山麓王国

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ことし栽培するタネです。
毎年タネは楽天スーパーセールの間に買いだめします。

オクラはことしは複数の種類を育てるつもりです。

白オクラのヘルシエははじめてチャレンジします。
いわゆる機能性成分を多く含むおいしい品種ということなんですが、一般的に多肥を好むオクラの中で、こちらは肥料を抑え気味につくったほうがよいという、栽培方法のクセがあるようなので、そのあたりを見極めようとおもいます。

去年は大奥だけを育てました。

一般品種なら硬くなってしまう大きさでもやわらかく食べられるという品種で、初期からバテることなく、旺盛かつコンスタントに収穫できる強みがありましたが、終盤息切れする傾向を感じました。

10月ごろから収量が減り、11月にはもう仕舞い支度といった感じです。

そこでこれまで長く作ってきたピークファイブも一緒に育てることにしました。

この品種は栽培期間中の収量に波があるのですが、11月中旬くらいまで育ちます。

たぶん、この混合栽培が直売所にはよいのではないか、という実験です。



葉物は、この写真以外にもカブと春菊とベカナがありますが、ことしの春は新作をふたつ投入します。

沖縄で栽培されているカラシナの一品種である「シマナ」。

あと、台湾小白菜を育てます。これはクセになるほのかな苦みがあるということなんですが、見た目がベカナそっくりなのが気になるところです。



ズッキーニはブラックボー。これは草勢が強く、収量も多く、病気に強く、緑色が深いため市場性が高い、個人的に春作のズッキーニはこの品種がいちばんよいとおもっています。

秋作のズッキーニにはKZ-2という品種です。

カブでお世話になっている種苗会社ヴィルモランみかどのズッキーニで、つるありインゲンのビックリジャンボもそうなんですが、生産者側のかゆいところに手が届くつくりやすさと、食味が両立したよい種苗会社です。



シャオパオはミニチンゲンサイなんですが、小さいものをたくさん詰めて売ると、直売所ではよく売れるんですよね。

それに大きくなって、花芽がつきかかったものでも商品になるのが強みです。

市場のチンゲンサイとは見た目がちがっていて、密植に耐えて、作り手としてもメリットがあるので、うちはチンゲンサイはこの品種で決まりです。



赤ちりめんしそは、うちの利用しにくい農地にまいて雑草同然に育てます。

うまく収穫出来たら塩漬けにして、柴漬けや梅干しのシソとして利用したいとおもっています。

シソは日当たりのわるいところでもよく育つし、鹿の被害も比較的少ないようです。

そこで、山際の竹林そばの日当たりのわるい、水はけのわるいところにまいて、あとはこぼれ種から毎年自生させて収穫する魂胆でいます。

なにせシソは、一度育ててこぼれ種が落ちると、翌年からはなにもしなくてもほかの雑草を鎮圧して、優先的に育ってくれるので重宝します。



キュウリのなるなるZUTTOは、なるなるシリーズの最新作のようですが、うちは夏場の水やりがカンタンではなく、販売用はそこそこに、おそらく自家用としてキムチや漬物に回る予定です。

いちばん右に見切れてるのは「くりまさる南瓜」といって、去年ご近所さんに苗を差し上げたら、ものすごく甘くておいしいカボチャがとれたと喜んでもらいました。

ちなみにうちは去年の酷暑で全滅したんですけどね(笑)

#野菜
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https://fujinkoron.jp/articles/-/11064

今回の大河の脚本を書かれた、大石静さんの記事なんですが、興味深かったです。

伴侶との離別について語っておられるんですが、大河ドラマの苦労話などとは切り離して、たんたんと語るべきテーマに沿った話をしているあたりが、ちょっとすさまじいくらいで。
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今回の腰痛に関しては、風呂の薪を焚き口に入れるときに、不自然な体制でしゃがむことで起こってるような気がします。

あとこれはメモだけど、ぼくはどうやらシイタケにアレルギーがあるっぽい。

原木栽培してるのに、シイタケにアレルギーがあるなんて悲しい限りですが、シイタケを食べると強い肌荒れが出て、シイタケを食べずにいるとおさまってくる。

あと酸素系の漂白剤のアレルギーなのはほぼまちがいありません。

風呂でアレルギーが出るのはどうしてなのかわからなかったんですが、去年長靴を洗ったときに漂白剤をつかったら、それ以来足にアレルギーが出て、ふとおもい当たりました。

過炭酸ナトリウムで風呂釜を掃除してたんですが、それが原因のアレルギーだったのか、と。

ことしは風呂釜をホースと水で毎回こまめに掃除するようにしたんですが、そうするとアレルギーもなくなりました。

そう考えると、ぼくの場合、意外と身近なわりに、あんまりポピュラーではないものでアレルギーが出てる気がします。
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すこし距離をあければ、人間関係はだいたい良好なようにおもえます。

ほんのすこしの距離を保つことを、相手とうまく共有できるかどうかだとおもうんですよ。

離れていてすこしさびしい、頼れなくてすこしガマンしなきゃならないというくらいで、人間関係はちょうどいいのではないか。

スープの冷めない距離、というけど、出来立てアツアツの距離じゃなくて、冷めないくらいの距離だからいいのかもな、と。



かといって、スープが冷める、へたすりゃ腐る距離というのもあるわけで、あんまり遠くなると、実体をともなう関係性はないも同然です。

むつかしいなぁ。むつかしぃ。
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書こうとおもって忘れてました。

去年末、タモリが徹子の部屋に出演していて、これはまあ毎年年末には出演なさってるんですが、そこでタモリが、最近の若い子が「ヨーデル話法」になってるというんです。

営業がうちにくるとき、盛り上げたい話になると声が裏返るというんですが、番組をみているときは、あんまり実感がありませんでした。

ところがその後レコード大賞や紅白歌合戦をみていると、若いミュージシャンがみんな裏声を取り混ぜたヨーデルのような歌い方をしてるんですよ。

紅白のトリの福山雅治までヨーデルみたいな歌い方をしているので、さすがに親は「これはむかしの曲やろ」といって、ぼくが調べたら2023年の曲。

親も唖然としていました。

これは、タモリの慧眼なのかなんなのか、世の中がヨーデルになってるじゃないかと、不思議な気分になったものです。

ぼくがみたのはミュージシャンだけでしたが、世の中が裏声ブームになってるなんて。

おそらくうちのような田舎にはやってこようはずもない流行でしょうが、都市部ではそんな変化があるのかもなあ、と他人事のようにおもっている間に、もう小正月です。

#与太話
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遠藤周作『深い河』を聞く。

最後まで聞いて、なんだこの終わり方は、と戸惑いました。



あ、小説を読んでいない場合はここまでにしてください(笑)

