山麓王国

2025年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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コレステロール値を下げるお話を、一番最初に書いてくださったんですね。
ありがとうございます。

キノコと海藻なら、他の食べ物よりも継続して食べやすいですね。
シイタケは高いですが、干しシイタケを活用してもよさそうです。

鶏むね肉とキノコ、とってもおいしそうです。

いつも頭が下がるのは、身体にいい食材をなんでもいいから食べるという姿勢ではなく、組み合わせや味付けを工夫してレシピを考えていらっしゃることです。

以前は、マイタケがインフルエンザ予防になるとか言われていたので、マイタケやキノコと海藻、ちくわを炒めたものをよく食べていましたが、最近そんなメニューは忘却の彼方でした(笑)
また復活させます!

海藻の効果は本当にびっくりするほどすごいんですね。
昔はどこの家庭でも、お味噌汁の具として、ワカメは毎日のようによく食べていたはずですよね。

最近は、大きなスーパーでも、生ワカメ(塩わかめはたまにあります)や生昆布(切り昆布)を見つけるのが難しいんです。
普段は乾燥ワカメを使いますが、おいしさが生のものとは全然違いますね。

アカモクも、乳酸菌入りの小袋パックになっているのは見たことがありますが、一般に売られていません。

お味噌汁と言えば、土井善晴という大阪の料理家をご存じですか?
「一汁一菜でいいという提案」という文庫本を読みましたが、いわゆるレシピ本や、食に関する解説本ではありません。

おかずの数が少ないと手抜きしたように思うことが多いけれど、一汁一菜とは、ご飯と具だくさんのお味噌汁、それで立派なご馳走であって手抜きとは違い、健康にもいいというようなことでした。

キノコと海藻も、忙しい時、おかずを作れない時があれば、お味噌汁に入れれば継続しやすいと思いました。

以前、花粉の時期に塩昆布を毎日食べていたらその年は花粉(訂正:花粉症)が軽かったというお話をしたように思うのですが、農園主さんの記事を読ませていただき、納得しました。
私は、お塩の効果かなと思っていましたが、海藻の効果だったんですね。

寒天は、なんといってもあんみつです(笑)
黒蜜をかけて食べたくなりました。

生クリームや油の多い洋菓子より、水羊羹など、寒天のデザートがよさそうですね。

知らないこと、すぐに役立つことばかりでした。
ありがとうございました。

次回も楽しみにしています(*^。^*)
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今回は短文です。

前回に引き続いて健康関連の話をさせていただこうとおもいます。

話をまとめているうちに、芋づる式にいろんなことがわかってきてちょっと衝撃を受けてるんですが、これがちょっと書きまとめるのに時間がかかりそうなんです。

次回、もう少し詳しく書きまとめさせてください(笑)

それで取り急ぎ、コレステロールを下げるという話題について、箇条書きにしました。



・食用の海藻類はおおむねすべて、コレステロール値を下げる作用が強い。ただしカラギーナンだけは毒性が懸念されており、摂取しないほうがよいです。

・海藻類の中でも昆布やアカモクのぬめり成分であり、水溶性複合多糖類(食物繊維の一種)の一種であるフコイダンには、一部の抗がん剤に匹敵するがん細胞の抑制作用があります。

・水溶性複合多糖類がコレステロール排出作用と、がん抑制作用をもたらしているようです。水溶性複合多糖類には海藻以外にキノコ類も含まれます。

・水溶性複合多糖類には、アレルギーを抑制する作用もあります。

・海藻類にはヨードが多く含まれていることから、医療的な情報をみると控えたほうがいいと書かれてありますが、仮に長期間摂りすぎて甲状腺機能障害が起こっても、摂取をやめれば速やかに回復するとのことです。

・寒天にはヨードが含まれていませんので、ヨードが気になる場合は、海藻をひかえ目にして、キノコと寒天の組み合わせがいいかもしれません。

・キノコ類と海藻類にはたくさんの種類がありますが、それぞれ水溶性複合多糖類の種類と成分もちがっており、それぞれに作用のあり方がちがいます。しかしどれも効果の大小はあっても、「コレステロール値を下げる(血圧を下げる)」、「血糖値を下げる」、「がん抑制作用がある」「抗アレルギー作用がある」という点は共通しています。

・難消化性デキストリンという、水溶性食物繊維の抽出物が売られています。よく飲み物に入っていて特定健康食品みたいになっていたりしますが、これは水溶性多糖類に似ていますが、デンプンから抽出したものです。がん抑制作用はフコイダンの4分の1。これで上記のすべての健康作用を補うことはできなさそうです。



以上の点をまとめると、こうなります。

「いろんな種類の海藻、いろんな種類のキノコ、つまりいろんな種類の水溶性複合多糖類をまんべんなく、すこしずつ毎日摂取することが、将来の血液疾患予防、がん予防、免疫向上(アレルギー抑制)に非常に効果的である」

そこに加えて、脂肪の摂取をひかえ目にする(平均摂取量の半分以下といいますから、1日の脂質量を20~30gに抑える)と、血管プラークの減少も期待できるようです。

ごはんは控える必要がなく、パンもあんまり脂肪の多いものは控える程度でOK。

お肉は赤身を中心に、そのとき摂取したコレステロールは海藻ときのこで速やかに排出、というイメージです。



どこのスーパーでも手に入るような食材とはいえ、物価の高い時節柄、あんまり無理なことは言えませんが、ちょっと健康効果の高さに衝撃を受けて、取り急ぎ書いてみた次第です。

ぼくはこれを知って、キノコと鶏むね肉を甘酢と醤油でサッパリ煮にしたものに、陳皮パウダーをたっぷりかけていただきました。

(追記)今の時期生のアカモクが出回っていて、下処理して湯がいたアカモクのポン酢和えも食べています。

なんとなく健康になった気がします。←

前回、脂っこい料理に陳皮パウダーが合うと書いてしまいましたが、あれはやっぱりぼくの症状からいえば、アウトのようです(笑)

もうご存知だったら勇み足でほんとうに申し訳ないんですが、次回、参考資料なども含めて、どうしてそうなのか、という点をできるだけわかりやすくまとめたいとおもいます。
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とっさに思い出したみかんの皮の粉ですが、お役に立って何よりです。
釈迦に説法どころか、知っていた以上のことを詳しく教えていただき、本当にありがとうございます。

人間の肉体は酵素のカタマリということは、まったく知りませんでしたし、代謝の良し悪しに関係していたということも知りませんでした。

あれ以来、私も週一度でなく、毎日摂るようになりました←ちょっとえらいかも(笑)

先日、アレルギーの薬をもらいに内科に行きましたが、「前回の検査から1年経つので、次回はコレステロール値の検査をしましょうね」と言われてしまいました。

「悪玉コレステロール値を低下させる」と書いてくださっていたので、1~2ヶ月、毎日みかんの粉を摂っていれば、絶対コレステロール値は下がっているはずと信じ、続けるつもりでいます。

みかんの皮パウダーの使い方ですが、いろいろ活用イメージを膨らませていらして、すごいなぁと感心します。
私もぜひ参考にさせていただきたいと思います。
食生活に取り入れておいしく摂取できたらそれが一番ですので、お試しになったことがありましたら、また教えてください。

私も、毎日小さじ1杯摂ることで、コレステロール値だけでなく、花粉症や皮膚のかゆみなどのアレルギー症状、免疫アップにも効果があればいいなと思います。

『豚ひき肉としいたけとタマネギのみじん切りを甘辛く炒めたもの』は、とってもおいしそうですね~。
常備菜として、作ってみたくなりました。

伊勢のアマテラスのお話、ありがとうございます。
おかげまいりの流行は、本当にすごかったようですね。
確か、『東海道中膝栗毛』も伊勢に行くお話だったと思いますが、その他、時代物の小説にたまに出てきます。

伊勢神宮が、仏教の影響を受けなかったというお話、とても興味深く読ませていただきました。

伊勢神道・神本仏迹という言葉、出雲大社の境内に仏堂や経典が並んでいたということも、初めて知りました。

江戸から明治の過渡期に過激な廃仏毀釈が行われ、徳川打倒とともに天皇を神とした時代が始まるわけですね。


「伊勢神宮のアマテラスが絶対神」という考え方が今も継続しているために、神棚は、「天照皇大神宮=神宮大麻」のお札を真ん中に祀り、氏神さまのお札は右、左に崇敬神社のお札という決まりになっているんですね。

ここで、ちょっと気になって調べてみたのですが、伊勢神宮のホームページに、
[神宮のお神札は「神宮大麻」と呼ばれ、大麻とは「おおぬさ」とも読み、お祓いに用いる祭具を意味します。古くは伊勢の御師によって御祓大麻として配布されてきましたが、明治天皇の思召により、国民が朝夕皇大神宮を敬拝するために神宮から全国各地にお頒ちすることになりました。]と書かれていました。


ということは、伊勢にお参りに行った人は、その「御祓大麻」なるものを受けていたかもしれませんが、家庭で天照大神のお札に手を合わせたり、神棚にお祀りするようになったのは、明治の時代からということになりますね。

伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い

ウィキペディアの「伊勢神宮」には、このように書かれていました。
天皇の思召が関係したのもわかりますが、伊勢神宮のお札を売りたいための陰謀、策略ともいえるかもしれません(笑)

数年前、出雲大社の東京分祀に初めてお参りに行きました。
繁華な六本木の裏道の、ビルの中にあります。

たまたま誕生日だったので、記念にご祈祷を受けたところ、お酒や絵馬、おしゃもじの他、神棚にお祀りするお札もいただきました(下に写真をアップしました)。

出雲大社のお札は、他の神社のお札とは別格ではないかと思い、お祀りする場所を尋ねたところ、「伊勢神宮が真ん中でも出雲大社が真ん中でも、並べても重ねても、そんなことで神様は怒りません」と言われました。
その時、同じ質問を伊勢神宮で聞いたら、どのような答えが返ってくるのか、気になりました(笑)

また、「江戸時代には通史がなくて、徳川以前にだれが社会を統治していたかわかっていなかった」というのは、ちょっとした驚きでした。
改めて国学についてざっと調べてみましたが、主だった国学者の名前は知っていても、教科書で習った程度のことしかわかっていませんでした。

当時の国学者の研究がなければ、いまだに徳川のような政治体制が続いており、仏教が主流となり、天皇制にはならなかったということもあるのかもしれません。
そんなことを考えると、日本の宗教というのはおもしろい過程を経ていますね。

毎年1月末までには終えている、神棚・仏棚のお札の入れ替えですが、巣鴨のお地蔵様のお札だけがまだでした。

いつもは元旦祈祷をお願いし、1月5日以降に木札を取りに行くのですが、ほぼ毎日おこなっている20分の特別祈祷の際も申し込めると聞き、昨日行ってきました←この特別祈祷は、東日本の震災後に始まったもので、無料で誰でも本堂に上がってご祈祷を受ける(見聞きできる?)ことができますが、お札を申し込むと料金がかかります。

元旦祈祷の十把一絡げと違い、ちゃんと名前も呼んでいただき(4人しかいなかったので)、大変ありがたく受けることができました。

ご祈祷の時、ひっきりなしに、お参りしている人の声などが聞こえてきます。
お寺なのに柏手訂正:手を叩いている人はずいぶんいて、「お寺と神社の区別も知らないで来てるのかしら?」と、気にはなりますが、それだけ日本の宗教は、規律が厳しくなく、誰もが気軽にお参りでき、親しみがあるということなんですね。

どこのお寺でも、「ここは神社ではないので手は叩くべからず」という張り紙をしたり注意することもないし、神社で二礼二拍手をしなくても咎められることもなく、要は、お参りする人の心、なんでしょうね。

信心に大切なのは、規律やきまりではなく、自由なのかもしれないと思えます。

さらに余談ですが、氷川神社に行った時、後ろに並んでいた30代くらいのカップルの会話が聞こえてきました。
「ちゃんとみんな二礼二拍手してるね~。御朱印も並んでまでもらってるけど、ちょっと前まではこんなじゃなかったよね? いつから日本はこうなったんだろう」と女性の方が男性に話していましたが、同感です(笑)


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みかんの皮パウダーなんですが、健康効果が高いですね。

ギズモさんはもうご存知だろうともおもったんですが、釈迦に説法だとはおもいつつ、すこし突っ込んで調べてみたことを書いてみます。



血管ケアに努めておよそ一か月。おかげさまで体調は日に日によくなっています。

血管によい食材はじつにたくさんあるのですが、なんとなくイメージで、韃靼そば茶のルチンが浮かびました。

食習慣に取り入れようかとおもいましたが、ぼくはお茶を習慣的に飲み続けるのが苦手なんです。

しかしルチンはビタミンPの一種なのですが、ヘスペリジンもビタミンPだったんですね。



ちなみにビタミンとは「糖質・脂質・タンパク質の代謝を円滑に進めて潤滑油のような働きをする栄養素」のことをさすそうです。

人間の肉体は酵素のカタマリで、この酵素が代謝をつかさどっています。

酵素がうまく作用しなくなると、糖質・脂質・タンパク質の代謝がうまく働かなくなり、肉体の不調としてあらわれるわけです。



酵素がうまく働いている状態は「代謝がよい」。

酵素がうまく働かない状態は「代謝がわるい」ということですね。



ビタミンは、体内に入ると酵素を補う「補酵素」として作用するようになります。

なので、生活の乱れなどで多少代謝のわるい状態でもビタミンを補給していると、働きのにぶった酵素を補うので、ある程度は底支えしてくれます。

ビタミンは体内では合成できないので、食品で摂取する必要があります。

ただビタミンPの場合、補酵素として作用するのですが、体内でも合成できるので、厳密にはビタミン様物質といわれているようです。



ご紹介いただいたギズモさんに向かっていよいよ釈迦に説法で恐縮なんですが、以下がビタミンPの作用ですね。

毛細血管を強くする
血流を改善する
悪玉コレステロール値を低下させる
抗アレルギー作用がある
免疫力をアップする
血圧の上昇抑制作用
活性酸素を除去する働きがある



ビタミンPは、ルチンやヘスペリジン、ケルセチンなどのフラボノイド(色素)の総称だといいます。

つまりビタミンPは、フラボノイドのうち健康効果が同様の数種類をまとめたものということのようです。

そばや柑橘の皮、赤タマネギの皮が代表的なんですが、ビタミンPに限らず、フラボノイド(色素)の多くには似たような健康効果があるようです。

たとえばナスのあの紫色の皮(ナスニン)、トマトの赤(リコピン)、ピーマンの緑色(ヘスペリジン)、ブドウやブルーベリーや赤ジソの紫色(アントシアニン)、ゴマ(セサミン)はすべてフラボノイドとして、血管を強くする健康効果も備えています。

またイチョウの葉のサプリメントがありますが、イチョウの葉にはフラボノイド類が多いのだそうです。

大豆にもフラボノイドが含まれていて、これはイソフラボンとよばれています。こちらは血流には作用しませんが、女性ホルモンに似た働きをするといいます。



しかし血管にいいとされるフラボノイド野菜、夏場はなんとかなりそうですが、冬野菜には不思議とラインナップがないんです。

最近の果物、そのまま買うのは高いですし(笑)

