山麓王国

2023年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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明日、帰省なさるんですね。

たくさんのご馳走にかこまれるお正月、お寿司パーティーも楽しみですね。

最近のゲームは殆どわからないのですが、RPGは漫画と同じで、絵面との相性も大事な気がします。
私は時間があると3人打ちの麻雀と、アメーバのピグパズルをやっていますが(PCやタブレットで)、アバターが変なサイトはやりたくないです(笑)

先日バスに乗った時、私の前に70代の男性が座っていたのですが、タブレットでポケモンGO!をやっていました。
後ろからこっそりのぞいていましたが、なかなかおもしろいですね~。

高齢者施設では、コロナ以降運動不足になっている人が多いので、都や区がeスポーツ事業を推進しています。
大きな画面を使って、ゴルフやボーリング、テニスなどを行うのですが、実際のスポーツより親しみやすく認知の予防にもいいそうで、ゲームというのは単純に遊ぶということではないんだなと思います。

本年はありがとうございました。
どうぞ佳いお年をお迎えください<(_ _)>

雪の状況はいかがでしょうか。
くれぐれも気をつけてお帰り下さいね。
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クリスマスはケの日である、とぼくは割り切ってて、周囲の空気に対してはそれこそノリつつシラけ、シラけつつノリ、という態度でいます。

すこしゲームをしたんですが、10月からやっていなかったRPGは、もうストーリーを半分忘れており、コントローラーのボタンの確認から始めなければならないほどでした(笑)

そのゲームも、あさってからは帰省するのでまた年始までお預けです。
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お返事をいただくつもりではなく、メリークリスマスを言いたいだけだったのですが、ありがとうございました。

核の部分になにもいないお祭り、私もそう思います。
昨日今日は、ちょっとしたレストランはお正月のかまぼこみたいに一気に高くなるのに、どこも予約ができないくらい混んで、書き入れ時です。
人生初かもしれない、まったくクリスマスらしくないクリスマスを過ごしており、サンタクロースもこないし、夜更けすぎから雪に変わるはずの雨すら降りません(笑)

お返事がいるようなものではないので、お気遣いのないようお願いします(o_ _)o))
早くゲームする時間がとれますように🎅🎄
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おそらく向こうのクリスマスも日本の神事仏事とおなじで、神様と一緒にご飯を食べるという感覚はあるはずなんです。

日本の神事だと直会や神饌、仏事だと仏飯ですね。

これがキリストの誕生日に、キリストと一緒にバースデーパーティをしましょうというのが本来のクリスマスでしょう。

日本の神事や仏事だと、われわれはそこに神様や仏様がいることを意識するので、どうしてもお祭りの核の部分では厳かになります。

そこに神様がいるという意識があれば、たがは外れないんです。

ところが日本のクリスマスでは、キリストがいることを意識しない。

バレンタインもハロウィンもそうで、そこになんらかの神(聖人)が存在するであろうという意識がすっぽり抜けるので、核の部分になにもいないお祭りになります。

そうなると、鬼のいぬ間に洗濯というか、見守っている神様がいないので、タガが外れちゃうんですね(笑)

アメリカはプロテスタントの国といいながら、実際のあの国は資本主義に神も魂も売り飛ばしたようなところがあります。

そんなアメリカの「神のいない資本主義のお祭り」が日本に輸入されたのではないか、というのがぼくの推論です。



きのうはいちおう鶏むね肉を余熱で調理したものと、ビールと、あとひさしぶりに安ワインを買って楽しんだんですが、ぼくの隣にいるのは、なじみのないキリストと、あとは仏さんと神さんだけです。

生身の人間がいないのはつまらんな、とおもいながらも、独り身はこういうイベントのときに気軽でいいなどと考えているうちに眠くなって、いつもどおり9時半に床につきました。
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奇妙な偶然・・・。
今朝、いつも読んでいるスピリチュアル系の女性のブログがアップされていました(スピ系にしては押しつけがましいことを言わないのでよく読んでいます)。

「(クリスマスのご馳走やケーキを食べる前に)キリストに対して、「お誕生日、おめでとうございます!」という、〝お祝いする気持ちを持つ〟ことをおすすめします」
と書いてありました。
それは、キリスト教を信仰しているからとか、していないからということではなく、単純に「お誕生日におめでとうを言う」ことの大切さだとしています。

農園主さんの、「キリストの生誕を祝う気持ちはほとんどだれも持っていないようだ」という文章を読んで、これも奇妙な偶然だなと思いました。
私も、一時クリスチャンだったのに、そういう気持ちを忘れ去っていました(笑)


確かに「メリークリスマス!!」と言ったり書いたり(打ったり)しても、生誕を祝う気持ちとはちょっと違いますよね。

フロイス、キチジローヤジローは信長のシェフにも登場しますが、フロイスはキリスト教を日本人のために布教するということではなく、日本の権力者に取り入り、日本で信者を増やして、自国での権威を得ようとする人物として描かれていて、日本人をなめてかかっています。

(追記)
 沈黙はロドリゴとヤジローでしたね、勘違いしていました。

沈黙から、なぜ日本にキリスト教が根付かないのかという問題、農園主さんのお考えはとてもわかりやすいです。
「沈黙」についてはいろいろ思うこともありますが、それはまた機会があればということで(*^^)v

今晩はクリスマスイブですね。
キリストのお誕生日を祝いながら、スーパーで買った日本版ローストチキン(焼き鳥)を食べる予定です(笑)
ケーキを買いに行きたいのですが、寒くて悩み中・・・・(◎_◎;)

イブ&クリスマス、楽しくお過ごしください♪←まだお掃除でお忙しいでしょうが、一休み一休み(*^^*)


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朗読で『沈黙』を聞きました。

映画をみたときにはっきりしなかったのが、なぜ日本にはキリスト教は根付かないのか、ということでした。

小説を聞いてはっきりわかったわけではないんですが、おもったところをちょっと話してみようとおもいます。



クリスマス前日のきょう、この作品を聞き終えたのは、奇妙な偶然です。

日本ではだれもが鶏肉を中心とした洋食やワインを楽しんだり、プレゼントを与えるなどして雰囲気は演出するのだけど、キリストの生誕を祝う気持ちはほとんどだれも持っていないようです。

バレンタインデーや、ハロウィンも、宗教儀式ではない「なにか」です。



クリスマスの風習は、戦後西側から突如やってきた……日本人の感覚でいうと、七福神の一種のようなものでしょう。

日本人からすれば、じぶんに利益をもたらしてくれるのであればなんのゆかりもない外来神でも歓迎する、といったところです。

しかし、どんな神がやってきたとしても、日本人はその神を深く掘り下げて信心しません。

みんな横並びに尊い、多神のうちのひとつにすぎず、現代ではその尊さはいよいよ目減りしています。

特に日本という土壌には「絶対神」という考え方が根付きにくいのではないか、という気がします。



明治以来、ほんの70年ほど、天皇崇拝・教育勅語という一神教めいた時代もありました。

子供があたらしいおもちゃを与えられたように、日本人は一神教に熱狂しました。

しかし促成でつくられたこの思想は国民を青天井に熱狂させたあと、戦後西側によって排斥されると、一気に沈静化します。

まるでおもちゃに飽きるような軽薄さで、信仰の薄い社会を受け入れるようになるのです。

天皇が人間宣言をしたあと、日本人は拍子抜けしたものの、だからといって国家神道を巡る聖戦が起こるわけでもなく、せいぜい右翼が「教育勅語にもいいところがあった」と消極的にボヤくくらいしかできませんでした。



