなって、もう来年からは開催しないというのでもいいのではないか、という声が聞かれます。

よその自治会ではもうやめているところもあるらしいです。

まあ、移住者が増えてきた昨今、地域でおなじ神仏を信心するという時代ではありませんし、実際わずらわしい行事を減らしていかないと、自治会の役員も少なくなって負担がタイヘンです。

やっぱり神様というのは、イザナギが言ったとおり、人が千人死ぬのであれば、千五百人生まれるようにしてやる、というような社会であってこそ信仰されるものです。

いまの中山間部のように、人が死にゆくままになって、外から人を呼んでなんとかつじつま合わせをしているような地域では、それぞれがちがった習俗や文化を持ち込むわけですから、なかなか信仰をまとめることもできないことでしょう。

#与太話
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オーディブルは、ずいぶん久しぶりに割引キャンペーンを楽しんだのですが、作品が増えておもしろくなっていました。

まず最初に、百田尚樹の『日本国紀』を聞きました。
お金を出して買う気にはなれませんが、興味はあったのです。

前半だけ聞いて、続きを聞くかどうかは考え中ですが、感想は以下の通りです。



・著者の思想の偏向した部分を理解したうえでなら、わかりやすい歴史本です。

・秀吉の朝鮮出兵は、明の征服もできたはずだ、というような、たらればで他国を侵略して勝てたという妄想がしょっちゅう出てきて呆れます。

・日本すごい、万世一系がすばらしい、と、じつにしつこい。
 とりわけ皇室に関する観念の押しつけがひどい。これでは皇室も悪女の深情けにあったような気分でしょう。

司馬遼太郎は、日本を絶対的なものと考えて(盲目的に日本はすごいと信じ込む態度)、他国と相対的に比べる見方ができなくなったことが、太平洋戦争に負けた原因だと言いました。1025

この本を読んでいると、日本への絶対視がすさまじく、日本は世界征服できるとでも言わんばかりで、これは日本を侵略戦争に導き、さらに敗戦に導くために書いているのだろうかとおもうほどです。

歴史を振り返れば、世界の近代とはすなわち、帝国主義の敗北と言っていいでしょう。

が、この本は帝国主義的な史観に満ちています。

このように考えていると日本はダメになるという見本のような本です。

見方を変えれば、現代の皇国史観や、侵略主義を否定するようにみせかけて侵略主義を肯定する詭弁的なレトリックを勉強する材料にはなるとおもいます。



その次にいま聞いているのが、畠中恵の『まんまこと』シリーズです。

いま2巻目の「こいしり」を聞いています。

もともとNHKの時代劇でドラマとしてみて興味を持ちました。

人との縁やつながりが現代よりずっと深い時代ですが、まともな医療がないので、人の死はいまよりずっと身近で、はかない。

現代では感じ取りにくい人間同士のつながりのありようを、謎解きをからめながらうまく描いています。

女性の視点で男性を描いているからか、男の本質的な野蛮さはないんですが、物語なので気になりません。

そういえば、うちの母はむかし、ぼくの弟がこんなことを言っていたと伝えるときに、「ぼくはお母さんのことをこうおもっていた」という形で話すんですが、弟はじぶんのことを「ぼく」とはいいませんでした。

弟はじぶんのことを「おれ」というし、母のことを「おかん」という。それなりにふつうの、突っ張った男です。

けれど母は弟の話し言葉をフィルタにかけて、じぶんが「ぼく」と言い、母のことを「お母さん」と言っていたという形でぼくに伝えるわけです。

そういう女性らしい、客観的なやさしさの世界が、この作品の中にあるようにおもえます。

#与太話
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すこし日本の古代の宗教と政治の話がしたいのです。