ここからはネタバレを含む解説になります。



この小説、主人公たちが最終的にどうじぶんの心に決着をつけたか、というカタルシスがなくて、美津子が大津の危篤を知らされるシーンでぶつりと完結してしまうのです。

「あなたの友人ですか、怪我をした日本人は……」
と彼は唾をのみこんで言った。
「危篤だそうです。一時間ほど前から状態が急変しました」


これで終わり。

おい、大津はどうなって、美津子はどうなったんだ、と言いたくなります。

しかしこの小説、突然終わってしまう不思議な小説ですね、という感想ですむ話でないことはたしかです。

この中途半端なところで終わらねばならない理由がある。

そこを考えてみようとおもいます。



この小説がどういう物語かというアウトラインは読んでもらわねば仕方ないんですが、深い河というのは単にガンジス川という意味ではないでしょう。

ふたつの岸を隔てる大きな川、というニュアンスが含められているとおもいます。

ひとつには、もちろん生者の世界と死者の世界を隔てる深い河。

宗教と無宗教(無神論)を隔てる深い河。

そして多神教(汎神論)と一神論を隔てる深い河。

宗教と宗教や、おなじ宗教どうしや、宗教と政治が対立する深い河。

さらに日本でいえば、太平洋戦争を経た世代と、その後の資本主義社会を生きる世代の価値観、考え方のちがいを隔てる深い河。

こういった対立的な要素がそこかしこにちりばめられていて、読み手はややもするとこの対立構造にいらだつようになっています。

わざといらだつように、遠藤さんが誘導しているのでしょう。

しかしこの対立のいら立ちは、インディラ・ガンディー首相が暗殺されたことによるインド国民の暴動でピークを迎え、そこに巻き込まれる大津の自己犠牲によって雲散霧消してしまいます。

そして、どうなるのか、ということが、読み手に放り投げられました。




信仰をもたない無神論者の美津子は、汎神論者である大津を蹂躙し、信仰から引きずり下ろそうとします。

が、最終的には大津のたゆまぬ信仰心に打たれるようになっていきます。

そしてあの最後の唐突な、大津の危篤を知らされる場面。

どうしてあの終わり方なのか、ということを考えると、ぼくはこう考えます。



遠藤周作の最晩年に書かれたこの作品は、信仰を持つ人に向けて書いたのではなく、美津子のように信仰を持たないあたらしい世代に向けて書いたはずです。

もし日本がひとつの信仰を頑なに守るような国柄だったなら、この作品は生まれなかったか、まったくべつの問題提起になっていたことでしょう。

個人主義社会の中でだれもがじぶんのことしか考えないようになり、どこかで人間や社会を冷笑していて、資本主義というあたらしいムーブメントに首ったけになっている、そんなわれわれの世代は、物質社会の恩恵をろくに受けず(受けられず)、それでも信仰に生きる大津の、無私で普遍的な自己犠牲をどうとらえるか。

しかしそこに遠藤さんがヒントを与えないものだから、読み手は戸惑うんですよね。

美津子が大津の危篤に際して、どう行動したかということも、描かなかった。

そこを描いてしまうと、作品が野暮ったく、説教臭いものになってしまう、ということをわかっていて、筆をおいたのでしょう。



ぼくなどは、美津子は大津に帰依するほかないとおもいます。

どう考えたって、大津(あるいは大津の死)にひざまずき、生涯をかけて大津という人間に向き合う以外に道はありません。

けれどぼくがもっと若い時期であれば、大津の自己犠牲は尊いけれど、べつに美津子が生き方を変える必要はないし、大津が犠牲を払ったのだから信仰を持てというストーリーだと、押しつけがましくてイヤだな、とおもっていたはずです。

たぶん遠藤さんはそのへんを見抜いていて、いろんな層の読者に時限爆弾をしかけるように、結末を描かなかった。

この結末の続きをどう考えるかは、おそらく世代間でかなりちがう、ということなんだとおもいます。

畳む


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キムチ、1日経って味がなじんで、だいたい方向性がわかったようにおもえます。

とりあえず現時点でのヤンニョムのレシピ。



白菜1kg目安

(キムチのり)
水     150ml(レシピを改変する場合、その材料の水分量に合わせて水の量を加減する)
もち粉   10g

(香辛料・香味野菜)
にんにく  50g
生姜    5g
干しエビ  ひとつかみ
大根千切り 150g
ニラざく切り 50g

(調味料)
ナンプラー 100ml
ダシダ   2g
味の素   2g
キムチ用の
粉唐辛子  80g
砂糖    20g





これがコストを抑える形での基本形になるとおもいます。

調味料は業務スーパーでそろいます。

ぜんぶそろえると最初に2000円くらいかかります。

つくり続けていく場合、唐辛子や香味野菜などは買い足しが必要ですが、調味料なんかはそうそうなくならないし日持ちするので、納得のいく味のヤンニョムができて継続的につくることができれば、よそでキムチを買うよりお得です。

ただし後述しますが、このレシピを基本形として、そこからぜいたくしようとおもえばどんどんコストが上がります(笑)


【ヤンニョムのつくり方】

1.大根を5cmほどの千切り。ニラも5cmほどにざく切りに
  ニンニクとショウガと干しエビは細かく刻むか、フードプロセッサーで砕く
2.1の材料を、調味料と混ぜておく
3.水ともち粉を鍋でしっかり混ぜ合わせて、とろ火にかけて、のり状にしたら火を止める
4.鍋に2の香辛料・香味野菜・調味料をぜんぶ投入して、しっかり混ぜる


これでヤンニョムはできあがり。

ナンプラーは香りが強いのですこし煮詰めてもいいかもしれないとおもいましたが、生のままでも半日ほどすると独特な香りがやわらいで、気にならなくなりました。

次は、白菜とダイコンの下ごしらえの要領です。


【白菜キムチの場合】
白菜を一口サイズに刻んで塩漬けにして、しっかり水分を出します。
水分が出たら、水を取り替えながら塩抜きをします。
塩抜きができたらしっかりと水気を絞って、ヤンニョムと合わせる。


【カクテキの場合】
ダイコンを気持ち大きめの角切りにして、白菜とおなじように塩漬けにしてから、塩抜き。
水気をしっかり出して、ヤンニョムと合わせる。
カクテキの場合はヤンニョムにたっぷり砂糖を足して、甘く仕上げるのもおいしい。


こんなところでしょうか。あとは漬物樽やタッパーに入れて保存しておけばいつでも食べられます。



ヤンニョムに関して、ぼくは今回、砂糖の部分をぼくはリンゴの缶詰で代用しました。

生のリンゴがいいんですが、シロップ漬けになっているリンゴだと砂糖の代わりにもなるし、コストも安いし一石二鳥でした。



今回はじめてつくってみて、感じた注意点や改善点をいくつか。

まず、白菜やダイコンなどの漬け材料の水分を出す作業は、時短をせずにしっかりやったほうがいいですね。

ヤンニョムが薄まらないほうがいいので、しっかり塩漬けにして水分を出し、水を何度も入れ替えてしっかり塩抜きをして、しっかり絞って水分を抜くのがいいとおもいます。

あんまり揉みこむようにすると腐敗するというんですが、どうなんだろう。

冬場で、ちゃんとビニール手袋して作業していれば、大丈夫な気がするんですけどね。



それから、ヤンニョムに関して。

うま味調味料でダシダと味の素をつかってるんですが、味の素の部分を貝出汁の素や野菜出汁の素などで複合的にして、さらに切昆布をほんの少量加えるというのはどうだろうとおもっています。