日本を占領した西側は、多くの日本人に自由と文化を与えましたが、その延長線上に、現在のクリスマスがあります。

日本人は深く考えず、この楽しげなイベントを受け止めました。

しかしほとんどだれも、クリスマスとキリスト教を結び付けて、深く考えることはしません。



結局のところ、日本人の多くは親鸞や日蓮が広めたように、ただ単純なお題目を教わったとおりに唱えることで救われようとする次元から、どうしても抜け出せないのではないか。

あるいは、集団としての日本人は、宗教にお題目以上の意義を見出せないのではないか。

だから、明治になって教育勅語が広まったときも、それはお題目と化します。

戦争を経験した世代は、教育勅語をそらんじることができました。

しかし、かれらの「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト……」は、まるで円周率を暗誦するかのように無機質な暗唱にすぎません。

クリスマスにしても、多くの人にとって、儀式そのものがお題目なのです。

ただみんながやっているように、見よう見まねで作法を覚えて、それをこなすことで仲間外れにならずにすんだといって、ホッと胸をなでおろす。

仏教にせよ神道にせよ、大昔から日本人はそのようにして、お題目でなにかをやったようなつもりになる性質なのでしょう。



ところで、『沈黙』には、裏切り者のユダをおもわせるキチジローという男が出てくるのですが、この男は、日本にやってきたポルトガル人宣教師が日本人を見下していることを見抜きます。

キリスト教は結局、白人の持ち物なんですよね。

神道が日本人の持ち物であるように、キリスト教は白人の持ち物です。

キリスト教が白人の持ち物だということは、世界のキリスト教分布をみればわかります。

宣教師たちはキリスト教は白色人種の持ち物であるという優位性を無意識のうちに抱えていて、布教をおこないながら、同時に日本人を見下している。

作者は作品中で、このことを(直接的ではないにせよ)語っています。



それはともかく、結局キリスト教は日本には根付きません。

鎖国によって外国から司祭がやってこなくなると、長崎の日本人教徒たちの拝むキリストやマリアは、およそ西洋のそれとは似ても似つかないものに変貌していき、むしろ日本的な宗教のスタイルに和合(習合)していくのです。

作品中で信者たちがこんな歌を歌います。

参ろうや 参ろうや パライソの寺に参ろうや パライソの寺とは申すれど 遠い寺とは申すれど

「パライソ(天国)の寺」というのです。

当時の日本ではカテドラル(聖堂)やチャーチ(教会)という概念を伝えにくいために、妥協の産物として寺になってしまったのかもしれませんが、それでも「パライソの寺」となってしまうと、もはやキリスト教なのか仏教なのか、天国なのか極楽浄土なのかも判断できません。

信者は弾圧をかいくぐるために仏教の檀家をしながら、こっそりとキリシタンを続けている状況であり、結果的に神仏習合(この場合の神はキリスト教)になってしまっているわけです。



そして、弾圧によって棄教した宣教師たちも、それを望む望まざるにかかわらず、闇鍋のような多神の社会に組み込まれて一生を終えました。

この作品はキリスト教というフィルタを通じて、現代に続く日本人の奇妙な宗教性を解き明かしているのでしょう。

キリシタンを苛烈に弾圧した井上筑後守(かれも元はキリシタンだった)が、宣教師を棄教させたあと、最後についたあきらめのため息は、クリスチャンであった作者、遠藤周作のため息のようにおもえたものです。
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朝、外をみて拍子抜けしました。

雪はほとんど降ってなくて、ほんのうっすら白くなっているくらい。
山も雪化粧しておらず、いつもどおりの凍てる朝でした。

ネットで提供されてる道路状況のカメラをみてみると、うちからさらに離れた田舎や、日本海側の北端の地域ではよく積もっていましたが、それでも関西でいうところの「知れてる」程度です。

うちのあたりは標高が100mほどある盆地なので、雪はよく降るし、降ると吹き溜まりになってよく積もります。

今回はたまたま雪雲が流れ込まなかったおかげで、助かったといえるでしょう。

ところで、雪雲が流れ込まなかったおかげで、畑が生きています。

……つまり、農閑期のつもりだったのに、あとひと仕事、できちゃいそうなんだなぁ……。

でもやっぱり、ことしは暖かいおかげで年始にもひと働きできそうだし、このまま休みにして、掃除する時間にあてましょう(笑)
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ありがとうございますm(_ _"m)

大掃除と、お帰りになる準備でお忙しくなると思いますが、ご無理のないように。
除雪しなくていいくらいの雪だといいですね。
雪かきは腰を痛めやすいので、気をつけてくださいね。
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なかなか声の調子が戻らないこと、ものごとはじぶんのおもったようにはいかないこととおもいますが、じぶんに与えられたカードの中で向上心をもって最善を尽くしておられるのは、さすがだとおもいます。

その中でも、お仕事が無事に元のように戻ったことはなによりです。

あしたのクリスマスコンサート、たいへんな中でも、納得のいくものになることをお祈りしております。

ぼくはきょうからぼちぼち農閑期になりそうで、これから数日かけて大掃除にとりかかります。

あしたは雪が降る予報で、除雪作業があるかないか微妙なところなので、すこし緊張感がありますが、結局起きる時間はいつも配達に行く時間とおなじ5時半なので、ふだん通りです(笑)
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コメントの件、勝手な言い分で申し訳ありませんが、ありがとうございます。
農閑期は待ちに待った大切な時間ですね。
楽しく充実した日々になりますように(*^^)v

わたくしごとですが、コロナの3年間仕事がほぼなく、もう私の人生(イコール仕事)終わったかも、などと思っていたのですが、今年の4月から一部復活し、さらにご縁があり、今までのところ+他の場所でも講座を担当させていただいています。
23日は何年振りかでクリスマスコンサートなのですが、6月からの気管支炎の影響で、ごく低い音域しか歌えなくなってしまいました。

気管支炎が治ったあとも軽快しないので、音声外来まで行ってきましたが、声帯に異常なし。
それで少しは安心したものの、やはり歌えず、7月ごろからちょっとした鬱になっていました。
命に関わることではないのだからと思っても、歌えないということは生きている意味がない、とまで思っていました。
この不完全な状態でコンサートで歌うのは、来てくださる方に失礼と思い、歌うのは断念し、演奏に留めることにしました。
殆どの時間は、来場者が私の伴奏で歌う、というスタイルなので、歌えなくても問題はないのですが、久々のチャンスを逃したのは本当に残念です。