仏教を推進したい大和朝廷が、廃仏派の物部氏を討伐したとき、古神道の生殺与奪の権限は朝廷にゆだねられました。

そのときになぜ、神道を残そうということになったのか。

神道に「利用価値がなければ」、廃することでよかったとおもいます。

仏教のみでやっていく選択をしてもよかったはずです。

では当時の朝廷にとって、神道の利用価値とはなんだったのか。



神道には(特に古神道には)教義も教祖もありません。

日本の歴史の中で、神道に教義(教育勅語)と教祖(天皇)があったのは、大日本帝国憲法発布から太平洋戦争までのわずか半世紀ほどです。

古神道は、人々を導くものがない原始宗教でした。

なのに朝廷が神道を残した理由は、古神道は皇統を証明するのに都合がよかったからです。

皇統がどのようにして日本各地を守ったかということが伝わっていたため、これを神道における祭神としてまつったのです。

そして全国各地に社と祭神をまつることでその住民たちが地域、国家という縄張りを意識する。
これを日本の防衛の論拠としたわけです。

また、国家を統べる宗教が仏教しかない場合、日本が日本であるオリジナリティがなくなってしまいます。

朝廷は、大陸の属国ではなく、大陸と対等に渡り合うひとつの国家を建設するつもりでしたから、日本オリジナルの宗教があるのが望ましかった。

そこで神道を日本の国教として、仏教の教義と教祖で信仰を補強したのです。

かくして朝廷は神道を殺さずに利用しました。

仏教で国内を統治していた中国が革命によって政権転覆を繰り返していたことを考えると、もし日本が仏教の一本柱で国家統治をしていたとしたら、日本も王朝がどんどん革命によって入れ替わっていたのではないかという気がします。

しかし当時は仏教が隆盛を極め、国民から神道の信仰が衰退します。

そこで神道がなんとか生き残りを図ったのが神仏習合です。

そんなわけで、神道の神々は仏門にくだったという物語になっていくわけです。

#与太話
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『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメをみました。

みておもったのは、涼宮ハルヒは地荒神みたいな存在だなと。



涼宮ハルヒは高校一年生。

カワリモノの女の子ですが、じつはじぶんが自覚しないまま、おもいどおりに世界を変えてしまえる能力をもっています。

彼女はそう望めば世界を滅ぼすこともできてしまうため、仲間たち(も、なんらかの能力を持っている)は、彼女が能力を発現しないように守っており、彼女の無茶な要求にもできるだけ応えてやり過ごしている、という物語です。

主人公は同級生の男子で、かれだけが能力を持たないふつうの高校生です。

涼宮ハルヒの突拍子もない言動に呆れながらも、はねつけるようなことはせずに付き合っています。



日本には地荒神信仰があります。

かまどの神様として家を守ってくれる三宝荒神は有名ですが、地荒神は土地、つまり外を守ってくれる神様です。

土地を守ってくれるんだけど、突然祟りを起こしたりする荒ぶる神、と信じられています。

この荒ぶる神の代表格は、祇園社(いまの八坂神社)における牛頭天王です。

牛頭天王は疫病をまきちらす神で、現代の感覚でいえばあまり歓迎すべき存在ではないようにもおもえるんですが、礼儀をもってあたれば疫病のたたりがない……つまり、疫病除けの神になるという解釈になるんですね。

京都でおこなわれる祇園祭は、牛頭天王を鎮めて、疫病蔓延の防止を祈念するお祭りということになります。



涼宮ハルヒはさながら荒ぶる神のようなんですが、主人公の男子高校生は彼女の言動に半ば呆れつつも、きちんと付き合っています。

いわば、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ということをやっているわけで、宗教のお祭り(ハルヒを鎮めるための付き合い)に対する、人間側の適切な態度ともおもえます。

#与太話
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司馬遼太郎の『雑談 昭和への道』の最終回を見ました。

明治期の日本の知識人は国際社会の中で相対的に自国を考えることができたのに、軍部が台頭していくにしたがって、日本を絶対的なものと考えるようになる。

昭和になって、他国との関係性の中の日本という相対的な見方ができなくなって、太平洋戦争に向かい、そして敗戦に至った。

そういう話でした。



司馬さんはこれだけ深く調べて、実際に取材もし、洞察していたにもかかわらず、初回ではあの時代のことがわからないとおっしゃいました。

昭和に入ってから敗戦に至るまでの20年は、まるで魔法使いが杖をポンと叩いて、日本を魔法の森にしてしまったような時代だったというのです。

それで司馬さんはこの魔法を解くカギを……それも自前でそのカギをつくりたいとおもったそうですが、うまくいかないそうな。

ぼくはこのテレビ番組を見始めたとき、そりゃああの戦争の当事者が、フラットな目線であの時代を読み解くなんてできるわけがないとおもったものです。

そういうことはたしか以前にも書いたはずで……ああ、やっぱり書いていました



でも最終回まで見ておもったのが、じつは司馬さんにはもうほとんどあの時代のことがわかっていたのではないか、ということでした。

魔法を解くカギもほぼできあがっていて、そのうえで、魔法を解く役割はあとの世代に任せた、といってるんですよね。

ぼくが言ったようなことは司馬さんはもうとっくに承知で、わざと最初に、魔法の森のカギの開け方がわからない、とおっしゃっていたようにおもえます。

あの時代を軍人として真正面から体験した司馬さんは当事者として、太平洋戦争を客観的な「物語」にすることができなかった。

あの時代のことを書くとなると発狂してしまうとまで言う、それほどの当事者ですから、魔法の森の魔法を解くカギをつくっても、司馬さんはそれで錠前を開けるところまでいけないわけです。