ただ、昆布のうまみは独特なので、ほんの隠し味くらいにしないと嫌味になるような気もします。

個人的にかつおだしの味は、なんだか嫌味を感じるので却下。
かつおの旨味を足すと、メーカーのキムチの素とおなじような和風の味になります。

おなじ理由で、煮干しをレシピにしているところもありますが、つかっていません。

干しエビがいい仕事をしてくれているので、ここから先のうまみの足し算は慎重にしたほうがいいようにおもえました。

あと、味の素は、たしかにすばらしいうま味調味料なんですが、どんな味のものでもムリヤリど真ん中に寄せてしまうくらいのチカラをもっているので、あえてつかわないか、レシピよりも少量にしてもいいかもしれません。

あえてぜいたくなことをいうなら、刻んだスルメとか干し貝柱とか、干しタラを入れるとおいしくなるだろうなあ。

まあ、あんまり工夫すると材料費が青天井なので、折り合いをつけることが大事かな、と。
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アミの塩辛はなかなか手に入らないので、ナンプラーと干しエビで代用して、キムチをつくりました。

ナンプラーのフタをあけて衝撃だったのが、むかし飼ってた犬のエサの匂いとそっくりだったことです。

おもわずラベルを見返して、まさかナンプラーではなくペディ〇リーと書いてないだろうなと確認したほどです。

しかしまあ、まずはレシピ通りにヤンニョムをつくり、そして白菜を漬ける。

うーん、まだやっぱりペディグ〇ーがおる。

ヤンニョム自体は、かなり本格的にできたんですよ。

白菜1kgぶんとして、納得のいく出来でした。

しかしなにせナンプラーの匂いが……。

こりゃあ失敗だな、じぶんひとりで黙って片付けよう、と覚悟を決めました。



で、作り上げてから5時間ほど経って、漬物樽のフタを開けてみたら、不思議と匂いが消えていて、いわゆるキムチの匂いになってました。

犬のエサの匂いがなくなってる。

こういう変化が起きるのか、と不思議な気分でした。

しかも、だいぶうまい。




このヤンニョムがじぶんでできるとなると、もうこれからうちのカブも白菜も大根も、なんならオクラでもズッキーニでも、年がら年中キムチにできそうです。

あと数日寝かせて、反省点も踏まえて仮レシピを書き残します。

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実家からもらった大阪王将の冷凍チャーハンがとてもおいしかった、というなんでもない日常の幸福を報告して、きょうは自家製のキムチづくりに挑みます。

というのも、ことしコリアンタウンで4か所から白菜キムチを買って、家族で食べ比べをしたんですよ。

そうすると、4店舗それぞれ、まったく味がちがう。

不評なものもあれば、好評なものもあり、こうも味がちがうものかと感心したものです。

ちなみに、6人ほどで食べ比べたんですが、味の評価はだいたい似たようなものでしたから、おいしいとおもうキムチはみんなおいしいとおもうようです。

おそらく、白菜のコンディションや水分量、ヤンニョムも材料のコンディションがあるでしょうから、店の味が常に均一というわけにはいかないとおもうんですが、これだけ多様な味になっているのなら、ぼくも工夫次第でおいしいキムチを作ることができるんじゃないか、と欲をかいたというわけです。

おいしいレシピができたらここに書いてみようとおもいます。

#与太話
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帰省時に、いつも参拝するのは御幸森天神宮というところで、鶴橋にあるコリアンタウンの西端にあります。

そこから歩いて5分もしないところに「彌榮神社」という名前の神社があります。

読み方は「やえいじんじゃ」。あるいは「やえじんじゃ」です。

なぜか御幸森さんにお参りした後に、ついでのように参拝してたんですよね。

が、最近知ったんですが、これはどうも「やさかじんじゃ」でもあるそうな。

つまり「彌榮」を「やさか」と読むようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%...

祭神は八坂神社とおなじ、スサノオノミコトと妻のクシナダヒメ。そして仁徳天皇もまつられています。(ちなみに御幸森天神宮の祭神も仁徳天皇です)

彌榮神社はむかしは牛頭天王社と言われていたそうですから、もう祇園社(八坂神社)の流れで間違いありません。


さて、大阪の実家から100kmも離れたうちの田舎の氏神は八坂神社で、これは歩いて10分くらいのところにあります。

やはり祭神はスサノオノミコトであり牛頭天王です。

そしてぼくが毎年お参りする市内の若宮神社は、厄除けの神社ということをきっかけにお参りしたのですが、あとあと調べてみると、なんと祭神が仁徳天皇でした。

これはいったいどうしたことかとおもいます。

しかもぼくは伊勢に住んでいたことがありますが、うちの市内には元伊勢神宮神社があり、アマテラスオオミカミもこの地の祭神ということになります。

ぼくがこのあたりで参拝する神社は、八坂神社と元伊勢さんと若宮神社だけなのですが、それぞれ祭神が共通していることは、最初にお参りしたときには意識していませんでした。



先に言っておきますが、ぼくは陰謀論が嫌いなんです。

移住した先の神様がこれまでの人生にかかわっていた神様ばかりだったなんて、こんなのは偶然だ、と言いたい。

言いたいのだけど、後から取ってつけたような話ではなくて、ぼくが知らない間にそういう整合性がそろっていたのだから、お手上げです。

しかしこの点について、だからこういうことなんだ、という具体的な話はありません。

じぶんでもわけのわからない間にずいぶん神仏の接点の似通った場所を移住先にして、そのようなところを居場所とした。

そういうこともあるのだな、と不思議におもう、という程度のことです。

こんなことをきっかけにおかしな飛躍的思考にのめり込む、ということはよくあることだとおもいますが、ぼくはそういうことはありません。

が、もしこの出来事に必然があるとすれば、ぼくがいま住んでいるこの田舎に、よりご縁というか、親近感をおぼえる出来事ではあったな、と、その点で実際的な作用があったとおもいます。

#与太話
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「ミッション・ワイルド」という映画があります。

まだプライムビデオでみられるようです。

なんだかアクション映画のようなタイトルですが、さにあらず。

舞台は西部劇の時代のアメリカ西部ですから、じゃあ西部劇なのかというとそうでもない。

徹底したヒューマン映画です。

トミー・リー・ジョーンズが監督と脚本と主演を務めた作品で、おなじく主演女優にヒラリー・スワンク、ちょい役にメリル・ストリープが出ていたりと、そうそうたる顔ぶれ。

どういう映画かというと、アメリカという国の精神性・倫理性を暴いています。

作品の舞台である19世紀のアメリカは開拓時代で、白人たちが東海岸からアングロアメリカを広げていこうとする真っ最中です。

東部はすでに安定していましたが、ミズーリ川をへだてて西部はまだまだゴールドラッシュで、法整備も追い付かず、お金の価値も安定していない危険地帯です。

弱肉強食というか、みんな一攫千金を夢見て、女性の人権意識なんて存在しないも同然。

西部ネブラスカで農業をしながら敬虔に、堅実に暮らしていたメアリー・ビー・カディ(ヒラリー・スワンク)は、あるとき西部の厳しい暮らしに心が壊れてしまった3人の女性を、ミズーリ川を越えた東部のアイオワの教会に届けるという役目をみずからうけおいます。

道中、原住民に襲われたり、砂漠の狼に食われるかもしれない過酷な旅で、本来は男でなければできない役目なのですが、ほかの男どもはみな腰が引けている……もっといえば、心の壊れた役に立たない女のためにそんな危険を負う気になれないようで、メアリーが買って出たのです。