「徹子の部屋」で偶然見たのですが、齋藤悌子さんという、87歳のジャズシンガーがいます。
気負わず自然でクセのない、素敵な歌い方をする方です。
とってもお元気で、まだあと10年は歌うと仰っていました。

それを聞いて、97才までなら、私はもっともっとある!!と思いました←仕事があれば、ですが。
この番組を見なかったら、自暴自棄になり、歌をあきらめていたところでした。
本当に「偶然」見たことで、やっと前向きになることができたのですが、これも偶然ではなく、見るように、とのことだったと解釈しています。

クリスマスコンサートで、齋藤さんバージョンのシンプルなテネシーワルツ、歌いたかったなぁ、とは思いますが、スッパリあきらめて、歌えるようになるよう精進します。

という宣言を聞いていただくのもご迷惑でしょうが(笑)、一番つらかった時期にまた農園主さんとお話できる機会をいただき、教えていただくことばかりで、その中からたくさん気づくこともあって、本当に感謝しかありませんm(_ _"m)

こちらこそ、よろしくお願いいたしますヾ(@⌒ー⌒@)ノ
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藪蛇をつつくようなことかもしれませんが、男らしさや女らしさ、あるいはLGBTQにもそれぞれのらしさがあるとおもいます。

現代はその「らしさ」を抑制する社会になっているように感じています。

ぼくとしては、じぶん以外のだれかに「らしさ」を無理強いすることなく、マウントをとるようなことをしなければ、基本的にじぶんの特性を抑圧する必要はないだろうとおもっているんですが、その点は和合の精神だとおもいます。

和合というのは、仲良くすることという意味ですが、特に夫婦和合なんて言葉があって、男女が仲睦まじいという意味合いが強いようです。

これは日本特有の、ものごとをなあなあにすませるとか、いわゆる日和見なところにも通じるんですが、同時に性格のちがうもの同士が一緒に仲良くできるコツのようなものでもあるでしょう。

神道と仏教が習合したのも、和合のひとつのカタチといえます。

なので、ギズモさんのおっしゃる、欠けているところを合わせてよりよくする、というのはただしいとおもいます。



コメントの件ですが、それではいままで通りで、返信のペースを下げるということにしましょう。

ぼくはちょっと農閑期の間は、発信するよりもあたらしくなにかできることはないか模索したり、積みあがったゲームをする時間にあてようとおもっています。

おもいついたことは書き続けるつもりですが、いままでとはすこしペースが変わるとおもいます。

今後ともよろしくお願いいたします。
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漠然とした偏見かもしれませんが、小説家の作品でも一般の人のSNSのブログなどでも、文章の書き方、言葉の使い方や全体的なイメージから、男性らしさ・女性らしさが伝わってくるように思います。
同じテーマで文章を書いても、採り上げる部分やデフォルメする部分に違いがあったり、論理的で難解だったり、その逆だったりと。
男性脳と女性脳について様々な論議が交わされていますが、医学的・科学的にも思考に差があるとは言われていますね。
男性らしさ、女性らしさという言葉は、ジェンダーの時代によくないとは思うのですが、どうしても二分化されてしまいがちです。
女の子が赤やピンクの服を着たり、お人形を抱いているイメージは払拭されつつありますが、表面的(見た目)のジェンダーレスが進んでも、内面まではそうそう変わるはずもなく、案外文章にも表れるのではと思います。

従来、男はさっぱりしているが女は執念深いと言われたリしますが、愛情のもつれから殺傷事件を起こすのは男性が多いということもあるし、結局は個人差なのかもしれませんね。

話の方向性がずれてしまいましたが、根本的な部分で、男女でものの見え方が違うというのはあると思います。
そして恐らく、男性は女性にあるなにかを求め、女性は男性にある何かを求め、或いはあこがれ、自分にないものを追い続けていくように思います。
生物の進化で、ヒトは男と女の2種類しかないという時代から変わっていくのかもしれませんが、古事記の「成り成りて~」のように、
男女がお互いに欠けているところを合わせて、よりよいものを生み出していくことが大切なのではないかと、そんなことをふと考えた次第です(笑)

「成り成りて~」は、生物的な合体(釣りバカ日誌を思いだしました)以外に、男性的なものと女性的なものを合わせて何かを創造する意味合いもあるように感じました。
単純な思考の女性脳で考えたことですから、笑わないでくださいね(笑)

今のペースを作ってしまったのは、私です。
このままでは、農園主さんがお書きになりたいことより、私の返信の形式になってしまい、これでは申し訳ないと思っていました。
電話やチャットのご提案、とてもうれしく思い考えてみましたが、このスタイルを採るのは時間的な問題があります。
さらに考えてみて、ひとつ提案なのですが。
私のコメント(全然コメントの長さじゃないですよね・・)を、1週間に一度、2週間に一度、といったペースにスローダウンするというのはいかがでしょうか。
もしどうしても早急にコメントしたい時は、特例措置😓として、たまにさせていただくかもしれませんが。

それから、私がコメントした時は、ひとつひとつ丁寧なお返事ではなく、向こうの世界の人たち(笑)みたいに、コメントありがとう~~だけでも充分です。
いずれにしても、農園主さんがお困りにならないやり方が、私にとっても最善の方法だと思っています。

何度も削っているのに、また長くなってしまいました・・・

(追記)
書き忘れました。
コメントは、旧山麓王国のようにこちらに書くのではなく、メールにしてもかまいませんので、そのことも含めてご検討くださいね。
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1208
ギズモさんのつくられた鶏団子の煮物、冬には最高ですね。

キノコも野菜もたんぱく質も、栄養バランスもしっかりで……きょうはブリ大根ですか。

ブリ大根、じぶんではなかなか作らないんですが、おいしいですよね(笑)



女性はおそらく、男性とはものごとの見え方がちがうのだろうとおもいます。

しかしなにがちがうということは、ぼくは女性ではないのでいくら考えてもわかりません。

ものごとをかわいくすることは男にとっては優先順位が低く、女性には優先順位が高い、というくらいの表面的なこと以外に、どこか女性にとっても言語化しづらい深層的ななにかがあるのだろうとおもっています。



ところで、すこし相談なんですが、いまは話題を拾いながら長文で返信しています。もちろんギズモさんにも長文の負担をしていただいてます。

そのやり方だと負担が大きいので、用件のあるときにチャットをするか、電話するようなスタイルに切り替えませんか?