なので、司馬さんはこの番組において、ご自身の客観視そのもの……つまり司馬さんがつくったカギを、われわれに投げかけたということなのだろうな、と。

#与太話
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このところ、クマの被害が取り沙汰されて、動物愛護団体がうるさいとか、それに対するカウンターがどうのということがニュースになってます。

https://news.yahoo.co.jp/articles/43acd6...

とりあえずそんな議論より、国内で食肉の流通を……そうですね、まず5年間ストップしてみましょう。

生産も輸入もしないわけです。

スーパーに行っても、豚肉も牛肉もない。

鶏卵を取ったあとの親鶏の肉、牛乳を搾った後の乳牛の肉くらいは置いてもいいかもしれません。

そしたら、自然と日本中の山からイノシシもシカもクマも姿を消しますから。

サルもいなくなるかもしれません。

どこにも肉がないとなれば、山から調達するしかないでしょう。

狩猟肉がネットなどでグラム1000円以上で売られるようになり、それらが飛ぶように売れる。
肉を取引したい人たちがわざわざ中山間部まで訪れて、お金を出して引き取るようになる。

いま、補助金をもらってただ殺すための狩猟をしている猟師が、食べるための狩猟をすることができて、しかもそれで生計まで成り立ちます。

そしたら人間と動物の棲み分けみたいな問題、すぐに解決します。



林業もおなじで、海外から木材の輸入を制限してしまえば、日本中の放置された針葉樹が伐採されて、次の苗木が植えられる。

花粉症なんてあっという間になくなります。



食肉、木材、そしてもちろん野菜やコメなどの農産物について、いかにいまの日本が、資本主義の名のもとにおかしなことをしているか。

たかがクマが暴れている、という話のようでも、じつはこれは日本の構造そのものにかかわる話であって、動物愛護団体の言い分や殺処分する側の言い分というような問題に矮小化してしまうのは、それこそ「獣を逐(お)う者は目に太山を見ず」(木を見て森を見ず)というような話なのだろうとおもいます。