その点みかんの皮パウダーは冬に積極的に摂取するのがよさそうですね。

ほかのフラボノイド系の食材に比べるとコスパもよいですし、個人的には年がら年中加えたいくらいの薬味でした。

あとコスパがよいのは、ゴマでしょうか。

ゴマを5g弱で、サプリメント1回ぶんくらいのセサミンがとれるようです。



前回、ギズモさんの想定していた食べ方ではないかもしれないとおもって言えなかったんですが、おもいきって言います。

みかんの皮パウダー、麻婆豆腐にふりかけたり、先日は豚ひき肉としいたけとタマネギのみじん切りを甘辛く炒めたものにたっぷりふりかけて、丼にしていただきました。

脂のつよい肉やこってりした中華系の料理と、風味の相性がいいと感じています。

今度は汁なし担々麺にたっぷりかけて食べたい(笑)

ふだんの食生活に取り入れて美味しくいただいています。

いままであまり意識してこなかったんですが、色の濃い野菜の健康効果が高いことに気づかせていただき、感謝しています。



さて、むかしの人々が伊勢のアマテラスを認識していたかどうかということなんですが、これが長い話になってしまいました(笑)

お伊勢参りが大流行した江戸時代の人々は、お伊勢さんの神がだれであるかについては、あまりこだわらなかったとおもいます。

現代でもそうだとおもうんですが、たとえば四国八十八箇所の霊場を巡るときに、お参りしたひとつひとつの寺院にまつられているご本尊を確認する人はあまりいませんよね。

みんなじぶんの我欲や煩悩と向き合うのが目的なのであって、対峙する相手(神仏)が具体的にだれなのかということは、あまり突き詰めません。

強いていえば、たいへん尊い神仏であることは承知しているが、名前もお姿も存じ上げず、ただおすがりしに行くのだ、というようなスタンスでしょうか。

お伊勢参りをする人々も、多くはおかげまいりの流行に乗るのが目的で、よほど国学を研究している人でもない限り、具体的な宗教意識をもって参拝した人は少数だったのではないかとおもいます。



しかし、江戸時代に突如流行したおかげまいりには、遠巻きにある思想が影響しているかもしれません。

というのも、伊勢神宮は古来から仏教の影響を受けませんでした。

というより、仏教が主で、神道が従であるという関係性をはね返してきたのです。

アマテラスが大日如来と習合したケースも各地にはあるんですが、伊勢の神宮は本地垂迹(神仏習合)を断固として認めませんでした。

これには理由があります。



鎌倉時代に外宮の神官だった度会氏(わたらいうじ)の一族を筆頭に、当時隆盛を極めていた本地垂迹に対して、強く反対したんです。

そして、アマテラスを絶対的な神格として、神が主で仏教こそが従であるという思想(伊勢神道)を唱えました。

これは仏が主で神が従であるとした本地垂迹(仏本神迹)に対して、「神本仏迹」ともいわれます。

このような主張ができたのは、伊勢の神宮がほかの神社に比べて特別な場所だったからでしょう。

戦後に社格制度はなくなりましたが、古くから伊勢神宮の社格は最高位であり、近代社格制度においても「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」という位置づけだったんです。



多くの神社は、平安時代あたりにはどこも衰微しています。

庶民が神様より仏様を信じるようになっていたんですね。

ごく自然なかたちで「仏教 > 神道」という意識が生まれ、本地垂迹が起こります。

どこの神社も仏教に飲み込まれるようにして、神々が仏教由来の何者かへ変化していきました。

人々もまた、「あのよくわからん神さんもじつは仏さんやったんか。それなら一緒に拝もう」といった具合で、神仏習合を受け入れたんですね(笑)

あの出雲大社でさえ、鰐淵寺と結びついて神宮寺となり、江戸時代(1667年)に神仏分離が寺社奉行に認められるまでは、境内に仏堂や経典が並んでいたといいます。



伊勢神道を前回話した内容でたとえると、アブラハムの宗教における絶対神のような存在として、アマテラスを考えたようです。

多神教における最高神として、しかもあらゆる神仏と別格の存在としての絶対神という位置づけでした。

この思想が、江戸時代に研究された国学の基礎になります。

なにせ当時の日本には通史がなかったので、だれも徳川以前にだれが社会を統治していたかなんてわかっていませんでした。

国学はこの天下が、もとは天皇が統治していた神国だったことを突き止めました。

そしてこれが尊王論の論拠となって、徳川打倒の起爆剤になります。



江戸から明治の過渡期になると国内に仏教アレルギーが巻き起こり、過激な廃仏毀釈が行われました。

この仏教アレルギーは、半ば徳川体制への反動といってもいいでしょう。

そして近代日本は仏教を弱体化させ、天皇を絶対的な神として位置づけるようになりました。

明治に誕生した国家神道の根っこをたどっていくと、アマテラスを絶対的な神として、神本仏迹を主張した伊勢神道があります。



ギズモさんが、日本人はありとあらゆる神仏に祈れる民族で、森羅万象に感謝の念を抱き、拝むことができるとおっしゃいました。

ぼくもそこが日本の宗教のアイデンティティだとおもいます。

しかしそんな日本の風土の中でも、伊勢神道は多神教の融和性をあえて否定し、みずからを至高の存在だと主張ました。

その点で伊勢のアマテラスには、よくもわるくもカリスマがあったのでしょう。

そうやって考えていくと、江戸時代におかげまいりが間欠的に流行したのは、もしかしたら徳川家の仏教びいきとその腐敗に嫌気がさしていた庶民がそれとなく反抗して、アマテラスのカリスマに頼った側面があったのかもしれません(笑)



二荒山神社の賽銭箱のお話、遥拝所のようになっていたんですね。

この件もお話したいことがありましたが、長くなってきたので次回以降のタイミングのあるときにさせてください。
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詳しいご病状を知らないのに、食事で軽快すると思うなどと、軽々しいことを書いてしまい申し訳なかったです。

納豆のように簡単に食べられるものでも、食べ続けるのはなかなか厄介なことですよね。
精神的な負担になっては却ってよくないし、ほどほどでいいのかもしれません。

今回の記事を読ませていただき、一神教の国と違い、日本人というのは本当にありとあらゆる神仏に祈れる民族なんだな、と改めて感じます。
神様仏様だけでなく、道端の石ころや太陽、月、木々、葉や花、川に海など、森羅万象に感謝の念を抱き、拝むことができるのは、日本人だけかもしれません。

ありがとう、おかげさまで、の心にもつながっているように思います。

寺社仏閣は祀ってある神仏がそれぞれ違うのに、こだわらずに参拝する人は多いですよね。
ここはオオクニヌシだからやめようとか、観音様だからやめようとか、そんな人はあまりいないと思います。
これは、八百万の神、仏様など、祈る対象がたくさんあることや、「宗教」「信仰」という、あらたまった向き合い方をしない、日本人独特の宗教感だと思えます。

「おかげまいり」のことからふと思ったのですが、ご祭神の天照大神を理解してはるばる行ったのか、とてもありがたい神様がいらっしゃる神社だから行こうと思ったのか、そのあたりはどうなんだろうと。

そんなことを突き詰めるつもりはないのですが、現代にしても、「伊勢神宮」だから行こう、という認識なんだろうと思えます。


一神教やエジプト、ギリシャ神話などの、わかりやすく詳しいお話をありがとうございます。

『当時の中東やヨーロッパで覇権が移り変わる中で、信じられていた神が政治権力に組み込まれて、徐々に融合していくのはおもしろい現象です』
これは本当に興味深いことですね。
日本だと、仏教が入ってきた時も、それを政治に利用してきたし、神道にしてもそういったことがあったかと思います。

日本は雑多な宗教が入り混じっていますが、一神教の国であれば、また日本とは違う経緯があったのでしょう。

どの国でも、政治と宗教は切り離せないところがあるわけですね。

そういえばトルコは、イスラム圏でありながら、政治と宗教を分断した歴史がありましたね。
東洋と西洋の文化が入り混じる、不思議な国です。

神仏は、一般的には見えないし、声も聞こえません。
それは、どんなに熱心な信者であっても、神仏を信じない人であっても、同じことでしょう。

結局は、唯物論のように、自分の心が作り出しているということになってしまうのでしょうが、見えないものを信じ、すがり、支えにして生きていくことができるのは、人間の特権かもしれませんね。

『洋の東西、宗教の違いにかかわらず、われわれはじぶんの生き死にを、目に見えない大きな存在にゆだねて安心していた』
人間として生まれてきた以上、このように生きていきたいと思います。


今年は節分・立春が一日ばかり早かったですね。
恒例の(笑)、吉方位へのプチ旅行に、2泊で行ってきました。

北が吉方位のひとつだったので、近場ですが、宇都宮の「二荒山神社」にお参りしてきました。
ここは、日光東照宮のそばの二荒山神社(ふたらさん)と同じ字を書きますが、「ふたあらやま」というそうです←ややこしい・・・。

本殿に行く階段が95段ということでしたので、楽して脇の女坂から行こうとしましたが、初めてのお参りでしかも立春。
心と体に鞭打って、階段から上がりました。

30代くらいの人たちもふうふう言ってましたので、私だけじゃないです(笑)

この時神様に、「私、一生懸命上ってますよ」的なことを心の中でお話していたのですが、上がりきったとたん、曇っていたのに、サーっと陽が差してきたのは、とてもありがたい気持ちでした。
神様が「よしよし、がんばって上ったからご褒美じゃ」と言った、、かも(笑)


初めてだったのですが、なんとなくいい気を感じたので、ご祈祷を申し込みました。
30分に一度あるのですが、私の回は、私一人で、ラッキーでした。

今どきは畳の上でも椅子が置かれていますが、こちらの神社の本殿では畳に正座ということで、しびれたらどうしようと悩んでいるうち、あっという間に終わりました(笑)

次の日は栃木県立美術館に行きました。
県立美術館は、どこでも、その県出身の作家がメインですので、あまり知らない人ばかりでしたが、著名な画家や外国人の絵もあり、けっこう楽しめました。
とってもひまな静かな美術館で、私の他、ふたりしか見かけませんでした。

帰ろうとして、ふと外を見たら、なんと雪が降っていました!!
1時間ほどでやみましたが、東京ではこの冬降りそうもないので、ラッキーでした。

写真をご覧いただくとわかると思いますが、鳥居を入ってすぐのところに赤いお賽銭箱が置いてあります。
宇都宮の慣習かと思っていましたが、今、投稿するにあたり、理解できました。
階段はもちろん、女坂から上っても、本殿まで参拝に行くのはおっくうなこともあるので、上まで行かなくてもいいから、とりあえずここでお参りしてお賽銭を入れていきなさい、という意味なのでしょうね(笑)

毎日通る近所の方々には、とても合理的なシステムだと思いました(毎日通っても毎日お賽銭は入れないでしょうが)。


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ほんとうに医食同源とはよく言ったもので、カラダに起こる多くの問題は食生活の改善で避けられるんでしょうね。

そうはいってもなかなかじぶんの食欲と肉体と折り合いをつけるのはむずかしいことなんですが(笑)



「見えないなにかが守っていた」というお話で、以前も似た話をしたかもしれませんが、もう少し突っ込んで雑談してみようとおもいます。

アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は一神教で、絶対神がいますよね。

ユダヤ教やキリスト教ではヤハウェとかエホバ、イスラム教ではアラーと呼ばれています。

そのような絶対神のいる宗教では、たとえば病気にかかる、死ぬというようなときも、神の思し召しによってそうなったのだと、すなおに受け入れてしまうんですね。



もちろんそうはいっても、実際にはそんなカンタンには割り切れなかったとおもいます。

生きる執着はわれわれの生命の根本ですから、生の執着を前にすれば宗教なんて方便にすぎません。

いくら頭では「主にお任せします」と繰り返しても、肉体の痛みを前にすれば、勘弁してくれ、なんとかしてくれ、と叫ぶほかないときもあるでしょう。

しかし、それでもやっぱり、われわれはじぶんの意志で生まれてきたのではないし、訪れる死もじぶんの意志ではどうしようもありません。

この理不尽にかりそめにでも納得するには、じぶんの生死にはじぶんの意志ではどうにもならないチカラが働いているとおもうほかないんですよね。

そしてその大きなチカラは、人間よりも優れた叡智をもっていて、われわれを導くために生まれさせ給い、そして死なせ給うのだと。

そう考えないと、人間は生きるにせよ死ぬにせよ、その孤独に耐えきれません。



余談ですが、ユダヤ教よりさかのぼって紀元前3000年ごろ、エジプト神話では太陽神ラーが最高神に位置付けられていました。

しかし15代エジプト王朝あたりから覇権がナイル川中流の都市テーベに移ります。

するとラーはその地で崇められていた軍神アメンと融合し、「アメン=ラー」となりました。

アメン信者がエジプト王朝の政権中枢に食い込んできたというわけです。



ちなみにファラオ(古代エジプトの王)はラー、もしくはアメンの化身とされました。

紀元前2500年ごろ、エジプト第5王朝あたりから、ファラオの即位名の最後に「ラー」の名前がつくようになります。

これは、ファラオはラーの化身であるという意味を持っていました。

歴代で200人以上いるファラオの中でもっとも有名なのはツタンカーメンでしょう。

この第18王朝のファラオの正確な名前は「トゥト・アンク・アメン」です。
日本ではこれを省略して「ツタンカーメン」と呼んでるんですね。

「アメン神によく似た御姿」というような意味なんだそうです。



エジプト王朝からさらに時を経てギリシャ神話が生まれます。

さらにギリシャ神話を模倣するかたちでローマ神話が生まれました。

ギリシャ神話の最高神はゼウス。

ローマ神話の最高神はユピテル。

このふたりはおなじ神だといわれます。

そしてゼウスもユピテルも、ゼウス=アモン、ユピテル=アモンという呼び方で、エジプトのアメン神と融合するんです。

当時の中東やヨーロッパで覇権が移り変わる中で、信じられていた神が政治権力に組み込まれて、徐々に融合していくのはおもしろい現象です

日本の神仏習合とも似ていますね。



日本の場合、かつて伊勢に「おかげ参り」の風習がありました。

伊勢神宮の門前町は「おかげ横丁」といいますが、これは江戸時代に伊勢参りのことを「おかげ参り」と呼んだことに由来しています。

なぜおかげ参りというようになったかというと諸説あります。

アマテラスのおかげさまでお参りできる、という意味。

また伊勢参りは一種の修行でしたから、道中人々に物心両面で助けを受けながら参拝の旅をします。

この、道中の人々の情けのおかげでお参りができるという意味。



個人的にはまず仏教用語として根付いていた「お蔭様」という言葉があったとおもいます。

そこに太陽神であるアマテラスの光の「影」の意味合いを重ねることで、おかげ参りとしたのではないかとおもっています。

アマテラスの光を求めて旅する「おかげ参り」というわけです。

いずれにせよ、われわれはじぶんのチカラだけでは決して生きてゆかれないのだ、という敬虔な感情がおかげ参りを支えていたのは間違いありません。

洋の東西、宗教の違いにかかわらず、われわれはじぶんの生き死にを、見えない大きな存在にゆだねて安心していたんですね。



ヘスペリジンの情報とともにお気遣いをいただき、感謝と恐縮の気持ちでいっぱいです。

気弱になりがちなタイミングでしたから、よけいにご厚意が身に沁みました。

七味につかわれる陳皮だけがこんな細かい粉末になったものがあるんですね。

みかんの甘い風味と同時に粉山椒のような風味があって、レシピを調べてみたらいろんな料理につかえそうです。

個人的に好みの味でした。

陳皮には血流をよくする働きとともに胃腸の働きをととのえる効果があるといいますし、免疫向上も期待できそうです。

大事に、かつ積極的に利用させていただきます。ありがとうございました。

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まだ本復とは言えないかもしれませんが、かなり軽快してきたご様子で、ほっとしました。