ギズモさんのやりやすいカタチに合わせますし、あるいはいままでどおりがよいということであれば、その中で負担を軽減する形を模索したいともおもいます。

ご意見お聞かせいただければ助かります。
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1206を読ませていただいた直前、まさにその「鶏の冷凍肉団子」(解凍されて売っているもの)と、がんもどき、三角厚揚げ。
野菜は白菜、ニンジン、大根、シメジを入れ、塩味。
「練り物がないのでおでんではない、ポトフともちょっと違う、かと言って鍋料理とも言えない」何かを、作っていました(笑)
普段は肉団子も作るのですが、軟骨入りの肉団子がおいしいので、時々使います。
でも、練り物がちょっとでも入ると、風味やコクが違いますね。

鶏手羽とダイコンの組み合わせはいいですね。
おでん風でなく、ブリ大根の味付けで明日でも作ってみます。

女性作家の江戸時代もの、うっすらと化粧という表現は素敵ですね。
そう言われると、確かに男性が書くものとは違います。
言葉も現代の言葉を使っていたり、難しい政治的な話はあまりなかったりと、とにかく読みやすくなっていますよね。
短編も多いので、ちょっとした時間に読めるのがいいです。
いちいち登場人物の確認にページを戻したり、時代背景がわからず調べたりということが、女性作家の作品にはあまりないように思います。

信長のシェフのドラマは観ていないのですが、原作が完結していないので、途中から脚本家が作ったのでしょうか。
原作漫画では、信長が本能寺で生き残った以上、信長をはじめ、明智光秀や秀吉など、ずいぶん歴史が変わるので、そのあたりをどう始末をつけるのか、ですね。
本能寺の変は1582年ですが、3年後の1585年に、大阪・京都・伊勢・三河でM7の地震が起きているので、その衝撃で突然平成に戻る、というのが私の推理ですが、どうなることやら。
信長を平成に連れて来たらおもしろいのですが、それをやったらギャグになってしまうので、ないでしょうね(笑)
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1205
共依存はどこにでも起こるんですよね。

いま政治の世界でいわれてるキックバックの問題にしたって、だれもがダメだとわかっていてもその依存を断ち切れない、どこか組織的になあなあな、共依存状態になっていたのだとおもいます。

結局こういう場合、おもだった責任者を断罪することになるんですけど、実際には責任者だけを叩いてもガス抜きにしかなりません。

やはり構造そのものを病理として手を打っていかないと解決しないんですが、これがまあむずかしいんですよね(笑)



おでんのウインナー、おいしいです。

冬場のおでんは翌日、あるいは翌々日くらいまで食べますが、ウインナーはそのときに食べきれるだけ入れるようにしないと翌日にはダシガラで、そのかわりスープはほんとうにポトフのようになりますね。

おでんにキャベツという発想はなかったんですが、冷凍の肉団子をおでんに入れるとおいしかったので、それならロールキャベツとおなじだと納得しました。

手羽元もいいですね……お話をうかがってると、練り物なしでウインナーと鶏手羽とダイコンたっぷりの煮物でじゅうぶんな気がしてきました。



杉浦太陽さんと辻希美さんのおうちは豪邸なんですか。

最近はあんまり民放のテレビをみないので、おふたりを見かけることもないんですが、やっぱり有名な芸能人には相応の収入があるのでしょうね。



木挽町のあだ討ち、ぼくはオーディブルで聞きましたが、朗読だと10時間ほどで、たいへんよい作品だったとおもいます。

現代の女性作家の江戸の描き方には共通点があるような気がしてて、ヘンな言い方ですが、作品にうっすら化粧をしているような感じなんですよね。

江戸というゴツゴツした時代に、化粧を施してるような感じで……なんというか、やさしい世界観なんですよ。

信長のシェフ、以前ギズモさんから聞いてはじめて知りましたが、ドラマ化もされてるんですね。
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こういうサイトがあるんですね。
ありがとうございます。
共依存の問題、これは夫婦だけでなく、親子にでもあるということですね。
性格にもよるものかと思っていましたが、風土病と聞くと、納得できるところは大きいです。

おでんの材料は、本当に高いです。
練り物は値段の差が大きく、高いものはおいしい、安いものはまずいの差が歴然としています。

普通おでんには入れないのかもしれませんが、鶏の手羽元(骨付き)を入れると、出汁がよくでて、おかずにもなります。
案外おいしいのは、ウインナですね。
和風ポトフみたいなものです。

そう言えば先日、大根以外の野菜を摂ろうと、めんどうなのでキャベツをちぎって放り込みました。
やっぱり和風ポトフです(笑)

近くに杉浦太陽&辻希美さんのおうちがあるのですが(どこかは知りませんが豪邸だそうです)、やっぱりどこかで会っていそうなのに、会ったことはありません。
たぶん、堀ちえみさんも他の芸能人も、いろいろ工夫して、ばれないような恰好で外出しているかもしれませんね。

Googleで自動的に出てくるニュースの中に、先日お書きになっていた、オーディブルの『木挽町のあだ討ち』の評判がとてもいいと書かれていました。
これも読んでみたいですが、ますます積読が(笑)

文庫新刊の時代物を読みつつ、電子書籍の漫画も読んでいるのですが、「信長のシェフ」がいよいよ最終章のようで、本能寺の変で、信長が死なず、とうとう歴史が変えられてしまいました。
この後、現代(平成)の人物などの伏線を、どう回収していくか楽しみです。
漫画とはいえ、相当歴史を調べた上で書かれているようで、ただの妄想と違い、なかなかおもしろいです。
あ、絵はゴツいので、好きではありません(笑)
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ギズモさんの九州男児に対する感覚は、偏見ではないとおもいます(笑)

九州の男尊女卑は相当なもののようで、以下のサイトでは各都道府県のジェンダーギャップが調べられますが、やはりひどい状態でした。

https://digital.kyodonews.jp/gender2023/

いわゆる「九州男児」の問題は風土病であり、共依存のように作用してるんだとおもいます。

共依存というのは、たとえばアルコール依存症の夫に必要とされることで妻が喜びを感じる、というような状態です。

結局夫はアルコールに依存し続け、妻はそんな夫に依存しながら、くるしい状況がいつまでも続いて、問題が解決しません。

つまり九州男児の問題は、男がそうあろうとしているだけでなく、家庭内や、地域のコミュニティでそのようなイメージを支持している共犯者(共依存者)がいる、と考えるのが自然だとおもいます。

だから、ピンポイントに九州男児を責めるだけではこの問題は解決しません。

おそらく、家庭そのものの構造を病理としてメスを入れていかないと、みんな問題を自覚すらしていないようにおもえます。



堀ちえみさんのお話、以前にうかがったのをおもいだしました。

東京だと、ふだん町を歩いていて芸能人に出会う確率は高いのではないでしょうか。

ちなみに大阪では難波あたりにいると芸人さんとはよくすれちがいます。



おでんは、こっちでは最後におうどんでシメにすることはありますが、ご飯のおかずにはしづらいですよね。

ぼくはおでんは高級料理だとおもってるんですが、練り物や牛すじ、卵などを入れるとなかなかのコストになります。

最近は特に練り物の値段が上がって、畑のダイコンを気軽におでんにもできなくて(笑)
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午前中、うっすらと積もった雪はほんの30分ほどのよわい日差しでもあっという間に溶けてしまいました。

幸い葉野菜にも影響がなく、午後からは収穫作業をし、サトイモをほぐして洗って、一日終了。

あと一週間ほどで帰省しますが、サトイモは年始にもすこしは出せるかな、どうかなといったところ。

1月に雪が積もらずにいてくれれば、カブも出せそうです。

#野菜
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雪でしたか。
寒い中、お疲れさまでした。

おでんは、地域によって味付けや具材が違うようですね。
一般的に、お醤油の色がしっかりついているのが関東風で、うどんもお雑煮もお醤油の色がはっきりついています。
東京は、地方から来た人もずいぶん多いので、家庭によって違いはあると思います。