彼女は敬虔で勇気あるプロテスタント信者なんですが、30を越えても結婚できずにいます。

周囲の男たちはみんな資本主義に毒されていますから、堅実に生きてじぶんを持っている彼女を「男に対して説教臭く、つまらない女性だ」とけなすのです。

彼女は旅に出る前に、ジョージ・ブリッグス(トミー・リー・ジョーンズ)という、アメリカそのものを象徴するような軽薄な小悪党と出会い、ともに旅をすることになりました。



……まあ、オチを言ってしまうのはアレなのでこのへんにして、ぼくはこの作品を3度みて、そのたびにアメリカという国の抱えるジレンマについて気づくことがありました。

アメリカにはプロテスタントの尊い理念があるはずなのに、資本主義は理念を蹂躙し、正直者がバカを見るようなことになって、だれもこの理念を顧みようとはしない。

一瞬、プロテスタントの敬虔な理念に打たれることがあっても、すぐに忘れてまた資本主義の放縦な暮らしに戻ってしまう。

あの映画をみると、アメリカのプロテスタント精神はもう廃れているのかもしれない、とおもえます。

以前、クトゥルフ神話について調べたことがありましたが、アメリカの恐怖作家が創作した神話的世界観は、一部のコアなファンによって支えられ、「宗教のないアメリカに生まれた宗教」ともいわれたそうです。

「宗教のないアメリカ」というけれど、プロテスタントという宗教があるじゃないか、とおもいますが、それほど実際のアメリカでプロテスタンティズムは形骸化しているのでしょう。

おそらくこのアメリカにおける「プロテスタントの形骸化」が、クリスマスにせよバレンタインにせよ、アメリカから日本に輸入されてきた宗教イベントがなぜ空虚で、資本主義的なのかということを理解するとっかかりになるようにおもえます。

#与太話
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朗読で『沈黙』を聞きました。

映画をみたときにはっきりしなかったのが、なぜ日本にはキリスト教は根付かないのか、ということでした。

小説を聞いてはっきりわかったわけではないんですが、おもったところをちょっと話してみようとおもいます。



クリスマス前日のきょう、この作品を聞き終えたのは、奇妙な偶然です。

日本ではだれもが鶏肉を中心とした洋食やワインを楽しんだり、プレゼントを与えるなどして雰囲気は演出するのだけど、キリストの生誕を祝う気持ちはほとんどだれも持っていないようです。

バレンタインデーや、ハロウィンも、宗教儀式ではない「なにか」です。



クリスマスの風習は、戦後西側から突如やってきた……日本人の感覚でいうと、七福神の一種のようなものでしょう。

日本人からすれば、じぶんに利益をもたらしてくれるのであればなんのゆかりもない外来神でも歓迎する、といったところです。

しかし、どんな神がやってきたとしても、日本人はその神を深く掘り下げて信心しません。

みんな横並びに尊い、多神のうちのひとつにすぎず、現代ではその尊さはいよいよ目減りしています。

特に日本という土壌には「絶対神」という考え方が根付きにくいのではないか、という気がします。



明治以来、ほんの70年ほど、天皇崇拝・教育勅語という一神教めいた時代もありました。

子供があたらしいおもちゃを与えられたように、日本人は一神教に熱狂しました。

しかし促成でつくられたこの思想は国民を青天井に熱狂させたあと、戦後西側によって排斥されると、一気に沈静化します。

まるでおもちゃに飽きるような軽薄さで、信仰の薄い社会を受け入れるようになるのです。

天皇が人間宣言をしたあと、日本人は拍子抜けしたものの、だからといって国家神道を巡る聖戦が起こるわけでもなく、せいぜい右翼が「教育勅語にもいいところがあった」と消極的にボヤくくらいしかできませんでした。



日本を占領した西側は、多くの日本人に自由と文化を与えましたが、その延長線上に、現在のクリスマスがあります。

日本人は深く考えず、この楽しげなイベントを受け止めました。

しかしほとんどだれも、クリスマスとキリスト教を結び付けて、深く考えることはしません。



結局のところ、日本人の多くは親鸞や日蓮が広めたように、ただ単純なお題目を教わったとおりに唱えることで救われようとする次元から、どうしても抜け出せないのではないか。

あるいは、集団としての日本人は、宗教にお題目以上の意義を見出せないのではないか。

だから、明治になって教育勅語が広まったときも、それはお題目と化します。

戦争を経験した世代は、教育勅語をそらんじることができました。

しかし、かれらの「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト……」は、まるで円周率を暗誦するかのように無機質な暗唱にすぎません。

クリスマスにしても、多くの人にとって、儀式そのものがお題目なのです。

ただみんながやっているように、見よう見まねで作法を覚えて、それをこなすことで仲間外れにならずにすんだといって、ホッと胸をなでおろす。

仏教にせよ神道にせよ、大昔から日本人はそのようにして、お題目でなにかをやったようなつもりになる性質なのでしょう。



ところで、『沈黙』には、裏切り者のユダをおもわせるキチジローという男が出てくるのですが、この男は、日本にやってきたポルトガル人宣教師が日本人を見下していることを見抜きます。

キリスト教は結局、白人の持ち物なんですよね。

神道が日本人の持ち物であるように、キリスト教は白人の持ち物です。

キリスト教が白人の持ち物だということは、世界のキリスト教分布をみればわかります。

宣教師たちはキリスト教は白色人種の持ち物であるという優位性を無意識のうちに抱えていて、布教をおこないながら、同時に日本人を見下している。

作者は作品中で、このことを(直接的ではないにせよ)語っています。



それはともかく、結局キリスト教は日本には根付きません。

鎖国によって外国から司祭がやってこなくなると、長崎の日本人教徒たちの拝むキリストやマリアは、およそ西洋のそれとは似ても似つかないものに変貌していき、むしろ日本的な宗教のスタイルに和合(習合)していくのです。

作品中で信者たちがこんな歌を歌います。

参ろうや 参ろうや パライソの寺に参ろうや パライソの寺とは申すれど 遠い寺とは申すれど

「パライソ(天国)の寺」というのです。

当時の日本ではカテドラル(聖堂)やチャーチ(教会)という概念を伝えにくいために、妥協の産物として寺になってしまったのかもしれませんが、それでも「パライソの寺」となってしまうと、もはやキリスト教なのか仏教なのか、天国なのか極楽浄土なのかも判断できません。

信者は弾圧をかいくぐるために仏教の檀家をしながら、こっそりとキリシタンを続けている状況であり、結果的に神仏習合(この場合の神はキリスト教)になってしまっているわけです。



そして、弾圧によって棄教した宣教師たちも、それを望む望まざるにかかわらず、闇鍋のような多神の社会に組み込まれて一生を終えました。

この作品はキリスト教というフィルタを通じて、現代に続く日本人の奇妙な宗教性を解き明かしているのでしょう。

キリシタンを苛烈に弾圧した井上筑後守(かれも元はキリシタンだった)が、宣教師を棄教させたあと、最後についたあきらめのため息は、クリスチャンであった作者、遠藤周作のため息のようにおもえたものです。
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オーディブル。