原因に思い当たり、納豆で対処なさったこと、本当によかったです。
以前のご経験というものは、必ず役に立ちますね。

それにしても、首のリンパのしこりがほとんど消えたというのは、すごいですね。
納豆の血栓を溶かす効果が理解できました。

なにより、全身に起きた様々な症状が、原因はひとつだったであろうということ、そして、納豆を毎日食べることにより、そのどれもが着々と改善されていったという納豆効果、このふたつに、本当に驚かされました。

原因に思い当たったこと、これは、ちゃんと見えないなにかが守っていた、ということではないかと思えます←すぐそういうことと結びつけてと言われそうですが(笑)

なぜ最初すぐでなく、ひどい症状が積み重なり、どうにもならなくなってきた時点で気づかせたか。
普段きちんとできることをやっておかないとこうなりますよ、ということを知らせたかったように感じます。

私は気管支関連で同じようなことがあったのですが(できることをサボっていたため、一気にひどくなった)、致命的になる前に、何か見えないものに気づかせてもらったと思っています。

ところで、またよけいなことをしてご負担になってはいけないと思いますし、健康法のようなものは個人差があるので、どれだけ効果があるかわかりませんが、楽天から「みかんの粉」を、とりあえずお試し用に一袋お送りしました。
数日中に、メール便で届くかと思います。

値段がわかってしまうので大変失礼なのですが、その商品説明をお読みいただきたいと思い、貼っておきます。

https://item.rakuten.co.jp/tarunoaji/mik...

↑に書かれている「ヘスペリジン」という、みかんの皮の白いところも含めた成分(ポリフェノールの一種)が、血流をよくし、血栓予防にもつながるそうです。
この商品説明にはそこまで書かれてはいませんが、以前コロナが発生した時、どこかの大学で、ヘスペリジンの効能について発表がありました。
身近には、血糖値が下がった人もいます。

私の場合、免疫をあげ、風邪やコロナなどにかかっても重症化しないというデータがあったので、3年以上欠かさず(とはいっても、さぼっているので1週間に一度くらいの頻度)、ヨーグルトに入れて食べたりしています。

和歌山県・三重県のみかんの皮を洗浄し高温乾燥させており、農薬残留量が極度に少ないという、安心できる食品です。
いわゆる陳皮ですが、細かい粉末になっているので、摂りやすいです。

おせっかいではありますが、とにかく一度お試しください。一日、ティースプーン一杯で充分だそうです。
スープやお味噌汁、飲み物に入れたり、納豆にかけてもいいかと思います。

死の予感というのは、本当に恐ろしいものです。
おととしのコロナの時、このまま死ぬんだろうなと思い、気持ちを明るく持つことも、かといって悲観的になることもできず、ひたすら神仏に(困った時のなんとか)祈ることしかできませんでした。
毎日いつもの3倍量のみかんの粉を無理やり飲み込んだので重症化しなかったと、今も思っています。

前に書いたかもしれませんが、なぜかコレステロール値が高く、去年の頸動脈エコー検査で、首に小さいプラーク(脂肪やコレステロールの塊)があったのですが、その後どうなったのか不明です。

医師から薬を飲むように言われているのですが、けっこうな副作用もあるようなので、拒否しています(笑)

知人が、アマニ油を毎日小さじ一杯飲んで、血液がサラサラになったということを、昨日思い出して買ってきました。
普通は高価なのですが、スーパーのPB商品として日清がだしているので、割安でした。
アマニ油を試してみようと思いますが、納豆にかけたら最強かもしれませんので、やってみます。


「生きる喜びを損なわない程度の節制」、これは、とっても大切な考え方だと思います。
ストイックな生活も必要ですが、そこに楽しみ、喜びが伴わなければ、生きる意味が変わってしまいます。

身近に、タバコをやめてまで長生きしたくない、と言った人もいましたし、血はつながっていませんが、母方の祖父はウワバミのような大酒飲みで(まったく乱れず、飲んでいるのかいないのかわからない人でした)、肝硬変で入院しても、病室で飲酒していたという猛者でした(笑)

かと思えば、身体にいいということを片っ端からやっていた人が、次から次へと癌になったり。

極端な節制でなく、できることをほどほどに、という向き合い方がベストなのかもしれませんね。

他人事だからと言われそうですし、安易に言ってはいけないとは思うのですが、農園主さんの場合、お話を伺っていると、納豆などの食事療法を継続することにより、致命的な事態にはならないような気がします。
親御さんにしてみたら、早く受診をというお気持ちかと思いますが(もしかして話してないのかもしれませんが)、受診がベストとも言えないこともありますよね。
薬漬けになってその副反応でよけい身体に影響がでることもあるでしょうし、今は、自力で軽快できることなら、まず食事という方法で乗り切れるのではと思えます。

病院に行く必要があるものなら、その時そのようにうまく導かれます←またスピリチュアル的な(-_-;)


みかんの粉のことがあるので、早いお返事をしてしまいましたが、くれぐれも、今後も農園主さんのご無理のないペースでお願いします。
着いたことをご連絡いただかなくて大丈夫です(*^^)v

あ~~長くなってしまいましたね。ごめんなさいm(_ _"m)
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お気遣いに甘えさせていただき、ゆっくり休ませていただいています。

おかげさまですこしずつ回復してきました。

前回はご心配をおかけするばかりになるとおもい、じぶんのカラダに起こっていることを書く気になれなかったのですが、今回は回復の兆しがみえてきたので、じぶんのカラダに起こっていたことを書いてみます。



以前、ギズモさんにパワーテープを送っていただきました。

おかげさまであれは磁気ネックレス以上によく効きました。

しかし最近は手持ちの磁気ネックレスとパワーテープを併用して痛みを押さえつけても、痛みが勝つようになっていました。

寝ているときに、風邪でもないのに軽い空咳が出るようにもなりました。

年末くらいから右のまぶたが不随意にプルプル震えることがあり、眼精疲労かとおもっていたんです。



年が明けて、左肩から首にかけて寝違えのような強い痛みが発生しました。

それで寝違えに効くストレッチをしたり、いろいろやってみたんですが、これも効いたようにおもえても、結局一進一退でした。

一週間以上痛みが引きません。(いまもまだ多少痛みが残っています)

ほかにもいくつかの不調が年末から年始にかけて起こり、ガマンできないほどではない全身の不快な症状にさいなまれるようになりました。



これだけいろいろな不調が重なると、死の予感がするものです(笑)

死は個人的なものなので、どんどん気持ちがじぶんの内面にこもっていくんですね。

こういうときにも気持ちが外に向かっていく人もいますが、ぼくはそう勇敢にはなれませんでした。

しかしぼちぼち人生終わりかなとおもいつつも、いざ肉体に不快な症状が出ればどうにかしたくなるものです(笑)

ふと気づきました。

これ、また血管が詰まってるんじゃないかと。



というのも、ぼくは以前から左足に深部静脈血栓症があり、血栓が飛んで肺や肩が苦しくなったことがあります。

あのときたまたま納豆が血栓にいいとわかって、実際にぼくの不調が回復しました。

以来、納豆を常食していたんですが、最近はサボり気味でした。

ここ2年ほどは、一週間にひとパック食べるような感じでごまかしてたんですが、これが余計に災いしたようです。



前回はあきらかに胸が苦しくて空咳が出て肩も痛いという、明らかな症状があったのですぐ対応できました。

が、今回は四十肩に擬態して磁気でラクになるし、軽い頭痛はあったもののすぐに治り、目がプルプルするくらいだったり、なんとなく外堀を埋めるように不快が増していったんですよね。

中途半端に納豆で血栓を溶かしては放置、溶かしては放置、を繰り返していたのがよくなかったんだとおもいます。



いつくらいから症状が出ていたかたどると、ひどい肩こりが症状として現れた昨年の5月くらいからなんだとおもいます。

それでいま、納豆におろししょうがをかけて朝晩2パックずつ食べています。

前回症状が出たときは、一週間食べ続けるとかなり回復しました。

今回も不快な症状からかなり回復しつつあります。

単なる肩こりじゃなかったんですね。

寝違えだけでなく、肩こりまで解消してきました。



この一週間でこんな変化がありました。

首のリンパに大豆くらいのしこりがあったのですが、これがほとんど消えていました。

腹部の下部にも血管が浮き出た箇所があり、静脈血栓症のなにかだろうと放置していたのですが、これも目立たなくなっています。

あれがぜんぶ血栓だったのかとおもうと、全身にずいぶん爆弾を抱えていたんですね。

まだ完全回復という感じではありませんが、ひとまず死の予感は遠のいたようにおもえます。



あの全身の症状をあとどれくらい放置していたら致命的なことになっていたのかはわかりませんが、心臓、肺、脳のフルコースで血栓症の前兆があったような気がします。

客観的に考えれば病院に行け、という話なんですが、よほどその場の痛みが強いなどじゃないと、病院には行く気がしません(笑)

ただ、今回は難逃れしましたが、このままの生活をしていたら、そのうち血管が裂けるとか、突然死が起こりそうな気がしています。

生きる喜びを損なわない程度に節制して、体質改善をしたいんですが、ひとりで生きているとなかなか生活態度をあらためるのはむずかしくて、どうしたものかと思案しています。
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そうでしたか。
ご体調が思わしくないところ、お返事をありがとうございます。

病名がつかないような病気も多々ありますし、不定愁訴をおろそかにしては絶対にいけません。
本人にしかわからないつらさがありますし、ましてそれらが積み重なれば、かなりおつらい状況だということがわかります。

お仕事でも普段のことでも、農園主さんは無理してでも、というところがあるかと思いますので、少なくともこの場は、心身ともに好調な時になさってくださいね。

ご体調のことは、ここに書いたことで、お気持ちだけでもいくらかすっきりすることがあるかもしれません。
そんな時は、どうぞ遠慮なく、なんでも書いてくださいね。

案外そんなことで、ちょっぴりでも気持ちが楽になるかもしれませんので。

このところ、新年のお札を受けるために何社かお参りしたのですが、埼玉県や神奈川県と遠く、たくさん歩いて負担がかかったせいか、ウィークポイントである気管支がかなり不調です。
咳が出たりはせず、ただ胸のあたりがもやもやして苦しいだけなので、はたから見れば元気そうに見えるでしょうが、元気ではありません(笑)

そうなってくると、もう気持ちが沈んでどうにもならなくなってくるんですね。
なので、「不安より自信を」とおみくじに書かれていても、ああ、そのとおりだなぁ、と思う反面、「そんなこと言われても・・・」となってしまいます。

極力マイナーな気持ちを打ち消して、笑ったり気持ちを明るく持つように努めているんですが、なかなか難しいですね(笑)

と、自分のことばかり書いてしまいました(笑)

気力って、ほんとうに大事です。
気力がないと身体が動かないし、かといって気力が充実しているからとバンバン動くと身体がついていかない。
心身ともに、って、大切なことですね。

今は、心身ともにゆったりと。無理は禁物です( ^^) _U~~
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16000歩はたいへんでしたね。テーマパークを一日歩き回るのとおなじくらいの歩数ですし、足がくたびれたことでしょう。

おみくじもよい結果でよかったです。

体調に「不安ではなく自信を持て」というメッセージが、心に響きました。



というのも、じつは昨年の暮れごろから段階的に体調を崩していて、書くことに対しても気分的な余裕がなくなっています。

申し訳ないのですが、今回は書いては消し、を繰り返しているうちに、書くことを見失ってしまいました。

あまり体調不良のことを具体的に申し上げることはしません(言い出すとキリがないのです)が、昨年の暮れあたりから全身のあちこちが悲鳴をあげています。

それぞれの不調は不定愁訴のようなものばかりですが、積み重なって大きな不調になっている、という感じです。

いまもこの瞬間もそうなんですが、じぶんのカラダに不調があると、じぶんのことばかり話してしまいますね(笑)

ぼちぼち本格的な節制に取り組む時期にきたのかもしれませんし、すでに遅いのかもしれませんが、当面じぶんの健康不安が解消するまで、発信をひかえて生活に集中させていただこうかとおもっています。



もちろんここでのやり取りをやめるつもりはありません。

しかし、じぶんでも気力のない状況がもどかしく、しばらくの間はご返信をいただいても、これまでの熱量・ペースでお返しすることができないかもしれません。

できるだけ早く回復させますので、なにとぞご理解いただいたうえで、当面のお返事は簡素なものでご容赦いただければとおもいます。
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海に面した鳥居が、大陸からの侵略に対しての威嚇や畏怖の念を抱かせるというようなお話を以前伺ったので、大洗磯前神社の鳥居もそうだと思ってしまいましたが、太平洋側はまったく意味が違うんですね。
めでたく縁起のいいものを海の向こうからお迎えするというイメージは、行ってみると、なんとなくですが、感じました。

この鳥居のある岩礁は、禁足地だということでした。
ということは、お書きになっていらっしゃるとおり、岩礁そのものがご神体なのかもしれませんね。

ホームページに書かれていたものを抜粋します。

多くのサイトで当社の神磯の鳥居をご紹介いただいており、大変ありがたいことですが、”太陽”が写っている写真はすべて「朝日」です。

夕焼けに見えるものもありますが、朝焼けですのでお間違いのないようにお願いいたします。

最近、勘違いされてお越しになる方がいらっしゃいます。ご注意ください。

茨城は「ひたち」の国、日が立ち昇る国です。


これは、農園主さんのお考えのように、東が明るい生をイメージしていることに他ならないと思います。

東と西についてのご考察、さすがに着眼点が卓越していらっしゃいますね。
仏教的なものはなんとなくわかっていましたが、産業革命や近代資本主義、キリスト教などにつながるとは思わず、興味深く読ませていただきました。

カトリックとプロテスタントの違いは、宗教上の考え方や戒律の差だけではなく、お金に関することにまで関係していることにも、驚きでした。
そういった考えは、戦争の時もずいぶん影響したように思います。