おでんは、お酒には合いますが、ご飯のおかずにはなぜか不向きです。
クリームシチューがご飯に合わないのと同じかもしれません。

たまに 堀ちえみさんのブログを読むのですが、やっぱりクリームシチューの時は、いつもパンが写っています。
ファンではないし好きでもないのですが、買い物をする場所に共通点があるので、読むことが多く、今まできっとどこかですれ違っている気がします(笑)

偏見とは思いますが、九州の男性は、亭主関白で頑固で封建的、まず自分が一番、妻子は自分につかえる従属物と認識しているタイプが多いように思うんですよね←お身内に九州の方がいらしたらごめんなさい。
九州男児という言い方はかっこいいですが、単なるわがままではないかと(笑)
土地柄というのはあるでしょうが、今の若い世代の人は変わってきているのか、知りたいところです。

近所の人や仕事での知人など、九州出身の男性がもれなくそういうタイプだったので、例外がいることが予想しにくいです(笑)
奥さん、かわいそう~~と思ったことはたくさんありました。

こちらも昨日はずいぶん寒く、風も強かったのですが、雪はまだまだ先のようです。
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きのうはご近所さんとたんまり飲んで、餅をついて、おでんをいただいて、鍋をつくって……男3人で一升五合空いたので、まあよく飲んだとおもいます(笑)

結局風も強く、雪がちらつく寒い日だったんですが、いつも通り外での開催となりました。



田舎にいると、キャッシュレス社会は非常に便利です。

銀行に行くにしても距離がありますし、手元に現金がないときの危機感は都市部より強いので、10年ほど前の現金中心の暮らしよりは、ずいぶん手間がはぶけて、安心して暮らせるようになりました。

しかし、そういう暮らしに慣れてくると、口座の数字が増減するだけで、なんだかお金のやりとりをしている実感がないのは確かです。

最近では買い物をしても、スマホやカードを差し出すだけで終わりますよね。

クレジットカードで決済するような場合は、セルフレジのほうが安心だとおもうし、そうなるといよいよ人との交流が薄れて、アナログさが排除されていきますね。

ギズモさんのおっしゃるように、現金の持つありがたみや、蠱惑的な魔力のようなものは、いまの社会では感じる機会が減っているんじゃないでしょうか。



武田鉄矢さんは本はたくさん読んでおられるんですが、ちょっと山師のようなところがあって、ついていけなくなることがあるというか……思想のチカラが強いんでしょうね。

そのへんのアクが非常に強くて、ぼくもはたからみているぶんにはいいんですが、あんまり一緒にいたいとはおもいません(笑)

かれがあるときから保守的な言動をするようになったのは、結局家族に封建主義的なものをよしとするところが残っていたからではないかとおもいます。

父親が封建主義の権化のような人間で荒れ狂っていたから、その反動で戦後の自由主義を謳歌するようなふるまいをしていたけど、根っこの部分、血の部分では古めかしい性格を受け継いでいるということを、どこかで自覚するようになったのでしょう。

もし父親が荒れ狂うことなく、まっとうな保守性を維持していたら、かれは特に思想的に右往左往することもなく、ふつうの保守的なオッサンとして生きていたのではないかなあ、とおもっています。




こちらは昨夜から雪が降りました。

山が雪化粧をする程度に積もりましたが、道路は濡れているだけです。

午後には雪が解けて、野菜の収穫ができればと期待しているんですが、午前中はうっすらとした二日酔いをなだめながら過ごすことにします。
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不便でアナログなこと、これは伝統的な行事や神事だけに関わらず、日常でもあえて行うことの大切さはありますね。
買い物で現金を使うことはだんだん減っていく風潮にありますが、それでも紙幣は新しいデザインで発行される。
お財布に何も入っていないのでは困ることもありますが、昔ながらの「見せ金」のように、お財布をお札でパンパンにしている人はいなくなったのでは。
お年玉やお誕生日プレゼントを、ラインなどで送金する人も多いとか。
そうなってくると、お金のありがたみが薄れて行くように思いますが、こういう古臭いことを言う人間自体、いなくなっていきそうです(笑)

インタビュー記事、ありがとうございます。
保存しましたので、削除しても大丈夫です。
あまり好きな人ではないのですが、このお話は何から何まで心を打ちます。
実際に戦地に行き、実際に戦った人でなければわからないことは多くてあたりまえですが、そういう話を家族が知るということが、とても大切だと思います。
中には誰にも話せなくて苦しんだ人もいるでしょうし、武田鉄矢さんのお父さんにしても、誇張があったり言えなかった部分もあったりと、表面には見えてこない複雑な心理があったのではないかと思います。

風の様子はいかがでしょうか。
楽しい日になりますように♪
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子供を「地獄に落ちる」というような戒めで教育することは、いまではほとんどないとおもうんですが、これはやっぱり時代ですよね。

たぶん、半世紀もさかのぼると、みんなそこまで法律や社会基盤を信用していなかったんです。

はっきりいつとはいえませんが、ぼくが子供のころに、テレビでコメンテーターが「これからは個人の問題を解決するのに弁護士をつかう訴訟社会になりますよ。アメリカではすでにそうなってるんです」なんてことをいっていました。

いまになっておもうと、その時代にやたらと「法律相談」みたいなテレビ番組が生まれてるんですよね。

笑福亭仁鶴がやっていた「バラエティー生活笑百科」(1985~2022)なんかがそうですね。

そういう社会の変化は、1980年代後半くらいに芽生えてきて、1990年くらいに本格化してくる感じだとおもいます。

で、われわれの行動が法律に縛られてくるのも、この時代からだとおもいます。

法律こそが人の生きる規範を決める、それ以外のなにかが勝手に規範をつくることを許さない、ということです。

こういう社会の変化にともなって、宗教が人を教育する……とりわけ迷信による戒めによって教育する文化が廃れていったのでしょう。



エルサレムの現地の人は不便や理不尽をさほど感じていないのでは、という件ですが、これは人それぞれだとおもいます。

先日、武田鉄矢さんが朝日新聞でインタビューを受けていたんですが、軍人だった父親についての話でした。

父親は戦前の封建主義的な日本の価値観に居場所があって、戦後の日本では居場所がなかった。

戦争トラウマらしき症状もあって、酒に頼ったり生活が荒れるなどの問題があったそうな。

ところが母親はというと、戦前はさんざん憲兵やら社会にいじめられてしんどかった、アメリカが占領してくれて世の中がよくなった、といって人生を謳歌し始めるんです。

おそらくイスラエルにしても、西側の価値観とイスラムの価値観の中で、人それぞれに適性があるだろうとおもいます。

厳格な宗教規則を苦におもわない人もいれば、そういう規範や社会常識に苦しめられている人もいるだろうとおもいます。

いろんな価値観の人が、それぞれふさわしい居場所を持てるのがよいのですが、ひとつの価値観に固執してしまう社会では、なかなか寛容にはなれないようです。



餅つき機があるのに外ではつかわない理由は、イベントとして楽しみたいということと、参加者にひとり子供がいるので、そういうことを体験させてやりたいということなのでしょう。