まんまことシリーズ。

この作品はすこしずつ主人公たちの結婚が進んでいくんですが、それ以外は謎解きのようになっていて、いわば舞台が江戸の、大人による『ズッコケ三人組』のような感じです。

9巻まであるうちの、7巻『かわたれどき』まで聞いて、さすがにすこし疲れてきました。

1巻10時間ほどあるので、70時間ちょっとは聞いたことになります。

そこで、気分を変えて『木挽町のあだ討ち』を聞くことに。



これはなんとなくうわさでおもしろいということを聞いていて、江戸が舞台であるということ以外、どんな話かさっぱりわからないまま聞いてみました。

つい今しがた聞き終えたんですが、たしかにおもしろい。

芥川龍之介が書いた『藪の中』という作品があります。

これはいまでも「真相は藪の中」なんて言い方をする、そのもとになった作品です。

ある男が死んだ、その真相を知るために、いろんな人から話を聞いていくんですが、みんなそれぞれに証言が食い違っていて、なにがなんだかわからなくなる。

『藪の中』はみんな語り口調で話していく作品なんですが『木挽町のあだ討ち』もおなじやり方で、いろんな人が話をする格好で物語が展開していきます。

真相がどんどんわからなくなっていく短編の『藪の中』の向こうを張って、真相がすこしずつ明らかになって、最終的にすべての伏線がキレイに回収される長編が『木挽町のあだ討ち』といった感じ。

たぶん、作者は『藪の中』を意識してるだろうとおもうんですよね。

ちなみに『木挽町のあだ討ち』はところどころにホロッとくるところがあります。

ひとつ間違うとベタな展開になりがちなところを、こちらの心に浸み込むように伝えてくる技術はすごいとおもいました。



あとこれから、遠藤周作の『沈黙』の朗読があたらしく入ってきたのでこれを聞こうかとおもっていて、さらに半藤一利の語る昭和史と幕末史あたりも聞こうとおもっています。

2か月間で200円の割引セールなんですが、いまだいたい一か月。

ふだんの月額1500円はとても出せませんが、さて、タイムリミットまでにどこまで聞けることでしょう(笑)

#与太話
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出かける前に、ちょっとおもったことをメモ代わりに。

世の中は均衡をとろうとするので、引っ張るチカラを強めると、向こうから引っ張り返すチカラも強くなります。

じぶんが一方的に引っ張り続ける、ということが……たとえじぶんの一生の間はそれでいけたとしても、不均衡はいつかかならず是正されます。

あるいはそれは子孫が根絶やしになるほどの革命かもしれませんし、もっとべつのカタチかもしれません。

当然じぶんが生きている間に是正されてダメになるかもしれない。

人間が、そのような引っ張り合いの土俵からおりるのはもっとも望ましいようにおもえるのですが、国家はそれを許すでしょうか。

第二次世界大戦のような戦場で、寒山と拾得が軍服を着せられ、銃剣を担がされているような風刺を、ふと想像していたのです。

#与太話
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すこし日本の古代の宗教と政治の話がしたいのです。



仏教を推進したい大和朝廷が、廃仏派の物部氏を討伐したとき、古神道の生殺与奪の権限は朝廷にゆだねられました。

そのときになぜ、神道を残そうということになったのか。

神道に「利用価値がなければ」、廃することでよかったとおもいます。

仏教のみでやっていく選択をしてもよかったはずです。

では当時の朝廷にとって、神道の利用価値とはなんだったのか。



神道には(特に古神道には)教義も教祖もありません。

日本の歴史の中で、神道に教義(教育勅語)と教祖(天皇)があったのは、大日本帝国憲法発布から太平洋戦争までのわずか半世紀ほどです。

古神道は、人々を導くものがない原始宗教でした。

なのに朝廷が神道を残した理由は、古神道は皇統を証明するのに都合がよかったからです。

皇統がどのようにして日本各地を守ったかということが伝わっていたため、これを神道における祭神としてまつったのです。

そして全国各地に社と祭神をまつることでその住民たちが地域、国家という縄張りを意識する。
これを日本の防衛の論拠としたわけです。

また、国家を統べる宗教が仏教しかない場合、日本が日本であるオリジナリティがなくなってしまいます。

朝廷は、大陸の属国ではなく、大陸と対等に渡り合うひとつの国家を建設するつもりでしたから、日本オリジナルの宗教があるのが望ましかった。

そこで神道を日本の国教として、仏教の教義と教祖で信仰を補強したのです。

かくして朝廷は神道を殺さずに利用しました。

仏教で国内を統治していた中国が革命によって政権転覆を繰り返していたことを考えると、もし日本が仏教の一本柱で国家統治をしていたとしたら、日本も王朝がどんどん革命によって入れ替わっていたのではないかという気がします。

しかし当時は仏教が隆盛を極め、国民から神道の信仰が衰退します。

そこで神道がなんとか生き残りを図ったのが神仏習合です。

そんなわけで、神道の神々は仏門にくだったという物語になっていくわけです。

#与太話
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『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメをみました。

みておもったのは、涼宮ハルヒは地荒神みたいな存在だなと。



涼宮ハルヒは高校一年生。

カワリモノの女の子ですが、じつはじぶんが自覚しないまま、おもいどおりに世界を変えてしまえる能力をもっています。

彼女はそう望めば世界を滅ぼすこともできてしまうため、仲間たち(も、なんらかの能力を持っている)は、彼女が能力を発現しないように守っており、彼女の無茶な要求にもできるだけ応えてやり過ごしている、という物語です。

主人公は同級生の男子で、かれだけが能力を持たないふつうの高校生です。

涼宮ハルヒの突拍子もない言動に呆れながらも、はねつけるようなことはせずに付き合っています。



日本には地荒神信仰があります。

かまどの神様として家を守ってくれる三宝荒神は有名ですが、地荒神は土地、つまり外を守ってくれる神様です。

土地を守ってくれるんだけど、突然祟りを起こしたりする荒ぶる神、と信じられています。

この荒ぶる神の代表格は、祇園社(いまの八坂神社)における牛頭天王です。

牛頭天王は疫病をまきちらす神で、現代の感覚でいえばあまり歓迎すべき存在ではないようにもおもえるんですが、礼儀をもってあたれば疫病のたたりがない……つまり、疫病除けの神になるという解釈になるんですね。

京都でおこなわれる祇園祭は、牛頭天王を鎮めて、疫病蔓延の防止を祈念するお祭りということになります。



涼宮ハルヒはさながら荒ぶる神のようなんですが、主人公の男子高校生は彼女の言動に半ば呆れつつも、きちんと付き合っています。

いわば、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ということをやっているわけで、宗教のお祭り(ハルヒを鎮めるための付き合い)に対する、人間側の適切な態度ともおもえます。

#与太話
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司馬遼太郎の『雑談 昭和への道』の最終回を見ました。