方角という概念ができたのは国によって異なるのでしょうが、北・南はともかく、太陽が昇る方角、沈む方角は、どの国でもとても重要なことだったと思います。

西に向けては「冒険」、本当にそういうイメージですね。
特に、西遊記は西への冒険そのものかと思います。

西遊記は何回か読みましたが、最後の、三蔵法師が肉体から解脱したことで天竺にたどり着けたというくだりは、すっかり忘れていました。
大変な苦労をして経典を届けたら、今度は天竺までひとっとび、というのはなんだかなぁ、とは常々思っていました(笑)

今回も、大変有意義で、他では知り得ないお話をありがとうございました。

また神社の話で恐縮ですが、武蔵一之宮(訂正:武蔵一宮)氷川神社と、鎌倉の宇賀福神社(通称=銭洗い弁天)にお参りして来ました。
神棚のお札を取り替えるので、この時期はいろいろと行っています。

氷川神社は、電車でも何回か行っているので、道はわかっているはずが、盛大に迷いました(笑)
駅から20分も歩けば着くはずが、途中3人に道を尋ねたにも関わらず、迷い続け、50分ほどかかり到着。
この日は16,000歩も歩きました←恐ろしい(>_<)

鎌倉は迷うことなく行けましたが、心臓破りの坂を上るので、息も絶え絶えです(笑)
ここでおみくじを引きましたが、以前「凶」が出て引き直し、また「凶」、三度目でやっと吉がでたということもあり、行きの坂のごとく、心臓に悪いです(笑)

そんなこともあるので、ドキドキしましたが、大吉でした。
もちろんおみくじは予言ではないので、気休め程度ですね。

他にも、龍神の水鉢におみくじを浸すと字が浮き出てくる「水みくじ」があります。
龍神さまのところに手を合わせただけで、水みくじはやらないで帰ろうとしたら、「おいおい、やらないのか?」と。
声が聞こえたわけではなく、瞬間的に「ひらめいた」という感じです。
なので「はいはい、やりますね」と、急いで水みくじを買いに行きました。
「まぜてあるので上からお取りください」と書かれていますが、左側の、上から4枚目を取り、お金を納めて水に浸したら、「大吉」でした。

凶だと落ち込んでしまい、そのマイナーな気持ちが継続するので、それをわかっている神様に、「大吉をひかせるから、シャンとせい!」と言われた気がします←都合のいい解釈(笑)

「体調」というところに「不安でなく自信を持て」と書いてあったので、妙に納得しました。
体調のことでなくても、不安や不満を持っていていいことがくるはずもなく、「大吉」よりも、これを見せたかったのかもしれません。

カレースパイスですが、ポークソテーの下拵えの際、まぶして焼いたら、スパイス感満載の、とっても香りのいいポークソテーができました。
少しずつ、だいじに使わせていただきます。


武蔵一之宮(訂正:武蔵一宮)氷川神社の写真2枚ですが、なんとカフェ(プレオープン)ができていました! 
そういう時代なんですね~。
抹茶と、あんバターどら焼きです。
このどら焼き、見た目はいいのですが、一般的などら焼きと皮がまったく違い、生焼けのようでボソボソでコナコナしていて、しっとり感皆無、もう二度と食べないと思いました(;^_^A

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お福分けの写真、ありがとうございます。

この写真を受けて、今回はもうすこし磯前神社について……そしてちょっとヘンな話をしようとおもいます。



岬の突端に鳥居をつくるというのは、やはり神社の名前が「磯前」だからでしょうね。

大洗磯前神社も、酒列磯前神社も、おそらく江戸時代に社殿が建つまでは、お社はほとんどおまけのようなものだったことでしょう。

因幡の白兎の物語の舞台が、岬の岩礁であることを考えても、このふたつの神社はもともと、荒々しい波濤をもたらす岩礁(岬)そのものがご神体だったのではないかとおもわれます。



大洗磯前神社ではオオナムチ(オオクニヌシ)を直接的に大黒天とみなしていたそうです。

しかし七福神信仰は室町以降におこったといいますから、平安時代にはなかった考えですね。

大黒天は「海の向こうからやってきた福の神」のひとりです。

大黒天は打ち出の小槌を持っていますから、一寸法師をスクナヒコナに見立てるつながりが出てくるんですね。

もちろん、たいへんめでたいシンボルです。



日本海側や瀬戸内海に面して鳥居をつくる場合、大陸からのよそものの侵略に対しての縄張りを主張するという、ものものしい側面が出てきます。

しかしこちらは太平洋側でしょう。

たとえば伊勢の、二見浦の夫婦岩の場合は、あれは猿田彦に由来していますが、太陽(アマテラス)をお迎えするためのご神体なんですよね。

非常に明るいものをお迎えするのであって、そこには侵略を警戒するようなものものしさはありません。



同様に茨城のふたつの磯前神社も、あの岩礁を包括するご神体を仲立ちにして、なにかとてもめでたく縁起の良い、現世利益にむすびつく存在を海の向こうからお迎えする、というイメージがあったはずです。

薬師菩薩にしても、海の向こうからあの鳥居に向かって、晴れ晴れしいなにかを伴いながら御来迎いただくというようなイメージだったことでしょう。

平和な太平洋側の海岸で、さらに日が昇ってくるという「陽」の感覚が、こういった印象をもたらしたのだとおもいます。



さて、ここから盛大に話がそれるんですが、人類は有史以来、資本主義が台頭するまでは、基本的に日が昇る東の方向へ向かっていったようです。

なんだかとんでもないことを言ってるようにおもわれるかもしれませんが、歴史を振り返ってみるとあらゆる面でそうとしか考えられないんです。

奈良朝廷が「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」と隋に国書を出したときも、日が昇る東をよいものとみなし、日の沈む西をよくないものとみなしてますよね。



ところ変わって、アメリカ大陸にいた原住民は、DNAをみるとモンゴロイドの系統だったといいます。

つまり、ユーラシア大陸にいた人々が太陽の上る方向へ、とほうもない旅路を経てアメリカ大陸に定着した。

ヨーロッパ側からも多少の流入はあったようですが、西へ向かって海を渡ってアメリカ大陸へ、という旅路はあまり流行らなかったようです。

人類は積極的には西に向けての冒険をしませんでした。

漠然と太陽の昇る東方に明るい「生」をイメージし、太陽の沈む西方に暗い「死」をイメージしたからでしょう。



ヨーロッパが本格的にアメリカ大陸を開拓し始めたのは、産業革命ごろでした。

その産業革命が起こる250年以上前の1492年。

コロンブスがスペインから船出して、偶然アメリカ大陸を発見します。

大航海時代ですね。

この時期、ヨーロッパは世界中の海を渡って、富や資源を持ち帰りました。

それによってヨーロッパで価格革命が起こります。

これが産業革命と近代資本主義の起爆剤となりました。



この時代のヨーロッパの人々の、お金や富に対する熱狂はたいへんなものです。

資本主義というあたらしい燃料がもたらした火力は、人類がそれまで抱いていた迷信をも焼き切ってしまいました。

人々は、死を連想する西方にも臆することなく立ち向かうようになります。



コロンブスがアメリカを発見してしばらく経った1517年、カトリックからプロテスタントが分離しました。

これは理由があるんです。

カトリックは金儲けや蓄財を罪としていましたが、プロテスタントはルターから始まり、カルヴァンに引き継がれる中で、段階的に金儲けも蓄財も肯定していくんですね。

おりしも大航海時代による価格革命の機運に乗じて、ヨーロッパで必然的に経済格差が生まれていました。

つまり、成金がわんさか生まれていたんです。

しかしカトリックは旧態依然の、「じぶんたちだけが免罪符などで儲けて、庶民には金儲けは罪として、質素倹約を押し付ける」という姿勢です。

そこで旧来のカトリックでは「時代に乗り遅れる」ので、プロテスタントが発生した……プロテスタントには、キリスト教を資本主義の新時代に合わせてブラッシュアップした側面がありました。

プロテスタントは禁欲的な戒律をもちましたが、それも近代資本主義の合理性を求める精神によくなじんだのです。

そんなかれらにとって西方のアメリカ大陸はまさに桃源郷でした。

なにせカトリックと対立する必要もなく、じぶんが努力して開拓した土地はそのままじぶんの土地となるのですから。

いまのアメリカがなぜあんなにも極端な資本主義国家なのか、という問題の、原理の部分はここにあります。

アメリカはまさに、一貫して金儲けのための国でした。

そんな特殊な事情がなければ、人間は本来、縁起のわるい日の沈む方角を積極的に開拓しようとはなかなかおもわなかったことでしょう。



日本が本格的に西方を侵略したのも、明治維新以降、脱亜入欧で本格的な資本主義社会になってからですよね。

それまでに一度、豊臣秀吉が東アジアの征服を企て、朝鮮半島へ攻め込んだことがありました。

まだ鎖国をしていない1580年ごろですから、日本の武将たちは西洋の思想を相応に理解しています。

秀吉は、世界中を開拓し迷信をおそれぬ西洋の思想を理解したうえで、「ならばわしも西方を支配しよう」と決意したのかもしれません。




仏教でいえば、西方浄土は死後の世界ですよね。

それに対して東方浄土(瑠璃光浄土)には、現世利益がある。

この東と西の方角による生と死のイメージの違いは明確でしょう。



飛躍しますが、『西遊記』も、西の方角へのわるいイメージを利用しています。

なにせ三蔵法師が天竺(西方)へ近づくほど、まがまがしい妖怪変化がわんさか出てくるわけです。

そのおそろしい西方の世界を越えると、ありがたい経典が得られます。

しかしその境地へは、生身では行くことができません。



西遊記の終盤の話です。

聖域にたどりついた三蔵一行は、激流の川に差し掛かりました。

孫悟空でさえわたることができなさそうな川の向こうから、底の抜けた舟に乗った宝幢光王仏があらわれます。

ありがたい宝幢光王仏のお迎えなのだからと三蔵法師が意を決して底なし舟に乗ると、そのまま肉体は川に飲み込まれました。

しかし不思議なことに、三蔵はなにごともなかったように舟に乗っています。

いったいこれはどうしたことかと一向(誤字:一行)いぶかしがるのですが、舟がしばらく進むと、三蔵の肉体が川から流れてくるではありませんか。

それをみて一行は、「川を流れていたのはお師匠様の現身で、いまそこにおられるお師匠様は凡胎を脱してまことの悟りに至ったのだ」と理解します。

つまり、この川で三蔵法師は死に、肉体から解脱したことで天竺にたどり着くことができたんですね。

そして天竺で経典を受け取ると、東土(長安)へ戻って経典を太宗皇帝に届け、そのまま一行は今度はあっという間に天竺へ戻り、それぞれが釈迦如来に認められてしかるべき仏様になる。

西遊記の最後は、こんな感じです。

やはり西の方角と「死」が結びついていました。



さて、ずいぶんおかしな方向に話がそれました。

ギズモさんから写真をみせていただいて、むかしの人々は太陽ののぼる東の海にとてもよいイメージを抱いていたのだろうな、ということを述べるために、ずいぶん遠回りをしました。

すみません(笑)
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何事も早め早めに対処するのはいいことなので、せっかちなのも決して悪いことではないと思います。
農園主さんの性分というのは、ちゃんと理解できます。

私の場合、せっかちとのんびりが、適さないところで出現するので、どうにかならないかぁと思うことがしばしばです。
例えば、タイマーをセットしてブロッコリーなどを茹でる場合、お鍋の前でじっと待つことはできず、その間何か他の事をしているのですが、結局そちらに夢中になってタイマーが鳴ってもそのまま放置し、茹ですぎになることがしょっちゅうです(笑)←書き足し:タイマーが聞こえないのではなく、茹でているのを忘れているわけでもないです

農園主さんは、お仕事をしながらオーディブルをお聞きになったりと、時間を有効活用していらっしゃいますよね。
性分の話とは違うかもしれませんが、時間をうまく活かすことができるのは、本当に尊敬します。

何にしても、自分のペース、タイミングでできたら、気持ちがとても楽になると思いますが、私はペースもタイミングもいい加減ですね(笑)

宮城の方までいらしたのは伺っていましたが、大洗のお話はたぶん初めてのように思います。

大洗磯前神社と酒列磯前神社は、4年前も行ったのですが、今月7日に行った時、妙に海が気になりました。
岩礁が多く波濤がとても印象的なので、岩礁に打ちつける波を、じっと見入ってしまいました。
農園主さんがお感じになったように荒々しい風情なのですが、なんとなく目を離せない、惹き込まれるような不思議なものを感じました。

サザンの歌で有名な湘南や、熱海の海とはまったく違う風情です。

ところどころで、車を止めて見ている人もけっこういました。

農園主さんの記事で、本当に因幡の白兎の伝説にぴったりマッチする情景だと思い、農園主さんの感性に驚きました。
あれは、湘南の海ではだめです(笑)

「薬師菩薩明神」のこと、知りませんでした。
薬師如来と観音菩薩のダブルのご利益がありそうですね。

大洗磯前神社の、海に浮かぶ鳥居の写真と、大洗磯前神社の本殿の写真を添付しておきます。
一番上は4年前の2月、あとの2枚は今月7日のものです。

海岸には行けないのか、みんな上の歩道から写真を撮っていました。
3枚目の写真の手前に写っているのはブロック塀で、鳥居は下にあります。

くだらないことなので書こうかどうか迷いましたが、今回ここに行ったのには訳がありました。

時々ブログを読んでいる人が(桜井識子と言い、有名ではありませんが、神社関連の本を出版していて、アクの強さがないゆる系のスピリチュアルの人です。神仏と話ができるそうなのですが、そのあたりは「へ~」程度で、ほどほどに済ませています)、大洗磯前神社の龍が(眷属とは違うようです)去年交代したと書いていたので、気になって行ってみました。

もちろん行ったからわかるものでもないのですが(笑)

紫蘇シロップですが、今日は発酵レモン酢とミックスしていただきました。
そろそろスギ花粉が飛ぶので、今からできる対策として、紫蘇は本当にありがたいです。

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↓ これも4年前の写真ですが、酒列磯前神社にいる亀で、金運アップのご利益がすごいそうですので、お福分けです。

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気遣いというより、ぼくの性分なんです(笑)



上方落語に「いらちの愛宕参り」という演目があります。

いらちというのは、関西弁で「せっかち」という意味です。

いらちの辰という男が登場人物なんですが、常から気忙しく、おっちょこちょいで、始終焦ってるんですね。

そんな性格だから、もうちょっと落ち着けと周囲からたしなめられます。

そうすると辰が、こう言いました。

「そういわれても、わたい晩飯を晩が来るまで待ってられしまへんねんで。晩飯も昼前に食うてしまいまんねん」

もはや病的ないらちぶりです。



この落語を聞きながら、ぼくはあんまりこの辰を笑っちゃいけないな、とおもいました。

性格がちょっと似てるからなんです。

何事もとっととすませてしまいたい。

しかるべきタイミングをうまく待つのが苦手。

カップ麺にお湯を入れても、3分待つ間に洗い物をするとか、なにか気を紛らわす仕事で埋めるといいんですが、ただじっと待っているとなると、そわそわしてくる。

そんな性格だから、日程や時間の決まったイベントごとに、ふつうの人が感じないような焦りや心配を感じたりします。

そういうわけにはなかなかいきませんが、じぶんの間合いですませられるのなら、なにごとも早めにひとりで勝手にすませてしまうほうが気がラクだという性分なんです。

それこそ、ぼくひとりだったら、「初詣は混みあうから、12月中にお参りをすませておこうではないか」ということを本気で考えるタイプです。



それだとずいぶん生きにくいだろう、とおもわれるかもしれません。

実際、ずいぶん生きにくいんです(笑)