餅つきもいわゆる神事に連なるイベントだとおもうんですが、神事は猿田彦の一本下駄や安息日もそうですが、わざと不便でアナログなことをして、精神性をつないでいくようなところがありますね。



さて、それではきょうはたぶん一日つぶれてるとおもいます(笑)

ギズモさんにとってもよい休日でありますように。

あ、あとさっきの武田鉄矢さんのインタビューの記事ですが、鍵付きでパスワードを入れると本文をみられるようにしておきます。

パスワードは、ギズモさんが向こうで書いておられるときのお名前の「♪」抜きです。
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昔の人は(昔とひとくちに言っても、昭和が既にレトロと言われているので、どの時代から昔かわかりませんが)、よく子どもに、
ご飯を残したらバチがあたるとか、嘘をついたらバチがあたる(閻魔さまに舌を抜かれるとも)とか、神仏の名をを利用した「しつけ」をしていた家庭が多かったように思います。
その親たちが特に信心深かったわけではないでしょうが、そう言われて素直に言いつけを守る子どもも多く、それはそれでいい時代だったのかもしれませんね。

農園主さんが書いていらっしゃるエルサレムあたりの話だと思いますが、現地の人を取材した番組を観たことがあります。
安息日に電気を使ったらいけないというので、ネットもご法度、炊飯器などはタイマーにしておくなど、若い人も細かく制限された戒律に従っていて、これをもう少し柔軟にしていくという方向性はないのかな、と思いました。

こういうことを考えると、日本に生まれたことは自由があっていいとは思うのですが、もしかすると現地の人は、生まれる前からの習慣なので、さほど不便、理不尽なことだとは感じていないのかもしれませんね。

下駄の事で、つまらないことを思い出しました。
花魁道中の独特な歩き方は、一種の作法だと思っていたのですが、あのようにしないと下駄が高くて歩けないんだそうです。
私なら、一歩進む前に転ぶでしょう(笑)

餅つき機があるのに、外なら使わないというのは、餅つきはお正月を迎えるための伝統的な行事だからでしょうか。
 (追記)単純に電源の問題??

こういう行事は見るだけでも楽しいものですが、やる方は大変ですよね。
風が強い日となって餅つき機でお餅をついて、おいしいお酒を召し上がってきてくださいね。

今日は、変に暖かい日でした(^^;)
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オーディブル。

まんまことシリーズ。

この作品はすこしずつ主人公たちの結婚が進んでいくんですが、それ以外は謎解きのようになっていて、いわば舞台が江戸の、大人による『ズッコケ三人組』のような感じです。

9巻まであるうちの、7巻『かわたれどき』まで聞いて、さすがにすこし疲れてきました。

1巻10時間ほどあるので、70時間ちょっとは聞いたことになります。

そこで、気分を変えて『木挽町のあだ討ち』を聞くことに。



これはなんとなくうわさでおもしろいということを聞いていて、江戸が舞台であるということ以外、どんな話かさっぱりわからないまま聞いてみました。

つい今しがた聞き終えたんですが、たしかにおもしろい。

芥川龍之介が書いた『藪の中』という作品があります。

これはいまでも「真相は藪の中」なんて言い方をする、そのもとになった作品です。

ある男が死んだ、その真相を知るために、いろんな人から話を聞いていくんですが、みんなそれぞれに証言が食い違っていて、なにがなんだかわからなくなる。

『藪の中』はみんな語り口調で話していく作品なんですが『木挽町のあだ討ち』もおなじやり方で、いろんな人が話をする格好で物語が展開していきます。

真相がどんどんわからなくなっていく短編の『藪の中』の向こうを張って、真相がすこしずつ明らかになって、最終的にすべての伏線がキレイに回収される長編が『木挽町のあだ討ち』といった感じ。

たぶん、作者は『藪の中』を意識してるだろうとおもうんですよね。

ちなみに『木挽町のあだ討ち』はところどころにホロッとくるところがあります。

ひとつ間違うとベタな展開になりがちなところを、こちらの心に浸み込むように伝えてくる技術はすごいとおもいました。



あとこれから、遠藤周作の『沈黙』の朗読があたらしく入ってきたのでこれを聞こうかとおもっていて、さらに半藤一利の語る昭和史と幕末史あたりも聞こうとおもっています。

2か月間で200円の割引セールなんですが、いまだいたい一か月。

ふだんの月額1500円はとても出せませんが、さて、タイムリミットまでにどこまで聞けることでしょう(笑)

#与太話
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今週半ばに、日曜日に餅つきをしようとお誘いがありました。

コロナになってから、自治会のイベントが減ったことで、ご近所さんが有志でやってくれているのです。

集まるのは8人ほど。

屋外の餅つきなんですが、去年からはぼくが鍋の用意を自発的にするようになり、ことしもおなじく鍋の野菜や肉の準備と、あとお酒を買いました。

気をつかわなくていいと言ってもらってるんですが、餅や場所を用意してくださるのがふだん物心両面でお世話になっているご近所さんで、すこしくらい還元させてもらいたくて。

しかしあしたはどうも風が強くなりそうなので、もしかしたらご近所さんの家の中で、餅つき機をつかってやることになるかもしれないとご連絡がありました。

そのほうがラクでよいのは間違いありません(笑)

というわけであしたは一日酒飲みになりそうです。

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庚申信仰は、庚申の日の夜には眠ってはならないというんですよね。

眠ると体内から三尸が出てきて、天帝に告げ口をしてわるいことが起こる(寿命が縮む)というような迷信があるため、人の心が離れてしまったのだろうとおもいます。

むかしはそういった民間信仰でも地域の結びつきにはなっていたのだろうとおもうんですが、この手の罰則をつくるような信仰は長続きしないですね。

生前の行いが死後に裁かれるというような地獄思想が現代になって廃れたのも、罰則だからです。

「〇〇してはならない。これを破ると天罰が下る」というような信仰は、法律がまともに機能していなかった近代以前には一定の効果もあったのかもしれません。

が、法による罰則がしっかり機能する時代になると、罰則は宗教の役割ではなくなります。

それに加えて、庚申信仰は古神道のようにはっきりした教祖もなく、「人間はこう生きるべき」という教義もなくてぼんやりしていたところも、衰退の原因だろうとおもいます。



一本下駄は山登りに便利で修験者が履いていたというんですが、そもそもあれを履きこなすのに修行が必要そうです。

猿田彦も現代風にスパイク長靴くらい履かせてあげればいいのになあ(笑)