#与太話
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あいかわらずじゃりン子チエをみてます。

チエちゃんはぼくより10歳年上で、現実世界なら55歳。

テツはチエちゃんが10歳のときに35歳ですから、いま生きていたら80歳です。

おじい、おばあは、さすがにもうアッチにいってはるやろな、というところ。



ぼくの時代は、過渡期です。

日本が豊かになっていく過渡期で、その汽水域のようなところにある。

極端に貧乏なものと、極端に豊かなものと、両方あって、それがだんだんと、画一的な豊かさにつながっていった。

画一的、というところがポイントです。



むかしは、豊かさとは特別なものでした。

ほかの人たちが手にできないだろうというものを得るために競い合うのが、豊かさを示す指標であり、ステータスでした。

ぼくらの時代はそういう「特別なステータス」を追いかける人たちをみてきた。

けれど、そういった特別なものがだんだん当たり前のものになっていき、安価なものになっていく。

ぼくの時代は、特別な豊かさが、当たり前の豊かさになっていく過渡期を経ているのです。

#与太話
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じゃりン子チエのアニメをダラダラみてます。

まあ、おもしろい。小学生のころからなんべん見たかわかりませんが、まだおもしろい。

西成の、1960~70年代に生業としてやっていたホルモン屋というのが、なんとなくわかるんですよ。



というのも、ぼくの祖父母の家は生野区にあって、あのあたりでもチエちゃんの家のように木造のガラス戸で、うちの祖父は板金屋をしていました。

となりの家は、なんの仕事をしていたかわかりませんが、入ったところに冷凍庫があって、綿菓子をつくる機械もあった。

チューペットが30円で、綿菓子が10円。子供相手にひどく細々した生業をしていました。

大阪の生野区でも、1980年代あたりはまだどこも家に鍵をかけていないので、身内がジャンジャン出入りして、それが逆に用心になっていたようです。



あと、大阪のあのへんの生業をしてる家って、だいたいおんなじような間取りです。

チエちゃんの家は極めつけで、店のほうが広くて、奥に4畳半ほどの生活スペースがあるだけ。

便所はどこやろか、とおもうんですが、もしかしたら店のどこかにトイレがあって、それが家庭用でもあるのかもしれません。

店の奥の引き戸をあけると、右手に「水屋」がある。

水屋というのは食器棚のこと。

たぶんチエちゃんの家は、家の台所と店の調理場が兼用になっているんですよ。

だいたいむかしの、家庭内工業的な間取りは、生活と商売のスペースがごっちゃになっていたものです。



そういうスペースになっているのを、ぼくは介護の研修をしているときに、実習でみています。

生野区の舎利寺の、もともとは喫茶店だったところで、ヘルパーさんはカウンターの中で食事をつくって、カウンターにある冷蔵庫で作り置きをするんですね。

喫茶店の奥に居間があって、そこで老婦が生活をしている。

大阪の都市部には、こういうライフスタイルの店がたくさんありました。

いまでもあるとおもいます。

#与太話
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ことしの大河ドラマの「どうする家康」。

ぼくはあんまりこのドラマが好きではないんですが、とりあえず見続けています。

どこがきらいか挙げていくと、片手で足りないくらいではあるんですが、いちばんイヤだったのは、厭離穢土欣求浄土の旗印の意味を改変していたことです。

これは本来「穢れたこの世を離れ、浄土を求めよ」という意味以上のものではありません。

旗印にこれを掲げるということは、戦いに赴くものに向かって、死を恐れるなというメッセージを込めています。

兵士が死を恐れてビビっていたら、戦争になりませんからね。

真田は六文銭を旗印にしましたが、これは三途の川の渡し賃と考えられていて、これもつまり、戦場で死んでも三途の川の渡し賃はここにある、だから死を恐れるなというわけです。

で、かのドラマでは厭離穢土欣求浄土は、そんな死を求めるようなメッセージではないという。

「この穢れた地をこそ、よりよい社会(浄土)に変えていこう」という意味なんだそうな。

んなわけあるかい。

そんなふうに歴史を都合よく解釈することを、歴史修正といいます。



ところで、家康はもちろん仏教徒ですが、どの宗派だったのか。

もしこれが日蓮宗であったなら、あるいは厭離穢土欣求浄土の意味合いが、ドラマがいうところのものであった、という主張も、無理筋ではありますが通らないこともありません。

日蓮はいまでいうところの現実主義者でした。

死後に救いを求めるよりも、いま生きているこの世を変えなければならないではないか、というのです。

みんなで南無妙法蓮華経を唱え、いま生きているこの世を変えようとすることが、すなわち救いではないか、と。

この考え方であれば、現世を浄土にしようではないか、という考えも成立します。



ところが家康はどうも浄土宗だったらしいのです。

曹洞宗か浄土宗でもめていたりするらしいんですが、少なくとも日蓮宗ではない。

浄土宗であれば、浄土には阿弥陀仏が統べるあの世という以外の意味はありません。

ちなみに厭離穢土という言葉は、万葉集にも出てきますが、これもやはり、この汚いこの世を離れて、清浄なあの世へ行きたいというものです。



しかしこのドラマは、なんで江戸時代が終わった現代になってなお、家康にゴマをするような歴史修正を行わねばならんのか。

こういう茶坊主的な脚本のありようが、どうにも腹に据えかねるわけです。

では、ぼくはなんでドラマをみてるのでしょう。

見なきゃいいだけなんですけど、見ないと批判もできないでしょう(笑)

ジレンマを抱えながら、視聴している次第なのです。

#与太話
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じぶんがさびしいとおもうとき、じぶんだけがさびしいのではないだろうともおもう。

ぼくが感じるさびしさは、あるときだれかと半分こにしたさびしさです。

このさびしさは、ねちゃねちゃとひっついて、どうしたって離れやしないのです。

ねちゃねちゃしたまま、すこし不便に暮らしていくほかありません。

あきらめて生活するうちに、ちょっとずつ粘度は落ちていくのかもしれませんが、元通りには戻らないでしょう。

うれしかったことや楽しかったことは、きちんとなにかに残しておかないと、さらさらと砂のようにこぼれていくのに、さびしさだけはねちゃねちゃとひっついてくるんですよね。