けれど性分なので、さすがに40代後半ともなると、治そうとして治るものでもないことはわかります。

おそらくぼくのこういった性分を詰めていくと、なにか精神医学の分野での「〇〇症」みたいなものは見つかるとおもいます。

なので、長い前置きでしたが、謝っていただくとかえって困るんです(笑)

むしろこちらが謝るべきことなんですが、それもやはりかえっておかしなことになるでしょうから、ここまでにしておきましょう。



ところで偶然ですが、ぼくも以前大洗に行ったことがあります。

残念ながら大洗磯前神社には参拝しませんでしたが。

以前お話ししたかもしれませんが、東日本大震災から数年後に、軽自動車で下道を利用して、宮城のあたりまで行きました。

そのとき大洗のあたりで数時間滞在しました。

海を眺めて、太平洋側はどこもこんなに荒々しい風情なんだろうか、と感心したのをおぼえています。

実際にはそんなことはなくて、大洗のあたりは岩礁の影響なのか、波濤がすごいんですね。



HPによると、大洗磯前神社はオオナムチとスクナヒコナがまつられているとのことですが、オオナムチというと因幡の白兎の伝説ですね。

ワニにひどい目にあわされた白兎と、白兎に蒲の穂の治療を指南した若きオオクニヌシ(オオナムチ)の情景は、あの荒々しい大洗の海とよく似合うなあとおもいました。

スクナヒコナもオオナムチとおなじで、医療を象徴する神ですね。



神仏習合の時代になると「大洗磯前薬師菩薩明神」がまつられるようになったとありました。

薬師菩薩という名前は初めてみましたが、おそらく薬師如来と、おなじ現世利益の仏である観音菩薩が融合したのでしょう。

薬師如来も観音菩薩も、病気を治してくれる仏さんですね。

そこへ「その土地独自に信仰されている大神」という意味を含む「明神」という称号が加わった。

つまり大洗磯前神社も、氷川大神や浅間大神とおなじように、その地で特有の信仰を培っていたのでしょう。

病気平癒のつよい願いが重なった場所ですから、きっとよいご利益に恵まれることとおもいます。
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あ~~なんだかすごく気を遣わせてしまったようで、本当にごめんなさい。

本名と年齢以外は、書いていただいてまったく差し支えありませんので、以後はお気遣いなくお願いします←年齢はお教えしていませんが(笑)

クセが強い、とは感じませんでした。おいしいです(*^-^*)

カレー粉の辛さのお気遣いもありがとうございます。
唐辛子は入っていないです。
カレーの他、お肉や目玉焼きに振ったり、おでんのおつゆに足したり、いろいろ使わせていただきます。

スパイスは健康にもいいし、大好きなんです。

ありがとうございました<m(__)m>
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ああ、よかったです(笑)

お誕生日控えているのを意識して……こういうことは意識し始めると、いわゆるイップスのような症状になってしまって。

ここは検索NGに設定はしていますが、それでもオープンな場で伝えてよいものか、とか、もしなにかお話するとしたらまったく触れないのもヘンだし、かといって事前に話すのもどうか……など気になるともう沈黙がいちばんのような気がして、黙っていました。



ちなみにカレー粉は「辛くないカレー粉」を選んだんですが、唐辛子などが入っていないか、原材料をご確認くださいね。

以前、気管支を気づかって辛いものを避けているとうかがいましたので、こういう機会ですから一度試していただこうとおもいまして。

味付けはないスパイスですので、カレー風味にしたい料理にご活用いただけるかとおもいます。



生しば漬けは、平徳子の物語がないと、なにがなにやら戸惑う味だったこととおもいます。
あるいは、平徳子の物語があっても戸惑うかもしれません。

朝廷でおいしいものを食べていた平徳子が、寂光院で地元の人々がつくってきてくれたあのお漬物をいただいたとき、素朴な味わいに、おそらくは感謝と気遣いも込めて、ねぎらいの言葉をかけた。

ただそれだけのことが、ずっと伝説になって続いてるんですね。

平安時代の物語の味がそのまま商品になっているのはめずらしいとおもったんですが、なにせクセのつよい味ですから、先月から強引に平家物語の解説をして、ご理解をたまわろうとした次第です(笑)



指、そんなに深く切れてたんですね。

病院に行かれたとのことですから化膿はないとおもいますが、指ですからなかなか使わずに温存というわけにもいかないとおもいます。

どうかご無理のないように、すこしでも早く治りますように。
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今日は、思いがけず、お心を尽くしたお品物をいただき、誠にありがとうございました。

今朝何気なく外を見たら、遠くに金色に輝く丸いものが見えたので、太陽かと思いました。
時刻を確認したらぴったり日の出の時間だったので、今年は初日の出を見ていないため超ラッキーと思ったのですが、よく考えたら西から陽が昇るわけがありません(笑)

太陽でなくても、朝からお天気がよく、金色の何か(おそらく高速道路で光っていたランプでしょう)を見て、なんだかいい日だなと思ったところに、メールをいただき、さらにいい日になりました。

今年は喪中のため、松飾り・鏡餅・おせち料理、三が日の初詣を控えましたが、先ほど、近所の氏神様にお参りして来ました。

昨日は、茨城県の大洗磯崎神社(訂正:大洗磯前神社)と、兄弟社である酒列磯崎神社(訂正:酒列磯前神社)に行ったのですが、何度か晴れているのに雨が降るという、不思議な日でした。

早速ひとつ、いただきました。
生の方です。
あ~~こういう味なんだ~と感激しました。
建礼門院の頃は、こういう素朴で、素材の味が際立つ味わいだったのでしょうね。

この味のものは初めて食べました。
説明にあるように、お醤油をかけるとまた味わいが違うのでしょうが、このままがおいしいですね。
刻んであるので、マヨネーズと混ぜて、シバタルタルソースも作ってみたいと思います。

シロップもとってもうれしかったです。
ずいぶん前にお話したように思いますが、アレルギー体質に効果がありそうだったので、一時大分の紫蘇ジュースを飲んでいたのですが、飲んでいる時は軽快していた気がします。
けっこう高価なので、やめてしまって1年以上しますが、これを機にまた飲んでみようかなと思います。

と打っている間に、開けさせていただきました。
とても飲みやすく、甘くておいしく、紫蘇の味が優しいですね。
お砂糖がてんさい糖というのもうれしいです。
だいじに飲ませていただきます。

インデラカレー、あの有名なナイルで出しているんですね。知りませんでした。
こういうスパイス、大好きです!!
これでカレーを作っていらっしゃるのでしょうか?
タンドリーチキンにも使えますね。

お心づくしの品々、本当にありがとうございました(人''▽`)
どれも、少しずつ大事にいただきます。

平氏や安徳天皇、徳子、ガラシャ夫人など、史料が少なかったり信憑性があやふやだからこそ、いろいろ想像できるのは魅力的ですね。
なにが正確な出来事なのかを知ることより大切な、歴史の捉え方かと思います。

観てもらった昨年の運勢ですが、気落ちしたり健康を害することもあるけれど、何か新しいことを学ぶとよい、ということだったんです。
農園主さんのブログで多くの事を学ばせていただいているので、大難が小難ですんだように思っています。
ありがとうございました。

指のケガの直り(訂正:治り)がはかばかしくなく、いつまでたっても傷が開いているように見えるため、おととい違う皮膚科で受診したところ、角層なのであと一ヶ月はかかります、と言われました(笑)
包丁も持てないので、困ります←手抜きできてうれしいですが(笑)

そちらはずいぶん寒くなってきているのではないでしょうか。
お身体に気をつけて、充実した農閑期をお過ごしください。

今日は、ハレの日でなく、普段どおり過ごす予定でしたが、思いがけずよい日になりました(私のご飯はスーパーで買った焼きそばです(*^-^*))

本当に、ありがとうございましたm(_ _"m)
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おはようございます。
不躾ですがメールを送らせていただきました。
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あけましておめでとうございます。

お帰りなさい。
ゆっくりできてよかったです(*^^)

例年より暖かいとはいえ、1月に入ってからは空気がキーンと冷えています。

本年もよろしくお願いいたします。
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あけましておめでとうございます。

おかげさまで実家でゆっくり過ごし、きょう帰ってきました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2024年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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今回も、とても興味をひかれるお話を教えていただき、ありがとうございます。

農園主さんの、安徳天皇生存説に信憑性がないというお考えと、その理由、よくわかります。
あとから話を作った、ということなんですね。

能勢の陵墓がいまもていねいに守られていて、それが安徳天皇に対する愛からというお話には、心を打たれます。

後ほどゆっくりと読み直しさせていただきますが、とりあえず簡単なお返事で申し訳ございません。

今年もありがとうございました。
佳いお年をお迎えください(*^。^*)

ご両親、弟さんたちと、皆様お元気で、幸せな年末年始をお過ごしくださいね。
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四国には行ったことがないんですが、父方の祖母が徳島の出身でした。

祖母が徳島出身であることを知ったのは、最近のことです。

きっかけは子供のころ、祖母がお正月になるといつもおはぎをつくってくれた記憶でした。

これがもち米とうるち米を混ぜて炊いた「半殺し」というもので、一般的なおはぎと比べるとすこし変わっています。

子供のころはなにも気にせず食べていました。

数年前に、あれは徳島の郷土料理だと父が話したことで、ぼくははじめて祖母が徳島出身だったことを知ったんです。

このおはぎは徳島県那賀町が有名なんだそうですが、祖母が徳島のどこ出身なのかはよくわかりません。

つるぎ山は那賀町の北端からつるぎ町にかかっている標高約2000mの山なんだそうですね。



調べてみたんですが、剣山は近世に入ってから修験者の集まる霊峰になったようです。

現在では寺社があり、剣山大権現がまつられているそうですが、修験者が集まるまでは社殿もなにもありませんでした。

修験者が集まるようになったものの、この参道が非常に厳しいものだったため、宿泊施設を兼ねた寺ができたそうです。

そのお寺のうち、円福寺の史料に、安徳天皇と草薙の剣の縁起が残っています。

つまり江戸時代末期になって、安徳天皇と剣山が結びつけられたんですね。

山の呼び方が「けんざん」「つるぎやま」など近代になるまで安定しなかったのは、「剣山」という名称そのものが比較的あたらしいものだからでしょう。

もし修験者によって剣山という名前がつけられていなければ、いまも太郎笈と呼ばれていたかもしれません。



ギズモさんのおっしゃったように、徳島県に平氏の落人が住み着いた話とこの件は無関係ではないとおもいます。

徳島県祖谷地方に平国盛(平教経)が落ち延びて、その地を平定。

その後現在の美馬市のすこし東側にある吉野川市あたりに、おなじく落ち延びていた安徳天皇がおられ、お迎えしたとあります。

しかしこれは、後世につくられた伝説のようです。



ほんとうの落人もいました。

堀川内記という、朝廷で安徳天皇のお付きの医者をしていた男がいて、実際に平家滅亡後に祖谷地方に落ち延びて、医業と神官を兼ねながら暮らしていたというのです。

この堀川内記の子孫の家が、いま平家屋敷民俗資料館になっています。

そう考えると、堀川内記がきっかけで話に尾ひれがついて、平家の落人の伝説がまことしやかにふくらんでいった。

剣山も、もともと江戸時代の『異本阿波史』という本に「神宝の霊剣を納めている」という記述があったようです。

それが、修験者の山として剣山がひらかれるにあたって、安徳天皇と草薙の剣という脚色が加わったのでしょう。



安徳天皇が逃げ延びたという伝説は、西日本を中心として全国に残っていますね。

ぼくの知っているところだと、大阪の最北部に能勢という町があります。

ここは大阪といっても田舎です。

東京だと檜原村に近い風情のようにおもえます。

妙見信仰の総本山があることから、「能勢の妙見さん(妙見山)」として有名です。



この能勢に、野間という地域があります。

樹齢千年以上の大ケヤキが観光資源となっていて、ぼくも行ったことがありますが、じつに立派なものです。

ここで江戸時代、ある屋敷の屋根を修繕していた職人が、天井裏の柱に竹筒がくくりつけられているのを発見しました。

1817年といいますから、江戸から明治に切り替わるほぼ半世紀前です。

中に入っていたのは書簡で、藩に届けられ、当時の役人がこれを苦労して解読しました。

するとどうやら大昔に、藤原経房という男が息子にあてた遺書であることがわかります。

なんとそこには経房が壇ノ浦で二位尼に請われて、安徳天皇を預かって逃げ延びて、能勢の地にたどりついたこと。

そして安徳天皇はその1年後に崩御したが、じぶんは陵墓を守るためにその地に残ったことが記されていたというのです。

この書簡の内容は幕府にも伝えられ、当時の江戸や上方を駆け巡るニュースになりました。

しかしこの文書にはいろいろと矛盾点があり、真偽のほどは怪しいといわれています。

写本はいまも残っているのですが、明治時代には原本も紛失したそうで、真贋の細かい部分を調べることもできなくなっています。



ところで、個人的には安徳天皇生存説には信憑性がないとおもっています。

夢がないとおもわれるかもしれませんが、やっぱり感覚的にそうおもわざるを得ないんです。



というのも、平徳子はおなじ船のうえで、安徳天皇と二位尼が入水するところを目の当たりにしていたわけでしょう。

それを見届けて、みずからも入水。

ところが源氏方に助けられてしまいます。

もし安徳天皇が逃げたと知っていたら、徳子は入水できたでしょうか。

6歳の子を置いて、母親は死ねるだろうか、というのが最初の疑問点です。



次に、徳子が助けられたあと、安徳天皇は死んだと割り切って、生きているかもしれないのにその菩提を弔い、世を捨てることができるでしょうか。

もし安徳天皇が生きている可能性があるなら、寂光院に入寺することもなく、平家の再興のために、なにかアクションを起こしたとおもうのです。



入水した安徳天皇は替え玉だった、という話もあります。

しかしおなじ船に乗っていて、我が子がいつの間にか脱出していて、入水する安徳天皇が替え玉であることに徳子も女房たちも気づかなかった、というのはさすがにあり得ないでしょう。



それに当時の人々も、安徳天皇が生きていたなんてうかつなことを、書き残したり、伝承したりはできないはずなんです。

その時代に生きた人たちにとっては「うかつなことを言えば殺される」わけですから。



ちょっと話が変わりますが、丹後地方には明智たま(細川ガラシャ)という人がいました。
(彼女も日本史上有数の悲劇のヒロインです)