明治期の日本の知識人は国際社会の中で相対的に自国を考えることができたのに、軍部が台頭していくにしたがって、日本を絶対的なものと考えるようになる。

昭和になって、他国との関係性の中の日本という相対的な見方ができなくなって、太平洋戦争に向かい、そして敗戦に至った。

そういう話でした。



司馬さんはこれだけ深く調べて、実際に取材もし、洞察していたにもかかわらず、初回ではあの時代のことがわからないとおっしゃいました。

昭和に入ってから敗戦に至るまでの20年は、まるで魔法使いが杖をポンと叩いて、日本を魔法の森にしてしまったような時代だったというのです。

それで司馬さんはこの魔法を解くカギを……それも自前でそのカギをつくりたいとおもったそうですが、うまくいかないそうな。

ぼくはこのテレビ番組を見始めたとき、そりゃああの戦争の当事者が、フラットな目線であの時代を読み解くなんてできるわけがないとおもったものです。

そういうことはたしか以前にも書いたはずで……ああ、やっぱり書いていました



でも最終回まで見ておもったのが、じつは司馬さんにはもうほとんどあの時代のことがわかっていたのではないか、ということでした。

魔法を解くカギもほぼできあがっていて、そのうえで、魔法を解く役割はあとの世代に任せた、といってるんですよね。

ぼくが言ったようなことは司馬さんはもうとっくに承知で、わざと最初に、魔法の森のカギの開け方がわからない、とおっしゃっていたようにおもえます。

あの時代を軍人として真正面から体験した司馬さんは当事者として、太平洋戦争を客観的な「物語」にすることができなかった。

あの時代のことを書くとなると発狂してしまうとまで言う、それほどの当事者ですから、魔法の森の魔法を解くカギをつくっても、司馬さんはそれで錠前を開けるところまでいけないわけです。

なので、司馬さんはこの番組において、ご自身の客観視そのもの……つまり司馬さんがつくったカギを、われわれに投げかけたということなのだろうな、と。

#与太話
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このところ、クマの被害が取り沙汰されて、動物愛護団体がうるさいとか、それに対するカウンターがどうのということがニュースになってます。

https://news.yahoo.co.jp/articles/43acd6...

とりあえずそんな議論より、国内で食肉の流通を……そうですね、まず5年間ストップしてみましょう。

生産も輸入もしないわけです。

スーパーに行っても、豚肉も牛肉もない。

鶏卵を取ったあとの親鶏の肉、牛乳を搾った後の乳牛の肉くらいは置いてもいいかもしれません。

そしたら、自然と日本中の山からイノシシもシカもクマも姿を消しますから。

サルもいなくなるかもしれません。

どこにも肉がないとなれば、山から調達するしかないでしょう。

狩猟肉がネットなどでグラム1000円以上で売られるようになり、それらが飛ぶように売れる。
肉を取引したい人たちがわざわざ中山間部まで訪れて、お金を出して引き取るようになる。

いま、補助金をもらってただ殺すための狩猟をしている猟師が、食べるための狩猟をすることができて、しかもそれで生計まで成り立ちます。

そしたら人間と動物の棲み分けみたいな問題、すぐに解決します。



林業もおなじで、海外から木材の輸入を制限してしまえば、日本中の放置された針葉樹が伐採されて、次の苗木が植えられる。

花粉症なんてあっという間になくなります。



食肉、木材、そしてもちろん野菜やコメなどの農産物について、いかにいまの日本が、資本主義の名のもとにおかしなことをしているか。

たかがクマが暴れている、という話のようでも、じつはこれは日本の構造そのものにかかわる話であって、動物愛護団体の言い分や殺処分する側の言い分というような問題に矮小化してしまうのは、それこそ「獣を逐(お)う者は目に太山を見ず」(木を見て森を見ず)というような話なのだろうとおもいます。

#与太話
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最近買ったのが、よつ葉の脱脂粉乳1kg。
スキムミルクですね。

牛乳のように日持ちしないものは、スーパーが近くにない田舎だと、常備しにくいのですが、脱脂粉乳にはあんまりいいイメージがありませんでした。

それが意外にも、水に溶かすと、ふつうに低脂肪乳の味わいでした。

もしかして、ぼくが子供の頃より、粉乳の品質が上がってるのかな。



スキムミルク100gと水900ml。

これで1リットルの低脂肪乳になります。

1kgの脱脂粉乳をすべて溶かせば、10リットル分です。

今回は1500円くらいで買いましたが、よつ葉のウェブサイトから購入する場合は1257円で買えるらしいので、次回からは安く買えそうです。

https://www.yotsuba-shop.com/item?catego...



で、このスキムミルクでつくった低脂肪乳を、さらにヨーグルトにします。

まず、1リットルの、もともと炭酸水が入っていたペットボトルにスキムミルクと水を入れて、溶け残りがないようにしっかりシェイク。

できあがった低脂肪乳に、市販のヨーグルトを大匙一杯分入れます。



湯たんぽに熱湯を入れます。

ヨーグルトの種の入ったペットボトルを、タオルでくるみます。

湯たんぽの上にペットボトル。これを2枚の座布団ではさみます。

で、ひと晩置いておくと、翌朝には低脂肪ヨーグルトの出来上がり。

市販のヨーグルトを買うことを考えると、半額以下でできます。

湯たんぽの温度が熱すぎるようにもおもえたんですが、しっかり酸っぱいヨーグルトができました。

低脂肪なのですこし固まり方がゆるいんですが、そもそもペットボトルでつくってるので、固まらなくてもなんの問題もありません。


粉乳は、使いたいときに調製してシチューにもグラタンにもできるし、もちろんホットケーキなどにも利用できます。

よつ葉のホームページをみていると、牛乳を粉にした全粉乳も売られていました。
これも換算すると1リッター198円(税込)くらいになるので、ふつうに牛乳を買うより安いんですよね。

粉にする手間を考えると、なんで牛乳より安くなるのか不思議です。
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あいかわらずじゃりン子チエをみてます。

チエちゃんはぼくより10歳年上で、現実世界なら55歳。

テツはチエちゃんが10歳のときに35歳ですから、いま生きていたら80歳です。

おじい、おばあは、さすがにもうアッチにいってはるやろな、というところ。



ぼくの時代は、過渡期です。

日本が豊かになっていく過渡期で、その汽水域のようなところにある。

極端に貧乏なものと、極端に豊かなものと、両方あって、それがだんだんと、画一的な豊かさにつながっていった。

画一的、というところがポイントです。



むかしは、豊かさとは特別なものでした。

ほかの人たちが手にできないだろうというものを得るために競い合うのが、豊かさを示す指標であり、ステータスでした。

ぼくらの時代はそういう「特別なステータス」を追いかける人たちをみてきた。

けれど、そういった特別なものがだんだん当たり前のものになっていき、安価なものになっていく。

ぼくの時代は、特別な豊かさが、当たり前の豊かさになっていく過渡期を経ているのです。

#与太話
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ことしの大河ドラマの「どうする家康」。

ぼくはあんまりこのドラマが好きではないんですが、とりあえず見続けています。

どこがきらいか挙げていくと、片手で足りないくらいではあるんですが、いちばんイヤだったのは、厭離穢土欣求浄土の旗印の意味を改変していたことです。

これは本来「穢れたこの世を離れ、浄土を求めよ」という意味以上のものではありません。

旗印にこれを掲げるということは、戦いに赴くものに向かって、死を恐れるなというメッセージを込めています。

兵士が死を恐れてビビっていたら、戦争になりませんからね。

真田は六文銭を旗印にしましたが、これは三途の川の渡し賃と考えられていて、これもつまり、戦場で死んでも三途の川の渡し賃はここにある、だから死を恐れるなというわけです。