#与太話
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元大関の朝潮が亡くなったんですね。

大阪にいたころ……近鉄の弥刀駅から長瀬駅に行く途中に、コノミヤというスーパーがあって、このスーパーに朝潮の似顔絵の看板があったんですよ。

電車に乗ってると、朝潮の似顔絵と「コノミヤ 朝潮」とあるものだから記憶に残っていました。

ぼくが大人になってからも、朝潮の人柄は好きでした。

朝青龍の師匠でもあるわけですが、あの暴れん坊をあれだけ寛容に受け入れられた度量は相当なものだとおもいます。

コノミヤはいまもありますが、あの看板がいまもあるのかはわかりません。朝潮の奥さんの恵さんが、コノミヤの会長の娘なんだそうです。

#与太話
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AIが人間を追い越すことを、シンギュラリティというらしいんですが、これはアキレスと亀でしょう。

AIが人間に近づいて、知性の面では人間を追い越すとしても、人間にはなれない。



芥川龍之介の『侏儒の言葉』における『天才』という項目にはこうあります。

天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。 ただこの一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。

ようするに、凡人と天才の違いはたった一歩だが、この一歩がどうしても追い付けぬのだ、と。



AIと人間もおなじで、AIがいくら人間に肉薄しても、このあと一歩にたどりつくことができません。

それは、絶対にできない。



われわれがAIを畏れるのは、たとえば機関車と駆けっこして勝てなくなるということを畏れるのに似ています。

機関車は人間の走る速度をはるかに超えているけれど、それで人間を追い越したということにはなりません。



AIもおなじようなものです。

人工知能がいくら進化して人間の知性を凌駕しても、AIは人間に追い付くことも、追い越すこともできない。

あと一歩のところまで肉薄しても、その次の一歩。

「この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」のです。

#与太話
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ここ数日、左胸が痛みます。

ぼくは病気のデパートのような体をしていて、若いころ盲腸炎で手術した数年後に、腹膜炎を起こして大腸を1/3切り取りました。

盲腸炎をこじらせたのは高校生のころですが、そのとき入院していて、しばらく寝たきりになってました。

寝たきりになって数日後、足が痛いとおもったら、深部静脈血栓症になっていました。
左足の太い静脈が詰まってしまって、足が象のようにパンパンに腫れました。

この治療で血栓を溶かす薬を用いたんですが、この血栓は一度発症すると、血管の弁がダメになるらしくて、いまも慢性的に左足が腫れています。


どうもぼくは血が固まりやすい体質らしくて、10年ほど前には肺塞栓のような症状になりました。

静脈血栓が剥がれて血流に乗って肺に流れることで発症するようです。

あのときちょっと無理がたたって、また左足が強く腫れたんですよね。
その数日後に、胸が痛くなった。

徐々に肩が凝ったように腕にも痛みが広がって、咳が出るようになりました。

突然死を覚悟して、病院に行こうかとおもっていたときに、血栓を溶かすのに納豆がよいという情報を得ました。

べつに怪しい宣伝をするわけじゃないですよ。

ただ、半信半疑で納豆を食べた、というだけの話です。

ナットウキナーゼという酵素には、血液を固めるフィブリンというたんぱく質を溶かす作用があるとのこと。

できてしまった血栓まで溶かしてくれるというので、まあ病院に行く前に一度試してみようじゃないかと人体実験してみたら、その日のうちになんとなく症状が緩和されたような気がしました。

で、一週間ほどで症状が軽快。

ホンマかいな、とおもいましたが、どうやらナットウキナーゼの血栓を溶かす効果はホンマっぽいです。



それ以来、定期的に納豆は食べていたのですが、最近ちょっとご無沙汰で、そんな折にまた胸の痛み。

おそらく以前とおなじ箇所がまた詰まったんじゃないかとおもいます。
微妙に咳が出て、痰がからむのもそれっぽい。

以前よりは症状は軽いんですが、そういえば一週間ほど前までは、なんだか頭が痛かったんですよね(笑)