明智光秀の娘で、同盟相手の細川忠興(丹後田辺藩)の妻になるんです。

しかしそれから約4年後、光秀が謀反を起こして、信長を討ってしまいました。

そのあと、秀吉が光秀を討伐するのは、よく知られた歴史ですね。



嫁いだとはいえ逆賊の光秀の娘ですから、秀吉に殺せと言われる可能性があります。

そこでたまは夫の忠興によって秘境へ移され、行方不明であるとして、2年ほど幽閉されるんです。

この隠棲地については、丹波の山の中の「三戸野」だったという記述が残っています。

後世『細川ガラシア夫人』という戯曲を書いたドイツ人が、丹後の「味土野」に行って、これがガラシャの隠棲地にちがいないといいました。

それでいま味土野はガラシャ隠棲の地として観光地化しています。



ところが最近、「三戸野」は丹後ではなくて、もっと南の京丹波町の水戸のことを指すのではないか、という調査が出たんです。

京丹波町にはむかし「三戸野峠」と呼ばれた峠もあったそうで、こうなるとがぜん信憑性が高まります。

ガラシャの隠棲地がごっそり入れ替わるような話です。



ところが、この「三戸野」という情報すら、じつは江戸時代に書かれた軍記ものである『明智軍記』という、あまり信憑性のない書物からきているといわれています。

元ネタの信憑性が薄いわけですから、もう細川ガラシャ隠棲地は、まったくわからなくなってしまうんです。

当時そこに住んでいた人だって、ここにはお姫さんが暮らしていた、なんて絶対に言わないし、書き残すようなことはしません。

そんなことをしたらその地にどんな災いをもたらすかわかりません。

そのようなことを踏まえると、やはり生存説が出てくること自体、緊張感が薄いようにおもえるんです(笑)



しかし、安徳天皇生存説を各地の人がつくった気持ちはよくわかります。

平家物語でかわいそうな死に方をした安徳天皇のエピソードを聞いて、なんとか生きていたという物語にならないものか、とおもった人は、全国各地にいたことでしょう。

それで、たいていの人は物語と現実の区別がついているのだけど、中にはその分別を踏み越えて、ほんとうにあたらしい物語をつくってしまうタイプの人がいるわけです。

みんなそれを半ば怪しいとおもいながらも、疑わしきは罰せずの気持ちで乗っかっているうちに、ウソがマコトになっていく。

なにせ能勢の安徳天皇の陵墓は、いまもていねいに守られてるといいます。

ぼくは生存説に関しては懐疑的な立場ですが、先人たちの安徳天皇愛についてはホンモノだとおもっています。



クリスマスのメッセージをありがとうございました。

師走はやはりあわただしいですね。

あした以降、年末年始はネットをしている時間がありませんので、これで年の瀬のあいさつに代えさせていただきます。

ギズモさんにおかれましても、よいお年をお迎えください。

早く指のケガが治りますように。
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ご心配をありがとうございます。
「きちんと」ケガ、というところで、申し訳ありませんが笑ってしまいました。ごめんなさい。
スッと触れただけで触れたぶん切れてしまう、その通りでした。

ひとつコンサートが無事終わりましたが、その晩傷口が開きました(笑)
油断してバンドエイドにしたのがいけなかったようです。 

私の些細な疑問から、「短編歴史小説」というより、壮大でドラマティックな物語をありがとうございます。
とても興味深く読ませていただきました。

ことに宮中の言葉で語り合うユーモラスなくだりは、場面が目の前に浮かび、一気にその時代にとばされたような気さえしました。

阿波内侍も、様々な出来事や人に振り回され、つらく悲しい思いを強いられたのですね。
気性が激しかったということですが、徳子と対照的な性格だったのでしょうか。

ふたりの女性の、自分ではどうともすることができないそれぞれの人生が、寂光院でともに生きることで、浄化されたように思いました。

崇徳院の歌は、百人一首の中で一番好きなのですが、もう一つの意味もあったのですね。


そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。

この願勝寺を調べたら、最寄り駅が貞光駅となっていました。

プライベートな話で恐縮ですが、昔、ワンマンな母の言いつけに従って結婚した元夫が、貞光町の出身でした(5年ほどで別れました。今の主人とは再婚です)。

一度だけ、元夫の父親と兄夫婦が住む家に行ったことがあるのですが、貞光駅から、ガードレールのない、それこそ10センチずれたら谷底へ、という、あまりに狭い1車線の山道を上って行きました。
タクシーの運転手さんは慣れてはいるでしょうが、恐怖で冷汗がでました(笑)

最近、町がいくつか合併し、貞光町は「つるぎ町」となりましたが、20キロほど離れたところに剣山(昔は「けんざん」とも呼んでいたそうですが、今はつるぎさんに統一されたそうです)があります。
ご存じと思いますが、安徳天皇の遺言により、剣を山頂に隠し、ご神体とした山です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%...

阿波内侍が願勝寺を阿波に移した20年ほど後に安徳天皇が亡くなっていますが、剣を山頂に隠したのはいつなのか、また剣山と呼ばれるようになったのがいつなのか、調べましたが、はっきりした年が不明です。

なぜ安徳天皇の剣を、阿波内侍に関係のある土地に埋めたのでしょう。
阿波内侍が徳子に勧めたのでしょうか?
または、徳子、阿波内侍とは関係のない人物の意図ということもありますね。

もうひとつ、興味深いことがあります。
元夫の姓は「金岡」と言いますが、苗字由来netの日本の名字ランキングを見ると、比率が多い場所(訂正=市区町村)の1位が「美馬郡(訂正・美馬市)つるぎ町」です。

これは単にこの一帯に親戚が多いからかもしれませんが、それにしても、つるぎ町に住む金岡姓の人全部に血のつながりがあるとは思えません。

名字の由来として「桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)に記述されている」と書いてあります。
このあたりも、平氏が落ち延びてきた土地なのかもしれません。

つるぎ町から60キロほどのところに、徳島県の民謡に歌われている、祖谷(いや)のかずら橋がありますが、このあたりは平家の落人が移り住んだといわれる地域です。
それを考えると、つるぎ町をもっと広範囲に広げた一帯に落ち延びた平氏が多く住んでいて、剣を隠すのには剣山が適当な場所だと考えた、という単純な話なのかもしれませんね。

寂光院は最初聖徳太子が建立したそうですが、聖徳太子は、美馬郡のあたりに多くいたという、渡来人の秦氏に影響を受けたと言います。

『母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願した』という維摩寺ですが、阿波内侍の母親、或いは阿波内侍とゆかりのあるお寺だったのでしょうか。

聖徳太子は鳩摩羅什訳の『維摩詰諸説経』に注釈した『維摩経義疏』を書いていますよね。
その「維摩」の寺だとすると、維摩寺も寂光院も聖徳太子に関係してくるわけです。

阿波内侍、徳子。聖徳太子、維摩寺、寂光院、阿波(徳島)、安徳天皇の剣、剣山、平氏、秦氏。
どういう関連性があるのかわかりませんが、どうも無関係とは言えないような気がします。

寂光院の山から剣山が見える・・・とか??

剣山から秦氏に関係するものが数多く発掘されたそうですが、これは平氏や安徳天皇の剣とは無関係なのでしょうか?

また、安徳天皇が入水せず、平氏の生き残りと剣山に隠れ住んだという説もあり、なんだかわけがわからなくなりました(笑)

秦氏と、イスラエルの失われた十二氏族(書き足し・十氏族ともいうようです)の関係の話もいろいろありますが、もうそこまで広げると混乱の境地です(笑)

農園主さんの壮大なロマンとも言えるお話を読ませていただき、感銘を受けて、よけいな妄想をしてしまい、失礼しましたm(_ _"m)

獣害は本当に難儀なことですね。
迅速な対策により、おさまってなによりです。

山田和明 さんのクリスマスカードですが、場所は横浜です。
メリークリスマス!


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後半です。

どうやら阿波内侍はずいぶん激しい気性の人だったようです。

史実と平家物語の行間を読むようにして推察していくと、どうも感情の振れ幅が大きな人だったとおもわずにいられません。

そしてそんな阿波内侍の性格は父譲りだろうとおもいます。



阿波内侍の父、信西はもともと後白河天皇の腹心でした。

母の紀伊二位が後白河天皇の乳母だったことを利用して、信西も後白河天皇と非常に近いところにいたのです。

後白河天皇を即位に導いたのも信西でした。

信西は清盛とも親交がありました。

いわば当時の後白河天皇の趨勢を盤石なものにするための、中枢人物といえます。

儒学者だったのですが、激烈な政治改革者でもありました。

しかしその激烈さゆえに、後白河天皇の家臣から反信西派があらわれ、1160年、後白河天皇や清盛の隙をつくかたちで信西が攻撃され、無念の死を遂げます。

信西もまた入道とは名ばかりの、血の匂いの強い男でした。



1160年というと、崇徳院が讃岐に流されている最中です。

愛する帝は辺境の地に配流され、父は政変に巻き込まれて自害。

この時期の阿波内侍はまだ出家しておらず、俗世の中で居場所を失い、ただ呪わしい運命に翻弄されるほかありませんでした。

父は後白河天皇の側についていたとはいえ、なにが起こったのか細かいところまではわからない阿波内侍からすれば「見殺しにされた」と感じたのではないでしょうか。



そう考えると、崇徳院も気性の激しい人でした。

「瀬をはやみ 岩に急かるる滝川の 割れても末に 会わんとぞおもう」

急流の滝川が、岩にせき止められてふたつに割れる。しかしこの流れがまたひとつになるように、わたしたちもまた会えるだろう。

百人一首にもある、崇徳院の有名な歌です。

平安時代の和歌としては言葉が激しく、恋の歌と解釈しても激しいのですが、この歌にはもうひとつの意味がある、とされています。

それは後白河天皇との争いに敗れたあと、皇位を譲らざるを得なかったじぶんの立場に対して、また返り咲こうとする意志があるという意味です。

阿波内侍の立場に立てば、この歌は崇徳院がじぶんのことを歌にしてくれたのではないかとおもったことでしょうし、あるいは裏側の政治的な意味にも気づいていたかもしれません。



しかし崇徳院も京の地を再び踏むことなく崩御。

20年のときが経ちました。

人間、怒りの感情は長くもたないといいます。

一生恨んでいたい、怒っていたいという激情でさえ、いつの間にか琥珀のように結晶となって心の中に沈んでしまい、もはや血液を巡ってたぎらせることができなくなるものです。

出家した徳子の話を耳にしたとき、阿波内侍の心にあったのは深い虚無と、じぶんとおなじく世を捨てて生きざるを得ない徳子への同情だったのではないか。



そのころ徳子もまた、じぶんとよく似た境遇の、うらぶれた阿波内侍という尼僧が寂光院に住んでいるらしいことを知ります。

阿波内侍は山のものを売り歩きによく都に来ていて、寂光院までは都から歩いて一日もかからない距離だという。

徳子はそんな阿波内侍に強いシンパシーをおぼえ、わが身をそこへ預けようとおもったのかもしれません。



寂光院と長楽寺にいたふたりの情報がどのように交差したのか。

平家物語から類推するなら、女房のひとりがたまたま阿波内侍の身の上を知っていて、徳子へと情報が伝わった、と考えるのがよさそうですが、はっきりしたことはわかりません。

いずれにせよ、お互いの望むところだったからこそ、徳子は寂光院に入寺し、阿波内侍も徳子を受け入れました。

そして徳子が入寺すると建礼門院の立場を進んでゆずり、徳子の従者となったのです。



もし阿波内侍が、「崇徳院に仇をなした一族を受け入れるなど、できようものか」といった黒い魂にとらわれ続けていたら、徳子の入寺はあり得なかったでしょう。

阿波内侍にとっても、徳子の入寺は恩讐を越えてかなえられたことだったのだとおもいます。

しかし徳子にとっては、まさかここまで暮らすのがたいへんな場所だとは、おもいもよらなかったことでしょう。

阿波内侍もまた、徳子に建礼門院を譲ったからといって、奉るようなことはせず、厳しい生活の修行をともにこなすようになったのです。



ところで「灌頂の巻」で、後白河法皇が大原へ御幸したとき、法皇が寂光院で最初に出会ったのが、阿波内侍でした。

ここからは平家物語に阿波内侍が登場するくだりを抜粋して翻訳していきます。



法皇は寂光院のみすぼらしい有様におどろきました。

節だった竹を柱にした庵室の軒には蔓草が這っていて、周囲にも雑草がはびこっています。

屋根を葺く杉皮も薄く、夜には月の光が差し込み、雨漏りも激しいだろうことは容易に想像がつきました。

あたりはサルの鳴き声や、木こりが薪を切る斧の音、風が吹けば笹の葉擦れの音が聞こえるばかり。

法皇が「人はおらんか」と呼びかけましたが、なんの返事もありません。



ずいぶん経って、老い衰えた女性があらわれました。

「女院(徳子)はいずこにおられるのか」

と法皇がたずねると、老女は「山の上で花を摘んでおられます」と答えました。



法皇が「いくら世を捨てたとはいえ中宮であったのだぞ。代わりにやってくれる者もおらぬというのか。おいたわしい」と嘆くと、老女が答えました。

「仏道の戒めによるご果報が尽きてしまわれたから、いまこのような御目にあわれているのでございます。身を捨てての行なのですから、なぜその身を惜しむことがありましょう。
因果経に書かれているように、過去の原因を知りたければ、現在の結果をみなければなりません。未来に起こることの結果を知るためには、現在の原因を探らねばなりません。過去、未来の原因と結果によって起こっていること(訂正:現在)なのだから、嘆くべきことではないのです。
悉達太子(仏陀)も艱難辛苦の苦行を経て、最後に悟りを得られました」

老女は布切れを結び合わせた衣服ともいえぬものを着ているような有様で、それがこのような説法を説くものだから、不思議におもった法皇は、

「そもそもなんじは何者なのか」と問いました。

すると老尼は堰を切ったようにさめざめと泣き始めました。

いったん泣きはじめるとしばらくは法皇の問いかけにも答えられません。

ようやく涙を抑えて話し始めました。

「わたしは亡き少納言、入道信西の娘、阿波内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位。かつてあれほどお世話になりましたというのに、お忘れになられるとは、わが身もそれだけ老いたのでしょう」

法皇はおどろきました。

「まさかなんじは、あの信西の娘だったのか。もうすっかりおもい出せずにいたが、夢でもみているようだ」

法皇のお供の者たちも「なるほど不思議な尼だとはおもっていたが、そういうことなら合点がいく」と口々に言い合いました。



その後、花摘みから帰ってきた徳子が法皇の御幸を知り、動揺します。

「いくら世を捨てた身とはいえ、このような姿は見られたくない。消えてなくなりたい」といって途方に暮れて泣いているところへ、阿波内侍がやってきて、言いました。

「なにを恥ずかしがることがありましょう。さっさと御対面なさって、帰ってもらえばよいのです」

徳子は、

「御念仏を一度唱えれば、阿弥陀さまの光明がさすことを期待しておりました。
十度御念仏を唱えれば、菩薩さま方に御来迎いただけるものとおもっておりました。
なのにまさかあのお方が御幸なさるとはおもってもおりませなんだ」