で、かのドラマでは厭離穢土欣求浄土は、そんな死を求めるようなメッセージではないという。

「この穢れた地をこそ、よりよい社会(浄土)に変えていこう」という意味なんだそうな。

んなわけあるかい。

そんなふうに歴史を都合よく解釈することを、歴史修正といいます。



ところで、家康はもちろん仏教徒ですが、どの宗派だったのか。

もしこれが日蓮宗であったなら、あるいは厭離穢土欣求浄土の意味合いが、ドラマがいうところのものであった、という主張も、無理筋ではありますが通らないこともありません。

日蓮はいまでいうところの現実主義者でした。

死後に救いを求めるよりも、いま生きているこの世を変えなければならないではないか、というのです。

みんなで南無妙法蓮華経を唱え、いま生きているこの世を変えようとすることが、すなわち救いではないか、と。

この考え方であれば、現世を浄土にしようではないか、という考えも成立します。



ところが家康はどうも浄土宗だったらしいのです。

曹洞宗か浄土宗でもめていたりするらしいんですが、少なくとも日蓮宗ではない。

浄土宗であれば、浄土には阿弥陀仏が統べるあの世という以外の意味はありません。

ちなみに厭離穢土という言葉は、万葉集にも出てきますが、これもやはり、この汚いこの世を離れて、清浄なあの世へ行きたいというものです。



しかしこのドラマは、なんで江戸時代が終わった現代になってなお、家康にゴマをするような歴史修正を行わねばならんのか。

こういう茶坊主的な脚本のありようが、どうにも腹に据えかねるわけです。

では、ぼくはなんでドラマをみてるのでしょう。

見なきゃいいだけなんですけど、見ないと批判もできないでしょう(笑)

ジレンマを抱えながら、視聴している次第なのです。

#与太話
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元大関の朝潮が亡くなったんですね。

大阪にいたころ……近鉄の弥刀駅から長瀬駅に行く途中に、コノミヤというスーパーがあって、このスーパーに朝潮の似顔絵の看板があったんですよ。

電車に乗ってると、朝潮の似顔絵と「コノミヤ 朝潮」とあるものだから記憶に残っていました。

ぼくが大人になってからも、朝潮の人柄は好きでした。

朝青龍の師匠でもあるわけですが、あの暴れん坊をあれだけ寛容に受け入れられた度量は相当なものだとおもいます。

コノミヤはいまもありますが、あの看板がいまもあるのかはわかりません。朝潮の奥さんの恵さんが、コノミヤの会長の娘なんだそうです。

#与太話
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『魔法少女まどか☆マギカ』をみました。

感想と考察です。



望みをかなえることと引き換えに魔法少女として契約すると、ソウルジェムという結晶に魂を移して、肉体はかりそめになる。

魔女はグリーフシードという結晶を持っています。

魔法少女は魔女を討伐し、グリーフシードを得てソウルジェムを浄化するのですが、浄化ができずにいると魔法少女は魔女になります。

なので、ソウルジェムの成れの果てが、グリーフシードということです。

そのため魔法少女は魔女の討伐に明け暮れなければならず、それでもいずれは魔女になってしまう。



ソウルジェムとグリーフシードの関係性でふとおもったのが、シェイクスピアの『マクベス』です。

権力闘争によって血で血を洗う悲劇となるこの戯曲では、冒頭に3人の魔女が出てきて、このような言葉を残します。

"Fair is foul, and foul is fair."

「きれいはきたない。きたないはきれい」

魔女たちにたぶらかされたマクベスとその夫人は権力欲におぼれて、殺人を繰り返しました。

しかし深層心理でその罪悪を浄めたかったのか、夫人は夢遊病となり、夢の中で落ちない血を落とそうと、必死に手をこすり続けるのです。

魔法少女の、汚れていくソウルジェムを延々とグリーフシードで浄化し続けなければならないというくだりは、野望と引き換えに、血の浄化を延々と繰り返して絶望するマクベス夫人のようです。



地球外生命体のキュゥべえは、宇宙のエントロピーの問題を解決するために魔法少女と魔女を利用している、ということなんですが、たとえると戦争における武器商人のような役割です。

武器商人は、戦争をする互いの国に武器を売りつけて、利益を得ます。
かれらは戦争によって儲けることだけを考えているので、戦争が悪であるという観念がありません。

おなじようにキュゥべえは、魔法少女を魔女にし、新たな魔法少女を勧誘することを繰り返して、エネルギー(利益)を得ることが目的で、人間的な善悪に興味がありません。



最後のまどかが魔法少女になるための願いは非常に宗教的です。

じぶんの足元のだれかを救うのではなく、神のようにすべてを救う犠牲と救済を望みます。

最終話に至る間際で、タイムリープによって最適解を得ようとする展開になりましたが、最終話でこれまでの謎解き的な物語から一気に、神話として作品が完成したのには感心しました。
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AIが人間を追い越すことを、シンギュラリティというらしいんですが、これはアキレスと亀でしょう。

AIが人間に近づいて、知性の面では人間を追い越すとしても、人間にはなれない。



芥川龍之介の『侏儒の言葉』における『天才』という項目にはこうあります。

天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。 ただこの一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。

ようするに、凡人と天才の違いはたった一歩だが、この一歩がどうしても追い付けぬのだ、と。



AIと人間もおなじで、AIがいくら人間に肉薄しても、このあと一歩にたどりつくことができません。

それは、絶対にできない。



われわれがAIを畏れるのは、たとえば機関車と駆けっこして勝てなくなるということを畏れるのに似ています。

機関車は人間の走る速度をはるかに超えているけれど、それで人間を追い越したということにはなりません。



AIもおなじようなものです。

人工知能がいくら進化して人間の知性を凌駕しても、AIは人間に追い付くことも、追い越すこともできない。

あと一歩のところまで肉薄しても、その次の一歩。

「この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」のです。

#与太話
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あ、そうか、と。

きょうはたくさん気づきのある一日です。



ぼくはいま、20年以上前のソニーのオーディオシステム(といったって当時定価4万円のものです)で、当時道楽で100枚ほど買いためたCDから、好きなモノを選んで聴いています。

これが、もうパソコンで音楽を聴くのとは、次元がちがう。

ぼくは青年時に、いまよりよい耳で、このすばらしい音質で音を聴いていたのだ、と。

もう近くで飛んでいる蚊の羽音さえ聴き取れなくなったこのおんぼろの耳が、感動してる。

若い世代は、いまオーディオシステムなんて持ってないだろうし、CDやレコードで音楽を聴くこともないでしょう。

この体験をしていないんだ。

この体験がふつうのものだ、という時代を経験せずに、まったくべつの感動の中に生きているのだ。

そうか、と。



だからなんだということはありません。

いまの若者と比べて、じぶんが優位だともおもいません。

ただ、ぼくはじぶんの世代だけで共有する箱の中にいて、これからのぼくは、箱の中で生きるのだとおもう。

ぼくの言うことが理解できない世代の人々は、ぼくには理解できないじぶんの世代の箱の中で生きることでしょう。

現代は、その世代の断層がタイトになったというだけの話です。

#与太話
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昭和天皇は戦後日本の民主主義、自由主義について、このように述べます。

個人の自由のないことは言語道断だけれども、ものが着々進むのは事実上、統制の強い力で引っ張らねば上がらぬ。
自由 民主という方向でゆくと、なかなかものは進まぬ。
これはむつかしい。