老眼鏡を変えてからどうも眼精疲労があったので、そのせいだとおもってたんですが、もしかしたらなにかあったのか、そのへんはよくわかりません。

とりあえず、また納豆で痛みがどうなるか人体実験。

ほっといたら死ぬ系の問題に慣れてしまうと、こういうふざけたことをするようになります。

まあ、ダメならダメで、しょうがない。



ぼくはたぶん、まともな医療がない時代だったら神様に愛されて、14歳くらいで盲腸炎から腹膜炎を起こしてあの世に行ってたとおもいます。

しかし、医療や情報の発達した時代に生まれたおかげでどうにかしぶとく生きてます。

夭折(早死に)する者は神様に愛されてる、といいますが、神様はぼくをなかなか連れて行ってくれません。

ぼくは信仰心が続かない、疑り深いタイプなので、そのへんがバレているのかもしれません(笑)

膵臓も弱いし、胆石もあるし、内臓系の疾患をたくさん抱えて、ことし45歳になりました。

相対的な年齢としてはまだ若いといわれるのかもしれませんが、ぼく自身の感覚としては、もうよく長生きしたとおもっています。



まあ、そんな面倒ごとの多い肉体ですから、じぶんの体調と相談しながらマイペースに働ける、ひとり親方の百姓は天職です。

#与太話
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あ、そうか、と。

きょうはたくさん気づきのある一日です。



ぼくはいま、20年以上前のソニーのオーディオシステム(といったって当時定価4万円のものです)で、当時道楽で100枚ほど買いためたCDから、好きなモノを選んで聴いています。

これが、もうパソコンで音楽を聴くのとは、次元がちがう。

ぼくは青年時に、いまよりよい耳で、このすばらしい音質で音を聴いていたのだ、と。

もう近くで飛んでいる蚊の羽音さえ聴き取れなくなったこのおんぼろの耳が、感動してる。

若い世代は、いまオーディオシステムなんて持ってないだろうし、CDやレコードで音楽を聴くこともないでしょう。

この体験をしていないんだ。

この体験がふつうのものだ、という時代を経験せずに、まったくべつの感動の中に生きているのだ。

そうか、と。



だからなんだということはありません。

いまの若者と比べて、じぶんが優位だともおもいません。

ただ、ぼくはじぶんの世代だけで共有する箱の中にいて、これからのぼくは、箱の中で生きるのだとおもう。

ぼくの言うことが理解できない世代の人々は、ぼくには理解できないじぶんの世代の箱の中で生きることでしょう。

現代は、その世代の断層がタイトになったというだけの話です。

#与太話
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一瞬、スレッズにアカウントを持とうかとおもったんですが、やめました。

なんだかやっぱりSNSがいま向かっている方向性に、ぼくの居場所はないな、という気がしたからです。



https://forbesjapan.com/articles/detail/...

この記事は8月に書かれたもので、Xの代替として鳴り物入りであらわれたスレッズは、早くもオワコンである、というのです。

その理由は以下のとおり。

このアプリならではと思えるものが何もない。イノベーティブなものは、何であれ、新しくて便利でなければならないが、スレッズはそうではない。



うーん……。

おそらく短文系SNSを利用したい人の多くは、べつにイノベーティブなことは求めていなくて、そこが居場所になりうるかどうか、くらいしか考えていないとおもうんですよ。

だから、イーロンマスクのような守銭奴にツイッターが乗っ取られたということに関しても、ユーザーからすればそこで居場所が得られているのなら、べつにどうだっていいわけです。

イーロンマスクのやり方に不満をおぼえたユーザーも、じゃあスレッズにアカウントをもって、いくつかの発言をして、そこに居場所が得られなかったら、またXに戻るか、あらたなSNSを探して遊牧民のようにあちこちを転々とするのでしょう。



でも、そのように居場所を求めるユーザーと、SNSの運営側の意図はちがうわけです。

SNS運営者側は、ユーザーに居場所を与えるだけの慈善事業をする気は毛頭なくて、利益を追求するユーザーと手を組みたいとおもっています。

インフルエンサーを利用して広告収入でガンガンに回したい。

そしてインフルエンサーたちの「胴元」として手数料で稼ぎたい。

居場所がほしいだけのユーザーは、せめてインフルエンサーや運営側の広告のエサになってくれればいいのだけど、このユーザー層は広告も見ないし、インフルエンサーも避けるしで、ほとんどサービスのタダ乗り状態。

だからイーロンマスクは、せめて年100円くらいでも払え、といいだしたのでしょう。



言いたいことがうまくまとまりませんが、もうネットと資本主義は切っても切り離せない関係になっていて、ただ小さなコミュニティを形成するために発信者になる、というようなユーザーはどんどん居場所を失っていくのではないかという気がします。