と嘆きながら、泣く泣く法皇の待つ庵室へ向かったといいます。



その後、徳子が地獄の六道の話をし、法皇とともに泣き暮れたことはすでに述べました。

これまで話したことを踏まえて平家物語での阿波内侍の言動を考えると、法皇への複雑な心境が、あの堰を切ったような涙にあらわれているし、徳子への厳しい態度の中にも、一種のやさしさがあることがわかります。

ところで、この時代の宮中の人が標準語をつかっていたはずはありません。

実際のところを想像して、言葉を変えてみました。

「もうそない恥ずかしいいわんと、とっとと会って、さっさと帰ってもらいよし」

と、阿波内侍が法皇のいる庵室をちらちら向きながら小声でいまいましげに言うと、おろおろと涙を浮かべてうろたえる徳子がつぶやきました。

「いっしょうけんめいお経を唱えてたらふつうは仏さまが来るもんとちゃいますか。やのに来てほしくもないあの人が来はるんやさかい、わけがわからしまへん」

ほんとうは阿波内侍と徳子の間で、こんなユーモラスな一場面があったのかもしれません。



余談ですが、徳子の夫、高倉天皇が危篤になったとき、清盛の寿命もわずかでした。

しかし清盛の権力欲は最後まで衰えることがありません。

あろうことか高倉天皇が崩御するようなことがあれば、徳子を後白河法皇のもとに入内させようと提案したのです。

後白河法皇を幽閉した隙に安徳天皇を即位させた清盛でしたが、高倉天皇がいなくなると手詰まりでした。

平家と皇室の直接の縁がなくなり、安徳天皇の天皇としての正当性が揺らいでしまうからです。

そこで清盛は徳子を利用して、後白河院の後妻にして、天皇家とのつながりを維持しようとしたわけです。

しかしさすがにその無理筋の政略はあらゆる方面から避難(誤字:非難)を浴びました。

後白河法皇もこの提案を辞退。

徳子さえこれを断固として拒否しました。なんとじぶんの髪を切ってまで抵抗の意志を示したのです。

もちろんこの話はなかったことになりましたが、高倉天皇の崩御から2か月で清盛も死去し、平家は栄華の頂点から滅亡の坂を転げ落ちることになりました。

つまり徳子と法皇は、いわば互いに縁談を断り合った複雑な間柄でもあったのです。



話をもとに戻します。

阿波内侍が法皇に因果経を説いたくだりには、法皇への批判が含まれていました。

法皇は出家とは名ばかりで、血に汚れた政治権力を振りかざし、なにをするにも下々に任せている。

それに比べて徳子はいまや、みずからの運命を乗り越えて悟りを得るために、因果をよく見極めて苦行に励んでいるのだ、と。

法皇はその言外に匂わせた批判めいた口調の厳しさに面食らって「そもそもなんじはだれなのだ」と問わずにいられなかったのでしょう。



寂光院にたどり着いた法皇の呼びかけにだれも応じなかったときも、阿波内侍は遠くから仰々しい行列をみて、法皇がやってきたことを察したのかもしれません。

徳子が入寺した以上、そういうことも起こりうるかもしれない、と阿波内侍は内心おもっていたはずです。

そしていざ法皇の姿を認めると、ゆっくり時間をかけてじぶんの人生を振り返り、息をととのえ、グッと腹を決めて、ようやく法皇の前に向かいました。

しかしたいへんな感情の高ぶりをおぼえながら法皇に対峙したのに、その存在がすっかり忘れ去られていたことに、おもわずこらえきれずに涙があふれる。

あのシーンはそのように読み解けるとおもいます。



徳子が病を得て身まかろうというとき、数人の従者とともに阿波内侍もその最期を看取ったといいます。

徳子の死の時期には諸説あり、長生きしたという説もあるのですが、もしそうなら阿波内侍が徳子に看取られていたかもしれません。

しかしもし平家物語のとおり37歳で入寂したとすれば、阿波内侍はどのような心境で徳子を看取ったのか。

考えてはみたのですが、わかりませんでした。察することが許されない領域のようにおもえたのです。



さて、徳子が寂光院に入寺するきっかけはなんだったのか、ということから、今回は平家物語の行間を読むかたちで、かなり創作に近い内容になりました。

もともと後半は3000文字程度でおさまっていたんですが、推敲して書き足していくうちにえらく長くなってしまいました。すみません(笑)

今回はこれでおしまいです。
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まず最初に前回のご投稿への返信で、指のケガですが、フードプロセッサーの刃は、最初は日本刀のように研がれていて、スッと触れただけで触れたぶん切れてしまうくらいですね。

ぼくも以前ケガをして、その経験を伝えたはずの母もきちんとケガをしていました(笑)

洗いにくい形状をしていますし、みんな通る道なのかもしれません。

指が治るまではギターの演奏は、ピックで行うのでなければ、しばらく安静になさるのがよいとおもいます。

どうかお大事になさってください。



さて、ギズモさんにいただいたお返事の中に、徳子が寂光院に住んだことにだれかの意図があったのかとありました。

ぼくも気になって、調べながら書いているうちに、前回の話のスピンオフというか、あまり一般的に語られていない不思議な物語があることに気づきました。

今回はちょっとこの話をさせていただこうとおもいます。

なんとなくこの解釈は短編歴史小説になりそうな感じです。

いろいろとお返事を飛ばしてしまって申し訳ないんですが、しばらくお付き合いください。



壇ノ浦で捕虜となった徳子は、その後放免されます。

徳子は御所から2kmほど南東の、八坂神社のすぐ近くにある長楽寺で出家しました。

時系列でいうと、1185年3月に壇ノ浦の合戦があります。時期をみて気づきましたが、幼い安徳天皇は3月の冷たい海に入水したんですね。

5月に徳子が長楽寺で出家。このときには直如覚(尼)という名前を授かります。

7月に文治地震が起こり、京の都は大災害をこうむりました。

その2か月後の9月に、寂光院へ移り住み、三代目の建礼門院となります。

では、なぜ徳子はわざわざ都から離れた寂光院に移り住んだのか。



平家物語では、京の都の外れの粗末な寺も地震で崩れ、むかしの知り合いの貴族がたまに訪れてくるのだけど、そういったこともどうにも物憂くなってきたようで、どこか静かなところで世を捨てて暮らしたいとおもったところへ、寂光院を勧める女房があったといいます。

あれだけの凄惨な死の現場を目の当たりにして、みずからも死の寸前まで行きついたわけですから、現代でいえばPTSDのような症状が出ていた可能性もあり、そこに大地震が追い打ちをかけるわけです。

なにもかも物憂く、やる気になれなかったのは事実だとおもいます。

しかし個人的には「静かに念仏をとなえて暮らしたい」という動機だけで寂光院を選んだのは矛盾があるとおもうのです。

というのも、地震があったからといって、なんのゆかりもなく、いよいよ辺鄙な寂光院へ「行ってみよう」とおもう動機がないでしょう。

行くにしても、もう少し多角的な情報がないとさすがに踏み切れないはずで、内見もせずに家を買うような決断をするとはおもえません。



しかも寂光院に行った徳子は、「どうしてこんな山奥で……」といってわが身の上を嘆き、寂光院のふもとの清水で、月明かりにじぶんのやつれた顔を映したり、都を恋しがって昔を懐かしんだり、どうにもやるせない心情が隠し切れない様子です。

ほんとうに念仏を唱えて世を捨てて生きていたいと願ったのなら、もうすこし腹が決まっていてもよさそうなものです。

いろんなところでおもうままにならないしがらみがあって、それでもなんらかのご縁があったから、意を決して大原の深山に居を移そうとおもったのではないでしょうか。



その線で考えると、いちばん気になるのは、阿波内侍との関係性です。

阿波内侍は寂光院の二代目の住持(建礼門院)なんですが、徳子が寂光院に入寺すると三代目の建礼門院を譲って、徳子の従者となりました。

今回は、この阿波内侍の物語を、2回にわけてさせていただこうとおもいます。



阿波内侍についてはあまりしっかりした情報がありません。

もとは藤原家の出で、父の名は藤原通憲。のちに出家して信西となります。

母は紀伊二位といって、後白河天皇の乳母でもありました。



阿波内侍は朝廷で崇徳院の寵愛を受けていた女房です。

しかし1156年。
崇徳院は後白河天皇(当時はまだ天皇です)の謀略(保元の乱)によって排除され、讃岐に島流しにされました。

阿波内侍はこのとき、崇徳院には付いていかず、京に残っています。

保元の乱から8年後の1164年、崇徳院が讃岐に流されたまま崩御すると阿波内侍は出家し、1166年に寂光院に入寺しました。



寂光院は聖徳太子が建立したといいます。

初代の建礼門院は、聖徳太子の乳母であった玉照姫と伝わります。

しかしその後記録がなく、二代目の建礼門院が阿波内侍というのです。

記録がないというのは、おそらくお寺が作られて、縁起が定められてからは、明確な管理者がない時期が長かったのだろうとおもいます。

つまり、荒れ寺だったんでしょう。

それくらい、寂光院周辺は暮らすには厳しい辺鄙なところでした。

特に、尼寺として女性が暮らすには、厳しすぎるほど厳しい場所だとおもいます。

地元の人が細々と場所の維持はしていたけど、住持が勤めてくれることさえないような時代が続いていたのではないでしょうか。



時期は定かではありませんが、崇徳院が崩御したのち、阿波内侍はいまの八坂神社近くにある(訂正:安井金毘羅宮周辺にあった)じぶんの邸宅を「願勝寺」として、菩提をとむらったそうです。

そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。

いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。

しかし「願勝寺」とはどういうことでしょうか。

なにに勝ちたいと願ったのでしょう。

これはやはり、後白河天皇の一派に一矢報いたい、このまま崇徳院の無念を晴らさずに終わってなるものか、という強い願いが込められていたと考えるのが自然です。

崇徳院と後白河天皇が争っていたとき、後白河天皇側についていた武将は平清盛でした。

阿波内侍は後白河天皇のみならず、清盛のことも憎んでいたことでしょう。



もっといえば、なぜ願勝寺を京都から阿波へ移さねばならなかったのか。

これは憶測ではありますが、京の都で阿波内侍が寺の名を「願勝寺」にしたことを、勘ぐる人もいたのかもしれません。

敗軍の崇徳院の勝ちを願っているのではないか、という声が上がり、寺名を変えざるを得なくなり、せめて母の生国である阿波に願勝寺の名を移した、とぼくは考えます。

阿波内侍の恨みの強さが伝わってくるようです。



大原から京の都まで、薪や柴、山の幸を頭に乗せて物売りに出歩く大原女の装いは、阿波内侍からきています。

おそらく阿波内侍も、京都市内まで生活に必要なモノを求めてでかけていたことでしょう。

物売りのついでに朝廷のいろいろな噂も仕入れていたにちがいありません。

そしてその際の関心ごとは、後白河天皇の一派がいったいどうなったか、ということだったはずです。

寵愛を受けた崇徳院が讃岐の地で無念の崩御に至ったというのに、後白河天皇や清盛がのうのうと朝廷でのさばっている。

その恨みをだれかに明確に伝えるということはしなかったかもしれませんが、生涯、言葉にできぬおもいを抱えていたことはまちがいないでしょう。



阿波内侍の恨みが届いた……というわけではないでしょうが、後白河天皇は昵懇であったはずの清盛と反目し合うようになりました。

その間、清盛も後白河天皇も出家しました。

互いにひどく血なまぐさい入道でした。

法皇は清盛の暗殺を企て、清盛はそれに気づくと関与していた一味を粛正、法皇を幽閉したりと(鹿ケ谷の陰謀)、法皇と清盛の対立は熾烈を極めるようになります。

そして清盛が死ぬと、法皇は源氏と手を組んで、残った平家を滅亡に追い込みました。



この壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の母徳子がたまたま救い出され、長楽寺に入寺したそうな……。

阿波内侍はそのような話を、都へ行くうちに人々やお寺のネットワークから、かなり早い段階で知っていたのではないでしょうか。



徳子が落魄して出家したとき、阿波内侍が寂光院に入寺してはや20年が経っていました。

老境に入った阿波内侍が徳子の境遇を知ったとき、まるで若いときのじぶんのようだとおもったことでしょう。

徳子は高倉天皇を早くに喪い、平家の没落をどうすることもできず、朝廷で居場所を失った女御の定めとして、おもうに任せぬ運命を恨みながら生きていかねばならないのだ。

阿波内侍はこの20年の間、法皇や清盛への恨みつらみが昇華することはなかったけれど、両者の醜い争いや、清盛の死、平家の滅亡を伝え聞いているうちに、なにもかもがむなしくなっていました。


(続く)
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速報で入ったので気になりましたが、何もなくてよかったです。

記事は、お気になさらず、農園主さんのペースでお願いいたします。
どんなお話か、楽しみにしております。

今朝の夢見がとても悪く、夢占いではよくないたぐいのものを、連続で3つほど見てしまいました(笑)

ニトリの、紐を引っ張っればみじん切りにできるという便利なものを、先日テレビで見たのですが、今ある電動より使いやすいと思い買いました。
それをお昼前に洗おうと思い、刃のついたパーツを出したとたん目の覚めるような激痛が!←刃を持ったはずはないのですが・・・。

右手の親指の腹から血がドクドクと!!
スッパリと切れました(笑)

夢占いは当たりました(;^_^A

切れ具合がわからないのですが、決して浅くはないのですぐに皮膚科に行きました。
縫うか縫わないかはどちらでも、というあいまいな診断だったので、よ~く考えましたが、土曜、日曜、来週早々に仕事とコンサートが続き、抜糸に行く時間が取れないし、縫った方がひびきそうだったので、抗生剤の軟膏を塗って包帯を巻くという、しごくシンプルな処置になりました。

ピアノは親指を斜めにすればなんとかなるとして、ギターが弾けません。
せっかく「500マイル」を入れたのに・・。と言っても、シンプルなコードのアルペジオだけで、まったくの素人です。

指のケガの連鎖、いつ終わるのでしょう(笑)

わたくしごとで失礼しました(o_ _)o))

堆肥まきでお疲れと思います。
ゆっくりお休みくださいね。
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事故の件、大丈夫です。
お気遣い、ありがとうございます。

ふだんつかわない道路で、うちのあたりはサイレンの音はよく通って、遠いところからでも聞こえるんですが、今回はなにも聞こえませんでした。

成り行きできょうは朝から畑に牛糞堆肥が2トンも届いて、いつもの収穫作業を終えてから、ひたすら畑に堆肥をまいていました(笑)

ところで次の投稿なんですが、6000文字を越えそうなので、また2回に分けることになります💦
どうかご容赦ください。
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今ニュースで、事故のことを放映していました。
直売所にいらっしゃる時に通る道かもしれないと思いましたが、巻き込まれませんでしたか?
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平家物語と寂光院へのご旅行のお話をありがとうございました。

国道で、そんな危険な道路があるんですね。
ネットで実際に百井別れ(「分かれ」ではないんですね)のあたりを走っている写真を見つけましたが、こう書かれていました。
森に吸い込まれるような林道状態。・舗装が荒れています。・勾配が尋常ではありません。