スターリンでもヒトラーでもムッソリーニでも、全体主義で引っ張るのが仕事は進む。

英米のような思想系統のものは、自由でしかも仕事がいくかもしれぬが、国によってはそれではなかなか国運を急に引っ張るはむつかしい。

これはむつかしい問題だね。



つまり、個人主義や自由主義、民主主義では、全体主義のように国を統制することができず、ものごとを素早く進めることができない。

戦後の日本はこの点で問題を抱えることになるのではないか、というのです。



これはスターリンやヒトラー、ムッソリーニのような全体主義が優れているというよりは、国家を迅速にコントロールするには、全体主義よりほかに手段があるのだろうか、という疑問といえるでしょう。

しかしいま現在、アメリカもヨーロッパも日本も、民主主義国家、西側陣営はうまくやっています。

なぜうまくやれたかというと、新自由主義における「ショック・ドクトリン」が功を奏したからです。

新自由主義が日本で利用され始めたのは中曽根康弘のころからといわれますから、当時の昭和天皇はショック・ドクトリンを知りません。

ショック・ドクトリンとは、自然災害や戦争や未知のウイルスなど、人類が大きなショックを受ける出来事を利用して、それまでにはできないような過激な市場改革をおこなうという、本来は経済システムでの変革手段です。



しかしこの手法は、実際には政治的にも利用されていました。

民主主義、自由主義、個人主義のように、国家が国運を直接引っ張ることができないシステムの中で、国民をどう統制していくのか。

この答えが「国民にショックを与えて、政府のおもう方向に誘導する」という方法です。



たとえばアメリカでは、2001年9月11日にワールドトレードセンターがテロ行為で破壊されました。

アメリカ国内はパニック状態になり、大きなショックを受けます。

そして「じぶんの国の中にテロリストがいる。もしかしたら隣人がそうかもしれない」という疑心暗鬼にかられるようになります。あるいはそういう空気を、国家が煽った側面もあるでしょう。

そして国民の多くが、じぶんはテロリストではない、まっとうなアメリカ国民であると証明するために、セキュリティカード(日本でいうマイナンバー)を取得しました。

WTCが破壊されるというショックがなければ、まるで国民を統制したかのようにセキュリティカードを取得させることはできなかったはずです。

ショックを与えて、国家のおもう方向に誘導するという手法こそ、全体主義以外で国運を引っ張る方法はあるのか、という昭和天皇の疑問に対する答えでした。



しかしこれは言い換えれば、大昔の社会主義や共産主義のような、牧歌的な理想、反資本主義のような思想では、国家は運営できない(全体主義にも自由主義にも勝てない)という証明でもあります。

実際、現在の中国やロシアなどの東側勢力は、いわゆる社会主義や共産主義を理想的なカタチで実現することができず、「左翼全体主義」とでもいうべき統制社会になっているわけですから。

#与太話
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そっか。

ふと気づく。

お釈迦さん(仏陀)は、人生の本質は苦しみだといいました。

たのしいことは虚構であって、本質は苦しみなのだ、と。

人間の基礎の部分は苦しみなんだ、と。



ぼくはそれは納得したんですが、楽しいことが虚構だとはやはりおもえない。
ずっとそこで悩んでいました。

で、先日40年近く前の再放送番組で、司馬遼太郎さんが、西洋にはアンビバレントという便利な言葉があるといいました。

ぼくはふと、そういうことなのかとおもった次第。



東洋にはアンビバレントに相当する言葉がなかったから、スイッチをオンオフにするように、0か1かどちらかしかないんだ、という議論しかできなかった。

だから、たとえば般若心経は、みんなこの世があるとおもっているが、それは虚構で、実際は無なんだと説きました。

アンビバレントという概念がなかった時代だから、1(有)だとおもっているスイッチは、じつは0(無)なんだ、ということしか般若心経の時代には言えなかったわけです。

でも、無というのは実際には、無量大数を超えたあらゆる有を含んでいて、まったくなにもない無と、あらゆるすべてを含む有がつながっている。

般若心経が伝える無という概念は、じつにアンビバレントです。



お釈迦さんのいう四苦八苦も、じつはアンビバレントな概念で、ほんとうは、生きることの本質が苦しみであるということを突き詰めた先は、本質的な喜びに満ちているのではないか。

金銭的な喜びとか、権力の喜びといった、人間社会で形成された虚構の喜びではなくて、われわれの心から泉のように湧き出てくる、いわばユーモアの喜び、赤ん坊の笑顔のような、天真爛漫なユーモアです。

この喜びと苦しみが、心の中に共存している、アンビバレントな状態が、人間のほんとうの状態ではないか。

人間を生きているだけで生じる無限の喜びと無限の苦しみは、一本のヒモの両端にあって、それを輪っかにつないだようなものではないのか。



……。


ちょっと後で読み返して、じぶんの考えに齟齬がないか確認しますが、たぶん、大丈夫なんじゃないかな。

#与太話
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次元大介という、Amazonでつくってるドラマ映画をみました。

個人的には、想像していたよりはおもしろかったです。

どう考えたって、映像化するにはハードルが高いので、駄作だったときの心の準備をしていたんですが、B級映画的な割り切りがあったことに好感がもてたし、演者が作品を支える形でうまく作用していました。

燃えよドラゴンのオマージュのような一幕があったり、永瀬正敏の役柄に、ルパン三世に出てきた敵の白乾児(パイカル)をおもいだしたり、全体的に荒唐無稽な世界観ですが、モンキーパンチっぽいダークな雰囲気はあったとおもいます。

久しぶりに型通りのパターンにはまったアクションがみられたのもよかった。

ただ、ぼくはたまたまハマりましたが、人を選ぶ作品ではあるとおもいます。
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あっという間にあらわれて、あっという間に消えつつある「蛙化現象」という言葉ですが、これってむかしは「女心と秋の空」といってたもので、それがより極端で、男女の別がなくなったという感じでしょう。

「女心と秋の空」の場合は、女性って気まぐれだよね、くらいのニュアンスだったとおもいます。つまりスイッチでいえば、女性の気分を0から10まで、くるくる回して調節できるくらいの余裕のある言葉でした。

蛙化現象になると、もう完全にはしごを外すという意味です。

現代風に、男女どちらでも起こりうるという体にはしているけど、スイッチでいえばオンとオフしかない状態で、その間がない。

めちゃくちゃ好きだったのが、一瞬で大嫌いになるわけですから、すごい極端な言葉なんですよね。

右か左か、オンかオフか。
ほんとうはその間にグラデーションがあるはずなんですけど、みんなじっくりモノを考えることがなくなって、より短絡的に結果を求めるようになると、こういう極端な言葉が「消費」されるようになる。

蛙化現象というのは、そういう「時代の言葉」なんだとおもうのですよ。

#与太話
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芯の折れたズッキーニ。
調べていると、脇芽が出てくるというのだけど、秋は栽培期間が短いから、復活まではいかないんじゃないかな、とおもいつつも、興味本位で観察。

夏の葉野菜は、どうも不織布やワリフをかけても、一定の虫害が出るもよう。

ダイアジノンをしているのだけど、それでも地中に虫が残っているのか、なんなのか。
春の栽培では起こらない現象なのですが、原因を知りたいところです。

ワリフがべた掛けで、農薬も直接上から散布できるのならいいんだけどなあ。
#野菜

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