信仰の作法の件ですが、先日テレビ番組で宗教者ふたりが対談しているのをみました。

いま起こっているイスラエルの戦争について語っていたんです。

イスラエルの、いま戦争が起こっているガザから東へ80kmほど離れたところに、エルサレムがあります。

エルサレムにはユダヤ教の聖地「嘆きの壁」、キリスト教の聖地「聖墳墓(せいふんぼ)教会」、イスラム教の聖地「岩のドーム」があります。

世界の主要な宗教3つの聖地が、エルサレムに固まっているんですね。

日本人であれば、じぶんの信仰にかかわらず、あんまりむずかしく考えず、嘆きの壁にも聖墳墓教会にも岩のドームにも、観光気分で行くのではないかとおもいます。

でも現地では、じぶんの宗教がユダヤ教なら嘆きの壁にしか行かない。

キリスト教なら聖墳墓教会にしか行かないし、イスラム教なら岩のドームにしか行かないのだそうな。

それぞれ、すぐ近くにあるべつの聖地には見向きもしない。

そういう宗教的な頑固さが、長く続いているイスラエルの戦争の一因ではないかというんですね。



なにが言いたいのかというと、じぶんの信仰に対してあまり頑固になって、よその宗教を受け付けないということをすると、それはやっぱり対立を生んで、いがみあうきっかけになってしまうということです。

キリスト教徒がお焼香をするのは、むしろキリスト教の懐の深さを示すことになるでしょうし……お地蔵さんに柏手を打つのも、その人に信心が備わっていれば問題ないような気がします(笑)
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三尸の虫の話は道教でしたね。
庚申信仰というのは、なかなかややこしいですね。
なんとなくですが、神社に行ってお参りするというより、もっと地域的な、人とのつながりを感じま・・・・。

・・・ここでちょっと気になったので、ネットで検索してきましたが、やっぱり「講」もあったんですね。


小野照崎神社、お参りしたことはありませんが、地獄と行き来していたという、小野篁の神社ですね。
ネットで写真を見ると(HPではありません)、まゆ玉みくじの結び処は、五芒星の形になっています。
雅楽の奉納やいろいろな神事もあり、けっこう規模の大きい神社のようです。
SNSで公式サイトがあり、最近は全然読んでいませんでしたが、さきほど見たら猿田彦・庚申塚についての記事がありました。

https://note.com/onoteru/n/n68a01c76be86

猿田彦役の人、天狗のようなお面をつけていますね。
あの一本歯の下駄は、山伏が履く下駄でしょうか。
神職の人が猿田彦役なのかどうかわかりませんが、あれでちゃんと歩けるのか心配です(笑)

(追記)
 この世とあの世の境「六道の辻」に立つ六道珍皇寺の境内には、小野篁が冥土通いに使ったと伝わる井戸がある。六道の「六」がまたありました。

曾祖母の話、個人的なことで申し訳なかったのですが、農園主さんが仰ってくださったこと、よくわかります。
曾祖母のお墓があるお寺は浄土宗なのですが、昔は菩提寺というものは信仰とは別で、単純に先祖のお墓があるからお参りするというものだったのかもしれません。

日本では、特定の宗教一種類だけを信心している人はごくわずかだと思います。
クリスチャンの場合は、寺社仏閣で手を合わせない、お焼香はしないという暗黙の了解があるようですが、郷に入っては~~という感覚がないのかな?と思います。
私もクリスチャンだった時期があるので、そのような融通のきかない姿勢は気になります。

お地蔵さま(高岩寺)や、他のお寺では、お賽銭箱の前で二礼二拍手をしている人がよくいます。
神仏はそのようなことは気にしないと思いながらも、お参りの最中のパンパンという音は、ちょっとイラッとします(笑)←修行が足りない(>_<)
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猿田彦大神庚申堂のご紹介、ありがとうございます。
参考になりました。

庚申信仰はほんとうに不思議で、道教の影響を受けながら、闇鍋のように天台宗、山岳信仰、神道などをごった煮にしているでしょう。

もうすでに江戸時代末期には自然衰退していたといいますが、日本の信仰としては傍流扱いだったためか、明治の神仏分離の直接的な迫害の影響は少なかったようですね。

大阪の四天王寺にも庚申堂があります。

大阪市のホームページでは、庚申信仰の発祥の地であるというのですが、それにしては四天王寺の境内からは外れたところにあり、一般的な都市部のお寺くらいの広さです。

ぼくは庚申信仰について知らないまま、四天王寺あたりを自転車でぶらぶらしていて、このお堂をみつけました。

三猿がいたり、本尊が青面金剛で、三尸の虫の伝説など、非常に変わった伝説があることにおどろいたんですが、たしかあのときはたまたま庚申まいりの日だったかなにかで、それなりに賑わっていたんですよね。

記憶があいまいなんですが、3千円くらいだったかで、お線香とお札だったかを買うことで、中のお堂でご祈祷をしてもらえるようで、ぼくがいた数十分の間にも何組かが購入していました。

あの人々はほんとうに庚申信仰をしているのか、四天王寺の信仰のついでなのか、そのあたりはよくわかりません。

日本三大庚申は、京都八坂、東京浅草寺、大阪四天王寺のみっつなのだそうですが、浅草の入谷庚申堂はいまはなく、小野照崎神社に塚がうつされているようです。

そう考えると、巣鴨の庚申塚駅のほうが信仰としてはまだ残っている感じがありますが、マジメに庚申信仰をしている人はもうほとんどいないのではないかという気がします。




南無大師遍照金剛ということは、真言宗ですね。

日本のいわゆる十三宗で、南無〇〇、という唱名で、日本の僧侶の名前が入るのは、空海(真言宗)と最澄(天台宗)という、同時期を生きたふたりなんですよね。

唱名が、真言宗では南無大師遍照金剛、天台宗では南無宗祖根本伝教大師福聚金剛。

ほかは基本的に南無釈迦牟尼仏や南無阿弥陀仏、日蓮宗は法華経そのものが本尊で南無妙法蓮華経ですね。

そういう意味では、鎌倉以降に出てきた開祖たちと比べて、空海と最澄……とりわけ空海は人間というよりは超越した概念として扱われている感じです。



あくまでぼくの解釈ですが、神仏はわれわれに信仰を押し付けたりはしないので、曾祖母様がみられた夢は、ご自身の心の中に、信仰をおろそかにしているという自覚があったのではないかとおもうのです。

それが夢という形を借りて出てきて、じぶんへの戒めとして心に刻まれた。

信仰というのは、時代の変化、じぶんをとりまく環境の変化、じぶんの心境の変化によって揺らぐもので、ぼくのような気まぐれな人間は特にそうなりやすいから特定の信仰をもたないんですが、曾祖母様はもっと確固たる信仰を目指しておられて、忸怩たるおもいがあったのではないか、とおもった次第です。
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私の方が字数が多くなることが多く、申し訳ありませんm(_ _"m)

先日行った神奈川県の六所神社が総本社だと思っていましたが、HPにはそのような記載もなく、気になるところでした。

「火の鳥」は何回か読みましたが、だいぶ前なので殆ど忘れています。
今度、しっかりと読み直してみますが、手塚治虫は本当にすごい人だったんだな、と改めて思います。

猿田彦の多様性。
巣鴨の駅近くにある、薬師如来の真性寺→とげ抜き地蔵の高岩寺、そしてそこから10分ほど歩くと、「猿田彦大神庚申堂」という、普段は無人の小さな小さな神社があり、
ご祭神は、天津祖庚申猿田彦大神・地津主甲子大己貴神・人津霊己巳小彦名神となっています。
このすぐそばの都電(現在、都内ではこの路線だけです)の停留所名が「庚申塚」です。

ここは、奉賛会が管理しており、社務所もなければ神職も常在していません。

https://www.sugamokoushin.com/index.html

↑に何件も動画はあるのですが、 ↓ が一番様子がわかりやすいと思います。
狛犬ではなく、狛猿です。

https://www.sugamokoushin.com/newpage3-2...