#与太話
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昭和天皇は戦後日本の民主主義、自由主義について、このように述べます。

個人の自由のないことは言語道断だけれども、ものが着々進むのは事実上、統制の強い力で引っ張らねば上がらぬ。
自由 民主という方向でゆくと、なかなかものは進まぬ。
これはむつかしい。

スターリンでもヒトラーでもムッソリーニでも、全体主義で引っ張るのが仕事は進む。

英米のような思想系統のものは、自由でしかも仕事がいくかもしれぬが、国によってはそれではなかなか国運を急に引っ張るはむつかしい。

これはむつかしい問題だね。



つまり、個人主義や自由主義、民主主義では、全体主義のように国を統制することができず、ものごとを素早く進めることができない。

戦後の日本はこの点で問題を抱えることになるのではないか、というのです。



これはスターリンやヒトラー、ムッソリーニのような全体主義が優れているというよりは、国家を迅速にコントロールするには、全体主義よりほかに手段があるのだろうか、という疑問といえるでしょう。

しかしいま現在、アメリカもヨーロッパも日本も、民主主義国家、西側陣営はうまくやっています。

なぜうまくやれたかというと、新自由主義における「ショック・ドクトリン」が功を奏したからです。

新自由主義が日本で利用され始めたのは中曽根康弘のころからといわれますから、当時の昭和天皇はショック・ドクトリンを知りません。

ショック・ドクトリンとは、自然災害や戦争や未知のウイルスなど、人類が大きなショックを受ける出来事を利用して、それまでにはできないような過激な市場改革をおこなうという、本来は経済システムでの変革手段です。



しかしこの手法は、実際には政治的にも利用されていました。

民主主義、自由主義、個人主義のように、国家が国運を直接引っ張ることができないシステムの中で、国民をどう統制していくのか。

この答えが「国民にショックを与えて、政府のおもう方向に誘導する」という方法です。



たとえばアメリカでは、2001年9月11日にワールドトレードセンターがテロ行為で破壊されました。

アメリカ国内はパニック状態になり、大きなショックを受けます。

そして「じぶんの国の中にテロリストがいる。もしかしたら隣人がそうかもしれない」という疑心暗鬼にかられるようになります。あるいはそういう空気を、国家が煽った側面もあるでしょう。

そして国民の多くが、じぶんはテロリストではない、まっとうなアメリカ国民であると証明するために、セキュリティカード(日本でいうマイナンバー)を取得しました。

WTCが破壊されるというショックがなければ、まるで国民を統制したかのようにセキュリティカードを取得させることはできなかったはずです。

ショックを与えて、国家のおもう方向に誘導するという手法こそ、全体主義以外で国運を引っ張る方法はあるのか、という昭和天皇の疑問に対する答えでした。



しかしこれは言い換えれば、大昔の社会主義や共産主義のような、牧歌的な理想、反資本主義のような思想では、国家は運営できない(全体主義にも自由主義にも勝てない)という証明でもあります。

実際、現在の中国やロシアなどの東側勢力は、いわゆる社会主義や共産主義を理想的なカタチで実現することができず、「左翼全体主義」とでもいうべき統制社会になっているわけですから。

#与太話
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そっか。

ふと気づく。

お釈迦さん(仏陀)は、人生の本質は苦しみだといいました。

たのしいことは虚構であって、本質は苦しみなのだ、と。

人間の基礎の部分は苦しみなんだ、と。



ぼくはそれは納得したんですが、楽しいことが虚構だとはやはりおもえない。
ずっとそこで悩んでいました。

で、先日40年近く前の再放送番組で、司馬遼太郎さんが、西洋にはアンビバレントという便利な言葉があるといいました。

ぼくはふと、そういうことなのかとおもった次第。



東洋にはアンビバレントに相当する言葉がなかったから、スイッチをオンオフにするように、0か1かどちらかしかないんだ、という議論しかできなかった。

だから、たとえば般若心経は、みんなこの世があるとおもっているが、それは虚構で、実際は無なんだと説きました。

アンビバレントという概念がなかった時代だから、1(有)だとおもっているスイッチは、じつは0(無)なんだ、ということしか般若心経の時代には言えなかったわけです。

でも、無というのは実際には、無量大数を超えたあらゆる有を含んでいて、まったくなにもない無と、あらゆるすべてを含む有がつながっている。

般若心経が伝える無という概念は、じつにアンビバレントです。



お釈迦さんのいう四苦八苦も、じつはアンビバレントな概念で、ほんとうは、生きることの本質が苦しみであるということを突き詰めた先は、本質的な喜びに満ちているのではないか。