帰りは別の道を通ったとのことで安心しましたが、同じ道を通らないと帰れないということだと、ぞっとします。

大根を洗っているおばあさんに道を尋ねたら、高野聖みたいに~というくだりは、農園主さんならではと、感服しました。
異界に引きずり込まれなくて本当によかったです(笑)

鞍馬寺には異界と通じている場所があると、以前noteで知り合った女性が言っていましたが、他でも、鞍馬のあたり一帯には天狗がいるという話もよく聞きます。
なんでも天狗はとてもいたずら好きで、気に入った人には有り得ないものを見せて喜ぶんだそうです。
例えば、山道ですれ違った人が一瞬でいなくなったとか、山中の神社でほんの1分ほど目をつぶってお参りしていたら、誰もいないのにさっきまでなかったお花が置いてあったとか。
そのおばあさんも、天狗のいたずらかもしれません(笑)

授与所の女性がおっしゃった、「仏様のお導き~」ということは、本当にあると、常々思っています。
寺社仏閣は、人と人とのつながりと同じで、ご縁だと感じます。
行きたいと思ったところは、「来なさい」と呼ばれているのかもしれません。
ここは行ってみたいな、とずっと思っていても、なぜか行くチャンスがないことも多いので、そこはたぶんご縁のないところなのかも、と思います。

摩訶不思議なことを言いますが(笑)、お寺や神社に行く時、なぜかあっさりと着かないことがとても多いです。かなりの確率でそうなります。
車の場合、ちゃんとナビを入れても、遠回りな道を指示されたり、だんだん細くなって車が通れなくなる道を当たり前のように案内され立ち往生したり、同じところをぐるぐる回ったり。
広い普通の道で行けるのに、くねくねカーブの多い山道を指示されることもずいぶんありました←ナビの「推奨」を選んでいるのに、ですよ( ̄▽ ̄;)
電車で徒歩の場合も、どこかで道に迷うんです(笑)
ネットなどの情報では、それは歓迎されている証拠。苦労して来なさい(かわいい子には旅をさせろ的な)、ということらしいですが、なかなかたどり着けないところほど、「ああ、ここ好き~」という神社やお寺なのもおもしろいです。

動画を拝見しましたが、建礼門院の大原西陵には鳥居があったので、不思議に思い調べたら、「出家していたため、鳥居の中に五輪塔という珍しい御陵」とありました。

寂光院は、徳子が望んで行ったわけではないのでしょうが、なぜそこ?という、場所ですね。
菩提を弔いながら生涯を過ごさなければならないのなら、もっと他のところでもよかったように思いますが、そこには誰かの思惑があったのでしょうか。
山々の景色は、現代とその頃とほとんど変わっていないであろうと考えると、徳子の思いのようなものが、今も残っているように感じました。

私は今まで、壇ノ浦の海で入水や自害をしたことについて、女や子供、一族郎党がみな後を追わねばならなかった、あるいは殺されるものだと思っていましたが、記事を拝読するとそうではなく、女子供は殺す必要がなかったのですね。

平家物語は、史実に基づいてはいてもフィクションが多いとのことですが、農園主さんが書いてくださった後白河法皇と徳子のくだりは、当時本当にあった会話のように思います。

武家と皇室の血で血を洗うような因縁の物語が「灌頂の巻」での二人の語り合いで浄化されてしまう、とお書きになっていらっしゃいますが、確かにこの語り合いがなく徳子がひっそりと亡くなっては、徳子の汚名と孤独を背負いながらの生活が、ひたすら悲しくつらいものになってしまったかと思えます。

徳子は後白河法皇の姪にあたるとのことですが、甥、姪というものは、我が子同様に、無条件でかわいいもののはずです。
しかも、徳子の夫は息子である高倉天皇。
安徳天皇への愛情も推して知るべしかと思います。

地獄の六道に例えた、というのも、徳子の経験したことの壮絶さを感じます。
それによって後白河法皇も、徳子の生き地獄のようなできごと、思いを、心から理解できたのではないでしょうか。
想像にすぎませんが、汚名もつらく悔しいことですが、目の前で我が子が沈んでいくのを見たという心の痛みは、一生消えなかったかと思います。

戦によって、男性はもちろん、多くの女子供が犠牲になってきたことをわかっていながら、何百年経っても争いを繰り返す人間の愚かさを痛感します。

平家物語について、実際に訪れた寂光院のお話と合わせて書いてくださり、ありがとうございました。
地図を添えてくださったことや、行く道のことまで書いてくださったことで、平家物語の時代、徳子の出家してからの暮らしぶりや様子に、思いを馳せることができました。

ご存じかとは思いますが、婦人病に悩む中将姫のために作られた秘薬の製法を、津村家(藤村家)が中将姫をかくまったお礼として教えられ、それをもとにツムラの創業者が中将湯を作ったそうですね。
私が子どものころ、おばさんたちはどこの家でも、中将湯か實母散を飲んでいました。
中将姫の時代の平均寿命は24歳だとか。
それを考えると、中将姫の婦人病というのは、恐らく更年期障害のようなものだったかと思います。

中将湯の成分で作られた薬湯(やくとう、でなく、くすりゆの方です)がバスクリンだそうです。
あのすごい緑色に薬効があるように思いますが、普通のバスクリンの成分に生薬は入っていないんです。
乾燥硫酸ナトリウム、炭酸水素Na  
その他の成分 L-グルタミン酸ナトリウム、ホホバ油、無水ケイ酸、デキストリン、アラビアゴム、ヒドロキシプロピルセルロース、香料、黄202(1)、青2、青1、粘度調整剤

一方、「バスクリンのくすり湯 バスハーブ」はほとんどが生薬です。
バスハーブ抽出液(トウキ、センキュウ、ハマボウフウ、チンピ、ハッカ、カミツレの生薬抽出エキス)

その他の成分
無水エタノール、BG、香料、クエン酸水和物、PVP、POE 硬化ヒマシ油、イソステアリン酸 POE 硬化ヒマシ油、シメン-5-オール、パラベン、黄202(1)

割高ですが、冬場の皮膚のかゆみに効果があるし温まるので、ここ数年、チビチビと、少なめに入れて使っています(笑)←宣伝ではありません(笑)

沸かし直しのお湯は金属的な原因があると思いますが、薪もアレルギーがあるんですね。
(書き足し:薪のアレルギーではなく、薪で沸かすことで起きるアレルギーということですね。失礼しました。
アレルギーというのは、本当に厄介なものです。
年齢や環境によっても変わりますし、体質改善と言ってもなかなかできるものでもありません。
私もいろいろなアレルギーがあり、苛立つことも多いですが、だましだましつき合っていくしかないのかもしれませんね。
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後半です。

ここからはぼくの旅行の話も混じります。

自宅から大原へ向かったんですが、あと1時間足らずで大原に到着しそうだというあたりで、たいへんな峠に差し掛かってしまいました。

グーグルマップをカーナビがわりに案内してもらっているだけではわからないものですね。

そこは国道477号線、「百井別れ」といわれる、関西でも屈指の酷道だったんです。

昼間でも薄暗く、離合のむずかしい急坂(ガードレールなし)を30分ほど、延々とゆきました。

ハンドルミスひとつで、ほんとうに滑落しかねない道です。

帰ってからネットで調べたら、477号線を「死なな(477)いで」とかけていたのをみて、笑ってしまいました。

地元の人でもこの道は通らないといいます。

どうりで午前11時ごろだったにもかかわらず、対向車がほとんどありませんでした。

あのあたりはちょうど鞍馬のあたりで、うっそうとした険しい山道を緊張して走る中、これはたしかに天狗がいてもおかしくないとおもったものです。

道中、一瞬だけひらけたところに出たんですが、それがむしろ異界をおもわせる情緒でした。

民家の前で年老いた女性が大根を洗っていました。

車から降りて「この先どう行けばいいですか」と聞こうかとおもったんですが、高野聖みたいになるといけないとおもってやめました(笑)

あの酷道を走ることはもうないとおもいますが、ある意味で貴重な経験だったとおもいます。



峠を越えて、なんとか寂光院のふもとに着きました。

寂光院は平野部からすこしはずれて、なだらかな山坂をしばらくのぼったところにあります。

寂光院に向かう坂道の途中で、土地を持っている民家がそこここに駐車場をつくっています。

だいたいどこも時間設定なしで料金は乗用車が300円でした。

寂光院の拝観料はたしか700円ほどで、駐車場も拝観料も観光地にしては良心的だったとおもいます。

寂光院は尼寺なんですが、寺院のたたずまいに権勢を誇るようなところがなく、どこかひっそりとした落ち着きを感じさせて、やっぱり女性的なお寺だとおもいました。

全体的にひかえめで、奥ゆかしい印象です。

参道も商店があるんですが、派手な商売っ気もなく、落ち着いていました。



参道から境内まで端正なたたずまいでしたが、おそらく徳子がいた時代は、現代のように管理はできなかったことでしょう。

土地の保全に機械をつかうわけにもいかないし、山をおりて平野部に行かないと、食料生産もおぼつかなかったとおもいます。

ぼくも田舎に暮らしているだけに、いかにも暮らすのがたいへんな場所であることは察しがつきました。



帰り際、授与所で年配の女性の方(お寺の関係者)に声をかけていただきました。

他愛ない会話だったんですが、最後に「仏様のお導きがあったんだとおもいますよ。またお越しください」とおっしゃられました。

その言葉があったから、というわけでもないのですが、ここはおそらく再訪するだろうな、という気がしています。

訪れた者を拒まない、柔和な空気が漂っているようにおもえたからです。



さて、平家を追い込んで破滅させた後白河法皇は、徳子が寂光院にいると知って、文治2年(1186年)に大原に御幸(外出)しました。

もちろん嫌がらせで御幸したのではありません。

後白河法皇は平清盛を憎んでいましたし、徳子はその娘です。

政治的には、源頼朝から「日本第一の大天狗」といわれるほどの権謀術数を誇る野心家でもありました。

生き馬の目を抜くような伏魔殿の中でやってきた政治家です。

その法皇が大原に行くということだけ聞けば、落ちぶれた徳子の顔をみてやろうとでもおもったのだろうかと勘繰りたくなりますが、じつはそうではないのです。



20241208094422-nouennushi.png

すこしややこしい家系の話になりますが、後白河法皇の女御(妻)は平滋子といいます。

滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の姉でした。

そして後白河法皇と滋子の間にできたのが高倉天皇です。

平徳子は、清盛と時子の娘です。

後年、高倉天皇と平徳子が結びつくんですね。

つまり、徳子は伯母の子と結婚した……言い換えればいとこと結婚したというわけです。

後白河法皇にとって、徳子は義理の(追記:妹の)娘であり、姪っ子でした。

平家は後顧の憂いを断つためにも滅ぼさねばならぬ敵であると同時に、かけがえのない身内だったわけです。



当時の世の習いとして、戦になった以上、負けた武士は死ぬ必要がありましたが、女や子供は殺す必要がありませんでした。

頼朝は平家討伐にあたって、安徳天皇の無事と、平家が勝手に持ち出してしまった三種の神器を取り返すように命じています。

しかし平家の側で「生きて虜囚の辱めを受けず」のようなかたちで、女房も多くが壇ノ浦の海で自害してしまったんですね。

もちろん生き延びたものもいますが、武士のほとんどは処刑され、女房達もほとんどが放逐されて名もなき者となりました。



とまどう安徳天皇の手を引き「浪の下にも都があるのですよ」といって一緒に入水したのは、さきほど述べた清盛の妻、時子(二位尼)でした。

三種の神器のうち、草薙剣がこのとき海の底へ沈みました。

後白河法皇からすると二位尼は義理の妹であり、安徳天皇に至っては血を分けた孫です。

いくら敵対する関係だからといって、このような結末を心から望んでいたはずがありません。

甘いことをいえば、安徳天皇と三種の神器が朝廷に帰ってきて、平家が没落し、みずからの脅威とならなければそれでよいのですが、みずからの怒りを武士集団である源氏に預けた以上、血が流れずにはすまないことを法皇はわかっていました。

(追記:しかしまさか法皇も、平家が命乞いすることもなく天皇に至るまで自決して、あとになにも残らないほどの惨状になるとはおもっていなかったでしょう)

寂光院へ向かったときの後白河法皇の心境は、もはや恩讐を越えて、忸怩たるおもいや、むなしさに満ちていたのではないでしょうか。

そして、「どのツラ下げて」という話ではありますし、表立ってそんなことをいうはずがありませんが、徳子が生きて救われたと聞いたとき、法皇はきっとうれしいやら心配するやらで、会いに行かずにおられなかったのだとおもいます。



ちなみに後白河法皇が御幸したルートは、ぼくが通った百井別れの道ではなく、京都市内から北東へ向かうすなおな道でした。

大原女もこのすなおな通って都へ向かっています。

ぼくは大原からの帰りに、百井別れをもう一度通る気になれなかったので、京都市内に出て大回りして帰ったのですが、この道なら法皇も訪れやすかっただろう、とおもったものです。




法皇の突然の来訪に徳子は取り乱しました。こんなあわれな姿をみられたくないといって、激しく拒絶したともいいます。

しかししばらくすると気持ちを落ち着けて、互いに敬意をはらいながら、語り合うこととなりました。

平家物語のすごいところは、武家と皇室による血で血を洗うような因縁の物語が、巻末の「灌頂の巻」における法皇と徳子の語り合いによって、浄化されてしまうことです。



徳子は法皇を前に、じぶんが朝廷にいたとき、そして追われる身となったとき、壇ノ浦の悲劇を目の当たりにしたときのことを、地獄の六道にたとえて話しました。

法皇は徳子の長い身の上話をじっと聞き入ったあと、

「玄奘三蔵は悟りを開く前に六道をみたと申します。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力にて六道をみたと承っております。あなたのように生きながら目の当たりに六道をみるようなことは、ほんとうにあり得難いことでございました」

といって涙をぼろぼろ流しました。

徳子もはらはらと涙し、法皇のお付きの者も、徳子の女房たちも、みんな涙に暮れたといいます。

寂光院の鐘が鳴り、夕方が近づくと、法皇は名残を惜しみ、涙をこらえながら御所へ帰りました。

徳子はとめどなく涙をこぼしながら、長いあいだお見送りをし、寂光院に戻ると安徳天皇、平家一門に向けて祈りました。

徳子の死がいつであったかは諸説ありますが、平家物語では建久2年(1191年)、36歳の徳子は病を得て、女房たちが見守る中、五色の糸を手に御念仏を唱えながら亡くなったといいます。

平家物語のエピローグである灌頂の巻の「灌頂(かんじょう)」には、お墓に水を上げるという意味があります。

寂光院を訪れながら、ああ、徳子も後白河法皇も、この大原のなだらかな坂を上ったのだろうとか、平野部の景色は現代のものだけど、山々の景色はあのころとほとんど変わっていないのだろうな、とおもったものです。



というわけで、旅の話はおしまいです。

今回は勝手なことでしたが、前後半にわけて、大原の旅の記憶についてあれこれお話させていただきました。

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