農園主さんのご見解のように、庚申信仰との結びつきだったんですね。
なぜ、庚申塚に祀られているのか、わかっていませんでした。

だいぶ前にお話したかもしれませんが、曾祖母が猿田彦を(も)信心していました。
四国をお遍路した人でしたので、空海は信心していたようですが、他にも薬師如来、猿田彦などを信心していたみたいなのです。
母が、私の曾祖母が唱えるのを聞いていて、弘法大師のご宝号と薬師如来の真言を知っており、
私も小さい時から「南無大師遍照金剛」「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」という、呪文みたいなものを何度か聞いたことがありました。

曾祖母がある時夢を見て(夢ではないと言っていたそうな)、天井を突き抜くような毛むくじゃらの大男が出てきて「なぜお前はわたしを信じなくなったのだ」と聞いたそうです。
曾祖母が何と答えたか、その後信心はどうなったのか、聞いたはずですが覚えていないのが残念です。

コロナが流行り始めた頃、伊勢の猿田彦神社の火打ち石に、「行く道を祓い清める」というご利益があると聞き、電話で問い合わせをし、送っていただきました。
それ以来、家を出る前、帰宅後はカチカチやっています。
お参りに行きたいと思いながらも伊勢までは行けないので、他の猿田彦神社を探したところ、農園主さんがお書きになっている鼻節神社を見つけました。
結局行かなかったのですが、子どもの頃から時々行っている巣鴨の猿田彦神社が、小さいながらも境内社でも末社でもないので、近くていいかなと(笑)

境内社・末社としてはところどころで見かけます。
↓ の画像は、埼玉県岩槻市の「岩槻久伊豆神社」の境内に祀ってある猿田彦です。
やはり天狗、庚申の文字がありました。

猿田彦大神も、私にはご縁があると思えます。

「六」の意味、とてもよく理解できます。
神仏習合と神仏分離は、様々なことにおいて、やはり大事なポイントなんですね。

今回も、いろいろなことが農園主さんのおかげでスッキリしました。
ありがとうございます<(_ _)>


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全国の六所神社はそれぞれ、その土地周辺の六つの神社を合祀したもの、あるいは六柱の神々をまつった神社、という程度の意味のようです。

祭神もバラバラで、全国の六所神社を束ねる総本社があるわけでもありません。

なぜ全国の六所神社が、「六」という数字を選んだのか、「六所」という名前を選んだのかという点について、今回も最終的に謎解きのようになるカタチで、話します。

今回はちょっと話にまとまりがない、というか、複雑多岐にわたるので、覚悟してお読みください(笑)



ギズモさんは、六所神社からシオツチノオジを発見されましたので、まずそこから話をします。

宮城県の塩竈神社の別宮である塩釜六所明神には、六柱の神(猿田彦、事勝國勝、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命)がまつられていますが、それぞれ名前がちがうだけでおなじ神なんだそうです。

それでふと気づいたのが、手塚治虫の『火の鳥』です。



火の鳥は、人間の輪廻転生を描く大作なんですが、この作品によく出てくるのが、猿田彦です。

どの作品にも、名前と人格を変えながら、猿田彦とおもわれる人物が出てくるのです。

まるで塩竈六所神社の祭神のように、みんなちがう名前なのに、おなじ猿田彦なんですよね。

手塚治虫の描く猿田彦は、鼻の長い男です。あるいは作中で突如鼻がふくれあがってしまう、という場合もあります。

これは、猿田彦が天狗信仰と結びついているという伝説からそういう描写にしたのでしょう。



ところで、猿田彦と天狗が同一であれば、シオツチノオジと天狗は同一なのでしょうか。

……しかしどうもこの三段論法は通じないようです。

シオツチノオジと猿田彦は同一です。

猿田彦と天狗は同一です。

しかし、シオツチノオジと天狗は同一ではありません。

仙台にある塩竈神社から東へ6kmほど離れた、太平洋の海岸沿いに、「鼻節神社」という神社があります。

ここの祭神は猿田彦の一柱です。

式内社ですから、由緒は古いです。

猿田彦と鼻節神社、ここから天狗信仰と猿田彦が結びついていった、と考えられそうです。

鼻節神社にはシオツチノオジはまつられていませんから、シオツチノオジは天狗とは結びつかないという理屈にもなります。



話があちこちにいって申し訳ないんですが、手塚治虫は、猿田彦という神のつかみどころのない多様性に注目していたのだとおもいます。

火の鳥に出てくる猿田彦は、おなじような風体でありながら、ちがう時代に、ちがう人格で登場します。

かれは物語の水先案内人であり、同時に主人公でもあります。

こういう描き方をした手塚治虫は、日本神話の重要人物でありながら、形を変えてあちこちに登場して水先案内をする猿田彦という神のことをよく調べていたのでしょう。



ところで、この猿田彦の多様性を説明するキーワードは、「岐の神」だろうとおもいます。

「岐」には、クナド・クナト・フナドなどいろんな読み方がありますが、もともとはイザナギが黄泉の国でイザナミと対決し、戻るときに「これ以上来るな」といって投げた杖が、来名戸祖神(クナト祖神)に変化し、これが岐の神であるというのです。

岐の神は、道祖神の意味もあり、道祖神と猿田彦もおなじであり、シオツチノオジともおなじ神であるともいいます。

道祖神ですから、つまり水先案内の意味を持つんですよね。

さらに興味深いのは、岐の神は仏教と習合していて、庚申信仰と結びついていたらしいのです。

そして仏教における地獄の六道(六趣)から衆生を救う「六地蔵」と、道祖神である岐の神がむすびつきます。



ここで話がもとに戻るんですが、六所神社。

なぜ六なのか、ということなんですが、ここからは毎度おなじみぼくの憶測の論理展開です。

これはやはり、神仏習合と神仏分離が絡んでるんじゃないでしょうか。

まず、地獄の六道の考えが神道と習合します。

そして六道から衆生を救うために、六柱の神様をまつる、あるいは六つの神社を合祀する。

六地蔵だとそのまま仏教になってしまうので、地蔵の部分を神様や神社にしたというわけです。

しかし神仏分離によって、仏教の六道、六地蔵の部分が由緒から抜けて、全国に六所神社という名前だけが残ったことで、ややこしくなった。

以前とおなじく、これも憶測ですから、ほんとうはちがう可能性もありますが、なぜ「六」なのかというひとつの推測にはなるようにおもえます。



きょうもそこそこの字数になったので、ぼくの相性の良い神仏の話については、次回以降ということで(笑)

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