金銭的な喜びとか、権力の喜びといった、人間社会で形成された虚構の喜びではなくて、われわれの心から泉のように湧き出てくる、いわばユーモアの喜び、赤ん坊の笑顔のような、天真爛漫なユーモアです。

この喜びと苦しみが、心の中に共存している、アンビバレントな状態が、人間のほんとうの状態ではないか。

人間を生きているだけで生じる無限の喜びと無限の苦しみは、一本のヒモの両端にあって、それを輪っかにつないだようなものではないのか。



……。


ちょっと後で読み返して、じぶんの考えに齟齬がないか確認しますが、たぶん、大丈夫なんじゃないかな。

#与太話
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池袋ウエストゲートパークのアニメ、おもしろかった。

原作に忠実なのだろうとおもうんですが、文句のつけどころがない。
ドラマ版の肉付けを削ぎ落したような仕上がりで、社会派的でもあり、かといってユーモアもある。

終盤の抗争部分はドラマ版とよく似ています。



ちなみに、あくまで個人的な独断と偏見でですが、Amazonプライムをみるようになってから何年間かアニメに親しんできて、1番おもしろかったのは『平家物語』でした。

2番目が『異世界おじさん』。

3番目がこの池袋ウエストゲートパークとなりました。

なんだ3番目かとおもうかもしれませんが、いろいろ見てきての3番目ですから、かなりの高評価です。

最終話に、宮藤官九郎さんのドラマに出てきた窪塚洋介さんが、ひと言だけ声優として参加していてビックリ。

#与太話
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https://news.yahoo.co.jp/articles/578c19...

こんなニュースをみましてね。

ようするに、いまYouTubeのアドブロックを解除するように警告する流れがあります。

これはそのうち、広告(グーグルアドセンス)をみてくれないと、グーグルアカウントの利用の制限もありうる、といううわさが広まっているという話。

ネットフリックスも、最安のプランには広告がつくのだそうで。

この流れからいけばプライムビデオだって、そのうち広告がつくようになるでしょう。

いよいよ広告がうるさくなってきて、ぼくはぼちぼち、ネットと距離をおくことを真剣に考えなきゃいけない時期にきたのかなとおもっています。



星新一のショートショートに、このような現代を予感させる作品があります。

『妄想銀行』に収録されている『住宅問題』です。

初版発行はなんと1967年。

エヌ氏はある住宅に無料で住んでいるんですが、その家では、ありとあらゆる場所で広告が流れるようになっていて、家賃は広告のスポンサーによってまかなわれています。

うるさい広告に悩まされずにすむ、有料の住宅に住むことがエヌ氏の夢だ、という話。



現代のネット社会を予言する話ですが、ぼくがこの作品を読んだ1990年代には、おもしろくはあってもピンとこない作品でした。

というのも、家賃全体が広告でまかなわれるという極端な事例が、じぶんの身に起こりうる話だとおもえなかったからです。

あるいは、当時だったら、住宅に無料で住めるのなら広告をみるくらいかまわないじゃないか、とさえおもっていたところがあります。

テレビのCMを、お金を払えばカットしてくれる、というような時代でもありませんでしたしね。

星さんの感覚だと、そのような未来が見えているのだろうか、とおもっていましたが、ネット社会になってから、この予言は的中しているのではないかという気がしました。

いまとなっては、この半世紀以上前に書かれた作品は、じぶんの身にまさに起こっていることです。

#与太話
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きのうはそこまで深酒をしたわけではないのに、えらく酔いが回りました。
薬物っぽい言い方をすると、「キマッた」というやつです。

二日酔いにはなりませんでしたが、あの酔いの回り方は異常です。

原因を考えてみると、きのうは夕方にかなり熱いお湯のお風呂に入って、しかもスマホでゲームしてたから、のぼせたんですよね。
そこから晩酌を始めたのが原因かな、と。

血がいつも以上に巡っているところにアルコールを飲んで、アルコールも一緒に全身を駆け巡ったのだ……というと、なんだかひどく短絡的な考えのようですが、たぶんそういうことだろうとおもいます。

#与太話

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